第三十四話
(1)
克の目の前の丼から湯気が上がる。
丼は陶器製で、黒地に茶色の縁の有り触れたデザイン…しかし、シンプルなのは結構だが、ファミレスの、面白みの欠片すら削り取られた様な、平板な木製テーブルに乗せるとなると…正直、その見た目は異様なほどに浮いている…。
(だいたい、翡翠麺は中華料理だろ。それを如何にも和風の丼碗に入れるとか…唯でさえ、掻き揚げが麺の緑と毒々しいコントラストを生み出しているのに、この丼の地色はなんだよ。…黒椀とか、ラーメンならまだしも、翡翠麺にはないから…食い物にしてこの気色の悪いグラデーション…贅沢は言わないけど、せめて乳白色の丼椀に持って欲しかったな。…いや、そもそも、色と言えば…この麺の緑の薄さはどうなってる…。一瞬、茶蕎麦かと思ったわ。それは…たいてい、どんな店でもメニューの写真と、実際に提供される料理の見た目にはギャップは付きものだけどなぁ。これは流石に、この店の営業努力に疑問を感じるから…あっ、頑張って麺を湯がいた結果、脱色してしまいましたとかは、努力に入らないから。)
克は平然として、脳内で愚痴の百万遍を、彼自身が選んだはずの料理に並べる。そうした儀式を済ませると、ようやく、丼を左手で恭しく持ち上げた。…まったく、食事の前に神に祈りを捧げ感謝する習慣がある人々もいるというのに…まっ、そんなことで料理の味が良くなるようなら、克も思いつく限りの神様に、壊れたバネ細工の人形の様に頭を下げ続けたかもしれないが…。
持ち上げた黒い円が、明るい木肌の背景から離れていく様は、まるで空へと浮き上がる様な不思議な感覚を克に与える。さっきまで店内の冷房をのみ受け取っていた克の指先は、丼椀からじわりと打ち寄せる温度に、鈍い痛みを感じていた…。
克は箸を持ったままの右手も丼椀に宛がって、黒い円盤の内部を覗きこむ様に、そっと椀の縁に口を付ける。…馴染み深い匂いに鼻孔を擽られながら、浮遊感に身を任せる様に、静かに啜るその汁の味は…、
(鰹出汁…本当に、和食だな。…というか、蕎麦扱いだよな。)
としながらも、まだまだ驚くには当たらないとでも言いたげな不敵な表情。
克は僅かに下げた椀から、右手の箸を巧みに操って、幾筋かの浅緑の麺を手繰り寄せる。そして、店内の静寂に遠慮するかの様に、軽やかに啜り上げた。
(うん、やっぱ旨くないわ。これは、中国の麺屋台のおっちゃんに、本気で申し訳ない出来だな…。)
こうして、克はこの摩訶不思議な黒い器に乗って、頭の中で中国旅行に出かける。行き先は、おそらく、翡翠麺の発祥地の山西省の辺りではないだろうか。
…あまり舗装されていない街道に、ポツンと、しかしどっしりと店を構える屋台。克には今、平凡なファミレスのテーブルが、味のある、使い込まれた屋台の木台の様に感じられているのかもしれない…。
不意に、金属と、陶器の擦れ合う音…それに、否応なく香る本節の匂いに、克の思索は日本へと引き戻される。克はイメージに追加された蕎麦屋の暖簾越しに、正面の客を盗み見る…。
克の鼻先に座る妙齢の婦人は、肩から上をほとんど動かさずに、フォークで平たいパスタを口に運ぶ。
息の詰りそうなほど、小ぢんまりと食事を続ける佑子の様子を、黒い丼の傘越しに克は切なそうに見つめる。…もちろん、対面している克にどう見られるかを気にしての、佑子の窮屈さ…克もそれには気付いているが…そんなことを飛び越して、克のイメージは…どこぞの山脈へ…。
佑子という美女が焼き色の付いたチーズを口にする様子は、克には、まるで不毛の高山深く、ひっそりと咲く黒百合の花弁を食む(はむ)かの様に映っている…。
克は丼椀をテーブルに置いて、染み染みと、いっそううっとりと目の前の景色を見つめる。
蜃気楼のように立ち昇る湯気の向こうでは、黒い髪を束ねた太いヘアゴムのフリルが、規則正しく並んでいる。どこで見つけたのか、それにはディフォルメされた花の模様が幾つもプリントされ、この電飾の光の中、本当の太陽を探し求めるかのように、四方八方に大輪の花を咲かせている。
…佑子の後れ毛越しに覗いた向日葵と、真夏のアスファルトに焼かれるような、湧き上がる熱気を顎に感じて、山間部から、土の匂いのする田園風景へと歩みゆく、克。そんな彼を、佑子が皿へと伸ばしたナイフが、さらに遠い世界へと克を誘う。
彼女の様な絵になるご婦人が、パスタにナイフを入れる様は、それだけでこの場がフランスのオープンテラスであるかの様な錯覚を克に与えた。
窓越しに視界の端に感じる宵闇も、今の克には、パラソルの布に濾し取られた、気鬱な朝の光として受け取られる…。
ナイフの背に当てられた佑子の右の人差し指…白いその指を、手を、腕を…這い上る様にして、克の夢想の翼は新たな地平へとその脚を伸ばした…。
陶器の皿に押し当てられたナイフの銀色が、擦れ合い、キリキリと不愉快な音を立てる。皿から飛び散る様に耳に入り込んだ音に、克の空想はついにドイツへといたる…。
…石畳の隙間を踏みしめた、頼り無げな靴底の感覚を経て…路地裏の一角…うら寂れた、年季の入っていそうな店へ…。
上背のある克には少し低いドアを屈みながらくぐると、そこには…生前のデカルトが、亡き愛娘を偲んで持ち歩いたという人形を彷彿とさせる…一体のビスクドールが…。
雪の様に白い陶器の肌、大樹の様に黒い人毛の髪、そして血の様な紅を引いた唇…。
克は既視感の命ずるままに、その均整のとれた美貌に、その胸元へと耳を寄せると…先程も聞いたゼンマイの様な音が、心音の様に、呼吸音の様に…人形に…いや…人形の様な彼女に不思議な生命感を注ぎ込んでいた…。
「…ちょっと、本田…どこ見てんの。」
「えっ、何…。」
突然、ヨーロッパの片隅と繋がっていた思考のコードを、一気に引っ張り戻されて、克が上ずった声を上げる。…だらしなく、開いた唇、傍目には不気味に見えること請負の目付き…これはおそらく、佑子には…、
「人の胸を…その…ま、まじまじと見つめて…本田って、そういう…助平そうな感じはしなかったのに…。」
佑子はわが身を抱きしめる様に、両手で胸元を隠すと、
「ちょっと、幻滅した。」
と、そう言って微笑む赤い頬の隣で、ナイフとフォークがけらけらと笑う様に柔和な光を反射する。
克は困った様に、惚けた様に、重ねた箸の柄で耳元を掻いて、
「ちょっとか。ちょっとなら、まだまだ篠原に幻滅され尽くすのには猶予が有る訳だな。それは耳寄りな情報を頂いたな。で、お返しに、こちらからも篠原に情報提供しようか。…別に、俺の目が篠原の胸に行ったのは今日に限ったことじゃないぞ。お前のブロマイド撮影の時にも、結構、気を使ったしな…バストには…。」
佑子はじっとりと、あるいはねっとりとした視線を克に送ると、引きつった笑みを浮かべて、
「正直なのは良いことね。私としても、本田ならことと次第によっては許してあげても良いかな…と、思わなくもないし…でもね、ただ見と盗撮は関心しないよ、本田。」
「あぁ、確かに、『ただで』というのは悪かったなぁ。俺も篠原のことは頭のてっぺんから、つま先まで、じっくりと見てた積りだけど…どこを探しても、小銭の投入口が見つからなかったから、ついつい…。ところで、売り上げの何パーセントか回せば、『胸を張って』被写体になってくれんのか。」
佑子は、『交渉は決裂だ。』と言いたげなあきれ顔で、白い丸皿にナイフとフォークを放り出すと、
「調子に乗るな。」
と、一瞬ニヤリとしたかと思えば、テーブルに乗り出して…それでも、十分には届かず…腕を精いっぱいに伸ばすと、飄々とした顔で『待って』いてくれた克の額にデコピンをかます…。
「痛いな。」
いかにも克の発しそうな、もの動じない、感情の曖昧な声。…が、確かに痛そうなことは痛そうだ…威力はともかくとして、爪の先が額の皮膚に擦れたのは、どうも…。
佑子はシートに背をぶつける様に踏ん反り返って、
「本田にとってはまたとない良い機会なんだから、反省しなよ。…そうしたら、まっ、本田の意見も入れてあげなくは…なくもないよ…。」
と、勢い込んで前に突き出した両脚が、振り子のようにフローリングの床へと粛然と戻る。
克はほんのりと赤くなった額を摩りながら、
「つまりは、今後のことは、俺の心掛け次第ってことでいいのかな。まぁ、俺としても今日はもう、これ以上のことを要求するつもりもないけど…。」
ナイフとフォークを取り上げていた佑子が、いぶかしげに克を見上げた。
「何、また大袈裟な言い方して…。要求って…ここの支払は、本田が奢ってくれるじゃなかったっけ。」
「それは勿論、日頃の感謝の印として、喜んで奢らせて頂くよ。」
「本田の言い回しって逐一、引っかかるんだよねぇ。喜んでなんて…心にもないことを。」
「んなことは無いって…。そもそも、俺に限らず、男なら美人にプレゼントしたり、果ては奢っただけでも、なんか得した気になるもんだからな。それと、夢工場の稼働に寄与してもらってる件についても…まっ、感謝していなくもないからな。」
「本当かねぇ。さっきまでの事を思うとなぁ…。」
左肘をついた佑子が、頬杖を突く様な高さで、まるで悪魔の槍のようなフォークを、摘まんだ人差し指と親指でフラフラと弄ぶ。急に大人びた様にも見えるその笑顔には、抜け目のなさと、欺かれることを心待ちにするかのような両極端な感情が、危なげなバランスで揺れ動いて見える…。
克もそんな佑子に応じる様に、精悍そうな表情から白い歯をこぼした。
「本当だよ、篠原も根に持つのな。…っと、そうだ、奢るにたる理由がもう一つあったな。」
「何よ。」
「篠原の言うとおり、俺が相変わらず篠原の胸に見とれてたんだとしたら…俺は篠原の胸を通して、中国から、イタリア、遂にはドイツの裏路地にまで…世界旅行と洒落込ませてもらったことになるからな。…学生服でっていうのが少し窮屈だったけど…それでも、有り難くって拝みたくなるような体験だったよ。…あっ、言うまでも無く、篠原の胸をな。」
「はぁっ、本田…何言ってんの。何を言ってるのか自分で解ってるの。…もしかして、本の読み過ぎで頭、どうにかしちゃった…。んーっ…とにかくっ、どういうことか解りやすく説明してくれる。」
それに、すでに湯気の見えなくなった黒椀を取り上げた克が、少々むかっ腹の立つしたり顔で、
「つまりは、今日に限らず篠原への胸と向けられてる、俺の視線。それが、今日に限っては篠原の胸を通り越して想像力を逞しくしてた訳なんだが…篠原に声を掛けられて、我に返った俺の意識は、また、篠原の胸元へと帰って行った…と。…んっ、この『胸元へと帰って行った』ってなかなか好いフレーズだな。」
「馬鹿らしい…ううん、本田らしいかな…。ていうか、本田…私だって馬鹿じゃないから、『セクハラだ。』なんて叫ぶ気は毛頭ありませんけど…あーっ、もう、いいや。解った。本田の勝ちで良いよ…良いから、次に私に声掛ける時は、少しは本田らしさを抑えて物を言ってよね。…それと、本田から詫びを入れない限り、私、絶対口利かないから。」
そう言うと、佑子はまるで口に蓋でもするかの様に、もくもくと食事を再開し始めた。
克はというと…ニヤついた顔で、満足そうに大きな手に抱えた丼から、鰹出汁の中華スープ?を飲み込んだ。…佑子には、というより女性には理解し難いかもしれないが、大概の男はジョークと下ネタが好きなものである…佑子ならずとも、女性の皆様には…無論のこと男から謝ってきたときに限り…お怒りの際でも、寛容の心で接して頂けるようにお願いしたい…。
…それにしても、縦の物が、横になるかのように、一転して、佑子の言うところの『彼らしさ』を取り戻した、克。それに納得がいったのか、佑子はまだ心地よい緊張感は感じさせるものの、ガラス細工の様に透き通るその瞳には、気忙しさという濁りは見えない。
クラクションの音…そして、テールランプの赤い光が窓に映る…。
…克にとってはどうか…そこまでは解らないが…多分、石川と別れてからこっち、今の二人の状況は、佑子の理想の状態にかなり近いものの様に推察出来る…。
…また、ママゴト遊びを始めただけ…そうかもしれない。しかし、二人を見ていると、しばらくはそれでも…逃げているように見えても、そうしている時間が必要な様にも見える…互いが、自分の傷を自覚して、それを癒すためにも…。
…だから祈りたいのだ…今日、克が佑子に見せた動揺が…『克らしからぬ』一面が…今まさに、二人の隣を通り過ぎていった自動車のテールランプの様に…二人に間に長い尾を引いて残らない様に…。
(2)
克は口の中でぼそぼそとしたコシのない麺を噛みながら考える。
早、数度に渡る、咀嚼した翡翠麺を飲み下すという気の重い作業…果たして、自分が今感じている胸のつかえは、これが原因なのであろうかと…。
(やっぱり、この麺のコシの無さ、喉越しの悪さが問題なのかな…それとも、篠原の胸がどうしたこうしたと力説したのが…力こめ過ぎて、肺がやられたとか…。あるいは…。)
克は黄金色の汁の絡まった麺を、箸で一掴みに手繰り寄せる。そして丼ごと顔面に近づける様に、椀底から繋がる様に伸びた縒り糸のごときそれらを、引き延ばすかのようにスルスルと口内へと納めていった。
(あるいは…。)
克は口許をモゴモゴと動かしながら、再び心の中で独りごちる。
…自分の食欲をこのように減退させている素因は、いったい何なのだろうか…。
やっぱり、遂さっきまでの身の毛もよだつ様なやり取りだろうか。それとも…料理を運んできた香が、当り前の顔をして、支払の伝票を自分の手に握らせたことか。
そうではないとすれば…手を包むようにして、香がやたらに楽しそうに自分の右手に伝票を託す様子…それを横目で見ながら、小さな声で、
「んっ、食事の時は束ねておいた方が楽だから。まっ、本田は知らないだろうけど、私、よくこうして食べるんだよね。」
と、ヘアゴムを着け始めた佑子が見せた、自分の『あれっ』とでも言いたげだった視線に答えた彼女の、相変わらず…怖気を振るう程澄んだ…過ぎるほどに印象的な黒い瞳…だろうか。
…あるいは…ウエイトレス姿の香がバックヤードに引き下がる際の…屈託のない佑子の表情と、いつも通りの克の淡白な顔色とを見比べた後に見せた…あの失望のありありと浮かんだ顔。…原因があるとすると…、
(これかな。橋本がわざわざ俺に話したことを考えれば、理由は明白。…つまりは、俺から篠原に指摘しろってことだよな。それで、橋本が期待した程には、俺の行動力が伴わなかったからこその、あの顔だと…。にしても、橋本もせっかちだなぁ。食事の間くらいは猶予をくれても罰は当たらないだろうに…何も、こっちだって、デザートまでたっぷりと堪能してから切り出そうなんて考えてる訳じゃなし。俺だって、この事が話題に上った時点で、ある程度の算段は付けてはいるんだ。もう少し、信用してくれても良いんじゃないかな、橋本。…まっ、完全に俺の思惑どおりには行かなかったというか…本来の予定では、もっと良い流れを作ってから口火を切る積りだったんだけどなぁ…。にしても…、)
と、克は決着の見えた独白を一端中断すると、椀から延ばしに延ばした麺を一太刀に噛み切った。
(あの事を、俺から篠原に言い出すのか。こうして公然と口裏合わせる機会を貰えたのは、まったく棚ぼただったけど…やっぱ、食が細りそうな程におっかないね…これは…。」
頭ではそんな事を考えながらも、克の口の端は余裕の笑みに吊り上がっていく。…まぁ、『今日に限って』は、克の悪い癖がぶり返すようなことはもう無いだろう。
克はそんな不安を払拭してみせるかの様に、一本だけ箸に残った麺を啜り上げ…やおら、物柔らかな顔で佑子へと切り出すのだった…。
「そう言えば…。篠原、あのいつかの日曜日の事だけどな…。」
突然と言えば、あまりも突然に舞い込んだ言葉。ラザニアに添えられた輪切りの茄子にナイフを入れていた、佑子の指先が微かに震える…。
「何、いきなり…。止めてよね、そういう不意打ちみたいなのは…。」
佑子は努めて平静を装ってはいるが…謝られるまでは絶対口を利かないはずが、思わず答えてしまったこと…そして、完全に中断した両手の作業…加えて、佑子の内心で鳴り響く不協和音を示す様に、さざめく黒染めの瞳…それら佑子の居住まい全てが、雄弁に彼女の心の動揺を物語っていた。
狼狽するのも当り前だ…篠原佑子にとっては…。何しろ、『あの日』を境に、彼女の心境は内面も、外面でも、がらりと変わることを余儀なくされたのだ…たった一つの、細い蜘蛛の糸のような交流を絶やさないために…。
そんな、自らの尊厳さえも一度は投げ打って見せた佑子にしてみれば、自分もあえて避けてきた問題を蒸し返す克の言葉は、さらに、新たな自己犠牲を要求されている様に聞こえているのかもしれない…。
だが、克にとっては、その様なことにいちいち気を使う様な、可愛らしい心境が過ぎ去っているのもまた事実…まっ、下手に媚びたところで、このテーブルでは良い目が出ないことも実証済みであるからして…。
そういた訳で、克にしては…そう思われることすら心外かもしれのだが…臆面もなく話を進める。
「不意打ちって訳でもないだろ。あれから、何日経ってるのか…あえて数える積りもないけど…篠原にも、心の整理の目処が立つくらいの時間はあったんじゃないか。」
フォークとナイフを握りしめた佑子の両手が、力無くテーブルに下ろされる。その右手では、親指が、落ち着かない様子でナイフの柄を引っ掻いていた。
「そんなこと言われても、私まだ…。」
「あぁ、いや、そうじゃないんだ。別に、さっきの意趣返しに、あの時のことを根掘り葉掘り、掘り返してやろうとか…そういうことじゃないんだ。第一、あの時のことは俺だって、まだまだ問題提起出来るほどには…本当、俺としても困りごとなんだよね、あの日のことは…。」
克は佑子の恨み節へと成りかけた言葉の曲節を、素早く、そして小気味よく叩き直した。
佑子は、克への信頼が案外と少なかったのか…または、愚痴が言い足りなかったのか…、
「そうなの…。私としては…あの時の私たちの事…本田に『災難』みたいに扱われてるのは…ちょっと、面白くないけど…まぁ、本田にしたら、あの日の私は『災難』以外の何者でも無かっただろうけさぁ。…でも、解ったよ。本田が『問題』にしてないんなら私も、この場はこれ以上、ねちねちとしたこと言わないことにするよ。話の腰を折ってゴメンね。それで、本田は何を言おうとした訳…。」
と、顔を上げて、真剣な表情を克に向けた、佑子。その右の親指は、ゆっくりと動きを止める。
克は、夏服の半袖からテーブルに伸びた、白皙の両腕と、涼しげな瞳の映える、佑子の凛として顔つきを見比べてから、まだ不安の残滓が残るこの場の空気に、味わい深い微笑みを溶かした。
「流石は篠原。物分かりが良い。まっ、解っていても、こっちの期待する通りには、なかなか動いてくれない様な気がするけど…いやっ、これは詰らない冗談として…。本題はな、当面の問題…篠原に今、降りかかってる『災難』に関することなんだけどな。…いや、不注意っていう意味では、お互い様に『人災』かな…まぁ、とりあえず…。」
と、克はどこか挑戦的に笑うと、ひと膝乗り出して…、
「あの日、篠原は歩いて帰ったんだってな。橋本医院から…。聞いたよ、橋本から…あぁ、6位の橋本香さんね…あれっ、篠原には言ってなかったけ。そう、あいつ、我が校のミスコンでの順位、堂々の6位にランクインしてらっしゃるんだよね。毎年、文化祭の影で秘密裏に…もとい、粛々と執り行っているんだけどな。今年は、卒業した去年の三年内上位ランカーたちの席が空いた分、大幅な順位の上昇がありそうだって下馬評でな。まっ、一位は誰かさんから動かないだろうけどな。」
「ふぅーんっ…で…。」
「おっと、そうだったな。事程左様に、流石は篠原だ…。」
克は佑子の気のない返事にも、大して気分を害された様子も見せずに、
「というか、解らなかったか。改めて言うけど、俺は、篠原がとぼとぼ橋本先生の所から歩いて帰ったのを、橋本から聞いたんだって…付け加えるなら、男物のジャージを着てたことも言われたよ。…多少、強めに。つまり…お前、俺のジャージ着て歩いてたとこ、橋本に見られてるぞ。」
佑子は少し…驚いた様に、見開いた目で克を見ていたが…微かな息を衝いてから、途方に暮れた様な苦笑いを浮かべた。
「うーんっ、やっぱり、あれは香だったか…私も、もしかしたらとは思ってたんだよね…。」
克は意外と言うよりは、興味深そうな面持ちで、
「ほぉ、気付いてたのか、篠原。」
「うん。でも、男子のジャージ着てたこととか…それに私…ちょっと酷い顔してたから…泣いちゃって…それで、上手く香に説明出来そうになかったから、つい、知らない振りしちゃったんだよね。」
克は箸を椀の上に置いて、座席にもたれ掛かる。そんな克のくつろいだ様子に、申し訳なさそうな表情の佑子の口許にも、安堵の色が加わった。
「いや、篠原、それで正解だったよ。」
「そ、そうかな。」
「あぁ。もし近づいていたら…うちの学校の指定のジャージには、左胸のところに名字の刺繍がされてるだろ。それで、篠原が着ていたのが、俺のジャージだってばれるところだった。それに、当時、篠原が付き合ってた石川の顔が、ジャージの持ち主として橋本の頭に浮かんでたとしても…篠原と石川には身長差はほとんど無いだろ。その割には、着ているジャージがブカブカだな…とか、いろいろ勘繰られたりするようなことも、あったろうからな。」
「うん…。」
また、佑子の顔に後悔を示す陰が深くなる…。『おやっ』とは、感じたのだろうか…克は、そんな佑子を事も無げに笑ってのけた。
「そういう事だから、その時の篠原の対応は、何も間違ってないよ。間違ったところで、俺は困らなかったろうけどな。…んで、続きましては、言った通り『当面』の、つまるところは、これからの事なんだけどな。…一応、聞いとくけど、篠原には何か考えあるのか。例えば、橋本にする良い感じの言い訳の言葉とか…。」
克の問いかけに対して、佑子はどことなく不安そうに、悲しそうに…二、三度、首を横に答えた。克はそんな佑子とは対称的に、なぜか、少し安心したような面持ちで、
「だよな。篠原としては、俺に無断で、橋本にあれこれと説明するのが憚られたんだろ。それに、俺のジャージ着てたのを見られたことも、気に病んでたんじゃないのか。本当、そんな篠原らしい気遣いは…と、これは禁句だったな。えーっと、じゃあなぁ…篠原が一人で悩んでたのに、気が利かなくて悪かったな…で、いいよな。」
質問ではなく、同意を求めた克の思い遣りに、佑子もようやく安らいだ気持ちで首を縦に振ることが出来た。…しかし、会話の、相槌の出来が良すぎると…この男の場合、またぞろ、佑子をコントーロルしている積りに…好い気になっているのではないか…そう考えれるのは、著者の邪推でしょうか…。
…いや、詰らないことを言いました。自分が完ぺきではないことくらい、克自信が…佑子の琴線を掻き乱したこと自覚している彼自信が…一番よく解っていることだろうに…それに、佑子のあの、嬉しそうに潤んだ瞳が…彼女が喜んでいるのではあれば、誰に恥じることも無い…それで良いのかもしれません…。
そんな、ほんのりと暖かみを漂わせた気配…その流れに沿う様に、真綿の様な確認の儀式が続く。
「それじゃあ、二人して口裏合わせて、橋本を詭弁で瞞着…しつつ、穏便に納得してもらって、みんなで仲良く、幸せな日常を取り戻すとしようか。そうすると、一番が簡単なのは…言った通り、多分、橋本の念頭にもあることだろうから…ここは一つ、石川に悪者になってもらうとういう方向もあるけど…どう思う、篠原は…。」
「私っ、私は…そういうのは、ちょっと嫌かな…。そもそも、ただでさえ石川には…私、迷惑とか、罵られても仕方ない様なこと…しちゃったし。…正直…石川は私が別れたいって言った時も、ろくに話を聞かずに受け入れてくれたこととか…別に、感謝している訳じゃないけど…『あぁ、やっぱり、この人の私に向けてた気持ちは、こんなものなのか。』って、思ったし…でも、それは私だって同じようなもので…むしろ、私の場合は…。」
と、佑子はチラリと目線を克の顔に振り向けて、
「もっと、悪質だったんだから…だから、石川を悪者にするようなことは、私は避けたいかな。もちろん、これは、私の勝手な思いだけど…。」
佑子の真に迫る独白に、克は訳知り顔で、大雑把に二、三度頷いて、
「それは篠原なら、というより、篠原じゃなくてもそうだろうな。…まぁ、俺もな…筋合いの無い奴を、矢面に立たせるのは気が進まないとは思ったんだよね。…それに、仮に事が公になっても、あるいは石川なら、怒ったり、反論したりはしないかもしれないけどな…その分、積極的には協力してくれるはずもないし…もしもの場合を取り繕うのが面倒そうだしな…まっ、それでも、そういう案もあるってことは、篠原も、当然解ってたんだろうからな、一応、話し合いのマナーとして言っといた…ということで…。」
克は、微妙に本音を匂わせつつ、『いよいよだぞ。』という勢いで、二人の間の暑い空気の層を混ぜ合わせた。
「いよいよ、選択肢が狭まって来た訳なんだが…どうだ、ここは釈明の達人を自負する俺に、乗っかる形で任せてみないか。」
佑子はやはり不意を突かれたように、フォークの四つに分かれた切っ先を揺らして…しかし、すぐに、心の底から湧き上がったような、期待に満ちた笑顔を克に注ぐ。
「えっ、本田には何か良い考えがあるの。流石は本田。凄い。本当、頼りになるね。」
「まぁ、慌てるなよ。詳しくは…橋本に実際に理屈をこねる時のお楽しみとして…でもなぁ、その弁解には、篠原に…多少は、汚れ役を担って貰うことになるんだけどな…それでも、良いよな、篠原。」
「え、えー…汚れ役って…言葉の響きが既に、ちょっと不安になるんだけど…。」
「何、風邪ひいてる時は、誰だってそんなもの…みたいなことを言うってだけだからな。別に、そんな、『実は篠原は極道の娘で、抗争に明け暮れる我が身を憐れみながら、一人歩んでいた』…みたいな事を言うつもりは、毛頭ないからさ。」
「そういう、本田の講談染みた言い方聞くと、なんだか、余計に不安になるんだけど…。」
「篠原、何を詰らないことを…いや、頼り無いことを言ってるんだよ。俺だってこの釈明では、少しは被害を被るんだって…。その証拠に…篠原は正直に、橋本に本当のことだけ言っていればいいから。」
これには佑子も驚きの色を隠さずに…それと、どうしたことか…感心したように、
「へぇ、良いんだ…だから…私が着てたのが本田のジャージで…それは、私がジャージを本田から借りたってことで…それと言うのも、私は本田の家に泊ることになったからで…。」
つらつらと読み上げられる佑子の記憶の伝票の端を、克は即座に取り上げて、
「待った。それは、話が脱線してるだろ。あくまで、橋本が見た状況に対してのことだけにしような。じゃないと、芋づる式に全部打ち明けることになるからな…。そういうのは…お互い、始末に悪いだろ。」
と、克は…、
(そういうのは、もう、猪山だけでこりごり…いや、十分だからな…。)
そう…克は佑子の文言に訂正印を押しつつ、胸中で呟くのだった…。
佑子は克の内情を知ってか知らずか、満足したように笑みを湛える。
「アハッ、解ってるって、冗談だよ。」
「篠原、お前のことだろ、もっと真剣に…とは、言えた義理じゃないけど…なっ、とにかく、頼むよ…。」
「はいはい、解りましたよ。もう、いろいろと満喫させて貰ったから、本田の好きなように話を進めていいよ。」
佑子は会心の笑みを浮かべると、縦に真一文字の窪みの出来た、丸い茄子を断ち切る作業に再び従事し始めた。…どうも、これは、克にイニシアチブを持っていかれっ放しなのが気に入らないとか…そういう類だった模様…。
克も佑子に習う様に箸を取り上げて、
「はぁ…それじゃあ、汚れ役、引き受けてくれる…で、良いんだよな。」
佑子はそれに俯いて、ラザニアの皿に視線を落したままで、
「うん。ここは、悪い様にしないっていう、本田の言葉を信頼してお任します。…それで、きっと、大丈夫なんだよね。…それで、香とこれ以上…変なことにならずに済むよね。」
不意に見せた、佑子のすがる様な瞳。
丼を持ち上げていた克は、ハッとしたように柔和な表情を引き締める。
「任せろって。橋本だって、篠原と険悪な状況になりたくないから、俺をメッセンジャーにしたてたようなもんだし…それに、篠原は本当の事しか言わないんだからな。嘘突きは俺なんだから、篠原は何も気に病む必要は無いんだからな。」
茄子に押し付けらていたナイフから、力が抜ける…。佑子は微動だにせず、そして無表情で…、
「私…それに甘えちゃっていいのかな…。」
「勿論。」
…克はこれまで佑子にも見せたことのない様な優しい微笑みで…初めて…佑子に…応えた…。
佑子は暖かな、夏の日の雨を思わせる様な表情で、泣き出しそうな瞳を必死に抱きしめる様に、克に笑顔を返した。
「…で、でも、本田は…そんなこと考えてくれてたんだね…私が嘘を突かなくても済むようにって…あのね、本田…さっきはさ、その…最悪…とか…それに…最低とか言っちゃったけど…その、今の本田は…ねっ…その、割と…さ、最高だよ…。」
顔を強い日差しの下のトマトのように真っ赤にして、佑子は途切れ途切れに恥ずかしそうに、そして喜ばしそうに、それだけ、言いきった。
それを聞いた、丼から汁を啜っていた克は…おそらく、えらい所に汁が入り込んだのだろう…咽たのか、何度も咳きこんでから、
「おっ、お前なぁ、何、恥ずかしいこと言い出すんだよ。罵ったかと思ったら、からかってみたり…かと思えば、持ち上げるとか…勘弁しろよ。…見ろ、この酷い有様を…。というか、信じられないくらい恥ずかしいわっ。」
克は人目を憚る様に小声で…まっ、客は他に居ないのだが…一息に捲し立てると、箸ごと口に当てていた手を下ろして、大息を突く。
佑子はそれでもなお、何だか拝みたくなるような端正な笑顔で克を包み込んだ。
「うん、ごめんね。」
「…篠原、いつか言おうと思ってたんだけどな…お前のそういう、感情の起伏の激しすぎるところがおっかないんだよ。」
「そうだね、ごめんね。」
…勝負は…いや、始めから勝負にすらなっていないか…。佑子の笑顔に圧倒された様に、克は力無く丼をテーブルに置いた。
「あの…でも、まぁ、普段の篠原は落ち着いてるし…素直なところは、俺にはないから…それは、いいことだと思うけどな…。」
「うん、いつもありがとうね、本田。」
「いや、いいよ…。」
克と佑子。二人の椀と皿。違いはあれど、その中には…丸い入道雲を浮かべた、夏の青空が映っていた…。




