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第三十二話

(1)

 重ねた細い脚を居り曲げて、佑子がテーブルと二人掛けの座席の間に、華奢な体を挟み込む。十分な隙間があるはずなのにどこか窮屈そうにしている様子を見ると、スカートは、つくづく罪つくりだなとしみじみ感じられる…。

 克は正面に腰掛けた佑子を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えている。そんな合間にも、いつ話を向けようかと、胸ポケットに雑に突っ込まれたままのチラシを時折気にしているところが、いかにもこの男らしい…。

 左手でよくアイロンが掛かっていそうなプリーツスカートを、撫でるようにしてシートとの間に敷き入れる。そしてもう一方の右手では、克の目線の先、器用に二人分の鞄を座席の奥へと押しやる…。

 ここがファミレスの一角でなければ、例えば趣のある和室であったなら、一見すると優雅とも言えるだろうこの所作に、お茶を濁さない程度の賛辞があったかもしれない。だが、こういう場所では褒め言葉一つ発するにも、そんな気を揺り起こすのにも、少々の努力が必要となる…ただ、その気安さを失ったとしたら、入る客も入らなくなる可能性は否めないが…。

 克はついっと肩に掛った髪を後ろへと流す佑子を見送りながら、左に大写しに見える窓外の景色に目を遣る。 

 暗闇を裂いて、自動車のヘッドライトが目線の高さで背後へと消えていく。

 ついさっきまでいた屋上から、香のアルバイトの始業時間に何とか間に合わせようと、押っ取り刀ならぬ、押っ取り『鞄』でなんとかこうにか掛け込んだファミレス…慌ただしいことこの上ない…、

(というより、放課後からの慌ただしさが、ここに極まったって感じか…。)

 意味無く、あるいは無理やりにでも意味を得ようとしているのか、克は冷笑的に自分の思考を分析する。しかし、こんな心境では結局のところ揚げ足取りのような皮肉しか閃かず、克は自らの思考の泥沼に沈みながら天を仰ぐ。奇しくも、たった一つだけましな情報が目に入いった。どうやら、この店の天井の蛍光灯は、ブツブツと文句を垂れてくるようなことは無さそうだ…まったく、朝に感じていた解放感が嘘のようだ。

 何にせよ、手持無沙汰なのがいけない。

 克は埒もない考えを払拭しようと背後に目を向ける。背もたれに背を預け、右手で座席のシートにギュッと体重を乗せる…。

 手持無沙汰と言えば、この店はいつでもこんな感じなのだろうか。

 克と佑子の座る席からかなり離れたところにあるレジ。そこではコックコートを着た中年の男性が、先程までは唯一の客であった家族連れから受け取った伝票を清算している。…おそらく、店側でもこの時間帯の事情はよく把握しており、今のように、もう一人のスタッフが制服に着替えている最中など、手の離せない状態にある場合は、厨房に居る者でもレジ対応に出る。そういう段取りになっているらしい。

 程無く、『ごちそうさま。』の上機嫌な子供の声と、出入り口のドアに取り付けれていたベルの高い音を残して、二人以外の『お客さま』は皆、この店を後にする。

 さぁ、これからは間違いなく自分たちが食事を、サービスを提供される側に回る…他に客も居ないのだし、当り前なのだが…。しかし、

(悪いけど、気が乗らないなぁ…。)

と、克は内心で独りごちる。一体、何が気に入らないというのだろうか…。

 不意に…薄い、密着したプラスチック板が離れる…耳慣れた、あの音…。

克はのっそりと  佑子の方へと向き直る。右手は、いかにも安物の皮革のシートの下で、スポンジが千切れる感触を覚えていた…。

 「本田は何を食べるか決めてるの。私は…何を食べたら良いと思う。」

 目の前が、佑子の広げたメニューで、先程までの落ち着いたウッドテーブルから一転して華やかなスクリーンへと変わる。

 克はどこか困ったように、窺うように小さく眉を動かして、

「そうだな。…とりあえず、メニュー見てみないことには解らないな。」

 克は愛想笑いのように右手をメニューの上に乗せる。…別に、ぎこちないとか、不自然という程ではないのだが…克のこの態度、何を気にしているというのか…。

 佑子は待っていたと言わんばかりに、

「そっか、じゃあ本田の注文から先に決めちゃおうか。なんなら、私、決めてあげようか。」

そう言うと、王冠を捧げるような丁重さで、メニューを克の方へ押しやった…そう言えば、『貴方の物』といった具合に、予め、メニューは克の方を向いて開かれていた…。佑子はどうやら、克の躊躇には気づいてないらしい…良いことだ。

 さっそく佑子が一つのメニューを指さす。

 「これなんて、どう。」

克はディーラーにカードを要求するギャンブラーのように、二度メニューの端を人差し指で小突いて、

「和風ハンバーグステーキ…他の料理にしようかな、今日のところは…。」

 「そっか。じゃあ、ねぇ…。」

 佑子は、目の前に並ぶ色とりどりの、腹具合に余裕のあるものならば食指を動かされぬはずがない写真たちを、まるで、子供が一度仕掛けの解ってしまった飛び出す絵本に示すかのような、冷やかさを超越した無関心で切り捨てると、パラリと、いとも簡単に項を捲る。

 克の方は視線さえ落として貰えなかった哀れな料理たちが、物言わぬ、単なるメニューの厚みとなるに先だち、さっと右手を引いて、佑子の次の選択を前に待機の構えをとっている。…未だ、何を憂慮しているのかは不明瞭であるが…とりあえず克としては、佑子がメニューの探索を進めるに任せよう。どうも、そういう腹積もりらしい…晩飯時に、食べ物屋で、ご苦労なことだ…。

 逆さの文字と格闘していた佑子が、どうやら次に候補を立てたようだ。

 「ねぇ、これは。…えーっと、『特製ソースのオムライス』。これなんて夕ご飯にはちょうどいいんじゃない。」

 克は白く、薄らと血の気を感じさせる、形のよく整った佑子の爪の指す先を眺めて、

「そうだなぁ、悪くは無いけど…気分じゃないかな。」

 「…そう、それならねぇ。」

 克の一切熱を持たない、この写真のポトフよりも煮え切らない態度。これには流石に、佑子も不愉快だぞと、長いまつ毛を風に揺れるカーテンの裾の様に震わせる。佑子はぞんざいに項を次へと押しやって、それでも努めて、

「この『定食』の中から選ぶのはどうかな。」

と、先程まで変わらぬトーンで克に語りかける。それでも焦れてきているのは明らかだろう、選ぶ候補も『定食』などと格段に広範になってきている。しかし、それは無理からぬこと…何せ、憤懣の色を浮かべた佑子の黒い瞳の奥には今、克の顔の他に何も映っていないのだから…。

 その深い黒に写った克の顔が俯く。

 「他には、何かないのかな。」

 克の問いかけ、あるいは急かしているようにもとれる言葉に促されて、佑子は閉じた口の内側で小さく息を漏らして、

 「ちょっと待ってね。」

そう律儀に答えながら、甲斐甲斐しくメニューの次の項を開いて見せた。

 …今までの佑子ならば、まず不満を表明している場面であろう。今日は何かが違う。

 違うと言えば克もなのだが…この男がこんなふうに気のない態度をとるのは今に始まったことではないし…これもいつものことながら、克がこういった態度をとる際の、その理由がいつでもはたから見ているものには解りづらい。

 勿論、克のこういう、ともすると自分勝手ともとれる素振りが、我を通すための手段であったことが少ないことも、多くの場合佑子のことを慮った、ちゃんと整理を付けた上での振る舞いであったことも認めるにやぶさかでない。しかし、克がそんなに出来た人間でないことも読者諸賢にあえてお伺いを立てずとも、覆ること無い事実であろう。

 著者には声を大にして言える。『お前は解っていない。』と。お前がその賢い頭を最大限に働かして整頓した理屈は、いつも最後には意味をなくし、お前は寸でのとこまで後生大事に守ってきた理屈を、必ず放棄する羽目になって来たではないかと…。そして、そんな血の通わない理屈たちは、いつだって佑子を、仕舞にはお前をも見捨てていったではないかと…。だから早く気付いて欲しいのだ。佑子はお前以上の存在でもなければ、以下の存在でもない。ましてや、お前が決して触れることのできない、熱の感じられない程遠い、幽霊のような存在ではないのだと…。

 メニューに被さる様にしている佑子の目線は、わだかまりのせいだろう、上手く写真の上で収まってはくれない。それでも何とか、無難そうな料理の写真を汲み上げると、

 「これは…。」

 どこか挑戦的な瞳で克を見つめながら、佑子は伏せたカードを押し遣るように、写真の料理を指の腹で強く叩いて見せた。

 それにしても、オードブルにしては少々胃にもたれる程の緊迫感。幾らなんでも、食事の前からこのように心身を削り合ってどうしようというのか…まさか、良い出汁が取れるわけでもなし…失礼…。

 だが、いつもいつも、二人が緊張感をテーブルクロス代わりにしながら食事をしているわけではないはず、少なからず朗らかなときも訪れていた。それなのに、また、どうして今日は…そう、今日の何が特別かと言えば、こうして二人で外食をするのは初めてのことなのだ…。

 克は伏せたカードを覗き見るように、再び右手を伸ばして、メニューの端を中指で押さえつけながら、一方親指では弾いて見せる。別に前の項に未練があるわけでもあるまいに…そんな児戯に等しい手慰みに、佑子は一層苛立ちを増大させて、

「本田、聞いてんの。」

 佑子は決めつけるような声音で、克の力の抜けた肩を揺さぶる。…佑子が言い終わるか終わらぬかというところで、克の背後の背もたれが、ゴムのような弾力のある弱音を漏らしたのは…あるいはそういう理由からなのかもしれない…。

 「聞いてるよ。それに、今、見てるとこだからな…。」

 克は、今度はなんら不平らしい音を立てずに皮革から背を離す。まだ緊張感に凝り固まったように、背もたれのシートはなだらかな窪みをなかなか埋めきれずにいる。そんな、背もたれをバネにしてようやく前向きな様子…あるいは、それらしき振りを見せた克に、佑子は…、

 「…自分のことでしょ。」

と、その小さな口の中で全てが打ち消されてしまうほどの、微かな抗議の言葉を囁いた。

 佑子が飲み込んだ、腹立ち紛れの言葉に応えるという訳ではなかろうが…克はメニューから右手を退けると、前例に乗っ取った紋切り型の文句を付けに掛る。

 「でもなぁ、篠原。『ジャンボカツカレー』は無いんじゃないか。少なくとも、俺は無いなぁ。そもそも、ファミレスで衣ついた料理を食べるのは自殺行為だろ。」

 瞬間、佑子の顔に不気味な…もとい、不敵な笑みが…そして、威嚇するように半分ほど覗いた白い歯の、その下に生まれた淵からは、当て擦るようなため息が這い上がる…当然、佑子お嬢様のお腹に溜め込まれた苛立ちは、あの程度の捨て台詞では紛れるはずもなく。その立腹が、今こそ最高潮を迎えて…しかし、喉まで出かかった悪態を、佑子はなぜか飲み込むと、

 「じゃあさぁ…本田はどんなのが食べたいのかな。教えてよ。」

 佑子は克を嘲弄するようにあどけなく小首を傾げると、如何にも『お前のことは解り切っている。』というような微笑みを向ける。

 克は素知らぬ風に、そしてあくまでも何気なく、ここで初めてメニューを己の方に引き寄せる。

 そうして、相変わらずなぜだか解らない理由で、今度は若干驚いたような表情見せた佑子を尻目に、手早く、カードを配る様な手つきでメニューの項を裏返していく。この際にも、ギャンブラーのような白けたポーカーフェイスの克の、右手が大いに物を言ったのは言うまでもない。…にしても、たかだかディナーの献立を決めるだけで、どうしてこうなるのか…解らないことだらけである。

 いや、そう言えば、新しく解った事実もある。とりあえず、その付近から、一つ一つ拾い上げて、二人が手元に隠している切り札を読み解いていこう。

 二、三ページ、項を進めて、カードの束をシャッフルしていた…ではなく、メニューを捲っていた克の手が止まる。

 佑子は克の挙動を見逃さぬまいと、いつの間にかテーブルの下に放り出された、靴の踵の部分でだけ床に接していた長い二本の脚を引き戻すと、心持姿勢を正す。…どうも、この興味の深そうな態度から、佑子にとって克の反応というカードの内のどれかは、不測の物であったのだと言えよう。

 そうして目星を付けている間にも、ゲーム…とするのは不謹慎か…ともかく、事態は動いている…克が一つの結論にたどり着いたのだ。

 克は涼しげな顔つきを崩さず、くるりとメニューの向きを佑子の方に直すと、

 「これにしようかな。」

 …佑子の申し出を再三に渡り蹴っ飛ばしたことを、さっぱり忘れて仕舞いましたとばかりに…克はふてぶてしくも、今度はそちらの番と、佑子に勧めるようにメニューを差し出して、ノックするように思惑の核心とへと繋がる料理を示した。

 「『翡翠麺』って…それだけ。」

 佑子は相手の胸中を探る様に、味気ない果実を噛んで含めるようにして、克に念押しする。克はどこか満足気に、それでも笑顔の一枚下の本心は変わらずに曖昧なままに、

「俺はな。それで、篠原は何を食べるんだ。」

 どうやら、ここまで展開は、克にとっては予定調和の事象のようだ。…佑子がチップを積み上げて寄越した選択権も、克にとっては苦慮の類にはならなかったらしい。

 だが、それもあくまで『今のところ』の話。…確かに、この男のことだから、目的を持って、それに叶ったチップのふっ掛け方を算段していることであろう。しかし、かのゲーム理論に曰く、選択とは、行われるたびに必ず、何パーセントかのミスを孕んでいるもの…克がどこまで有利な材料を携えていようと、『見誤る』ということは往々にして有り得ることだ…たとえ、それが自分自身の手の下にあるカードだとしても…。

 佑子は抵抗なく自分の元に戻った機会を、やんわりと見逃すと、

「でも、それだけだと、本田には足りないんじゃないの。後で、きっとお腹が空くと思うよ。」

 佑子はさっきまでの、『克の心中を見透かさねば、食事も喉を通らない。』という怒りの矛先を一時納めて、真摯に克のこの後に、カードを除けて、心を配る。…思いやりという、佑子の根本とも言える美点。

それは、思慮の範囲を逸脱して施されるからこそ、直に相手に温もりを感じさせることの出来るもので、だから克がどんな積りで、仮に佑子のためを思っての今回の態度だとしても…どうしても、相手の反応を読んでから手渡される善意は、相手を掌握してやろうという功名心や、あざとさ、そして、自己満足が付きまとうもの…それゆえに、佑子の心遣いと克のそれとでは、同じ思いから生まれながら、致命的に意味を異とするものなのである。…まぁ、これは、著者が克を強く攻められる筋のことでは、無いのであるが…。 

 「もっと、腹持ちが良いものにしておいた方が絶対良いって…もし、値段のこと気にしてるんなら、私、幾らでも貸してあげるよ。」

 佑子の諭す様な語り掛け。克は、少し開いた膝の上に、身構えるようにして両肘を置くと、正面切って佑子の申し出を受け止める。

 「『腹持ち』って、篠原が使うには、何か古めかしい言い回しだよな。どっちかというと、如何にも俺が言いだしそうな台詞ってところがまた…それにな…。」

と、佑子に、そして自分を鼓舞するように、物柔らかな笑みを返すと、伸ばした背筋にさらに勢いを加えるように息を吸い込んで、

「それに、この翡翠麺のトッピングが振るってるよな。見ろよこれ、『掻き揚げ』だってさ。いやぁ、よくもまぁ、こんな正気とは思えない料理、メニューに加えたもんだよ。だって、翡翠麺っていったら、中華料理だろ。それに天ぷらって…どう考えても不味いだろ…あぁ、味も期待は出来ないだろうけど、それよりもまず、汁に油が浮いて、折角の翡翠麺の香が台無しになるって。…えっ、あぁ、『ファミレスで衣が付いてるものを頼むのは自殺行為じゃなかったのか。』って言いたいんだろ。流石、篠原。俺も、篠原ならそこに気付いてくれると思ってたよ。確かに、コストパフォーマンスの点でも、ファミレスの麺類、その付け合わせの天ぷらは最低の部類に入るだろう。しかしね、むしろそこが楽しみなんだって。こんな珍妙極まる取り合わせが、どうして定番入りしたのか。客に提供できる形になる前に誰かが待ったを掛けなかったのか、そういった障害を、いったい、どうやって突破してきたか。…それも、掻き揚げというハンデを浮かべたままで…ここまで好奇心をそそられたら、もう、オーダーするしかないだろ。」

 ここまで一気に捲し立てて、克は渇いた喉を鳴らして、一瞬、殺風景な己の目の前に視線を走らせる。

そうして、

「まぁ、それに、掻き揚げに入ってるエリンギ…食べたいような気もするしな。」

と、明らかに後から付け加えたような一言。このテーブルでこれからの出来事をどう進めるつもりかは知らないが、目下の勝負相手である佑子を瞞着するのに、この言い訳がましい一言は、余計であること明白であろう。

 大体、話を進めるだけ進めて、内容は当たり障り無いにしてもこの言い回し…どうも、自己弁護の匂いがする…。おそらくは、克の料理に対する態度の悪さから、佑子が突き放したような反応をとることを、頭でっかちの嗅覚でかぎ分け、恐れたのであろうが…では、それは一体どのような角度のことなのであろうか。…まぁ、それは…呆れたように、克の顔を穴が空きそうな程見つめている佑子の、黒く、光沢のある瞳の行く先が教えてくれるだろう。

 克は落ち着かない様子で、もう一度テーブルを見渡した。…未だにお冷の一杯もよこさない店に、あるいはそんな店の料理たちの作り笑顔に、何を期待しているのやら…。

 「俺の注文はこれで決まり。で、篠原は何を食べるか決めているのか。」

 克は軋みを上げる首の硬直具合に、居心地の悪さを感じさせながら、それでも努めてにこやかに佑子に水を向ける。

 佑子は不平不満の類ではあるまいが…決めかねるような、納得がいかないような、そんなわだかまりを含ませて、可愛らしい唸りを漏らした。

 「なんだ…決めてなかったのか。」

佑子の反応の鈍さからか、克は少々どぎまぎしたように、それでも一層勢い込んで、

「だったら、篠原も俺と同じものにするのはどうだ。」

 克は相変わらず満たされない腹を抱えて、なのに満ち足りた笑顔を佑子に向ける。…手札の察しが付かない状況では、一種不気味でもあるが…。

 それにしても、ここにきて、以前の佑子ならば喜んで応じそうな言葉。どうやら、克にとって肝心要の部分は、切り札となっている絵札が携えていたものは、これ…つまりは、自分と同じものを注文させること…いや、それでもよく解らないが…。

 けれども、あえて克の思弁を解釈するならば…克の『自分と同じ料理を注文させる。』という行為は、佑子に、ポーカーでいうところの『コール』を、つまり自分と同額チップを賭けさせることを目的としているのではあるまいか。

 そうすることにより、佑子がこれ以上チップを積み上げるようなことを、先出しで牽制している。…おそらく、この予想はある程度までは正しいだろう。それが証拠に、克にとっては、おそらく、大部分が他人事の範疇でありながら、気忙しそうに、依然決めあぐねている佑子の顔色を窺っている。…要するに、どういう崇高な理由があるのかは定かではないが、自分のチップを見せ金にして、佑子のチップをこそ使ってゲームを気取っているのである。この本田克の野郎は…まぁ、克本人にはそんなつもりは毛頭なかろう。しかし人間関係とは、ともすれと知らず知らずに幼稚な方向へと流れがちなもの。そもそも、克が何に気を回していたのかはまだまだ定かではないが、このような己の不誠実さにこそ気を使うべきであったろうに…。

 それはそれとして、二人の問題(克の信念を大幅に尊重すればであるが…)の起点たる、『チップ』の価値を保証している『何か』が、いよいよ重要な情報となって来たわけである。

 果たして、このゲーム根幹を、何の面白みも無く真っ直ぐに切りそろえられた、四本の木製の脚の上…このやり取りを生じさせているものは、何なのであろうか。

 言うまでも無く、この『チップ』の額面がさらされたときに、互いのカードは無価値なものとなり果てるはずであるが…それは、佑子の心配したとおり金銭的な、克が二人分奢ることになった場合の、大量『出費』に対する予防線だったのだろうか。…それとも、ああだこうだと意見を戦わせているうちに、時も忘れて浦島太郎…よろしく、こんなことにがたがた時間など掛けてはいられない。と、若い身空でこせこせと『時』を惜しんでいるのであろうか。

 いや、そうでないだろう。両方ともに異論の挟みどころがどっさりとあるが、それ以前の段階で『チップ』の出どころとしては不適切である。…何せ、二つが二つとも、克の自身の『都合』から生じる質であって、佑子が了解してそれを共有しているとは考えにくい。

 であるならば、克は佑子のために、何にそれほどの重きを置いているのであろうか…。

 佑子も今、そんなようなことに思いを馳せているのだろうか。どうも、気もそぞろといった様子で、穏やかだが、こちらもまたどこか落ち着かない風な克を見つめている。

 しかし、どちらかと言えば浮足だっているのは克の方だったようだ。

 「ほら、『揚げ物には植物由来の油を使用しています。』だって。まぁ、気休め程度のものだろうけど、なんか健康的…あっ、いや、というか、なんか手軽そうでいいじゃないか。」

 克は次々とカードを表に返して、佑子にポイポイと情報を投げつける。そんな、取りとめもない雑多な言葉たちを、佑子は少し鬱陶しそうに、肩口に掛る髪と一緒に払いのける。

 「んーっ、そうだねぇ。」

 そして思いっきり気のない返事で、どうもテーブルサイドに居場所の定まらない克を混ぜっ返す。ゲームの内容ではまだ五分と言ったところかもしれないが、卓外での戦況は克に圧倒的に不利な様子…こうなることは容易に想像が付いていたろうに…自分から劣勢に飛び込んでいれば世話がない。…それとも、克には、時間を掛けて佑子に己の考えを気取られる…結果、あまりにも繊細すぎる佑子の琴線に触れることを恐れているのだろうか…。

 確かに、それは畏れ多いこと…もし、克がそれを避けうるだけの見通しを立てているのであれば、その通りにゲームが終局を迎えるように祈りつつ、佑子を見つめるより他にない…克と共に…。

 「でもなぁ。」

 佑子が不服であると、美貌をかすませる。克はすかさず、

「何が。」

と、無愛想な佑子に問いかける。

 それだけのことでも…、

「うん…。」

 すぐさま問いかけられた。それだけの事でも、克に向けた黒い瞳の、その奥の雲間から日差しが指したように、佑子の白い頬に薄桃色の生気が宿る。…こんなファミレスの…幾らでもあるテーブルの上で…それなのにこの瞬間は、どこか神秘的な異彩を放っている。それは、誰もが出会う蜃気楼のように、遠くて肉感的で、近くて脆く、儚い…。

 互いが互いを刺激し合っている…いつかの時も、そしてごく最近も感じたような漠然とした当惑に、克の右手は自然に、テーブルの上から滑り落ちていった。

 佑子はもう一度、喉の奥で小さく唸って、

「私はその料理でも十分だけど、やっぱり、本田にはもの足りない様に思うんだけど…だいたい、『手軽』って…本田だってそんなことくらい解ってるでしょ。…その、自分のことなんだから。」

と、たしなめるというよりは、遠回しに克の反応に手応えを求めるような…今一つ朧気な雲行き。

 料理の量的な面と、克の腹具合の質的な面に、屈せずに、彼女の容姿からは想像し難い頑なさを見せる、佑子。克は、なかなか丸めこまれない佑子の居住まいを、事も無げに…あるいは開き直ってか…これは本当に可笑しそうに微笑むと、

「そんな詰らないことで、篠原が悩まなくても良いって…それは、心配してもらえて有り難いとは思うけどな。別に、一食抜くとか、断食しようとかしてる訳ではないんだからさ、それは少し気の回しすぎってものだろ。…んっ。そうだ、もし、この後に改めて、自分が料理を作らされるかも…とかいう展開を嫌って食い下がってるんだったら、そんな心配はないぞ。まさか俺だって、おっかない篠原さんにこれ以上胃袋を強く握られようとは思わないからな。どんな汚れ仕事に駆けずり回わらされるとも知れないし。」

 克のそんな底意の感じられない笑顔に、佑子もどうにか、ほんのりとは安心できたようだ。緩む頬を引き戻す様に口元を結び、遺憾の意の表明として細めた目を克に向けるが、元来の愛らしさと相まって、とてもではないが不機嫌な顔とは受け取れない。…どちらかと言えば、子供が構って欲しがっている…とか、そんな表情であるとした方が、しっくりくるかもしれない。

 佑子も自分の不満顔が迫真性を欠いていることに気付いていたのか、取って付けた様に咳払いを一つ。

「別に、私そんなこと気にしないよ…。それに、ちょっと失礼じゃないの。それじゃあ、まるで、私は本田が私の料理に口を付ける度に、本田にあれこれと注文を付けてるみたいじゃないの。そんな、私が、スプーン一杯、貴方の口に運ぶ度に、本田への貸しを増やしてるって積りになってるなんて…そんな風に思われるのは心外だよ。」

 克はけれんみたっぷりに、居心地悪そうな顔で口の左端をつり上げて、

「いや、こっちこそ心外だって。篠原の話聞いてると、どうも、俺が篠原に餌付けされてるように聞こえるんだが…。」

 「そうかなぁ。」

 佑子が満面の笑みで、この場の空気を一気に明るくする。…踊り場の蛍光灯に続いて、ちらちらと存在を主張していた、車道を行き交う車の差し伸ばす灯火の光も、濁ったようにかすみ、今や克の意識の枠外へと追いやられている…。

 「お前、わざと言葉選んでただろ。俺をからかって…楽しそうなのは大変結構だけど…何かの当てつけですか。」

「えへへっ、バレた。えっと…ね。まぁ、本田にも私が日々どんなことを考えているか。知っといてもらっても良いかなと思って…やっぱり、ちょっと照れるね。」

 微笑む佑子は、緋の生える白い頬をまた少し瞳に寄せて、

「後、当てつけっていうのも…あるかな。」

と、佑子はさっきまでと同じ、暖かな笑みを克に向ながら…そのくせ、その瞳の奥には、印象的な黒を飲み込むような朱の陽炎(かぎろい)が燻ぶっている…。

 「だって、本田、何かさっきから変なんだもん。普段は、もう少し決断力が弱かったと思うんだけど…今日は、始めっから食べる物を決めて掛ってるみたい。…それに、いつもはもう少し…あぁ、この人はちゃんと自分を大切にしてるんだな。それを踏まえてるから、まわりの人に気を配れるんだな、賢い人だなって…本田を見てると私、そんなこと思うんだよ。」

 …佑子の言葉に、克の顔から血の気が引いていく。

 佑子の話の内容は、よほど克の痛いところを突いていたのだろう。顔色には出さないものの…いや、努めて狼狽を隠そうとした結果、克の表情はらしくない程に真剣味を帯びていた。

 「今日に限って…って、ことなら、篠原に接している時の俺は、大部分のところでは篠原の尊敬を勝ち得ていた訳か…それは光栄だな。でもな、それってあくまで、篠原から見た昨日までの俺の事だろ。そんなの持ちだされて、褒められたり、貶されたりしても…やっぱ、説得力に欠けるよな。だいたい、当然、俺は篠原のことよく解ってる訳じゃないし、篠原だって俺のことよくは解ってないだろ。…あっ、いや、だから…な。…誰だって、いつでも、誰に対してでも同じように接することは出来ないって。それに俺は、ご覧の通り、自分の立場が悪くなると、すぐ相手を責め立てるような、そんなごく普通のガキだから。今だって、人並みには自分のことを優先してるつもりだよ。」

 克は佑子をさらに罵ろうとする子供染みた言葉をぐっと飲み込んだ。ちょっと面喰う程の不機嫌さを見せた、克。そんな癇癪持ちが道を踏み外す前に、尊敬すべき賢者へと引き返させたのは、やはり、佑子のあの悲しげに陰った顔色だろうか。

 佑子は赤みの抜けつつある頬の力を緩めながら、

「本当に…。」

 克は己の頭を冷やす様に息を吐いて、

「本当だよ。」

 「嘘じゃないよね。」

自分の言葉に被さる様に繰り返される佑子の問いに、克はやや驚いたように両目を見開いて、それでもゆっくりと、丁寧に佑子に応えて聞かせる。

 「嘘じゃないって。」

 一問一答は、とりあえず、ここまでのようだ。

 答えが出終わってみれば、問い掛けた佑子よりも、答えた克の方が晴れやかな顔をしているのが、何となく滑稽だった。

 テーブルはゲーム終盤を察してか、面長なその造作に、早くも食卓としての顔貌を現わし始めている。

 …そんな気配に急き立てられるかのように…佑子は紅の引いた頼り無げな顔色で…それでも、ついには意を決したように、

 「あのね…本田は私のことよく解らなくて…当然だと思う。だって、私、それくらいは本田も知ってると思うけど、とにかくやることが滅茶苦茶だし、自分勝手だし…自分のことあんまり好きじゃないし…。そんなだから、他人の事…相手の事を自分がどう思ってるか、自信もって相手に…その人に伝えられないし…なのに、惚れっぽくって…自分のことも解んないくせにね…。」

 佑子は自嘲的に克に微笑い掛ける。克はあえて口を挟む様な真似はしなかったものの、捕らえて離すまいとする様な佑子の鬼気迫る視線を正面から受け止めている。

 佑子はそんな克の瞳を愛おしそうに覗き返すと、今度は、惜しむ様な、そして満足した様な、何とも暗示的な笑みを浮かべた。

 「それでもね。そんな私でも、本田に私のことを解って欲しいって思うんだ。すごく…。そしたら、いつの間にか、本田のことは何でも、どんな些細な事でも解りたいって思うようになってたの。それは、今だってそうだよ。私、本田のこと、出来るなら、いつ、誰に対して、どんな態度をとるのかってことも知りたいと思ってる。だからね、もし本田が嘘付いていたとしたら…怒るよ。…私、今は、本田にはまっさきにそのことを…そんな私のことを解ってもらいたい…かな。」

 やっぱり、どうも照れくささが先に立つようで、佑子は話の最後の方には、また朱の差した頬を脈の透ける白い手を押し付ける。…そんな佑子の声は、終始穏やかなものだった。例えば、『怒る』などという、融和的とは正反対の言葉を口にした瞬間であっても…。

 「『怒る』、ね。俺の解ってる枠内での、いつもの篠原佑子なら、ここは『許さない』で一気に追い詰めに掛ると思ったけどな…。」

 そう冗談っぽく嘯いた克の顔には、揶揄しようなどと茶目っけは弱く。代わり…と言ってはなんだが…克の面には、さながら嵐に圧倒された後の様な、そんな倦怠感が滓の様に残っていた。

 しかし、不幸なのは、嵐に見舞われたのは克だけではあるまい。それは平静を繕った佑子の横顔にも写る倦怠感。…一際強いヘッドライトの光が、二人をなぞって…消えた…。

 「許さないなんて言って、これ以上本田の気持ちが遠のくかも…て、そんな風に考えると、ちょっと言いだしづらくて…。私だって、本田のこと全部解ってる訳じゃないから…怖いんだよ。」

 佑子は柔らかい表情を崩さずに、どこか悪戯っぽく、どこか申し訳なさそうに克に呟いた。

 克もまだまだ緊張感の残る顔で、自分より背の低いはずの佑子に、見上げるように呟いて、

「それは、怖いだろうな。…俺だって、やっぱり、篠原のこと…でも、お互い勘違いしないようにしないとな。解ってない分余計に…。勿論、俺は篠原のこと心底怖いなんて更々思ってないよ。俺の言う怖いっていうのは、壊れ物を扱う時の危うさというか、心細さを指して言っているんであって…まぁ、篠原には自分のブロマイドを売りさばいてる張本人たる俺の事が、得体の知れない、気の許せない怖い奴と映ったとしても…弁解の余地はないからな…。でも、俺が篠原に感じたのはそれとは違うから、そこのところは怖がらずに解ってくれると有り難い。…俺も、篠原が心を砕いてくれてることは、一生懸命だってことはよく解ってるつもりだから。…それにしても。」

と、どちらともなくたしなめるように、慰めるように、淡い倦怠感を解しながら、語って聞かせた、克。その声色が、突然、落ち着いた色調から、愉快そうな色調へと塗り替えられる。

 「今更だけど、止めとことう。前に言ったか、言わなかったかなんて言葉を掘り返すようなことは…お互いにな。…これ以上、腹の探り合いなんかしても、これから食べようって飯が不味くなるだけだからな。どうよ、篠原は…解って貰えるかな。」

 …そんなこと言われて、改めて考えてみれば…と、佑子もこれには参ったように、可笑しそうな声で、

「それもそうだね。…うん、本田の言いたいこと、よく解るよ。その気持ち、今はもう私と同じだから。…ところで、本田、これも今更なんだけどね。やっぱり私も、本田と同じ翡翠麺にするよ。本田の好奇心の末路にも興味あるし、それには同じもの食べるのが一番そうだからね。…それじゃあ、注文取ってもらおうか。」

 佑子は早速、ファミレスではどの店でも見掛ける、テーブルに備え付けられた、押しボタン式の呼び鈴に手を掛ける。その動作はさながら、プレイヤーが手札を投げ出して降伏する様な、そんな一抹の痛快さを匂わせていた。

 かくして、克の思惑は小憎らしいことに成就した…かに見えたのだが…。読者の皆様もご存じのとおり、事を成すに当たって一番危険なのは緊張感を失った時…かの故事にも言われるように、木登りでは木を登るときよりも、降りるときにこそ注意を促がしてやるべき…さもないと、下では、笑顔の素敵な美女が手薬煉(てぐすね)引いて待っているということも、ありえるのだから…。

 克としても十分に意識を張っていたことであろう…が、佑子の指が呼び鈴のボタンに触れるのを確認して、ついつい、肩の荷を下ろすように、安堵のため息を漏らして…しまったのだ。

 「はぁっ。本田、それどういう事。」

「えっ、何が…。」

 克にも最初は、出し抜けに佑子の放った言葉の意味が、よくは解らなかったようだ。しかし、数秒たって後も返事が、疑問の声が続かないところを見ると、明らかにばつの悪い思いをしていることは間違いなさそうだ。…克のため息には、それ程多くの意味が含まれていたのだろうか…。

 そんな克を、色を失った瞳で佑子が見つめる…。

 「本田…やっぱり、嘘付いてたんだね…。」 

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