第三十一話
(1)
足元から一陣の風が吹き上げて、じゃれつくように、二人の半袖の腕を、首筋を撫でて通り抜けて行く。
耳にぶつかる撫でる風切り音。どこか弱々しい、金属特有の悲鳴を立てる鉄の扉…こんな、音に気付くことは案外少なかったりする。たとえば、会話の間の、こんな静寂の隙間とか…。
克は横目で、気持ちよく開け放たれた屋上の扉を見る。瞬きする間に、もう一度、風邪が吹き抜けて行った。
「別に、あんたが友達でも、なんでもいいだけどさぁ…私には。」
と、憂いを宿した瞳を胸にしまい込む様に、ぎゅっと膝を抱え込んだ香が呟いた。
克は急に目に入りこんできた塵に、せわしなく瞼を擦りながら、
「えっ、何だって。」
そんな、克の無頓着な反応にも、香は対して呆れた風でもなく…とはいえ、何かに備える様にため込んでいた息を、フッと吐き出した。
「だからさぁ。」
今度は、どこか自嘲的な香の声。克の肩に我知らずの内に、いっそう力が圧し掛かってくる。…それにしても、眼の端の扉が気に掛る…。
結局、香は言葉を継がなかった。それは、口にするのが憚られたのか。それとも、初めから、口になどするつもりのない台詞だったのか…たぶん、それは香にだって解らないのだろう。そして、知りたくもないから、こうして卵のように身を小さくしているのだろう。
靴底が宙に浮いてしまったその様子を、振り向けば間違いなくそこにある扉のことばかり気にしていた克は…少し、不安に思った。
また、風がどこからか流れて、二人を過ぎて行った。克は相変わらず、数段下の踊り場に顔を向けている。それでも、香が俯いたのには気づいた。…風は階下から吹きあがっている。それだけは確かだが、果たして、どこから来ているのだろう。この時間ならば、一階の玄関からだろうか。きっと、下校する生徒たちのために開放されているはずだ。それとも、グラウンドに面した教室の窓からだろうか。そういえば、さっきから、調子の外れたトランペットの音が聞こえている。試験も近いのにご苦労なことだ…それとも、もっと別のどこかから…なのだろうか…。
音もなく風が克の頬を撫でる。…ぼんやりしていたわけではない。克だってこんな、しち面倒臭いことを、順序立てて考えるほど暇ではない。だが、確かめようもなく、それゆえに自分でも否定できない位の微かな所で、一瞬、克の思考は校舎の中を彷徨っていた。まるで、決して目で見ることの出来ない、静謐な風の様な明らかさで…。
(要するに、俺は怖がっている訳だ。)
克は視線を段々と続く足下に落とす。…克だって気付いていたのだ。風に身を切られるまでもなく。そうしておいて、自分だけ取り残して逃げ出す風たちの出口を確認するまでもなく…。
克の瞳の焦点がようやく、香の上で定まった。
(それは…他人のプライバシーに踏み込んでいくのは、結構、怖いよな。…いや、それだけなのかとは、問うてくれるなよ。…誰だって、こんな近くに居れば、思いこみやら、思い違いの一つは当然と言うか…そういうことだって…いや、多分、無いんだけどな。)
克がそう思うのも無理はないだろう。何しろ、克はどうしても振り向くことが出来なかた頸筋で、強張った肩で、そして苦笑の浮かぶ口元で香を…いや、女性という存在をヒシヒシと感じていたのだろう。そんなとき、空へ通じる道端に咲く、こんなしおたれた花こそ、たとえ寄り添う様に隣にあっても、高嶺の花と呼べるのかも知れない。
人恋しそうに、一輪だけで頭を垂れた花は、手折られることを望んでいるのだろうか。克は血の気の引いて行くのを誤魔化す様に、腰掛ける二人の間に、そっと左手を置いて、ほんの少しだけその身を預けた。
それが、思い込みや、思い違いの末に、克がたどり着いた場所だった…扉の外ではなく。
「それで、橋本はなんて答えたんだ。その、誰かさんに。」
そう口にしたとたん、力が抜けて、克の左手からしびれがとれていく。そんな自分が、どこか現金に感じられて、克の苦笑は広がっていった。
そして、香も『何が。』とは尋ね返さなかった。ただ、恥ずかしそうに、
「そういうこと、聞くのが遅くない。というか、ここまで引っ張ったら、いっそのこと忘れたことにして、そんな恥ずかしいこと言わせないでよね。…まぁ、お断りしたんだけどね。いろいろ、問題もあったし。」
そう言いきった香の表情は、声は、呆れた様な、どこか可笑しそうなものだった。
別に、ぎこちなさの晴れたこの時を、二人が『待ち望んでいた』、『切望していた』などとして、煽るつもりはない。それでも、待っていたのだろう。だから、克は、
「なんか、眼の前を通り過ぎられたようで、俺としてはもったいない気もするな。良かったのか、本当に。」
そう、なんの含むところもなく尋ねることが出来たし。香の方でも、この男にしては珍しく殊勝な態度であることに気付いたのか、別に気を悪くした風もなく、
「それは、私だって、自分の恋愛とか、そいうの、優先順位が低い訳じゃないけど。とにかく、今は、それどころじゃないだって。」
また、香に陰が射す。しかし、それは、どこか秘密めいた、ところどころで浮きたつような楽しさが見え隠れしている。だが、それは決して、香がその問題とやらを深刻にとらえていないからではあるまい。きっと、こんな風に、重荷を分け合える話し相手が居て、水を向けるその相手が、多少なりともそのことに関係しているから…そんな理由があったのだろう。それは克も解っている。
「ふぅーんっ、でっ、その問題って。」
解っているから、わざと気のないふうに先を促した。
何度目かの風が通り過ぎていく。二人の、閉塞感を突き破る様に延ばされた足を撫で、肩に圧し掛かっていたはずの重苦しさを引き剥がしていくように、涼やかな風が通り過ぎていく。…風は何も言い残さなかった。
だから、幾分軽くなったかのようにすら感じる肩を横目で見ながら、
(これは、俺にもう少しここで大人しくしとけってことかね。なんとも、小煩い風が吹いてるな、今日は。)
と、そんなふうに考えた克は、罰当たりなのだろう。
(2)
「本田は覚えてるでしょ、前に、佑子が風邪引いて学校を早退した日のこと。その次の日の、ことなんだけど…私見たんだよね。佑子が私の家の裏の、お祖母ちゃんの診療所から出て来るのを。それで…それが、ジャージ姿だったのね…。」
瞬間、留め金が外れたように、克の義足の踵が軽快な音をたてて一段下へと滑り落ちた。
「ちょっ、脚、大丈夫だった、本田。」
「あっ、あぁ、大丈夫、大丈夫。」
慌てているとはいえ、聞かれていたことをオウム返しとはこの男らしくもない。この際、香が克の左の脚の事情について、良く心得てくれていたのが幸いした。
いかにも焦っていますと言わんばかりに、義足の脚を綱引きでもするように引き寄せた克の挙動不審な態度も、香にはそれほど不自然態度だと思われなかった様だ。あるいは、香にとっては克とはそんな奴だという印象があって、だとしたら、克にとっては大問題かもしれないが…いや、そんなことは、今となって瑣末な問題だろう…香が投じた爆弾に比べたら。
克は呼吸を整える様に、小さく鼻から息を吐き出して、
「でっ。」
と、それだけ言いきって、ようやく新鮮な空気を肺へと流しこんだ。その空気と一緒に、どこか胸苦しい違和感を吸い込みながら…。
香は克の方を不思議そうに見つめながら、
「『でっ。』って、何が。」
克も意外そうな顔をして、
「いや、だからさぁ、先を続けろよ。」
そう言われて香は困った様に微笑んで、
「うぅん、続けろと言われても困るんだけどなぁ。」
「なんだよ、それだけなのか。」
…どういうことだろうか。あるいは、この階段のてっぺんで、香が満を持して放り投げたかに思えたこの爆弾は、不発弾だったのだろうか。香は指を絡め、手頸を返して腕を前に突き出して、柔軟を続けている。それでも、克はそんなうち寛いだ香を、もの問いたげな目で待ち続けていた。…どうやら、この爆弾には、続きがあるらしい。
「続きっていうか…足りないところの補足ってことになるんだけどね。」
指を解いて、少し重そうだった腕を下ろした香が呟く。自分の義足の膝を掴んでいた克の左手も、スッと引いて行った。
「佑子を見たのは、もう暗くなってからなんだけど。佑子、なんか、疲れた様な顔っていうか…それは、風邪引いてるんだし、おかしなことじゃないのかも知れないけれど…私にはそれだけに見えなくって。どこか、悲しそうっていうか…ううん、そう言うのじゃないかな。多分、その…佑子の顔が、心細そうに見えたんだ。」
香は心苦しそうに、そして、彼女の方こそ傍目には心細そうに見える陰鬱な表情で話した。
そして克は、あの日、自分が寝こけている間に、佑子がどのようにして橋本医院を後にしたのか知ったのだ。
一人、薬袋を白い手に弱々しく携えて家路を歩む、佑子。そんな、写真のような空想を幾重にも重ねながら、克の言いようのない違和感は膨らんでいく…。
「心配だったから、ちゃんと家まで帰れるか…だから、私、あの娘の後を付いていったんだ。黙って。…声、掛けづらかったから。…あっ、別に、それから何か変な事があったとかじゃないんだけどね。結局、佑子、ちゃんと真っ直ぐに帰ったから…。」
克と同じ様な目で、香もまた、写真の束を一枚一枚確かめる様に言葉を継いだ。
また、克の心中で違和感が膨らむ。しかし、今度ばかりは克にも心当たりがあった…克は自覚していた…ほんの少し前まで、自分は佑子のことをすっかり忘れていたのだ。おそらく、この階段に腰かけたときから…つまりこれは、彼女の思い出したことによって引き摺られてきた一種の罪悪感。『あの日』から長い尾を引いた…。そして、先の事を考えることで芽生える、漠然とした不安も…
(こんなこと、篠原と二人でいるときには、考えもしないのにな。…まっ、あいつは、笑っているときの方が多いからな…。)
そんな克の葛藤を知ってか知らずか、香はともすれば繰り言になりがちな言葉を続ける。
「本当、最近の佑子…あの娘のこと、私、解らなくなってきて…今まで、小学生の時からずっと見てきた佑子と、何か、少しずつイメージがずれていってる様な…そうしたら、昨日までのことじわじわ否定されている様な気がして…。」
言葉に詰まった香の目は、暗がりのこの場所でも、克には潤んで見えた。
爆弾の安全ピンを弄ぶような香の恨み節は、さらにこぶしを強めて、
「髪を伸ばしたこともそう。石川と付き合ったことも…それで、何にが何だか解らない内に別れてみたり…私、最後まで、一言も相談されなかった…それは、まったく見ず知らずの相手って訳じゃ無いのは知っているけど…。」
と、そこで克の怪訝な表情に気付いて、香は克から目線を逸らした。香は、『悪いことした』という程でないにしろ、どこか後ろめたそうにしている。勢い、克も立ち入っていくことは出来なかった。
「隠し事が増えるって、こういう事なのかな…。」
克の思惑を遮る様に、どこか鞭で打ちつけてくるような語気を感じさせる、香の言葉。克は追い討ちを掛けられて、あるいは急き立てられるように、息を飲んだ。…が、この男、そうそう屈して、さらに香の愚痴百篇、雨霰を受け続けてやろうと言う気はさらさらないようだ。
香の舌使いが伏している間に、早くも気付いた何かを口にしようとしている。…まっ、辛い言葉を吐きだし続ける香のことを、多少は慮ったということもあったのかも知れないが…。
兎に角、克はどこか毅然として口を開く。
「まぁ、俺と橋本じゃ、立場が違うのは知っているけどな。それでも、あえて言うなら…仮初にも、俺なんかと比較されたからって怒らないで欲しいんだけどな…。」
と、同意を求める克の視線に、香は小さく頷いて応えた。…克は細心の注意を払わねばならない。今、克がそうしているように、緊張感に清艶さのました香の容貌を凝視するまでもなく、そのしなやかな指はまだ、安全ピンに掛っているのだろうから…。
克は唾を飲み込んで、十分に舌の動きに余裕を持たせてから、
「俺も橋本と同じで、相談云々ってことならされてないよ。知ったのは、食堂で直接、篠原に引導を渡された、あれの、ほんの少し前だったくらいだからな。…橋本は、篠原と知り合ってまだ日の浅い、俺なんかにこんなこと言われれば、気を悪くするかもしれないけどな。おまえ、そのことが知りたくって、わざわざ俺を引きとめたり、愚痴ってみたりしたんだろ。」
「…。」
克は、答えの返らない香にも、満足したように微笑み返して、
「まっ、そういう訳で、このまま橋本の言いだすに任せていたら、埒明かないかな…っと、思ったもんだから。ここは、強引だったかなとも思ったんだけどな、あえて俺の方から切り出したわけだ。もう、結構暗くなってきてることもあるし…。そういうことだから、もし、俺の独り合点の恥じの上塗りだったら、悪かったな。重ねて謝っとく。」
タイミングを見計らったように、乾いた音を立てて、ずいぶんと使い込まれていそうな蛍光灯に灯が入れられる。やや黄色がかった、温かみのある光が香を包む様に照らし出し、克は再び陰影から香の瞳を鋭く見据えた。
「それにな、橋本。隠し事ってことを言うなら、俺たちにもあるだろ。少なくとも、俺は、橋本とこんな話を暗くなるまでしてたなんて、とてもじゃないけど篠原には話せんな。言っても、気を悪くするだけだろうからな。自分の居ないところで、自分をネタに、ああだこうだと議論を尽くされたなんてな。勿論、俺にしても、どちらさま方が、いずこで俺をネタに話弾ませてたなんてこと、知りたくもないしな。」
と、そこまで酔っ払っているかのように勢いよく捲くし立てておいて、ハタと、
「いや、言い過ぎだったな。許してくれ。調子にのって、余計なことまで言ったよな。俺の方が愚痴ったら、いったい何してんのか、さっぱり解んなくるからな。…責めるつもりは、無かったんだ、偉そうなこといって悪かった。」
そういって、克は居住まいを正すと、香に頭を下げた。…その頭が上がる刹那、目に映る香の顔…なるほど、どんな男でも、こんな表情の女の顔を見たら、酔いなど一発で冷めてしまうだろう。…悲しそうで、どこか気丈な…。
薄汚れたカバーの奥で、蛍光灯のフィラメントがプツンプツンという音を立てている。それはまるで、まどろみにいる誰かが、寝ボケながらも惰性で仕事を続ける様に、二人の腰掛ける階段を強く、そして淡く、光りは照らし続けた。
香が乾ききった唇をようやく動かしたのは、克が、いつ眠りに落ちるのか知れたものでない蛍光灯を、頼りなさそうに見上げた、まさにその時だった。
「隠し事って…それは私から言いだしたんだっけ…でも、何か可笑しいね。二人してずいぶん変な言葉のキャッチボールしてる。だけど、私、本田に押し付けるつもりなんて無いんだよ。その…言葉とか…それに…今の、もやもやしてる気持ちとか…だから…。」
香りが乾いた口の端から端へと舌を這わせる。そんな瞬間から目を離すことも許されずに、克は思った。『解っている』と、そんな風に気取って言えてしまえばどんなに楽か…しかし、そんな言葉を吐けるほどには自分は大人ではないのではない。第一、自分は香や、裕子のことをどれ位知っているのだろうか。
(まっ、自慢げに口にした途端、どんな不利益を被るか解ったものじゃないからな。)
埒もない考えを打ち消すように浮かんだ皮肉は、克の頭に覆いかぶさっていた思考の帳を払いのけてくれた。だが、この男の、こういったどこか冷笑的な性質は、長所であろうことは勿論だが、短所であることもまた否めない…自嘲的な笑みが、口の端から漏れ出している。
「私、何か可笑しいこと言った。」
この場面で、克の側からのこの反応…香が不快に思ってもまったく不思議ではない。何せ、これは間違いなく期待を裏切る行為に当たる…まぁ、甘い言葉を期待していたなどという台詞は、たとえ香の唇が渇いたままであろうとも、口が裂けてもでないであろうから。
それにしても、この点に関しては、度々雲間に隠れるように光を弄ぶ、あの今夜の月のような蛍光灯の明りは公明正大だったといえだろう。香には克の、克には香の唇を読み取らせ、お互いにお互いの心情の端緒を掴ませる一助となった。…その結果、機嫌を損ねた者がいる…。それは全く問題ない。お互いに、相手の云わんとすることを、真実欲したとするならば…。
「いや、そうじゃなくって…んーっと、そうじゃないことも無いんだけどな…本当になっ…橋本の悩んでおることが詰らないことだとか思ってる訳じゃないんだ…それは、俺にとっても共通の問題だから…。」
克本人も流石に気付く。少し口が軽すぎるんじゃないのかと、稔に佑子とのことを打ち明けてから気持ちのたがが緩んできているのではないかと…しかし、それは正しいのだろうか。もし、今日のこの時を逃して…こうして二人が隣り合って階段に腰掛け、脚を取られぬように同じ段を踏みつけ、同じ方向から照らす灯りを頼りに、そうしてお互いを見つめている。…こんな機会でなければ、果たして克はこんなにもうちくつろいで、本心を言えただろうか…いや、そうではなかったろう…。
今は、二人には見ることが出来ないだろうが、薄墨をこぼした様な空には、ぼんやりとした星が並び始める。その隙間を縫って、二人が知らず知らずの内に、風が階下へと流れを変える。
冷たさを増した風を頬に受けて、克は気付いた香が本心の言葉だけを求めていることを、それがどんな些細な発言であっても…たぶん、そんな率直さが自分の迂闊さに拍車を掛けているのだと…そうして可笑しくなって、克の口元はまた緩んだ。そんな緩んだ唇を動かして、
「何が可笑しいって、その問題がって言うかな。橋本が俺くらいにしか相談出来なかったのと同じで、俺も、考えてみれば橋本くらいしか、こういうこと相談できる相手が居ないなって思って。…猪山は、ほら、あの通り頼られることはあっても頼りがいの方は…ちょっとな。」
克はそこまで言うと、香に同意を求めるように微笑んで見せた。香は、しかし、克のそんな笑い顔につり込まれてやるにはまだまだと言いたげに、そしてどこか物問いた気な表情を持て余している。
それでも笑顔はすごい、こんな煮詰まりきらない空気でも丸めこんでしまう包容力がある。克はきっとそんな香が、そして香と共通の話題に悩む自分が可笑しかったのだろう。また、朗らかに笑って見せると、
「そうは言っても、俺も恋愛経験の量じゃ猪山と変わらないだろうけどな。」
あくまでも、面白く、可笑しそうに話す、克。そんな克に、それにたぶん香自身に…どこか呆れたように、そして、肩の荷が軽くなったかのようの小さく息を漏らした。
「そう言えば、私も経験豊富って訳じゃなかったっけ…てっ、あぁもう、折角、忘れ掛けてたのに、また思い出しちゃったじゃない。」
伏せた顔を両手で隠して、香が苦悶の声を漏らす。反して、いつもの飄々とした様子が戻りつつある克は、
「あん、篠原のことじゃないのか。」
「ううん、そうじゃないけど。」
「けど…。」
「別に良いでしょ。私だって佑子の事ばかりに、頭使ってる訳にはいかないんだから。」
「というと、定期試験の事か。自身ないのか、お前。」
「そのことは、ない…とは、言えないけれど。…あっ。」
香は、何かを思い出したかのように顔を克の方へと、そして、もじもじと繰り言になりつつあった弁解を止めて、
「もう少しして…私の気が済んだら…試験勉強の事で話があるから、心して置くように。」
「おっ、おう…。」
そう言うと、ジロリと指の隙間から克をねめつけたあと…やっぱり、また、跡度も無い羞恥心という言葉の荒野を彷徨う様に顔を伏せた。
そういう訳だから、勢い、香の百面相ぶりにちょっと面喰った様子の克が言葉をついで、
「橋本、話しづらいことなら無理して言わなくても…言った通り、俺だってあんまりお前と変わらないから…と言うか、さっきまでの深刻さを感じないんだけど…いや、別に茶化そうとしてるんじゃなくって、もしなんだったら、憂鬱な話題は後回しにして…ほら、試験勉強の話。それから、さきに話したらどうだ。」
香はマスクのように顔に吸いついていた両手から、少しだけ顔を浮かせて、
「憂鬱って言えば憂鬱だけど。後回しにする程のことじゃない…っていうか、もう、一回話題に上ってるし…。むしろ、変に気を使われる方が嫌だし。」
「『気を使う』って…だから、何度も言うけど、俺も橋本と同じでよく解ってないんだって。同じく、篠原に翻弄されて、五里霧中…。」
「そうじゃなくて。」
克の軽口に喰って掛るような香の語気。遮られた克は…完全に当てが外れたばかりに、キョトンとした顔している。如何にも解っているという自信を覗かせていただけに…なんとなく、良い気味である。
だから、この時の克が『しまった』とか、『ちょっと後ろめたい』といった表情をしていたことは、何ら不自然ではない。しかし、香の面にちらりと浮かんだ色はどうだろう。それは、『気まずい』とか、『後ろめたい』といった、派手ではないが、淡くとも心に残る色だった…。
克が星さえ朧気に浸るこの薄暗がりで、そんな、淡やかに揺らいだ表情の変化を見てとれたということはまずないだろう。つまり、克がすれ違いざまに香の本心に指先なりと触れたのは、たぶん偶然である…憎ったらしいことに…。
「なんだよ。そうじゃないとか、これじゃないとか、橋本らしくないな。…そうだな、後、俺と同じようなこと考えているとすると…あれか、橋本も、何か、篠原に後ろめたいことがあるとか。そういうことか。」
…賢明な読者諸兄ならお分かりのことと思うが、克が『後ろめたい』などという言葉を弄したのは勿論わざとである。『橋本も』、『後ろめたい』などと当事者の耳には嫌でも引っかかりそうな文句をあえて選んで、意図的に香に、『なんだ、貴様には、篠原佑子女史に申訳のたたぬ議、これあるのか。』といった類の返答を要請していたのである。
克本人も、こんな話の最中である、その無遠慮な手が香の琴線をかすめもしないとは思っていなかったろう。しかも、どちらかと言えば、香に攻め込む隙を与えるような物言い…そういう訳で克も、まさか握手を求めるくらいの気安さで差し出したその手が、その指先が、香の堪忍袋の緒に引っかかったなどとは露ほどにも思わなかった。…その時の克の表情も、繊細さでは香のそれに百歩も、千歩も及ばないが、なかなかの見ものであった。
「本田が、悪いんでしょ。」
明らかに、さっきまでの会話とはかけ離れた声量。克はまず、階段ごと二人をすっぽり包む三方の内壁を反響する、香の怒声…というと慎みに掛けるようだが…それに驚かされた。…慮外のことにアホ見たいな顔で固まるのも、本日二度目ともなれば、流石に堂に入ったものである。
香はそんな克の素っ頓狂な顔がなお不満だったのだろうか、ギュッと眉根を寄せると、
「本田が変な気を使い方するから、私だって居たたまれなくなって。いつの間にか、話そらす羽目になったんでしょうが。」
「居たたまれなくなった…って、ここに、座れって言ったの、橋本だろ…。」
「うるさい。解ってるわよ、そんなこと。私はただ…。」
そこまで言って、香はどこか悔しそうに唇を噛んだ。赤い唇に食い入る小さく白い歯を見つめながら、克は案外と冷静に、どこか値踏みするような顔をしている。確かに、今の香には、憤慨しているというよりも、『だだをこねている』という印象の方が強いかもしれない…。
櫛の歯のような引き戸のサンを擦りながら、熱を失った風が二人の背後から流れ込んで来る。そんな自然現象に一々教えてもらうまでも無く、感情はいつまでものとがり切っては居られないものだ。
急に持ち上がった香の苛立ちの水位も、徐々に下がってきたようだ。
「ただ…。」
間違いなく憤っていたときの自分の心情をなぞる様に、視線のやり場を、怒りのやり場であったはずの相手の方に求めながら、再度同じ言葉を呟く。しかし、またしても言葉は続かない。視線は的は、そっちもそっちで、
「ただ…、自分から相手を、玉砕用の壁に突き出したような恋路でも、腫れ物に触る様に扱ってほしくはなかった…とか。」
という、狙い澄ましたように、香の瞳に飛び込んだ克らしい人の悪そうな笑みに、
「…そうよ。解ってるんだったら…そうしたら、私、佑子のこと…まるでダシにしたような話し方しなくてもよかったのに…。」
そう、克に応じて、苦々しそうに唇をへの字に結ぶ。
そんな罰の悪そうな表情の香に、
「そっか、変だなと思ったんだ。」
克はどこからあっけらかんとして、でもどこか安心したように呟いた。
…ここまで、一進一退の攻防…っと、色気を全く度外視すれば言うことができるだろう。相手の言葉に、お互いが一喜一憂していた。だから、香が、克の言葉を聞き終えたとき、どこか嬉しそうな表情を見せたのも…たぶん、そういうことだったのだろう…。
「にしても…なんだ、橋本は茶化して欲しかったのか。それならそうと、言葉にするのが憚れたんだとしても、意味深な感じでニヤニヤしててくれればなぁ。そうしたらこっちも、たちどころに勘付いて…『橋本に振られて、階段転げるようにして逃げたのはどこのどいつですか。』とか、『やっぱり告白は、相手の男子が橋本を見上げるように、高らかに歌い上げたのか。ロミオとジュリエットみたく。」とか…。」
「まっ、もうその辺にしときな。」
香はなぜかニヒルな笑いを克に向ける。そういう曖昧な態度がこの男を調子に乗らせることが、まだ解ってはいないのだろうか。
克は克で、つい先程まではほどほどに香のことを気遣っていたはずだが、
「ずいぶんと、お早い満足だな。それにしても、こんな軽いお触り程度の文句で良かったんだったら、尻込みしてないで、ちゃちゃっと催促してくれれば良かったのにな。」
と、聞かれてもいないのに、まるで『自分もそうだった』と言わんばかりの口ぶりで香に水を向ける。…不思議だ。
しかし、そんな不思議な克の態度にも、不思議と、香は微塵の違和感をも匂わせず応じる。
「お触りとか、催促とか…人の事、セクハラおやじみたいに言わないでくれる。」
克はこれぞ格好の攻め所とばかりに、間髪入れずに、
「この場合、おやじに相当する役所は、むしろ俺の方じゃないか。橋本、人の話はちゃんと聞けよな。じゃないと、お互い恥ずかしい思いまでして話をここまで持ってきた甲斐がないだろ。」
「…あんたが、いつ恥かいたってのよ…。」
まるで焦点を絞る様に眼を細めて、香は白けたような、探るような面持ちで克を見つめる。そんな香のお眼鏡に対して、克は一体どのような対処を見せたのだろうか…極論すれば、普段のこいつのあり様を思い浮かべて頂ければ間違いない…。
克は照れたように微かに唇を開いて、如何にもという言葉が着いて回る鷹揚さで後ろ髪をつるりと撫でると、
「いやーっ、こういったことに慣れっこの橋本さんには、何てこと無いことなんだろうけど、俺にとっては、こうしてお前の隣に座って居るだけでも、結構、重労働…もとい、照れくさいんだよね。」
つくり笑いにしては、まぁ、上出来な部類に入るだろうか。しかし、口からトイレットペーパー程の気安さで引き出される言葉は、そのものずばりペラペラである。…極めつけに、惚けたような無表情でコテンッと小首を傾げて見せたさまは…言われたことを巻き取り、回収する方のことを微塵も考えていない…というより、その舌先三寸で舐め切っている…と、あるいは克が最初からこんな態度をとっていたら、思われたかもしれない。そう考えれば、ここまでの堂々廻りも、案外、満更でもなかったのかもしれない。
…ところで、断わっておくが、決して著者に克のおふざけ正当化するつもりはない。勿論、
「あんたさぁ、その手の冗談は、ちゃんと時と場合を選んで言わないと、いつか痛い目見るよ。…その、そんなのでも、勘違いする娘がいるかもしれないし…。」
そう、香が物申したのも至極当然のことだったと思う。加えて、
「あれ、もしかして、誰かさんはこんな感じで橋本に告ったのか。だとしたら、なかなか勇猛果敢だよな。…今さらだけど、やっぱりそいつの名前教えてくれないか。」
などと口を滑らせた克を忌々しくも感じている。
だから、克が左の腿を強くつねり上げられたことも、もっともな事だと納得している。
「いってっ。」
そう、鋭い声を発しながらも、香の手を払いのけることの出来なかった、克。克が声を上げた途端に、さっと手を引いた、香。
「馬鹿なことばっかり言うからだよ。」
「ペナルティがあるなら、先に言っとけよな。」
「あれっ、直接口を塞ぎに言った方が良かったかしら。」
「怖っ…怖いから、今は、橋本の手癖の良さに感謝しています。」
「本当に…口の減らない…。」
香がまた唇を舐める。
克の目線は、香の言葉から逃げるように、左の腿に添えられた、香よりもずいぶん大きな自分の手に向けられた。
まだ残る、膝の付け根から下には消して伝わることのない痛みは、異性がこうして手の届くところに居ることを強く意識させる。
…こうしている今、香の存在感と、和らいでいく痛みの狭間で…佑子が自分を、こうしている瞬間も待っている…克はそう強く意識させられた。…それを知ったら、香はどう思うだろうか…。
やおら立ち上がった克の左脚に、下へ下へと続いている、階段の無機質な冷たさが這い上っていた。
(3)
克は最上段に身を預けるようにこちらを振り向いた香に背を向けると、ゆっくりと屋上へと続く扉をしめた。途切れ途切れに聞こえる、引っ掻くような、悲鳴のような引き戸の金切り声に、香は少しだけ顔をしかめる。
「そろそろ、帰ろうか。」
振り向いた克の声は、風が止んだせいか、さきほどまでとはどこか違って聞こえる。香は克から顔を背ける様に、再び階下を見下ろすと、
「そうだね。」
それだけ小さく答えると、吹っ切れたように立ちがった。
「私、これからバイトなんだけど、当然送ってくれるよね、本田。」
香は克に自分の鞄を差し出して、顔でも微笑みで当然であると主張して見せる。克は…とりあえず不承不承と言いたげに鞄を摘まむようにして受け取ると、
「駄目もとで言うけど、俺、人を待たせてるかも知れないんだよなぁ。鞄持ちの光栄は別の日に譲れないかなぁ。」
と、歯切れよく言いながらも、克は自分の鞄を空いた左手でつかみ上げる。香はそんな克の動きに目を働かせながら、
「何それ、待たせてるのって、もしかして本田の彼女。」
「まぁ、さっきまでの会話の内容を思えば、考えがそっちに脱線しがちになるのも無理からぬことだけど…俺としても残念ながら、そういうことはないから。」
「だったら、こっちを優先してくれても良いんじゃない。それ以前に、あんた…その待たせてるかも知れない人に胸を張って言える訳、『貴方のために、いたいけな女子高生が一人夜道を歩くのをほっておいて帰りました。』って。」
「それを言われると、弱いなぁ。」
「って、案外素直ね。もっとごねるかと思ったのに…ちょっと拍子抜けした…。」
「しょうがないかな。何せ、聞き様によっては告白したかもしれない相手な訳だからな、橋本は。」
皮肉めいた笑み浮かべて階段を下り始める、克。香は勝ち誇ったように、満足げに鼻を鳴らしてから、思い出したように、
「あっ、待って本田、忘れないうちに言っとく。」
克が右足を一つ下の段に掛けたままの姿で香を振り向く。
香は克の目線の高さまで階段を下ると、ポケットから折りたたんだ紙を取り出して、
「あっ、あぁ…。」
香は克の両手が塞がっているのに気づいて、四つ折りの紙を広げると、額に張り付けるのかと問いたくなるほどの勢いで克の目の前に突き出した。…白い藁半紙の上に、箇条書きの要領で文字が規則正しく並んでいるところを見ると、どうやらこれは何かのチラシのようである。
「そういう訳だから、約束を果たしてもらうためにも、本田はぜひ参加してね。」
克は身をそらして、チラシから少し距離をとると、馴染みの胡散臭そうな目付きで香を盗み見る。そうしてからやっとのことで面前の文字に目を走らせる。
「悪い、暗がりだからよく見えないは…また今度、機会があったらゆっくり話を聞くから…時間の都合がつくときに…。」
だが、観念はしていなかったようだ。
香はチラシをヒラヒラと揺らしながら、
「いや、そういうの、受け付けてないから。それに、こんな紙いくらでもあるから、あとでファミレスででも読んでよ。」
克は目線を反らし、舌打ちして、
「やっぱり、橋本は猪山よりも上手だな。」
「そういう台詞は、まともな言い訳をのたまってからおっしゃるのね。」
克には、香が自分の胸ポケットにチラシを押し込むのを大人しく見守るよりなかった。…指を咥えようにも、両手にそんな余裕はないこともあるから…。
そんな二人のやり取りに間にも、克の暗がりと言う物言いに不平でもあるのか、蛍光灯はブツンブツンという耳障りな音を立てて、ときより、夜を招き入れた。
(猪山の言ってた『利子』って、つまりはこういうことかよ…曖昧な警告だけで済ませやがって、本当に先輩思いの後輩だこと。…あぁっ、そう言えば、あいつのことだから、知ったら俺が喜ぶとか思ってるってこともありえるのか…はぁっ…。)
そんな後輩分析に浸る克の心中を知ってか、知らずか、香はいたわる様に、励ますように声を掛ける。
「そんな心配しなくても、確かにアウトドア部の合宿には違いないけど、目的はあくまで試験勉強だから。この前とは違って、料理も全部橋本先生がしてくれるし。ペンションにはちゃんとエアコンもあるから…ただ、山の中だからちょっと虫が多いんだけど、そのことさえ気にしなければ…でも、捗るよ。ああいう、空気の綺麗なとこで勉強すると。ねっ、稔のこと…それに私のことも助けると思ってさ。お願い。」
強気にでていると見えて、その実かなり気を使っている…そんな香らしい態度で切々と説かれたならば、誰だって、今の克のようにため息交じり笑って見せるしか無かったろう。
幾分必死さ入り混じる香の様子に、今度は、克がねぎらうような優しげな顔をする。
「ずるいよなぁ、こういう場面では、ちゃんと橋本らしく振舞うんだから。」
そこには何の毒気も無かったのだが、真剣な香にはそういうのも受け付けられないらしく、
「えっと、もし私の言い方に気に障ったんだったら謝るから、だから…。」
「絶対一緒に行かなきゃね、本田。」
このまま延々と続くのかと思われた時間、階段の途上に居る二人は、突然割り込んできた声へと同時に顔を向けた。
「こんなに香が頼んでるんだし。きっと、猪山さんだって本田に勉強見て貰うのを楽しみにしてるよ。…それに私も、本田が居てくれると心強い…かな。」
篠原佑子…二人は、それぞれのいつもの呼び方で、心の中で彼女の名前を呟いた。
佑子は自分の言葉を受けても、今だ、無言の二人に少し不思議そうな、そうして困ったような笑顔を浮かべる。
その大きく黒い瞳は、克がこの場に来てどれだけの時間が経ったのか、それすらも忘れてしまいそうなほど、玲瓏として…階下の踊り場から二人を見つめている。そんな佑子の瞳を真下において、今の今までこの場の光と闇を自由にしていた蛍光灯も、気おくれしてか、少し鳴りを潜めたようにも感じられる。
二人の瞑目に痺れを切らしたのか、佑子が細い手首に巻いた腕時計に目を遣る。
「ところでさぁ、香、大丈夫なの、バイト。」
「あっ、そうだった…。」
それが合図となって、再びこの場の時が動き出す。
「当然、私たちのこと送ってくれるよね、本田。」
「あっ、あぁ、そのつもりだ。」
二人して、佑子に同じような答えを返すのが精一杯。
佑子は、それに対して、大した反応を示さずに、
「それじゃ、急ごっか。」
そう言って、灯りさえも不安そうな暗がりを足早に降りて行った。
(悩みの種は尽きないな…でも、まっ、差し当たっては…。)
克は自分を鼓舞すると、
「橋本、俺たちも急ごうか。」
と、香を促した。
香は操り糸に引かれた人形のように、笑顔で小気味よく頷いてから、
「本田…。」
瞳を伏せて、
「私もあんたと一緒に行けるの…期待してるから。」
それだけ言って、香は克の手から自分の鞄を引っ手繰ると、佑子の後を追って駆け出して行った。




