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第二十九話

(1)

 そして話は六日後に戻る。克はテーブルに肘をついて、フォークでベーコンを突きながら、目の前にした二人前はゆうにありそうなスクランブルエッグを…もとい、スクランブルエッグの乗った皿を鷲掴みにしている佑子を眺めた。克がたんたんとベーコンに穴を穿っている間に、佑子は皿ごとスクランブルエッグを口元へと運ぶと、黙々と黄色い塊を喉の奥へと掻き込んでいく。そして一息…なぜか食べ方の豪快さの割に減りが少ないように思えるのは気のせいか…。

 克は体重を預ける様にテーブルに頬杖を付くと、

「篠原…。」

「あげないからね。」

打てば響く様な佑子の反応に、克は投げ出す様にスプーンを指の間で滑らした。

 スプーンの柄が皿を擦る様に叩く音。その澄んだ音に小さな静寂が生まれる…。それでも佑子には一向にテーブルの上にスクランブルエッグを返す気はないようだ。

 …克がスクランブルエッグをフライパンに残して、トーストやベーコン、それにサラダの入ったブドウの房と蔦をモチーフにしたガラスの小鉢を雑然とテーブルへと並べていると…いいや、これはあえて彼の名誉のために付け加えておこう。たしかに、二人分の料理を広げるだけで精一杯の小さなテーブルの上、どの皿がいったい誰の席へと運ばれたものかも定かでない様は、多少は乱雑な配置に見える。しかし、それとも言うのも、今日の朝食のメインディッシュ、本田克シェフ入魂のスクランブルエッグが欠けているため。言うなればこれすらも主役の登場を待望する一種の演出…そんなふうに考えるならば、きっと貴方にもこの台本の無い舞台の上にぽっかりと、主賓の舞い降りるスペースが用意されていることに気付くだろう…そう、大雑把に言えば、皿二枚分ほど…。

 監督はさらに手際よく、左手に持ったフォークを二本、両方の舞台袖に配置。

そして、右手に持った香ばしく波立つコーヒーを、端役を押しのける様にして送り出した。さぁ、後は相応しい主役を抜擢するだけ…そう振り返る調子もよく、克の見たものは…さっさと、フライパンの中身を大皿に盛って、クッションの上に脚を崩す佑子の姿だった…まぁ、すべからく、物語とは観客の作り出すものですから…。

 佑子はスクランブルエッグの広がる皿を離そうともせずに、コーヒーを啜る。そして顔を少し顰めた。どうやらミルクを入れる余裕すら克は与えてくれなかったらしい。

 克は義足の左足の上に右足を乗せた独特の胡坐をかいている。彼の姿勢がやや左に傾いているのはその所為だろう。

 「なぁ篠原…。」

克は、佑子の後ろ…ベッドの足元に出来た気の早い陽だまりを見つめながら、再度、佑子に呼びかける。佑子は黒い瞳を動かして克を見る…克が自分を見ていないことを確認すると、さらにマグカップの傾斜を深めた。

 克は頬杖突いた手で左目を擦る。

 「合い鍵のことだけどな。」

唐突な克の言葉に、佑子の目線が持ち上がる。いつの間にか自分を見ていた克の瞳。二人の視線が、マグカップの白い局面を底にして重なった。

 「返してくれ…というと語弊があるか。だから、こっちで処分するから、とりあえず渡してくれってとこだな。でっ、手数料とかって入用か。」

 口調ほどには砕けていない顔の、克。佑子はマグカップを噛みしめる様なままで、

「いいよ。」

佑子は空になったマグカップをテーブルに戻すと、空いた手をグッと伸ばして鞄を引き寄せる。もう一方の手では、皿の上でスプーンが危ういステップを刻んでいる。そのことをどう思っているのか…克はどこか白けた様な顔でベーコンを口に運んだ。

 佑子の手がテーブルの上に鍵を乗せる。ずいぶんと丁寧に置いたように見えたが、金属製で出来たそれが、それに結わえられた藍色のトンボ玉が、透明な台座の上でいくつもの音を響かせる。

 佑子は克が『それ』に手を出さないことを確認すると、皿から飛び出したスプーンの柄を取ってから、言葉を次いだ。

 「どうぞ、同じ物がまだ有りますから。」

佑子はそんなものには全くもって興味がないといた風情…に見せようとしている積りだろう。視線を鍵から明後日の方向へと切り替えて、またスクランブルエッグを掻き込み始めた。克はほんの数瞬鍵に目線を落としてから、ようやく、どこかあどけなくも感じられる笑顔が生まれた。

 「なるほど、あの時、俺が返してくれってごねていた場合、篠原としてはそういう切り返し方をしたかったわけだ。ちょうど、そんな風に済ました顔して。」

佑子の動きが止まる。その面白くもなさそうな表情に、克は、

「コーヒー、お代りするか。」

意地の悪そうな歯を見せた。

 佑子は首を横に振って応える。その眼は克とテーブルの上の『それ』との間で彷徨っていた。そんな様子を見かねたから…そう言う訳ではないかも知れないが…克は佑子のため口を開く。

 「それで、合い鍵だけどな。やっぱり返さなくていいや。」

「いいのっ。」

驚いた佑子の声。そこには、疑問と驚きと、はぐらかされてなるものかと、そう決意した佑子の心の温度が感じられるようだった。

 克はそんな佑子を見ずに、『それ』を見つめたままで、

「あぁ、篠原に必要なくなる時が来るまで預かっといてくれ。そう言うことだから、悪いけど代金はそっち持ちってもことで。」

「う、うん。」

 どこか余所余所しい…いいや、はっきりと消極的だと言える克の態度に、佑子はふと不安を覚える。克は、

「そういうことだから…。」

と、言ったきりで、それから『それ』の方を見ることはなかった。そんな克に、佑子の手は何故か『それ』へと伸びることはなかった…。

 さて、鍵のことはこれでいい、一先ずはいだろう。しかし…このテーブルの上には、依然として片付いていない問題がある。そう…。

「ところで篠原さぁ。」

克の声がいつもの人を食った調子に戻ったことを敏感に察知して、佑子の頬に心地よい緊張感が走る。克も話終わる前から愉快そうに佑子を見つめる。

 「お前、持病あるくせに、卵料理の過剰摂取は不味いんじゃないか。ほれ、引き返すんならここだぞ、ほれ、ほれ。」

 克は可笑しそうにそう言うと、遠慮なく佑子に向って救いの手を差し出した。

佑子はどう見ても催促しているようにしか見えない『救いの手』から皿を死守する様に身体を捻る。

 「心配してくれてるなら、有難いですけど。いらぬお世話ですから。私、こういうことがあるかもって日頃から、食事には気を使っていますから。だから、これくらい食べたって平気なの。」

「そうかぁ。…でっ、『こういうこと』ってどういう場合の事なんだ。」

「だから…本田が折角、手料理をご馳走してくれた時とか…。」

「なるほど。まぁ、そういう滅多にないような場合はしょうがないよな。…ところで、俺の気の回し過ぎなのかも知れないけど…お前、なんか俺に気を使ってないか。」

「別に…そんな訳ないでしょ。だいたい、どうして私が本田に気を使わなきゃならないの…。」

 佑子はそうぶつぶつと呟いてから、克がテーブルの上にしなだれる様に、相変わらず催促の手を緩めていないのに気付くと、その手をピシャリと叩いて追い返した。

 克はこれ見よがしに手を擦って、やり場を求める様にマグカップを掴み上げた。

 「まぁ、そんなもんかな。」

どうにも後を引く、克の意味ありげな文句。佑子が不満げに鼻を鳴らす。

 克は舌に絡み付くコーヒーの苦みを噛みしめる。

 「ところで、話は変わるけど、篠原…石川と別れたんだってな…。」

 克の不意打ちに、佑子はスクランブルエッグと空気を一息に飲み込む。克は苦しそうにせき込む佑子肩を見ながら、

「…悪い。」

そう謝罪とも、弁解とも付かない言葉を漏らした。佑子が肩を震わせるたびに、克の手元でマグカップの中のコーヒーが幾重にも波紋を重ねた。

 ようやく一心地ようだ。胸を手を当てた佑子が、大きく息をつく。…そう言えば、スクランブルエッグは…いつの間にか、主役は舞台の中央に陣取っている。克はその余白の多くなった大皿を眺めながら、何気なくマグカップをテーブルへと返した。

 「突然、どうして。」

佑子はテーブルの上にそっと手を乗せると、困ったような、どこか相手を労わる様に訪ね返した。克は佑子の瞳から逃げる様に…きっと、彼にはそんなつもりは微塵もなかったろうが…目を伏せ、眉間を指で擦って、

「突然…っや、俺にとっては、篠原が石川と別れたって聞いたのも、先週の金曜だったから。そうでもないんだけど…。そう言えば、こんな噂だれが広めたんだろうな。」

克はカーペットに手を付くと、のけ反って小さな息を吐く。テーブルの上、大皿の影に隠れる様に鍵が見える。

 佑子は瞼を少しだけ落して、薄く笑みを浮かべた。

 「それ、私だよ。友達に聞かれたから…石川には悪いとは思ったけど、別れたことまで話しちゃった。第一、隠すようなことでもないからね。」

 「それじゃあ…。」

克はその先を言わない。

 「うん。」

佑子も頷き、笑う…ただそれだけ。

 …これは…このことは二人にとって、いったい何だったのだろうか。単なる過去の出来事…あるいは、未解決のまま隠す様に先送りにした多くの障害…その内の一つなのか…それとも、二人にとって何の接点にもなりえない、個別の問題だったのか…そして、達雄にとってはどうだったのだろう…。ただ、一つだけ言えることがあるとすれば、それは…このことが何者であったか、何者だと二人がはっきりと断言したとき、この関係は…少なくとも、今の二人の関係は終わる…それだけは確かだろう。

 それでも自分自身では、一人では答えを持たないから…克は強張った頬を意識しながらも佑子を促した。

 「やっぱり、俺の所為か。」

回りくどい言い方の染みついた克らしくない問い。目の前に相手が居る…それなのに知らないことが、知らない時間があったときの特有の息苦しさが喉を締め付ける。そして、佑子もまた知らないことがある…。

 「違うよ。」

佑子も克と同じように、息苦しそうに、切なそうに顔を歪めていた。…例え目の前に居ても、自分の言葉を聞いた相手がどう感じるのか…それに自信を、覚悟を持てる日なんて、きっと一生来ないのだろう。

 克は佑子の真摯な微笑みにも、納得がいかない様に、

「そうかな…別に、俺の所為にしたいとか思わないし、むしろこんなこと聞くのは篠原にも、石川にも失礼なことだと思うよ…。でもな、やっぱりなんか不自然なんだよな。だからさっ、俺に気を使わずに言いたいことを…本当のところを話してくれ。そうしたら俺にも、やっておくべきことが何か解るだろうから…あくまで、篠原が『それ』を持ち歩くつもりなら…だけどな。」

 克は話が進むほどにいつもの飄々とした調子を取り戻していく…なるほど、こんな言葉を溜め込んでいた訳か…。佑子はこれを…克からの妥協以外の答えを、どう感じたのだろうか。

 「…なんだか、脅されてるみたい。」

佑子には克の言いた事が伝わったようだ。瞳はどこか寂しげに潤む…しかし口元は我知らず綻ぶ…佑子は試されているのだ。今までに、自分が克にそうして来たように…出会って間もない頃、お互いに好きな人が出来るまではと定めた、この不器用で、それでいて真っ直ぐな…そう丁度、この大皿のような二人の絆…それを明日の今頃、昨日のように続けて行けるのかを…。

 佑子の指先は、いつしか、『合い鍵』を手繰り寄せている。克はたっぷりと間をおいて、佑子に応えた。

 「そうでもしないと…篠原は俺に気を使ってる積りだろうけどな、いつまでたっても、肝心なことは話してくれないからな。」

「だから、私は別に本田に気を使ってるつもりありませんって。」

「どうだかな。まっ、どちらにしろ、俺としては何考えてるか解らない相手に、合い鍵を掴まれてるっていう状態は、ぞっとしないからな。多少強引にもなるかな。」

 克の満面の笑みを向けられて、佑子の頬が赤く染まる。佑子は何かを押さえつける様に胸に手を当てると、また、簡単な咳払いをして見せる。

 「まぁ、本田がそこまで言うのなら…私だって、無断でここに上がり込もうとは思わないから。」

克の小さな吐息が佑子を笑う。佑子の手には、しっかりと『それ』が握られていた…。

 「それに、それで、本田が自然でいられるって言うなら…私だって断然、その方がいいから…。」

佑子は思いつく限りの…ただし、自分の自尊心が保たれるギリギリの範囲で…克に訴える…私からの貴方への返事は、私の本心ですと…貴方が私にそうやって返事をしてくれたように…。

 克は黙って、佑子の言葉を待った。

 「…申し訳ないって思ったんだ、石川に…。私、あの日…その本田に…その…私の勘違いだったんだけど…だから、もちろん本田は全然気にすること無いんだけどね。…本田が私のこと…好きなんじゃないかって…だから、本田は私に…私、かってに告白されたような気になってて…そのことを否定されて…辛くて、辛くて、仕方無かった時に、思ったんだ。『あぁ、私、石川になんて酷いことしているんだろう…。』って…。それが、石川と別れた理由の全部だよ。」

 佑子の沈んだ瞳。克は労わる様に、そしてなぜかふざけた様子で、

「まっ、俺としては篠原に気を使われるのに慣れっこだからな。そういうことにしとくよ。」

そういうと克はフォークでスクランブルエッグをすくうと、滑らかにそれを口の中に運んだ。佑子は克のそんな反応に、どこか不思議そうに、そして当然心外そうに、

「私、気なんて使ってないって言ってるじゃない。それに、私、嘘付いてなんかないんだからね。」

「嘘付け…。」

克の言葉が佑子声を遮る。

 克は佑子のもの問いたげな瞳にも、少しの間を持って、優雅にフォークを皿に投げ出してから答えるのだった。

 「苦いな、これ…悪い、焦がしてたんだな、このスクランブルエッグ…。」

 二人の隙間を縫う様にベッドサイドを照らしていた朝の光は、どこか空の彼方へと消えていった。

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