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第二十六話

(1)

 その兆しが微塵もなかった…そう言いきれるほど克は傲慢でも、無知でも無かった…。

 だが、最初に克がその変化に気付いたのは、土曜日の朝六時…辺りはもう明け白み始めていた。

 いつものように、そう、それはいつもと寸分変わらない目覚めになるはずだった…まず、思い出したのは、佑子が泊まりに来ていること。次に、天井がいつもより高い理由…そうだ、ベッドは佑子に明け渡して、自分は布団を引いて寝ているのだ…そう言えば、なんとなく面倒になって、義足を外さないで眠っていたのだっけ…そうして克は、ごくごく自然に佑子の方を向いた。

 異常な状況はすでに…いや、多分、克が気付くよりずっと前から始まっていた。

 克の目線を滑らせた先、佑子がベッドの上で膝を抱えている。

「…篠原…もしかして、ずっと起きていたのか…。」

 克自身にも自分がなぜこんなことを聞いたのかは解らないうちに、克は佑子に尋ねていた。 明け方の薄明かりに浮き彫りにされた室内。よく見ると、うつ向いたまま口を噤んでいる佑子の眼の下には、似つかわしくないくまが出来あがっていた。

 克は、寝乱れの見当たらないベッドと、返事のないままの佑子の大きな瞳を交互に見比べてから、起き上がりに掛かった。掛け布団を払いのけて、床を押さえつける右手に掛る自分の体重…片脚のない克が起き上がるのには、ちょっとしたコツがいる。そう、それはいつもと寸分の変わらない起床…とっ、ここで克あることに気がつく。そうだ、今日は、今日だけは、いつもと変わらないわけがないのだ。それこそ、偶然では済まされないほどに…。

 克は慣れた感じで上半身を起こすと、ちょうど半分ほど、腰のところまで捲れていた掛け布団を勢いよく引っぺがした。…あるべき場所に、あるべきはずのものがない。

 克は可笑しそうに笑う佑子の声に、ハッとした顔を向ける。

 「やっと、気が付いた。」

 疲れの入り混じる顔で微笑む、佑子。克の視線は誰に言われるまでもなく、彼女が大切そうに抱きかかえる、自分の義足へと注がれていた。

 「取り外し方は、本田がやってるのを見ていたから、知ってたけど。いざやってみると、なかなか難しくって、本田が起きちゃうんじゃないかって冷や冷やしたよ。」

 身体に密着している左腕を伝って、克の耳の奥深くへと伝わる心臓の鼓動。徐々に熱くなる眉間とは逆に、乾ききった口の中は、喉の奥からの冷気によってゆっくりと冷めていく。佑子は言葉を発しない克を、潤んだ瞳で、かすれた笑顔で満たしていく…カーテンの隙間から入り込む朝焼けのように…。

 「解るよね、本田。これがどういうことか…。」

 佑子は頬をこすりつける様に、克から引きちぎった身体の一部を、一層強く抱きしめた。克には佑子の声が、佑子の存在が、この部屋中に溶けている薄闇のように希薄な存在に思えた。

 鈍く、ゆっくりとした心臓の音。佑子は泣き顔の様な笑みを克に向ける。

 「…行かないでね…。」

 何度目かの『警告』…克は震えるその声を、まる一日ぶりに反芻していた…。

(2)

 克が驚愕の寝醒めを体験してから、およそ3時間が経過している。香たちとの待ち合わせの時間まで、あと小一時間…克の部屋から学校までの距離を考えると、そろそろ出発する必要がある。

 克は近くの置時計に向けていた視線を佑子の方に移した。

 佑子は克の義足を小脇に抱えたまま、器用に二人分の朝食を用意して、片付ける。その作業を終えてから後は、またベッドの上から克をジッと見下ろす…それだけを必死の形相で遂行している。その呼吸は、心なしか、大きく、緩慢に感じられる。…で、克はというと…片足を掻いた状況では、佑子を手伝うことも、邪魔をすることも出来ない…よって、朝食を食べたときのまま、ただただテーブルに靠れかかって、落ち着かない様子で置時計を眺める。克にとっても甚だ口惜しいことだが、何と言われようと、彼にはそうするよりほかになかった。

 …そうそう、会話はといえば…克は自分の方を威嚇するように見つめる佑子の顔を盗み見ると、

「なぁ、いい加減に、返してくれないか。」

克に語りかけられた佑子は、どこか可笑しそうに口元を緩めると、

「本田こそ、いい加減に、香か、猪山さんに連絡しなよ。『今日は、行けなくなりました。』って…そしたら、返してあげるから…。」

…会話らしい会話と言えば、これの繰り返し…克としても、状況を打開するには、まったく新しい行動が必要となるところだろう…。

 克は大きく息を吸うと、佑子の方に眼をやった。少しやつれた様にも見える横顔。呼吸をするのも辛そうに、上体を揺すりながら、それでも身を固くして義足を一生懸命に守ろうとする、佑子。…風邪の看病されに来ていたはずが、これでは間違いなく悪化させてしまうだろう…克は腹の底から大きな溜息を吐いた。

 (あーあっ、昨日までは、篠原に弁当作ってもらって、橋本に大いに疑われ、猪山には大いに羨ましがられてやろうとか企んでいたのに…まったく、見事なまでに…いや、俺の目論見が杜撰すぎただけか…とにかく、当てが外れた訳か。しかし、篠原から、無理に義足を取り上げる気にならない…壊れられても困るからな…。それに、篠原に言われるがまま、予定をキャンセルする気もない…とくれば、これしかないか。)

 克は佑子の警戒感の入り混じった視線を意識しながら、右足を引きずってベッドに近づく。そうして、『取り戻されるものか』と緊張する佑子を尻目に、床に頬を擦りつけて、ベッドの下へと腕を突っ込んだ。

 そうして、克が何をしているのかを、覗きに近づこうか佑子が思案している間に、克はベッドの下から、1組の松葉杖を取り出した。

 ほんの二、三秒で、自分の頭の高さから、見上げるばかりに高くなった克の顔を、佑子はポカンとした顔で眺めていた。その表情は、信じられないものを見ている、そのもものの驚愕を表していた。

 克は佑子の見開かれた瞳に笑い掛けて、

「上手いもんだろ。普段は使わないけど、大学で義足外している時は大体これだからな。自然と使い方が身に付くんだ。」

 克は松葉杖でテーブルの周りを一周してみせた。語りかけるその笑みは、克の歩み同様、自慢気だが、たどたどしく、頼りなげに見えた。

 佑子そんな克の言葉を、様子を…聞こえていない訳でも、見えていない訳でもなかろうが…俯いて、ひたすらに強く義足を抱きしめるのだった。

 克はパジャマ姿の上に、ジャケットを危なっかしい足取りで身に付けると、

「松葉杖があると、パジャマ姿で公共の施設に出入りしても、あんまり白い目で見られないからなぁ。あっ、もちろん病院は論外ね。で、コンビニ行くときとかは返って便利かもな…坂道さえ無ければ…じゃあ、俺行くけど、ちゃんと食事はして、薬は飲んでおけよ。」

 「どうして…。」

 ジャケットのポケットに、財布を突っ込んだ克の背中に、佑子の声がベタリと塗り付けられる。克は振り返ることもせずに…

「どうして…かっ。それは、やっぱり、約束だし…それに、俺が居たら、お前、満足に寝ることも出来ないみたいだからな。」

「私まで、逃げ口上に利用しないでよ。」

 佑子は頑な言葉を選び続けた。克は松葉杖を操って、佑子の方を向く。

 「逃げ口上か…篠原には何でもお見通しだよな…いつも…。なぁ、お前本当は、何でも知ってるんだろ。だったら、『どうして』って、何なんだよ。解ってるくせに、『どうして』なんて聞くんだ。」

克の語気は荒い。おそらく、眠っている間に義足を奪われると言う事態は、彼を不安にさせるのに、十分な衝撃を与えたのであろう。…そうなることくらい解っていたのではないのか、佑子は克と比べても、心底不安がっているように見えた。

 「解んないよ…解んないから、私、こんなことしてるんじゃない…それは、本田だって解ってくれるでしょ。」

「俺に、お前の行動の何を解ってやれるっていうんだよ。…そう言えば、お前、俺の部屋に来る前、図書室で鍵を渡した時も同じようなこと言ってたよな…まるで、篠原の行動は、俺の責任。いや、お前は俺に望まれて、俺が望んだことをしている…俺にはお前が、そう言っているように聞こえた。」

 佑子は克の語りかけに応えて、背後の壁に寄り掛かる様に、頭を上げる。

 克はこちらを見つめる佑子の、深く黒い、出会ったころから褪せることのない瞳をガッチリと眼で捉えながら、

「言ってたっけな、『自信の表れ』だって…その自信は、いったい何に裏打ちされてるんだ。…教えてくれよ。いったい俺の何が、お前にそんなことをさせてるんだ。」

 言葉を一つ増やすたびに、大きく、抑揚の深くなる克の声。佑子は弱々しく、しかし、しっかりと眼を開いて克の問いに耳を傾けている。

 克が松葉杖を放り出す様にして、近くの椅子に腰かけた。佑子は、椅子の起こすギシギシとう音が止むのを待ってから、小さく、小さく、消え入りそうな声で呟いた。

 「…好きって言ったじゃない…。」

「んっ。」

聞き逃してしまった克をなじる様に、佑子は改めて、そしてなじる様に、

「…好きって言ったじゃない…私のこと。」

 固まる、克。とっ、身体を支える様に、壁にもたれていた右肘が滑った…克は鈍い音をさせて、背中から床へとダイブする…。

 「大丈夫、本田。」

 茫然と天井を見上げる克を、佑子はベッドから身を乗り出して見下ろした。

 克は、視界のど真ん中、天井との間にいきなり現れた佑子に、相変わらずのぼんやりした表情で見つめる。

 「俺、いつそんなこと言ったっけ…。」

力なく尋ねる克に、佑子はムッとした顔で、

「い、いつって…わ、忘れちゃったの、あんなにムードたっぷりだったのに。」

「でっ、この俺が、いつそんなこと言ったよ。」

克の平坦な声に、気圧されたように、佑子が

「…この前の遊園地の…観覧車に乗ったときだよ。」

 恥ずかしそうな言葉だけを残して、克の視界から佑子の顔が消える。克は、しばらく天井のシミを数えてから、鼻息を一つ漏らした。

 「やっぱり、言ってないよ、俺。」

ベッドの軋む音の後に、

「言ったよ。他ならぬ、私が聞いてるんだから…間違いないよ。」

「確かに俺は、『お前のことが好きだ』とは、一言も言ってない。」

 克は乾ききった声で、否定し続けた。そんな克に、佑子も一抹の不安を感じたのか、少しの間を許してから…拗ねた様な声で答えた。

 「だって、言ったじゃない。『焼ける』って…それに、『焼きもち焼いてる』って、私が聞いたら認めたじゃない。」

 克は佑子の答えに自嘲気味の笑みを漏らす。

 (なるほど…そうじゃないかとは思ったけど、やっぱり、気付かずに種を播きっぱなしにしたのは俺ってことか…。)

 克はスクッと起き上がると、どこか不安そうに自分を見つめる佑子に、

「そっか、篠原にはあれが告白に聞こえたのか。そうかそうか…まぁ、俺の言い方が悪かったのかも知れないけどなぁ。篠原、お前って結構、世間ずれの足りないところが、ちらほら見えたりするよな。そう言えば、自分でも認めたりもしてたっけな。」

 佑子は克の言葉の端々で、もの問いた気に顔を歪めた。だが、その悲痛な表情からは…いざ口を開いても、肝心の言葉が出てこない…そんな佑子の心の内が、透けて見えるようだ。

 恐怖か、あるいは一縷の望みがそうさせるのか…どちらにしても、佑子自身には心を引き裂くことが出来ないのであれば…克がやるより他にはないのだ…そうだ、もうずっと前から、克の腹は決まっていた…。

 「篠原…。」

克に呼びかけられて、佑子の体が小さく震えた。義足を押し抱く腕にも、力が籠もる。…克は構わずに続ける。

 「俺はお前のこと、確かに嫌いじゃないよ。…橋本に聞いたけど、俺の首を絞めたこととか、結構気にしてたらしいな。…まぁ、そんなことがあったけど、俺、別にお前のこと、鬱陶しいとか、嫌いだとは思わなかった。いや、お前みたいなタイプは、好きなんだと思う。」

 嫌っていない…好きだと思う…克のそんな言葉を聞いても、佑子の表情は険しいままだ…佑子にも解るのだ…克が直接的に自分を好きだと言うのを避けていることが…。

 …克はもう一度だけ、佑子に呼びかけた…。

「なぁ、篠原。お前、石川のことどう思ってる…嫌いじゃないよな。あいつの、人を好きになれる気持ちがすごいって言ってたよな。なにより、お前が嫌う理由が、あいつには無かった…それに尽きるんだろうけど…そういう意味では、好きな部類に入るかも知れない…違うかな。だよな、そうでもなければ、かりそめにも、俺が焼きもち焼いたりはしないって。…本当、実感したよ、気の合う奴が自分じゃない奴に気を使ってる…それが異性関係だと、割切れなかったりするんだなって…俺、そこら辺のことは、お前もよく解ってるんじゃないかと勘違いしてたから…だから、俺の自己嫌悪を共感してもらって、それでカラッと笑い飛ばしてもらいたい。そんなふうに思ってたのかも知れない。今から考えると、俺、最低なことしてたよな。お前に誤解までさせて…」

 「じゃ、じゃあ、あのときの、あの言葉は…。」

悲鳴を上げて、痛みを訴える様な、佑子の重く、そして深い声…。克はただ、頷き返す…。

克は深い溜息を吐く。そして、俯きがちだった姿勢を正すと、佑子を見つめる…。

 「俺は、同じだって思ってきた。それを、何でかな…今、強く思う。…俺がお前を思う気持ちって、同じなんだって…篠原が、石川を思う気持ちと…。」

 プツンという、緊張の糸が切れたように訪れる静寂…全てを語り終えた克は眼を閉じた。直観的に気付いたのだろう…今の自分が、何かを受け入れ、そして拒み通すには、こうするより他にない…っと。

 程無くして、克の隣で床を踏みしめる音が…しかし、その音はゆっくりと離れて行く…玄関に向かって。

 「私、帰る…。」

 慌てて振り向いた克に、佑子が沈んだ声で応えた。長く、だらりと垂れさがった髪は、黒く垂れこめて、佑子が恐ろしく希薄な存在に感じられる。

 ひきとめる積りなのだろうか、急いで松葉杖を掴んだ、克。とっ、その瞬間、佑子が消えたその方向から、ドスンという鈍い音が響いた。

 「おっ、おい、どうしたんだ…。」

 テーブルを蹴飛ばしながら克が駆け付けた先、そこには、佑子が糸の切れた操り人形のように、体を丸めて床に倒れていた…荒く不規則な呼吸、薄っすらと閉じられた濡れた瞳。克は何を思ったのだろうか…地面に落ちた粉雪のようなその姿を、触れようとはせずに、見降ろしていた。…ベッドの上では、義足が静かに、沈みこんでいく…。

(3)

 「悪いけど、俺、今日は行けなくなったから。」

 克が携帯電話に話し掛ける声が、響き渡る。

 その建物の中は、窓から差し込む朝の光で、静かに息づいていた。克はよく使い込まれた長椅子に腰かけて、やけにエキゾチックな床の模様に眼をやった。

 「だから、本当に悪いけど理由は…猪山が適当に考えて、橋本に言ってくれないか。その、俺の今の状況は、ちょっと説明しづらくて…。」

「解りました。」

言葉に詰まる克の耳に、軽快な答えが返ってきた。

 「私の役目は、『察して合わせること』ですもんね。」

「猪山、恩にきるよ。…埋め合わせは必ずするから。」

「期待してます。それじゃあ、橋本先輩が来ましたから。」

 克は切れた電話を耳元から下ろすと、小さく口元を緩めた。…稔、なかなか頼もしい援軍だな…。

 間をおかず、克のいる部屋に老女…香の祖母が入って来た。

 「話は終わったかしら。相手は香なの。」

 ニコニコとした顔で、克を質問攻めにする、老女。克は間をとるように、首筋を掻いて、

 「いえ、違う相手なんですけど…ところで、篠原の様子はどうでした。」

「軽い貧血よ。寝てれば治るけど、せっかく克君が、負ぶってここまで連れて来たんだものね。一応、点滴だけは打って置いたわ。」

「そうですか、有り難うございます…。」

 老女は、生返事を返す克に、軽い息を衝くと、その隣に腰かける。二人の目の前には、半分開いたドアから、ベッドの足が覗いていた…。

 「あっ、そう言えば、あいつの保険証どうすっかな。」

それを聞いて老女は可笑しそうに、

「何を突然言い出すのかと思えば、そんなこと、心配しないで、私に任せておきなさい。」

「朝早くから押し掛けて、無理ばかり言ってすいません。今日、本当は休館日なんですよね。

 「克君の苦労性も変わらないのね。香ちゃんが夢中になるの、私解るな。ううん、最初に貴方に眼を付けたのは、私だったわね…そう言えば、このことは香ちゃん、知ってるの。」

克は暗い顔で首を横に振って、

「いえ、あいつには…それで、先生にも、香さんには内緒にしておいて欲しんです。…香さんが篠原とは親友同士だって知った上で、先生にこんなお願いするのは失礼だって俺も解ってます。でも、これは篠原のためでもあるんです。だから…」

老女は優しく、だが、威厳をもって、

「解った、香ちゃんには黙っておくわ。第一に、医者には守秘義務があるもの、心配しなくていいわ。…それに、言えっこないわよ…。」

 老女は悲しそうな面持ちで腰を上げる。

「今朝、貴方と待ち合わせがあるんだって、嬉しそうに家を出た香ちゃんの顔を見ているから。とてもじゃないけど、私には言えないわ。…ごめんなさいね。克君が大変な思いをしているの、貴方の顔見たらすぐ解ったのに、こんなこと言って。やっぱり、孫が…香ちゃんのことが、私には可愛くてしかたないのよ。…許してね。」

 老女の哀願にも、克は顔を上げることが出来なかった。目の下では、同じ模様がはるかに続いている…。

(4)

 克がベッドの傍へ寄ると、起きていたのだろう、眼を開けて佑子が克の方に首を傾げる。

 「具合はどうだ。」

「うん、楽になったよ。…本田、約束はどうしたの。」

克は近くの椅子に腰かけると、

「今、お前の望み通り、断りの電話を入れたよ。喜べ、俺様が今日も一緒にいてやるんだからな。」

 笑顔を交わす二人…しかし、

「篠原…どうした。」

 佑子の頬を伝う一筋の涙。

 「本田は、私のこと、病気まで利用して自分を振り回す面倒臭い女だって思ってたんだろうな。私ももとずっと前はそれでもいいと思ってた気がするんだ。てっ、なんか私最低だね。」

 佑子がとめどなく流れる涙を拭こうともせずに克を見つめる。その声は、不思議なほど澄んでいた。

 「でも、本田が私の事を好きだって言ってくれて…勘違いだったんだけど。だけど、私、なんだか認められた気がしたんだ。許してもらえたんだって、どっちつかずの卑怯な私が、本田の傍にいて良いんだって…私、嬉しくて、嬉しくて…それなのに、なにか恥ずかしかった。本田に思ってもらえる私は、こんなにも小さくて、何にも出来なくて、焼きもち焼きで…私こんなことばっかり考えてたんだよ、本田。だって、そんなこと…貴方の傍で恥ずかしがってる自分を想像するのが、一番幸せだった。解るかな…。解んないよね、本田には…だって、本田は私のことが好きじゃないんだもの。」

 克は佑子から目を逸らすことは出来なかった。そうだ、克には目を逸らすことは許されない。佑子は必死に叫んでいるのだ、『私を見て』と…。

 佑子は克から逃げる様に顔を背けると、

「軽蔑されてたんだろうな、私。それはそうだよね、だって、私は本田のことで焼きもち焼くくせに、私には彼氏がいるし、病気になれば看病しろって押し掛けるんだもんね。それに、朝は早くから、ドアを叩いたりも…軽蔑されても当たり前だよね。」

そうして、佑子の涙顔が、自嘲の笑みで大きく歪む。

 「だけど、知ってた…本田。私ね、そんな軽蔑される様なことして、それでも許してもらえること、本田が心の中で、仕方無いなって、笑って許してくれてること想像して、喜んだりもしてたんだよ。本当、最低。私、自分でも死んじゃいたくなるくらい最低なんだよ。」

「もう、良い。」

 克が低く、通る声で佑子を諌めた。その両手は、耳を塞ぐこともできずに、血が出るほど強く握り合わされていた…。

 「もう、良い。最低なのは俺だ、今日それがよく解った。だから、もう、良いんだ。もう、許してくれ、篠原。」

 克の嘆き…佑子はしばらくの間黙っていたが、ポツリと、

「今日は、もう、帰って。さすがの私も…ほんのさっき振られた相手の前で眠れるほど、強くはないから…だから、私、今日は自分の家に帰るよ。荷物は、どうにでもなるから、気にしなくていいよ。」

それだけ言うと、佑子は眼を閉じてしまった。克はその頬を濡らす涙さえも拭けずに、トボトボと義足の足を引き摺る。…病室を出ようとしたとき…、

「本田…私続けるから…誰が何と言おうと、今の生活を続けるから。また、朝御飯作りに本田の部屋に行くから…私、本田が嫌だって言っても、今度は止めるつもりないから…それだけ…呼びとめて、ごめんね。」

 何一つ答えずに、病室のドアを閉じる、克。その胸に去来するのは…あの甘い違和感…。

 克は自分が佑子を思う気持ちが、佑子が石川を思う気持ちと同じだと言った。…しかし、果たしてそれは、本当に正しかったのだろうか。ならば、今、克の胸に去来する気持ちは何なのだろうか…喪失感、虚脱感、悪寒、孤独感…その全てをとても言いつくせるものではない。だから、言葉に出来ずに病室を逃げ出した今日、克は初めて、佑子のことを愛しいと思ったのだろう…。佑子と達雄が別れた…その噂が学内に流れたのは、その日から五日後のことだった…。

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