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第二十四話

(1)

 金曜日も残すところ、七時間強といったところか…。よやく帰宅した克を、外開きの玄関のドアを勢いよく開けて、佑子が出迎えた。

 「お帰りなさい。」

 無限の親しみのこもった笑顔、そして決まりきった台詞…ここまでは克にしても予想通りの反応だったであろう。そして、『篠原がこう来たら、こう返して…』と言う具合に、嫌みの一つでも言ってやろうとも、考えていたことだろう。しかし、克には返す言葉が思い浮かばない。

 克は自分の戦意を根こそぎ刈り取ったものを、もう一度、見つめた。

 黒のチュニックワンピース、グレーのスキニーパンツ…春らしい装いだ。…そして、その上から…純白のフリルエプロン。極めつけには、それを着こなす佑子…っと、言ったところか…。似合っている、それは間違いない。

 佑子は熱心と言っても問題なさそうな克の視線に気付いてか、照れたように、どこか惚けた様に微笑んだ。

 「どうかな。」

言葉少なに尋ねる佑子に、克は玄関に上がりながら、

「あぁ、似合っているとは思うよ。にしても、そんなエプロン持ってたんだな。」

「うん。まっ、ウケ狙いみたいなものだから。そういう意味では、本田の注目も十分に引けたし、いい線いってるのかな。」

 克の後ろで、大きな音を立ててドアが閉まる。それに弾かれたように佑子が、

「あっ、そうだった。」

佑子は思い出したように、克を玄関に残して、部屋の中に取って返す。しかし、克が内鍵を閉めるか閉めまいか決めかねている内には、すぐ戻ってきた。

 「本田、これ、お願い。」

 克は佑子から渡されたものを、珍しそうに眺めた。太めのマジックペンのような外観。しかし、目盛りが付いているところなどからも、それとは違う何かであることを窺うことができる。

 佑子は自分の左手を差し出すと、

「えっとね、それの先端を…そう、そこ。そこを私の人差し指のお腹の所に、押しつけて。スイッチとかは無くて、ただ、この先端の、ペンのキャップみたいな部分、ここが内側に凹むくらい押しつけてくれるだけでいいから。じゃあ、お願い。」

佑子はそう言ったきりで、顔をそむけて眼を閉じてしまった。差し出された左手は震えていないものの、もう一方の右手は固く握りしめられていた。

 克は傍目から見ると置き去りにされた様に見えるが、どうやら、今の佑子の説明だけで事情を察することが出来たらしく、仔細ないといった顔つきで丁寧に、件のマジックペンではないらしいものを、佑子に宛がった。その間、およそ二秒…克が初めてということを考えれば、かなり早いと言えるだろう…でっ、結局これは何だと言うのだろうか。

 「どうやら、終わったらしいぞ。」

 佑子は克の声に促されて、大きなため息を付いた。そして強張っていた顔に、笑みが戻る。

 「ありがとう。慣れないというか、なんか抵抗あるんだよね。指に針刺すのって。」

「それは解らなくもないけどな。でっ、これ、血糖値の測定器なんだろ。」

「知ってるの、だったら話が早くて助かるな。次からも、よろしくね。」

 克と佑子の会話からすると、このマジックペンのようなものは、血糖値を測るための器械で、どうやら採血のための針が飛び出すらしい。…指は神経が密集していることもあるし、針が飛び出るものを近づけるのに抵抗があると言う心理、たしかに想像に難くない。

 佑子が測定器をエプロンのポケットに突っ込んだのを見計らって、克が靴を脱ぎに掛かった。しかし…、

「ちょっと、待ちなさいよ。」

まだ通過儀礼は終わっていなかった様だ。佑子が腰に手を当ててふんぞり返る。

 「何か忘れてない。」

克は、本当に忘れていたのか、たっぷり視線を虚空に泳がせてから、

「ただいま。」

「お帰りなさい。」

 佑子はニッコリ笑って返事をした。そう、確かに返事はした…だから、克は間違ってはいないはず…それなのに、なぜか佑子はまだ、不満そうな顔をしている。

 克はそんな佑子を一まず置いておいて、靴を脱ごうと玄関先に腰かけた…すると、

「あぁっ、そうか。」

背後で、いかにも『納得いった』と言わんばかりの佑子の声。それから、手を叩く音。その次は、

「おっ、おい。」

しゃがんだ自分に抱きついてきた佑子に対する、克の驚きの声。

 その声は、抗議というにはあまりにか細く聞こえた。

 首に巻かれた佑子の両腕に、自然と、克の肩に力が籠もる。平静を装っているのか、顔つきはいつも通り柔和なままだが、靴紐を解く手はピタリと動かなくなっている。

 「お前…熱でもあるのか。」

「うん、あるよ。」

 熱があるのかと問いたくなるのはこっちのほうだ…そう言いたくなるような、克の煮えた感じの質問。一言返事するのにも、心底嬉しそうな、佑子。…克が取り乱したのも無理はないか…今、二人は、お互いの吐息の掛かるほど近くに居る。そして、女性特有の甘い香りが、臭覚以外の感覚、じわりじわり麻痺させていく。…佑子も、そうなのであろうか…いや、そうではなかったらしい。佑子の口から、不審そうな声が漏れる。

 「んっ、これって…香。ねぇ、もしかして、香なの。」

「へっ、香がどうしたって。」

 頸筋で囁く佑子の声に、軽い怖気を覚えつつ、克はまだ醒めきらない頭で問い返した。…理論武装は分厚い割に、ところどころ無防備なところが見え隠れするな、この男は…。

 「だから、香に会ってたのかって、聞いてんの。」

 克がぼんやりしているのに気付いた佑子が、じれったそうに大声を張り上げる。

 「えっ…。えっ。」

どうやら、克が我に返ったらしい。言い訳するにしても、多分、遅すぎるのだろうが。それでも克は、寝惚けたような頭を必死に働かせて、

「会ったよ、図書室で。猪山の勉強看てる途中で俺を見つけたらしくて、俺まで勉強会に参加させられたよ。まったく、まずいタイミングで出くわしたもんだ。そう言えば、篠原も、ときどき自習室使ってるんだってな。」

誇張や、虚偽を使わずに、どうどうと話を逸らす。どうやら、それが頭を働かせた結果、克が弾き出した答えの様だ。正攻法だ…その効果の程は…、

「うん。」

佑子は短く克の問いに肯定しただけ…こうなって見ると、首根っ子押さえられたこの状況は、非常に不味いように感じられる。克にとって、ここが思案のしどころか…。

 「ねぇ。」

 ごくごく自然に、それはまるで、さっきの肯定の続きである様に、佑子が克に問いかけた。

 「本田は私の髪形、どう思う。」

 問われて克が背中を反って、佑子を見上げた。佑子は克のために、少しだけ拘束を緩めた。

 「どう、何かない。なんでもいいから。」

 克が応えられずにいると、佑子は寂しそうに、そして悲痛そうな顔を隠す様に、今一度、強く克を抱きしめた。

 「言いたくないの…それとも、私のことには興味、ないのかな。」

ようやく克にも佑子の欲していることが理解できたようだ。小さく鼻息を一つ吐き出した。…佑子にしては思わせぶりだったか、その答えは…克が問われていることは、間違い探しでもなく、粗探しでもない。…ただ、一言、文句の一つでも付けて欲しかった。本当は、そうなのだろう…体調の悪いのを押してまで、誰かのためにと思う心というのは…。

 「俺も言おうか言うまいかって悩んでいたんだが…篠原の場合、わざわざアップにするより、後ろで簡単に束ねる方が、シルエットも大人しくて似合うと思うんだ。」

「そっ、そうかな。」

 佑子が片腕だけ克から離すと、慌てたように、髪を結ぶ白いゴムを外し始めた。程無くして、長い髪が、佑子の背を、克の肩を叩いた。

 克にその積りはなかっただろうが、

「まっ、あくまで、俺の好みだけどな。」

随分間を置いて付け加えられたその言葉に、何とか克の首筋に腕を残したままで…とっ、片手で苦心して髪を束ねようとする佑子が、

「えっ、あれっ、っと、あぁ、そこまで言わなくても良いって。解ってるから。」

 取り乱したり、はにかんだりと大忙しの、佑子。解っているらしいのだが…克にはそれが解っているのだろうか…。

 佑子もさんざん頑張っていたようだが、二進も三進もいかないという結論に今、たどり着いたようだ。そして、未練の断ち切りがたいように、ギリギリまで残していた腕を克から話して、佑子は立ち上がった…。

 「すぐ、夕食、用意するから。」

 克が佑子の方を振り返った時には、佑子はもう部屋の奥へと歩きはじめていた。器用に二つの手で髪を束ねる、その後ろ姿は、どこか艶かしい…。触れ合うほどに近くにいた数秒前、そして離れて行く今…人と人との繋がりは、髪形に注文を付けるほどには、そして、その注文に応えるほどには、自分の思い通りには噛み合ってくれはしない。…きっと、それは佑子も感じていること…。

 克は潰れる様な胸苦しさをやり過ごす様に、忙しく手を動かし始める。だが、そんなときでも、克の頭の中を支配するのはたった一つの単純すぎる事実…、

(あいつに抱きつかれても、あいつが離れて行く時も、何も感じなかった…そういう訳じゃないのかも知れないけど…ただ、少なくとも、違和感はなかった。)

そう、ただそうであるという結果、それが何よりも強く残った。克はやり切れない思いを抱えたまま、靴を押しのける様にして立ち上がる。ふと…鼻孔をくすぐるものが…首筋に、肩に、まだ佑子の香が残っている…。

 克は佑子の待つ方へと向い始めた。床を踏みしめる二つの足が実感する…佑子との時間に、夢想の様な違和感など入る余地はないんだと…彼女と自分には、いつだって、激情的な現実感だけ…。

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