第二十三話
(1)
香は待っていた。
「私、帰るとは言わなかったし、それに、送ってくれるんでしょ、本田。」
こうして克と香は、もの言いたげな顔の稔に、流し目に見送られながら、図書室を、次いで学校を後にした。
帰りの道すがら、香の方から、書庫内で克たちが話していたことを、聞いてくるようなことはなかった。…気にならないはずはないと思うのだが…。
薄暗い帰り道、宵の口の空を白く染め上げて、雲が重なり合う。
(橋本なりに、俺の方から言い出すのを待っているのかもな。事情が事情だけに、そういう類の期待には応えられないけど…。)
香が前を見据えたままで、克に話し掛けてきたのは、何時とも解らない…ただ、そんなときだった。
「本田、ちょっと寄り道する所があるんだけど…まぁ、私の家の裏手なんだけど…付き合ってくれないかな。」
「家の裏手にか。」
「駄目…。」
家人が家の裏手に回るのに、お供を頼んでくる…克でなくとも、怪訝には思うだろう。だが…、
「いや、構わないよ。ただ、お前の家の敷地内を縦断して裏手に回るのは、抵抗あるんで、歩く道は考えてくれると助かるんだが。」
克は何も聞かずに了承した。いつも一言多いこの男にしては、意外な展開。…単に、部屋に帰るのを少しでも長引かせようとしているとみるのは…野暮な勘繰りだろうか…。
「それは心配しないでいいよ。今日は用事があるけど、そうでない時でも、だいたいは、そっちから入ってるから。」
並んで歩く二つの影から、小さい方が二、三歩先に飛び出す。もう一方の大きな影は、歩調を変えることもなく、ゆっくりと後を追いかけた。
克は振り返る香の表情を、点いたばかりの街頭に照らし出され、目映くどうしても見続けることが出来ない。煩わしそうに瞬きを繰り返す克に、稔はでっかく微笑みながら、
「でも、帰り道については、本田にはわざわざ説明するまでもないよね。」
「はっ。それは…」
「あっ、そうだった。そう言えば、本田って義足…ごめん、歩くの、速かったかな。」
香には別に本田の質問を無視しようなどという意図はなかろう。むしろ、彼女が真実克の足を気遣っているからこそ起きた、ちょっとした事故といえる。とにかく、それで克の質問は有耶無耶に成った。
「あそこ。ほら、もう着いたよ。ごめんね、本田が脚悪いのすっかり忘れてて、連れまわしちゃって。」
「んんっ…。」
克は香が指差した先にある…どうも、見覚えのあるらしい建物を、眼を細めながらうかがって、
「あ、あぁ、気にすんなよ。送るっていいだしたのは、確かに俺の方なんだから…。」
克は言葉少なに香に応えてから、また行く先を伺いながら眉間に皺を寄せ始めた。歩く姿も、なぜだか前かがみになっている…疾しいことでもあるのだろうか。
急に走り出した香が、先ほど指差した建物の前で止まる。…どうも、記憶の探索は終わったらしい…何がそんなに不味いのか、失敗したと言わんばかりの顔で、克がトボトボとその方へと近寄って行く。何故か、緊張したように、はにかむように克を待ち受ける香の肩の上で、白磁の空に溶け込む様な銀色の看板に、真っ青な文字だけが妙に鮮明だった。
(2)
「『橋本』…そうか、そう言えば、そうだったな、ここ。」
茫然と見上げる克の視線のさきに、『橋本内科医院』の文字。
「中学からこっち、とんと来なくなってたからな。高校入って、一人暮らしするようになってから、実家から程は来やすくなくなってたし…。」
ぼんやりと医院の前に突っ立って独白を続ける克に、年季の入った自動ドア前から香が、
「本田、もしかして気付いてなかったの。とことん冷たい男だね。」
「いや、過疎地域の診療所じゃあるまいし。普通、苗字が同じくらいで関連付けたりしないだろ。それより、何でお前は、俺がここに診察受けにきたことがあるの知ってたんだ。」
半ば放心状態だったくせに、克の突っ込みはやたらと早い。香は得意そうな笑顔で、口を開けて…っと、突然、香の笑顔の意味が変わる。そして、その嬉しそうな笑顔が向けられた先は、克の背後…、
「私が教えたの。篠原佑子ちゃんから、貴方のことを聞いてね。気を悪くしないでね。」
後方からの声に、克が固まる。その突っ張って動かなくなった顔面からは、驚きが透けて見える様だ。
「お久しぶりね、本田克君。大きくなったわねぇ。それに、元気にしているみたいね。」
声の主は克の姿をとっくりと眺めながら、克の前へと歩み出た。その姿は…女性の年齢は推量するのも、言葉にするのも難しいものだが…六十歳くらい。白いものの混じったグレーの髪をきれいになでつけた、上品な女性だった。
「お、お久しぶりです、先生。お陰さまで、無難にやらせて頂いています。」
「相変わらずね、貴方も。」
老女は可笑しそうに笑いながら、香の傍に歩み寄った。並んで立つと、香の方が15センチは大きく見える。…ところで、克は中学くらいから、こんなやつだったのだろうか…。
香がさっき克を飛び越して送った、そのままの笑顔を老女に向ける。
「ただいま、お祖母ちゃん。」
「お帰りなさい、香ちゃん。そうそう、篠原佑子ちゃんのお薬だったわね。中に上がって待っていなさい。」
「ううん、ここで待ってる。本田も居てくれるから。」
老女と克、香の会話を聞いている限り、どうやら、この老女は香の祖母で、この『橋本内科医院』の医者のようだ。家の裏手に収まってしまう建物の規模のから考えると、彼女一人でこの医院を切り盛りしているのだろう。
老女は少しだけ悪戯をする様な、だがとても思いやり深そうな顔を香の耳元に寄せた。
「それにしても、香ちゃん、貴女なかなか好い男捕まえたのね。」
「お、お祖母ちゃん。」
慌てて老女から離れた香に、老女はなおも嬉しそうに語り掛ける。
「彼はいいわよ。賢いし、それに、優しいの。私の長話、いつも最後まで聞いてくれるの、克君だけだったわ。うんうんって、相槌打ってくれて。ねぇ。」
「はぁ、その、とてもためになるお話ばかりでしたから…。」
克は不意の老女の問い掛けにも、さっきまで硬くなっていた割には、わりとしっかりとした答えを返す。…これは、そうとう警戒している…訳ありの様だ…。
老女は克の答えに満足したように、満面の笑みを作る。
「あら嬉しい。克君、香のことよろしくね。」
「ちょ、ちょっと、お祖母ちゃん。もう、本田のことは私が相手しておくから、とにかく佑子のお薬、お願い。」
我慢の限界とばかりに、真っ赤な顔で大口を空ける、香。普段の香とは重ならないほどの慌てぶり…誰だって、頭の上がらない人は居るということだろうか…。恥ずかしそうに頬を染めて、極力克の方を見ない様にして、香は老女を急き立てる。それでも、老女は名残惜しそうに、
「そぉお。じゃあ、克君、また、いらしゃいね。元気な時でも大歓迎だから。」
「はぁ、ありがとうございます。」
克は恐縮しきりである。流石に、年長者に対する礼儀くらいは心得ているようだ。
「お祖母ちゃん。」
香に急きたてられて、老女は『おしゃま』と言う言葉がピッタリ合いそうな、朗らかな笑みを残して、建物の中へと入って行った。…迷い児のような、気づまりを残して…。
馬の嘶きにも似た、自動ドアの滑る音が、窮屈そうにする二人を急き立てる。
「本田、あの…お祖母ちゃんが言ったことだけど、別に気にしなくていいから…だから、何も言わなくてもいいんだからね。」
「ん、まっ、橋本がそこまで言うなら、お言葉に甘えておこうかな。」
言い回しとしては、両方ともソフトな部類に入るのだろうが、その内容が半ば以上強制あることは深く考えるまでもない。どうも、お互い子供っぽい意地の張り合いをしているようにも見えなくはないが、開口一番『気にしなくていい』と言いだした香が、より気にしているだろうか…。
「えっと、それじゃあ、改めて聞くけど、俺がここに診察に来てたってことは、先生と篠原のやつの雑談ででも解ったのか。」
香は咳払いで、喉に引っ掛かったもの吐き出しきって、
「あっ、あ、うん。あの娘、ちょっとの時間、お祖母ちゃんとしゃべる時にまで、本田のこと話題にしたがるんだよね。彼氏どころか、友達も居ないように見えるから気を付けろとは言ってたんだ、常々。まぁ、最近は大分、増しになってきてはいるんだけど。」
(あいつ…いや、あいつなりに自制したからこそ、橋本から『増しになった』っていう評価を頂戴出来たんだろうが…そうだ、だからこそ、ここ最近の、一層掴みきれなくなってきたあいつの態度…あいつが何考えてるにしても、出来るもんなら…出来るうちにどうにかしないとな。)
克の涙ぐましいまでの精神の葛藤…この男としても常に、後手に回らない様に、会話を中断してまで考えうるかぎりの段取りを熟慮してきたのだが…残念ながら今までは、それに多分これからも、これといった効果は上げることが出来ないのであろう。はっきりすればいいだけのようにも感じる…休むに似たりとはこのことか…それとも、ギリギリの解答を出すまでには追い詰められていないことを、共に喜んでやるべきなのだろうか。
香は先の続かなくなった会話の間を持たせるように、自動ドアの奥を伺う。数秒の間、首をふら付かせていただけですぐ克の方を振り返ったところを見ると、老女が戻るのにはもうしばらく掛かるのかも知れない。
「佑子、昔から、無口ってほどじゃないけど、必要以上に口数の多いタイプじゃなかったから…傍目からすると、そっちの方が見栄えがいいとは思うけど、あの娘の場合…それでも、佑子の方から、乗り気で話してくれる話題があるってことが私、嬉しくって…。だから、本田、私のことあんまり悪く思わないでね。」
自嘲気味の笑みが、香の頬を伝い口元へと落ちる。その足元の一段高くなったステップから、砂利の音が聞こえる。
克は香の踏みしめる靴音にはっきりしない意識を揺り起こされると、生返事を返す様に首筋を撫でた。
「橋本が気にする謂われはないと思うけどな。あっ、でも、橋本が一から十まで篠原の面倒看てきたつもりなんだったら、俺のお門違いだな。悪く思わないでくれ、橋本。」
「それって、私のこと責めてるの、それとも庇ってくれてるのかな。」
「だからっ、橋本が悪いってわけじゃないだろ。少なくとも俺はそう思う。そう言うことだから、お前も俺に負い目を感じる必要はない。俺を理由にしてしょ気られても面倒だしな。」
「また、きついこと言うようね。まぁ、一種の激励だと思わせてもらうわ。」
面倒臭そうな口調の、克。だが、その表情は笑みで占められていた。香も呆れたように、なんだかんだで面倒見の良い克に、習うのだった。
克は柔和な顔を暗がりを漂う雲に向けると、
「しかし、世間ってのは広いようで、狭いもんだよな。まさか、俺がさんざん世話になった先生が、篠原の世話までしてて、しかも、橋本の祖母さんだったとはな…とっ、ちょっと口が悪すぎたかな…ん、うんっ…でっ、やっぱり、先生は、篠原の主治医だったりするのか。」
香は、この話も、老女が戻ってくるにもしばらく時間が掛かると踏んだのか、丁寧にスカートの折目に気を使いながら、ステップに腰をおろした。
「どうかな。佑子は、持病のこともあるから、健康面のことはお祖母ちゃんに頼ってる部分は大きいと思うよ。でも、正式に主治医になってるかどうかは、私も知らないな。」
「あいつとは、けっこう長いんだろ。やっぱり、篠原がこの医院に顔を出したのが縁なのか。」
「うん。『そう言えば、香ちゃんと同じクラスだって娘が来たわよ。』って感じにね。本当は、患者さんのことは軽々しく人に話したりしたらいけないんだろうけど、お祖母ちゃんこの手のことではガード甘いから。」
口を動かしながら見つめる香の目の前で、克はスタスタと足音を立てて香の後ろに回る。
「それは、解る。なにせ…。」
話すのをためらっている訳であるまいに…克は言葉に間を置くと、ステップの香の隣に腰かけて、
「診察に行く度に聞かされたのは、自分の学生時代のこと、それから、『孫娘がとても可愛い。だから君も、合ったら絶対に好きになる。』…俺は風邪引いて行ってるっていうのに…まぁ、退屈してるときの方が多かったから居心地は悪くなかったんだけどな…話の内容がそればかりていうのには、なかなか…小話のレパートリーさえ、もう二、三話多ければなぁ。こんないい先生は、居ないんだけどな。」
両手で頬杖付いていた香は、
「ありがとぉ…それ聞いたら、お祖母ちゃんもきっと、喜ぶよ。…それで、一体、お祖母ちゃんはどんなこと言って、本田に私のことを売り込んだの。もう少し、具体的に教えてくれないかな。」
「さぁ、どうだったっけか。俺も話し半分で聞く様にしてたから…まさか、相手がお前とは解らなかったからな。今なら、先生の言ってたこと、誇張も、美化も…なんと言うか…お湿り程度の丁度好さ…てのが、解ってるからな。」
香は頬を覆っていた手の上を滑らせて、その悩ましげな頭を抱えて、
「あぁ、お祖母ちゃん…勘弁してよ。」
どうしようもない状況に、ただ頭を痛める、香。克は訝しげにその横顔を眺めた。
「気にするところは先生の世間の広さだけで、俺の発言はスルーですか。」
「あんたの冗談なんて今は、どうだっていいの。問題は、お祖母ちゃんの言って回ってるかも知れないことが、冗談じゃないってことなんだよ。」
そこまで言って、香が克に険悪そうな顔を向けて、
「だから、稔や、あの可愛い系の先輩みたいに、本田との夫婦漫才に付き合ってはあげられないの。おわかり。」
克は、軽く身をよじってこちらを見る香の、頭を抱えたままの姿に、溜息がちの笑みを返した。そんな克の蒸気で柔らかくされたような風貌に、毒気を抜かれたのか、『付き合ってあげられない』と固いことをいっていた香であったが…、
「それとも、本田は…私に気があるとでも言いたいの。」
パッと明るく、灯りが背後の診療所から表へと溢れ出す。目の前へと真っ直ぐに伸びる二つの長い影…それは、そんなふうに演出が過剰だったからなのかもしれない…呟いた香の視線は、宛てもなく逸らされ、隠す様に、頭を抱えていた掌が目元へと下がる。
克の頭の中を、涼しげな何かが満たしていた。
「お前の腕がもうちょっと細ければな。」
克は香の眼隠しとなった華奢な手首(一応、彼女の名誉を護るために付け加える…。)を掴むと、ゆっくりと、そして少し震える様に、まるで壊れものを扱うようにその両腕を下ろさせた。…多分、隠している積りなのだろうが。香から手を放した克の口から、小さな、小さな、吐息が漏れた。そして、さらに雄弁な、なんとも味の濃い沈黙。読むに堪えないラブレター…それは、まだ手放したくない気持ちまでも、広げられた紙の上に、踊る文字の隙間に、投影されているからなのかもしれない…。
克は得意気な顔で香の反応を伺っていたが、それらしいものが返ってこない。克はそんな香の無反応に誘い込まれて、自分の悪戯に罪悪感を覚える子供の様の顔を見せた。
「橋本…。」
こわごわ目線を向ける先に、香の静かな無表情。それが、克の呼びかけに応じて、体ごと克の方へと向けられる。果たして、息を飲む克に下される結末は…すね蹴り。
克は飲み込んだ息を吐き出す間もなく、声に成らない悲鳴を喉の奥にしまい込む羽目になる…自業自得とは言え、歯を食いしばる姿は、何となく痛ましい…。
香は、やっと落ち着いて荒い息を吐く克を、微かに強張った表情で見下ろして、
「ほっ、本当は、いろいろ言ってやろうと思ったけど。あんたの情けない顔見てたら言う気も失せたわ…私の腕回りについて口にして、その程度で済んだんだから感謝しなさい。」
克は、確かに香の言う通り、情けない顔で、すねを擦りながら、
「そうだな。とりあえず、義足の方を蹴らないでくれたことは、お前の足癖の悪さに感謝かな。」
痛みを堪えながら、言う必要もない悪態を吐くのに精を出す、克。それを聞いて香が、『しまった』とでも言いたげな青ざめた顔で、口元を押えた。
「あっ、そっか。本田って義足履いてたんだっけ…ごめん、忘れてた。」
克はゲッとした顔で、
「お前、本気で勘弁してくれよ…。」
「いやー、でも、結局、当たらなかった訳だから…うん、次から気を付けるから。」
香はどこか照れくさそうに、それが克にも解る様に頭を掻いて見せる。そんな香の仕草をしっかり目で捉えたからか、克は心底呆れたような渋面を作った。
「謝罪もそこそこに、もう次の話ですか…さっきは、脚の不自由な俺を連れまわしてスマナイって言っていたのに…それだって、今となっては、覚えてないんだろうなぁ。ガサツと言うか、雑と言うか。」
香は一際頬を朱に染めて、
「う、煩いな。て言うか、もとはと言えば、本田が悪いんでしょうが。」
香は華奢な手首に似合った小さな握りこぶしを振り上げた。克もはしゃいだように、その動作に応じて身をかわす様に体を揺する。そしてゲンコツが克の頭めがけて…しかし、香の雷は、落ちるのを待たずに、克の頭から2、3センチくらい離れて位置で急停止した。
香は小さな握りこぶしを自分の胸元に戻すと、克の顔とそれを見比べる。当然、そこには、訝しそうに自分の方を見つめる克の顔と、見なれた自分の白い手があるのだが…どうやら、香の眼はその二つを捉えながら、頭ではまったく別の何かを考えているようだ。
克はそんな香の心模様に水をさすのを遠慮してか、恐らく来るであろう、香が自分に語りかけてくるときを待った。そして、それは、あっさりと切りだされるのだった…。
「本田、私さっき、あんたの肩に手を乗せてたよね。」
「あぁ、まだ、手形くらいは残ってるんじゃないかな。」
香は克の冗談を一笑に付すと、
「それで、本田は、別に嫌そうでは無かったよね。」
「はぁっ、それはどういう意味で聞いてるんだ。」
香は大儀そうに、膝の上で腕枕する。ぼんやりと眠そうなその表情を、克はもの問いた気な目で見守った。
「佑子が心配してたんだ。」
「なんだよ、俺はまた、何かしら試されてるわけか。」
疲れをにじませる克を、香は深く傾けた首で見上げて、
「あらっ、私、本田に辟易されるほど、しつこくしてたのかな。」
「お前の執念だけじゃ、ないんだけどな。…それで、篠原が俺の何を心配してるって。」
質問を繰り返す、克。しかし、答えはすぐには返ってこない。香は真剣な、加えて、やや暗くなったような顔で、克を見る。その瞳の光沢に克は、水槽の中に放り込まれたような錯覚を覚えた。香がためらう様に口を開く。
「あのさ、佑子には秘密にしといてくれる。」
「これから話すことを、ってことか。」
「とにかく、約束してよ。」
香はどこか甘える様に克に請うた。…兎にも角にも、承知する、克。…残念ながら、この時点で、克には安全地帯に逃げ出す猶予は認められなかった様だ…だが無情にも、投下されたのは本日最大級の爆弾だった…。
「佑子に首絞められたことあるんだってね。」
香から無造作に発せられた言葉に、克はそのままの…自分が今、どんな顔をしているのか推量も出来ないほど、その瞬間のそのままの表情で固まる。…唇の端を、ピリピリと痙攣が走る。
克は息を吐ききると香を見た。その相変わらずの無機質な表情からは、どのような感情も読みとることは出来そうにない。そう、間違いなく、克にとってかなり危うい状況が到来している。なぜなら…、
(篠原、なんで…いや、今は、それは考えない。それより問題は、橋本がどの程度のことまで知ってるのかってことだ。それによっては、さっき俺が猪山に打ち明けたこと、内容どころか、その行為そのものが無駄になるかも知れない…それどころか、俺と篠原の距離…俺が保ててると思っていた、そんなもの存在、その前提すら初めからなかったことに…)
つまりは、そういうことになるかも知れないからなのである…克は途方もなく困っていた。
「まぁ、本田はそんなこと、根に持ってはいないだろうけど…佑子にも言ったんだよ、私。でも、あの娘、可哀想になるくらい考えこんじゃってたから。なんだか、そういうことがあって以来、本田の態度が余所余所しいって…そんなことないよね、本田。」
克の精神の迷走を余所に、香は寝言のようにポツリポツリ呟き続ける。克は引き攣る喉に鞭を打って、
「それで、試しに、自分ならどうだろうかって、俺の肩を掴んでみた…と、そういうことか。」
「うん、勢い任せに。おかげで、手を放すタイミングがよく解らなくって、腕が少しだるい。これじゃ、本田に腕が太いなんて言われる訳だよね。」
「首を絞めたって…そのこと、篠原はかなり気にしているようだったか。…そんな…あんなことくらい…。」
克は焦る内心を宥めすかしながら、香に問い続ける。…今は少しでも多く、情報が欲しい…そういう訳で、香の嘆きを取り合ってやることも出来ない。
香は問うてばかりの克に、嫌な顔一つ見せずに、
「本当は、私が気にしている程のことはないのかも。ちょっと、大げさに言ったかも知れない。ただ、じゃれてるときに調子に乗って締めちゃって、それで雰囲気悪くなるのは嫌だなって…それだけ。うーんっ、改めて考えると、佑子が思い詰めてる様に見えたのも、私の思いすごしってことも…。」
克は、半分口から出かかった質問を、なんとか飲み込んだ。
(じゃれてるときに、調子に乗って…かっ。あいつ、そうだよな、それくらいの配慮が出来るやつだってことは、篠原自身が言ってたことでもあるしな…どうにか助かったようだな…首の皮一枚のところで。」
安堵と、疲れが、血の気の引いた克の顔に、ありありと浮かぶ。溜息こそ付かなかったものの、強張った肩からようやく力が抜けていった。
香が面白そうに笑う。
「どうしたの。なんか、嬉しそうだけど。」
「そうか。」
克は緩んだ口元で、素っ気無く答える。…たしかに、さっきまでの、『もう帰れ。』とでも諭してやりたくなる様な、青ざめた顔からの変化…その振り幅を考えると、嬉しそうにも見えなくもないか…そう言えば、老女はまだ戻ってこないのか…。
克は勢いを付け立ち上がると、腰を振って柔軟を始めた。
「篠原って女は、つくづく果報者だな。」
「そんなふうに本田に優しく言ってもらったら、私、なんて言えばいいのかな。」
克は腰を軽く叩きながら、
「俺に対しては、その、優しいってのだけで十分…それから、篠原には…。」
顎をしゃくりながら考える、克。言葉に詰まった克に、香がのっそりと顔を上げた。
「もし、また篠原に相談される様なことがあったら、俺が、学内一の美女に気後れしているんだとでも言ってやってくれ。俺は言いたくても、橋本に口止めされてるからな。」
克は振り返るとそう言って、鞄を持ち上げた。香は克の手元に視線を送りながら、
「その台詞、いかにも本田が考えたみたいだよ。そんなこと言ったら、私が本田に直接相談持ち込んだって、佑子にあっという間にばれちゃうんじゃないかな。」
「それで好いんだよ。」
「何が、どうして、誰に対して好いの。」
克は香の容赦ない追及を、歯を覗かせて笑う。
「篠原なら、橋本が伝えたとしても、俺の答えた台詞だって気付いて…むしろ、気付かない振りして、黙って安心する。あいつは、そういうやつだよ。」
「ハァーッ、そこまで計算してますか。まったく、ご苦労様です。」
呆れた様子で楽しそうに笑み揺らす、香。克はこんな時までも、注意深くその表情を窺って、
「余談だけど…篠原が、お前に相談を持ち込んだのって、石川と付き合う前か、それとも後か。」
「んっ、どっちだったかな。それが、どうかしたの。」
「えっ。」
どんなに荒っぽく扱われていても、休みなく時を刻み続けていた克の時計が、香に軽く小突かれて今、針の動きを止めた。
(どうしてって…俺はなんでこんなこと聞いたんだ。それを聞いて、どうするつもりだ。…いまさら、どうなるものでもないっていうのに…。)
克は香の疑問に、そして自分自身の疑問にも答えることが出来ない。出る言葉は、苦し紛れの言い訳…。
「それは…今日の俺、どうも自意識過剰気味なんだ。だから、恥かくまえに、小さすぎる期待の芽は摘んで置こうかなって…まっ、こう考えること自体、自意識過剰も良いとこかも知れないけどな。」
「何言ってんだか…今さらだって、あの可愛い系の先輩だって思ってるよ、きっと。」
逆光の中、聞こえてくる笑い声だけがたよりの、当てのないやり取り…克の義足の脚が一歩分、香の元から離れた。
「あっ、お祖母ちゃんが来るまで待っててよ。」
「俺もそうしようと思ってたんだけどな…どうも先生は、俺が居る間は戻ってこない様だからな…。」
ニンマリと笑い、医院の中に小さく一礼した、克。香も克の言わんとしていることが解ったようで、溜息を残して立ち上がった。
簡単な挨拶を交わして別れる二人。医院を出てしばらく、克が振り返ると、ようやく出てきた老女が、香と談笑しているのが小さく見える。克は苦笑して、家路に戻る。
…っと、不意に、克は妙な感覚に襲われる。それは、図書館…書庫に入る前に、香の手が肩から離れたときのあの違和感に、どこか似ていた。
(この感じ、もっと前にも、どこかで…。)
克は浮き沈みする視界の中で考える。
それは、香が言ったように、佑子に首を絞められた記憶が、意識には上らずともまだ自分の中に有って、自分にも得体のしれない違和感として現れたものなのだろうか。…じゃあ、なぜ、こうして離れていく瞬間にも、こんなにも痕を残すのだろうか。
そこまで考えて、克は大きく身震いした。宵闇の中は、まだまだ冷え込む様だ。
そうこうしている内に、克は自分のアパートの前までたどり着いていたことに気付く。そうなるように歩いてきたわけだから、辺り前なのであるが…克はドアの前で、ポケットに手を突っ込んだ。やはり、鍵はない。それも、佑子に渡したのだから当たり前…よもや、忘れたわけではあるまいに…。
克はドアノブを捻った…開かない。どうやら鍵が閉まっているようだ。
(まぁ、不用心で居るよりは、ずっと増しかな。…そう言えば、自分で自分の部屋のチャイム鳴らすの、初めてだな。)
ノブを放した瞬間、克を三度目のあの違和感が包む。克はチャイムに人差し指を宛がいながら、思い出していた…違和感はそれぞれ違うが…いつだって、苦しいだけではなかった…。街灯の明かりは変わらない、だが、夜の空に、雲はもう遥かに遠い。




