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第二十二話

(1)

 放課後の図書室での一時。辺りはもう薄暗く、さっきまでとは反対に、蛍光灯のやけに白い光が、窓の外へと溢れている。照らし出されたアスファルトの奥で、夜の帳を抱え込んだ垣根だけが、ぼやけて見えた。

 克は取り乱している稔の様子を伺ってから、溜息を吐いた。

 「とりあえず、場所変えるか。」

 克の提案を受けて、稔が一も二もなく頷く。その顔には、焦燥感すら浮かんで見えた。無理もない、聞きたいことも、余人に聞かれると不味いと思う気持ちも、ない交ぜになって稔の頭の中で渦巻いていることであろうから…。

 さて、そこで問題になるのは…いわゆる余人…つまりは、

「私、話が見えないんで、なんとも言いようがないけど。…とりあえず、どうしてれば良いのかな。」

…そう、今現在、一人だけ置き去りにされている、香である。

 克は、遠慮がちに自分の肩を揺する香に、眼を向けた。

 「あーっと、俺たち、これからちょっとお話を…そうだな、あの、向こうにある書庫に行ってしてこようかと思っているんだけどな。まぁ、そう言う訳で、橋本は先に帰ってくれて構わないから。」

 そう言えば、香が克の肩に手を置きはじめてから、もうずいぶん経つような気もする…。

 香が克に疑惑に満ちた眼を落す。

 「あのさぁ。多分、聞かない方がいいことなんだろうと思うけど。お話ってのは、何よ。」

「まぁ、病欠の篠原の穴を埋めるための相談ってとこかね。」

「ふーん。」

 香に納得のいかない顔を向けられて、稔が困った様な笑みを浮かべる。

 「まぁ、私も、あんまり引きとめるようなことしたくないんだけど…一応、社交辞令として聞かせてもらっとくわ。…その相談には私、参加しなくてもいいのかな。」

 克は仏頂面の香に大仰な笑顔を被せる様に、

「なにね。わざわざ橋本の御出馬を願うまでもないって。当日はどうなるかは解らないけど、今は、俺たち二人だけで大丈夫だから。だから、また、どうしても橋本に頼らなくちゃいけない様な場合は、頼むな。なっ、猪山。」

 香は接近してきた克の顔面から、伸ばしきった腕に加えて、こころもち距離をとるかの様に、目線を逸らす。その行く手では、椅子の上で背筋をピンと伸ばしていた稔が、

「はい、本当、よろしくお願いします。」

真顔で首を縦に振りながら自分に、屈託なく頼むと言う稔に、香は溜息を漏らした。

 「解った。言いたくないなら、もう聞かない。…別に怒ってないよ。だから、稔もそんな顔しなくていいからね。」

「あの、私、橋本先輩のこと…私、そう言うつもりじゃなくて。ただ、私、篠原先輩にも、橋本先輩にも嫌われたくないから…それで…。」

 稔はとても堪えられない沈痛な思いを、表情で、そして、途切れ途切れに言葉で表した。そんな稔の直向きな心に、香は穏やかな笑顔を応えた。

「もう、いいって。ちゃんと解ってるから。あんまり可愛いこと言ってると、抱き締めるからね。」

「…はいっ。」

 稔は感に耐えるように、胸の前で自らの左手で、小さく丸められた右手を握り締めた。表情からも、落ち着きを取り戻したことが見て取れる。

 香はそんな稔の様子に満足したような笑顔で、

「はい。それじゃあ、解ったら、早く移動しな。えっと、書庫は…あそこだよね。ほら、気にしなくても良いから。それに、何か私がわがまま言って引きとめてるみたいで、悪いことしている気分になるから。」

稔は香にけし掛けられて、まだ何か言いたそうな表情をしていたものの、書庫の扉を開いた。克も稔の後を追おうと、立ち上る。…しかし、前に進み出さない…いや、進み出せないと言った方が正確だろうか。そう、香は、ちょうど自分の頭の高さくらいある克の肩に手を置いたままでいるのだ。

 克は無言のままの香に、

「…何か私がわがまま言って引きとめてるみたいで、悪いことしている気分になるから…。」

 多少棒読みだった様にも聞こえるが、どうやら克としては、香のしゃべり方を真似ているつもりのようだ。…わざとらしいばかりで、まったく似ていないのだが…。

 しかし、そんな克の猿真似にも、香は相変わらずの無反応。克としても、香が完全に背後にいるわけなので、皆目見当がつかない。そのため、当然のことに…、

「あの、橋本さん、どうかしました。」

自分から真似しておいてお伺いを立てるという、悲惨な結果が生まれるのだ…。

 「橋本、あのさぁ。猪山も向こうで待っていることだし…そろそろ、手、放して欲しんだけどな。」

 「『篠原先輩にも』…っか。まぁ、確かに、あんたら二人の共通の話題って言ったら、それくらいだろうからね。」

 克の要求を無視する形で、突然、香がぶっきら棒に言い放った。克にとっては声しか判断材料がないのだが。その言葉には、どこか納得したような、探る様な気配があった様に感じられた。

 それでも、克は香から自分への働きかけがあったことに口元を緩めた。

「やっぱ、橋本には解っちゃうのか。」

それに対して、香は少し意外そうに、

「へぇ、認めるんだ。」

「まぁなっ。」

 肯定…それは結果であって、結末でもある。香は克のどこか頑なな態度を感じたのか、諦めを匂わす溜息を吐いた。

 「稔のこと、よろしくね。あの娘、思い詰めるタイプだから。佑子と同じでね。」

首の下辺りから聞こえる香のどこか暖かい声に、克はむず痒そうに肩を揺らす。

 「なにも、そんな深刻になる必要な無いって。どこまで行ったとして、そこは、高校生の人間関係だからさ。」

「あっ、そういう言い方は無いんじゃないかな。大人な本田くんは忘れちゃったかもしれないけど、いつだって人づきあいって、大切で、真剣で、難しくて、話だけでも聞いて欲しいって思うものだもん。だから本当に、稔のこと、お願いね、本田。」

「善処するよ。」

「なんか、言葉に気持ちが籠ってない様な気がするなぁ。軽薄なだけかと思ってたけど、もしかして本田って冷血人間。」

 香は、結構本気で白けたような顔で、表情を伺おうと背伸びする。克は、何に対してなのか、微笑むと、

「まぁ、あれだな。男の脳は、危機的だったり、重大だったりする事件に直面すると、精神面の強さをアピールするために、あえてその事柄を、ジョークを言ったりして笑い飛ばす。多分、それと同じだろ。」

「それが、どうしたっての。」

 背伸びを止めて聞き返す、香。踵で同時に叩かれたフローリングの床が、心臓の鼓動を思わせる音を立てた。

 「いや、どうしたって程のことでもないんだけど…猪山もさんざん恥かいたんだし、俺もここら辺で、一つ弱みでも見せとこうかと思って。」

「なにそれ、もしかして、また稔のこと庇ってんの。」

「いやいや、猪山にこれ以上、差を付けられん様にだな。」

 一時の沈黙。その後、香が嫌そうな声で、

「あんた、またまた私のことからかってるよね。いい加減、私まで佑子の代わりあつかいするの、止めて欲しんだけど。」

応えて、克がスッ惚けたように、

「時間は無いが、これだけは言っとく。からかってはいるけどな、断じて篠原の代わりあつかいした覚えはない。断じてだ。そこんとこ重要だから、よろしく。」

 香は大口を開けて、溜息を吐く。それから、耐えきれなかったように、吹き出した。…それと同時に、香の手が克の肩から離れた…。

 「本田、あんた、そういうこと、佑子にも、稔にも、それに、あの、可愛い系の先輩とかにも言ってるの。」

「んっ、可愛い系の先輩…って。」

 克はしばらく腕組みして考えてから、図書室の前方を指差す。その動きに少し遅れて、香が克の背中にヘッドパッドをかます。どうやら、頷いて、同意しているようだ。…もう、手は話しているはずだが…。

 「なんだよ、見てたのかよ。で、俺は、猪山が居る時に言いださないでくれたお前に、感謝しておくべきかな。」

「そんなのいいから。それに、そういう嫌みも、とりあえず稔のために取っておいてあげて。ほら、早く行きなさいよ。時間無いんでしょ。」

 引っ張り込まれた時とは逆に、背中を押される、克。図書室の前での、『可愛い系』の先輩とのやり取りにしても、もうずいぶん前のことに感じられる。

 克は二、三歩、義足の足を巧みに操って前に進み出ると、

「引き止められてたのは、俺の方だったと思ったんだけどな。」

もう、香の手は自分の肩にないのに、克は振り返ることはしなかった。…喪失感とは違う。以前にも感じたことのある様な、失ってなお残る様な鮮烈な違和感…そう言えば、佑子が克に積極的に触れることが無くなったのは…いつからだっただろうか…。

 克の手はなぜか、書庫のドアノブを握ったまま止まった。

 「どうかしたの。」

 前かがみで固まる克の背中に、香が呼びかけた。克は相変わらず、香の方へは振り向かずに、

「あのな…。」

 …克は今、今の今まで決して誰にも話さなかったことを香に話そうとしている。それは気の緩みで、加えて、人づき合いを大切なものだと言いきった香に、寄る辺のない自分の状況を、ほんの少しでも解って欲しいと思ったのかも知れない。…克がどうして、今、そして香に対して、そう思ったか。それはまだ、克にとっても重大な意味をもつことではないので、あえてここでは言葉を費やさないことにする。しかし、このあとの短いやり取りが、佑子と自分の間に、第三者の介入を望まなかった克の、その心情の深いところが変化させた。それはまぎれもない事実なのである。…限界だったのであろう…佑子の、それだけは確かに存在する気持ちを、好意を強く認識していたために…。克は呟いた。

 「一応、聞かれたことに答えておくと…篠原にだけは言ったこと無いから。」

「えっ、あぁ、さっきの。そうなんだ。あんたたち、結構、仲好さそうなのに。」

「後が怖いからな。」

「お弁当も食べたこと無いくせに。佑子のこと良く解っているじゃないの。そうだよ、佑子って、尽すタイプだから、本田も、それに石川も、刺されるよ。気を付けないとね。」

 当然、香は冗談で言ったのだろう。そんなことは克にも解っている。解ってはいるが、答えるまでに、小さな間が生まれうる。克にはそれを避けることが出来なかった。

「…俺はまだ、圏外だろ。」

「今のところはね。」

 結局、克は香の方に振りかえることはせずに、ドアノブを捻った。もし、このとき、克が屈託のない香の笑顔を、自分と周囲との温度差に気付いていたのなら。これから稔と取り交わす約束は無かったのかも知れない。だが、差し出さなければ、自分の手の冷たさを知る者は、自分しかいない。克にはそれが解っていたはずなのに…。そしてドアが開く。稔が点けたのか、蛍光灯の光で、書庫の中は明るかった。果たして、義足の足で克が引きずる影は、どこに向かうのであろうか。

(2)

 それは、書庫のドアが内開きであったことが招いた、悲劇だった。

 最初にあったのは、軽い手ごたえと、何とも力の抜ける様な軽い衝突音。

 「イタッ。」

 克がドアを10センチ程も奥にやらないところで、書庫の中、それもドアに相当に近い辺りから、痛々しい…とは到底言い難い…苦悶の声が漏れる。

 克は一時、黙ってノブを見つめていたが、書庫の内側がまた静寂をとりものどしたのを感じとると、無言のままドアを押しやって、そのまま書庫に滑り込んだ。どうやら、障害物は取り除かれた様だ。

 書庫の中では、稔が気まずそうな笑顔で、立っていた。

 克は、照れ隠しに笑いながら、落ち着きなく靴のつま先で床をこねくり回す稔を通り越して、ドカッと眼の前のテーブルの上に腰かける。…この際、稔から行儀が悪いなどの苦情が出ようもないことは、言うまでもない…。

 克がドアの前で突っ立っていた時、そのままの仏頂面で、稔を真っ直ぐに見詰める。皮肉なことに、背の低い稔と、細長いテーブルの上に腰かけた克の眼の高さは、まったく同じ位置にあった。

 「先に謝っとくけど、俺、猪山のこと、巻き込もうと考えてる。それは、済まない。でだ、そう言う訳だから、もし、猪山が俺と…その…。」

克は、お互いに視線を逃がす場所の無いことを確認する様に、瞳を動かして躊躇する。しかし、稔のさっきまでは絶対に見せなかった、拭いに欠ける疑問さえない様な、焦りのない表情を見つけると、克はどこか安心したような、そして少し困ったような息を吐いた。

 「俺と篠原のことに関わるのは御免だって思うんなら。ここまで、さんざん猪山の興味を煽っておいて申し訳ないんだけど、あのときの、観覧車でのこと、知ってる限り全部忘れて貰えないか。卑怯な言い方かもしれないけど…篠原のためにも…なっ。」

 克が話を終えるや否や、答えるでもなく、しゃがみ込んでしまう、稔。克の視線はあえて、それを追いかけることはしない。稔にも、そのことが解っていたのか、俯き、しゃがんだままで、克に問いかけた。

 「本田先輩。先輩は覚えてくれてますか。私が最初に、先輩にお願いしたことを…。」

克は稔が消え去って、急に開けた視界をぼんやりと彷徨いながら、

「篠原のことを支えたい。それも、他人が入り込めないくらい深いところまで手を伸ばして、サポートしてやりたい。だから、そのために俺に手を貸して欲しい…そんな感じだったっけな。」

「やっぱり、覚えていてくれてたんですね。」

小さな笑い声と、嬉しそうな話し声を足下に残して、稔が立ち上がる。稔はどこか余所余所しく、スカートの裾を気にしながら、

「私の気持ちは、あのときのまま、同じです。」

 克は再び目線のかみ合った稔の淡然とした表情に、ニヤリと笑みを溢す。

 「いいのか。解ってるとは思うけど、このまま行くと、篠原を支える役が猪山で、それを手伝うのが俺だったはずのお前の目論見とは、位置関係が逆さまの構図で収まることになるかも知れないぞ。こういうの、主客転倒って言うんだ、一応、慣用表現だし覚えておけよ。」

 茶化すような口調で、稔の答えを迎え撃とうと待ち構える、克。しかし…そう、しかしだ、敵も然る者、身構える克の布陣を巧みにすり抜けて、とたんに虚を突いてくる。

「ほ、本田先輩と、篠原先輩って…もう、そこまで進んでたんですか。」

…しかも、驚かせている方に、その気が無いのがなお怖い…。

 「あのな、猪山…俺の言い方も悪かったかも知れないけどさぁ。俺の言いたかった事は、俺を間に挟むことで、猪山が望んでいた篠原との関係が、間接的なものになるだろうけども、それでもいいかってことで、それ以上のことは、残念ながら単なる例え話でしかないから。」

「残念ながらですか。」

「なかなか食いついてくるね、君も。」

「当たり前じゃないですか。ねぇ、本田先輩、本当に、一体全体、本田先輩は篠原先輩のこと、どう思ってるんですか。好きなんじゃないんですか。」

 稔が詰問しながら、克の方に向かって一歩前進する。克は両手を天井目掛けて大きく伸ばしながら、

「うーん、そう尋ねられても、石川の手前、はいそうですよとは、答えられないな。」

欠伸混じりの克の応答に、稔が眼の色を変えて詰め寄る。

 「そう、それ、それもですよ。だから、篠原先輩と石川先輩のお二人って、本当に付き合ってるんですか。それ以前に、本田先輩はどうなんですか。」

 また、稔が克との距離を、一歩分だけ縮めた。克にもようやく、少しずつ稔に詰め寄られていることが意識できるようになっていた。

 「落ちつけって。俺だって何も、ここまで来て話したくないなんて言わないからさ。むしろ、今まで人に放せなかった分、愚痴の一つも垂れる相手が欲しかったところだからな。」

 勢い込んでしゃべる稔を、なだめようと丁寧に冗談を言う、克。しかし、効果の程は、思わしいものではなかった様だ。

「私、愚痴より先に、聞いておかないといけないことがあると思うんですが…。」

…むしろ逆効果か…。不満そうに、どうか寂しそうに拗ねた顔を見せる稔に、克は淀みなく、ただ、少しだけ慌てたように、

「いやいや、愚痴なんて言葉を使ったのは、それくらい些細なことまで話すことになるだとうってことを言いたかったまでのことだから。まぁ、俺としては、猪山が真剣にこの場に臨んでくれてるって解って、有難いけれどな。のろけ話するのでもないのに、必要以上に照れずに済むからな。」

 克の口調は、稔が今まで接してきた中で一番、打ち解けたものだった。

 稔は後ろ手にしてまた、その場の床をつま先で小突きながら、

「…真剣に、決まってるじゃないですか。」

控えめながらも、しっかりと自分の中に残る不満の余韻をアピールした。

 とにかく、稔のこの拗ねた様な雰囲気が、克に一つの踏ん切りを付かせたようだった。

「じゃあ、いいんだな。」

「もちろんです。私だって、出来ることは、何でもしておきたいですから。本田先輩だって、そうなんでしょ。」

克は稔のその熱っぽい調子に、やや気圧されたように、

「俺の場合は…ただ、逃げ道だけは確保しておこうかなって、その程度のことしか考えてないから…。だから、猪山には不快な思いをさせることもあるかも知れないけど…」

「いいんですよ。」

 口数を増やすごとに、ズブズブと音を立てて沈み込みように、うつ向きがちになる、克。そんな克の瞼の辺りに影が指すのを阻止したのは、覗きこむ様に屈んで克の顔を見つめる、稔の透通ったグレーの瞳だった。克がいい訳のように繰り言を並べている間に、稔は何歩近づいていたのだろうか…とにかく、克の言葉のループは、場違いなほどはっきりとした稔の声に断ち切られた。

 克はゆっくりと首を上に戻しながら、立ち上がる稔を見る。その、頬に、瞳に、まだ仄かな熱が揺れていた。

 「…そうだな、どうしようか…漠然と説明しようとは思ってたんだけど…実際に話すとなると、何から話したもんかな。」

克は瞼の裏に思い浮かべる様に、眼を閉じると、

「猪山、別に今さら、隠し事をするつもりで聞くんじゃないから安心して答えて欲しんだけどな。あのとき、あの観覧車の中で、お前、いつから目を覚ましてたんだ。篠原が馬鹿笑いしてる時にはもう、起きてたのは知ってるけど。猪山が聞いてる内容によっては、俺も、説明しやすいように、話の順序をあらかじめ考えさせてもらいたいんだ。」

 克の親切心から切り出された…はずの問いに、稔は身構える様に腕組みする。

 「上手いこと言って…本当は、興味本位で知りたいだけなんじゃないんですか。」

「嘘か本当かってほどには、悪意は無いつもりだ。第一、恥をさらすのは俺で、猪山が警戒する必要はないんじゃないか。」

 稔は克の疑問がもっともに思えるほど、自分でも理解しえない何かを気にし、そして照れていた。稔は直視することも気恥かしいとばかりに、薄紅の広がった顔を目一杯逸らした。

 「どうして、私が起きてたこと、解ったんですか。」

早口の言葉は、ところどころ聞き取りづらかった。

 克は片目だけ開けて、稔を覗き見る。

 「寝た振りするのに、息まで止める必要はないってことだよ、猪山さん。」

…せっかくそっぽ向いている所悪いが、耳まで赤くしていては隠しようもない。稔は観念したように、

「あの…起きてたのは…『わざわざこいつの彼氏役に甘んじてるのは、誰のためにやってるか解らないわけじゃないよな。』…の、辺りからです。」

「ふっ。」

 克は眼の前に浮かぶ塵を吹き飛ばす。だが、それで、稔が知ってしまった事実を…佑子との時間を掻き消すことなど、できるはずもない…。

 克は話した。隠し事はしないと言ったものの、佑子の名誉を損なわない程度に…

 話は、克にとっても意外なことに、しごくあっさりと終わった。…佑子と自分が、周りの者たちが思っているよりも近しく、親しく、それでいて微妙な間柄で…毎朝、佑子が朝食を作りに来ていること…それだけ…。

 (…こんなもんか。こんなもんだったんだな、俺と篠原って…。)

 どこか気の抜けた様な、それでいて清々しい。克に後悔はなかった。

 克の話を聞いて、稔は相当のショックを受けていた。おそらく、佑子とかなりの時間を共にしていたという自負もあったことだろう。それが、自分が全く気付かない内に彼氏を作られ。あまつさえ、それとは別口に、友達以上恋人未満(?)に親しい男まで存在した。…そりゃあ、力だって抜けるだろう。なかでも、稔の気を大いに悪くしたと言えば…、

「じゃあ、なんですか。先輩は、篠原先輩に朝御飯作ってもらっては、学校に行って、朝御飯作ってもらっては、私たちとアウトドアに行って、朝御飯作ってもらっては、面倒臭そうな顔して遊園地に行ったりしてたわけなんですか。」

「いや、行事のある日は現地集合だったんだけど…怒んなよ、悪かったとは思ってるよ。知らない顔してお前の手伝いしたりとか…嘘じゃないって。それに、こんなこと、ペラペラ話すことじゃないのは解るだろ。」

 稔にも克にいつもの余裕が無いのは見てとれたようだ。稔は静かで、そして深みのある声色で、

「じゃあ…じゃあ、どうして今になって、私に話そうと思ったんですか。それは、私が先輩たちの会話を聞いてしまったっていう理由もあるかも知れませんけど…。本田先輩ならそれくらい、どうにでも誤魔化せたんじゃないんですか。」

「ときどき思うんだけどな。猪山の中で、俺の評価って結構高いよな。」

「茶化さないで下さい。」

 稔が以前にもいったこの台詞。だが今回ほど、克の思いの深くまで突き刺さったことは無かっただろう。克はため込んでいた疲れが、にじみ出るような感覚の中で、それでも虚勢をはるように笑う。

 「正直、限界なんだよ…情けないけどな。」

克の言葉に、一切の偽りはない。そんなことは稔にだって解っている。…だからこそ、克を見つめるその横顔は、物悲しい。

 「もしかして、私の所為ですか。」

 尋ねる稔に戸惑いや、憂い見当たらない。言葉の上ではすでに促されていた『覚悟』。稔には今、それがある。

 「違うよ。確かに、猪山の手伝いや、突然、石川と付き合い始めたこと。何の影響も、負担にもならなかったって言ったら嘘になるけど、それは直接の原因じゃない。…出来なくなったんだ…中途半端で、続けられるはずのないこと、解っててなんとも思ってない振りするの…それに、好きなはずだって思いこもうとすることも…。」

 扉の外で、消え入るような小さな物音がする。気付かないだけで、壁の向こうにちゃんと誰かの息遣いがある。ただ、今の二人には、息を飲むことしか出来なかった。

 「ときどき思うんだ。あいつのことが怖いって…変だよな。逃げようと思えば、どうとでもなるだろうに…多分、言えば、俺はお前と一緒に居たくないって…そう言えばすむだけの話なんだと俺も思う。でもな、俺は…その怖いってことも、あいつと一緒に使ってしまった時間を、まったくの無駄だったって思うわないですむ様に、そのための逃げ口上に利用しているようにも思うときもあるんだ。…変だよな、まったく。支離滅裂というか。」

自嘲か、それとも嘆きか。窮屈そうな、まるで助けを求める様な呟き…克が口にした限界、その理由は決して一つではない。

 稔はこの男らしくない、こんな台詞を、どう感じ、どう処理していくのだろうか。

 「変じゃないですよ。」

 克は少し驚いたように見開いた眼を稔に向ける。稔は言葉に詰まる自分を叱咤するかのように、唇を舐めた。

 「変じゃないですよ…私にだってあります。全部は解りませんから…篠原先輩のこと、橋本先輩のこと、それに本田先輩のこと…だから、怖いって思ったこと有りました。もしかしたら、私はこの人にとって、理想とは違うんじゃないかって。もしかしたら…この人は私の理想通りの人じゃないんじゃないかって…勝手だけど、それがとても怖かった。でも、それって…好きだから。好きってそういうことじゃないかなって、私、思います。」

 克には稔が自分を気遣って、必死で、それこそ真剣に、自分にぶつけるための言葉をかき集めてくれたことが解った。だから、克には黙って稔を瞳に応える他になかった…。

 「なんて…なんか、私偉そう…。あの、私少しは先輩の役に立てましたか。」

克はギシッとテーブルを軋ませて腰を上げると、

「あぁ、充分だ。今は、これ以上は望めないってくらいにな。」

 稔は克の賛辞を予期していなかったのか、地に二つの脚を付けて立ち上がった克に笑顔を向ける。

 「えっ、え、本当ですか。なんだか、本田先輩に褒められるの、初めてと言うか…まさか、こんなふうに、こんなに、すごく褒めてもらえることがあるなんて思ってもみませんでした。」

「猪山、お前って、なんか照れてばかりじゃないか。」

「て、照れますよ。それは…でも、嬉しいから…私だって、根拠もなく照れたりはしません。」

 …何を力説しているやら…。稔はよほど嬉しかったのだろう…その笑顔は何となく不安定なものに見えた。

 稔の呼吸が落ち着くのを待って、克が口を開く。

 「巻き込むなんて脅しは掛けたけどな、ようは、俺が篠原のことで困ってたり、参ってたりしたら、察して合わせてくれるだけでいいんだ。」

「そんなことでいいんですか。私、てっきり、遊園地の時みたいに、作戦でも伝えられるのかと思ったのに。」

克は大げさに、顔のまで右手を左右に振ると、

「それは、ない、ない。篠原には、そういう姑息な手段通用しないことは、前回で実証済みだから。言わなかったっけ、あいつに看破されたって。」

「ほ、本当ですか。」

「うん。あいつ、他人のこと良く見てるよ。あっ、心配しなくても、今日付けで俺のアシスタントになってくれた猪山さんのことは、適当に取り成しておいたから。あいつも、お前が良かれと思ってやったことは(心のどこか奥の方で)、解ってるって言ってたし。まぁ、問題ないと思う。」

「は、はい、ありがとうございます。」

…克よ、巻き込んだのはいいが、この組織…まともに機能するのであろうか。

 「そういうことで、ややこしくならない様に、猪山には必要以上に俺たちを意識してること、顔には出さないで欲しいんだ。脅す訳じゃないけど、お前がこれ以上、篠原と距離を置きたくなければ…そういう意味では、お互いのためにな。」

「はい。つまり、今日の私の態度みたいなのは、不味いってことですよね。」

「そうだな。正直、お前が…馬鹿にする訳じゃないが、こそ泥みたいと言うか、初めて都会に来たおのぼりさんみたいと言うか、不審者まる出しじゃなかったなら今日、こうして俺の悲しくも切ない身の上話をすることも無かっただろうしな。」

言いたいだけ言い倒す克に、負けじと稔も、

「それって、本田先輩の被害妄想じゃあないんですか。」

「やっと殊勝な態度がとれる様になったかと思えば、すぐこれだ。猪山、そんなことで、俺のサポート、しっかり務まるのかねぇ。」

 あくまで冗談めかす、克。稔はもう迷わず、自信たっぷりに腰に手を当てて、胸を張った。

 「大丈夫です。確かに、篠原先輩とは少しだけ離れてしまうかもしれませんけど…ご心配なく。私の本田先輩への影響力になんら変わりはありませんから。」

「…おいおい、大胆だな。」

稔のこの返答に、克は薄く困惑の色を滲ませる。だが、その色は、弱弱しい蛍光灯の下でも、ほんのりと明るかった。

 「で、さっそく、私の権限で聞いておきたいことがあるんですけど。…可愛い系の先輩ってだれですか。」

「なんだ、盗み聞きしただけじゃ飽き足らないってか。」

「やかましいです。本田先輩は、篠原先輩にあんなに嬉しそうに、笑ってまで喜んでもらえてる、間違いなしの幸せ者なんだから。本田先輩だって誠意をもってお返しをするべきなんです。そうに決まってます。」

「…嬉しそうに、笑って…って、もしかして…あの、観覧車での、ことか。」

「そうですけど。何か文句でもあるんですか。」

「いや、文句なんて…笑いも出ないから…。」

 稔は克のはっきりとしない反応に、心外そうに声を荒げた。…こうして稔に事態の一端を打ち明け、拙いながらも協力関係を結んだ、克。吉と出るか凶と出るか、そして克にとっての解決策はそこに書き記されているのだろうか…全ては、神ならぬ佑子様次第…。まぁ、大したことはない、書庫の中で埃に埋もれた偉人たちの人生だって、読んで見るまで知る由もないのだ。

そうそう、ただ一つ明らかなことが、夢見る様にうっとりと、佑子の笑い声について語る稔の瞳の奥にある。…例え、相手が運命を司る神様とやらではなく、欠点だらけの人間だったとしても…愛は耳栓の代わりになる位には偉大なものだ…。

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