第二十一話
(1)
物言わぬ書棚の列。その見知らぬ英知の堆積が、ただ黙々と夕陽にその身を焦がすさまは、懐かしく、そしてどこか物悲しい…。そしてそんな世界の片隅で、克たち言葉だけが時を刻んでいた。それは、とある金曜日の出来事。
…もしかしたら気になっている方も居られるかもしれないので、この辺りで説明を加えさせてもらいたいと思う。それは、克たちが図書室の、それも自習用のスペースで、こうも七転八倒していると言うのに、何故誰も文句の一つも垂れに来ないかということであるが…答えは簡単である。単純に、克たちの他には、そこに誰一人として存在していないから、それだけなのである。
その理由にしても実に簡単。現役の高校生の方なら、いや、学生の方にはすでにお見通しのことかとも思うが、放課後といても、全ての生徒がそう簡単に浮世のしがらみから解放されるわけではない。大多数の生徒は部活動へ、残りの何割かも委員会やら、ボランティアやらをこなす為に収まるべき所に収まる。
ちなみに、この外芝高校にも、試験期間という名の、今挙げた様な世事の凍結期間、平たく言えば、集中的に勉強させられる…もとい、勉強時間を確保しやすい時期がある。
当然、全校生徒はそのことを先刻御承知であるからして、外芝高校では通常、試験の一週間前に設けられるその期間になるまでは、わざわざ図書室くんだりまで出張ってやろうという余裕を見せられるものは少ないのである。
つまりは、二週間前から主気取りで陣取って居られるのは、平時でこそ暇なアウトドア部員くらのものと言うことになるのだ。
それにしても、いくらまだ二週間の猶予があるとはいえ、克たちのテーブルからのこの見晴らしの良さを考えると…この試験期間というやつは、誰も有難迷惑とは言わないだろうが、あまり歓迎はされてはいないようだ。
どうやらそれは、稔にも当てはまっている様だ。暗記でもする積りなのか、さっきから頻りに教科書の文章をノートに写しているようだが、その能率はあまり芳しくない様に見える。
いや、進み具合の悪い原因は、別のところに…それは詰まり、今、この空間に存在する稔以外の者、要するに、克と香にあるとも言えるのかも知れない。
いかにも寛いだ様子の克が、香に向って口を開く。
「ほお、アウトドア部のお歴々に、図書室を、そんなに度々ご利用頂けてていたとは、夢想だにしなかったな。」
「まったく、稔や佑子じゃないけど、本田に言わせると、どうも、えらい言われ様になるんだよね。でも、度々ってところだけは当たってるかも。あたし、本田が強張った顔して本読んでんの見たこと有るし。」
「強張って…っか、何読んでたかな。」
香はテーブルに寝そべる様に身体を伸ばすと、見上げる様に克に視線を合わせて、
「それ、私に言わせようとして、わざと言ってるわけ。やらしいんだ。」
「そういうお前の反応に対して俺は、とりあえずお前の発想の貧困さに言及すべきかな、一応。」
克も、香の首の捻り具合が無理のない程度のものになるように、少し首を傾げて応えた。
「貧困って、だってこう話が進んじゃったら、思い当たるのは…エロ本とか…官能小説と言うか…。」
さきほどから手元の動きに精彩を欠いている稔を憚ってだろうか、調子良く話を進めていた香の語尾が、照れたような、小さく我に帰る様な、ゴニョゴニョとしたものへと変わる。そういう仕草に加えて、克の仏頂面から逃げ場を探す様に彷徨う香の目線。傍目から見ていると、自分自身の心情に戸惑っているようにも見える。
香のこんな反応が意外だったのは稔も同様らしく、また手を止めて、その姿に見とれているようだ。
そんな自分を含めた周囲の反応に気付いてか、香はやや自嘲気味に、可笑しそうに言葉を継ぐ。
「あっ、でも、その手の気の回し過ぎな本は…えっ、もちろん私にとってもね。ちょっと、私だって、『外したかな』とは思っているんだから、あんまり苛めないでよ。」
香は、克の同意とも、それ以外の何かなのかもはっきりとはしない笑顔を受けて…とりあえず、
「だから、そういう類の本は、図書館には置いてないのかな…なんでこれだけ言うだけで、私がここまで情けない気分にならないといけないわけ。」
香の、少しだが、本当にムッとしたような声に、克が頬杖付いたままで可笑しそうな、緩い笑いを顔に浮かべる…まぁ、本当に、少しだけなのだが…。
「その顔は、私に文句を付ける気はないってことでいいのかな。」
気だるげに自分を見る克に、香が水を向ける様に言葉を切り出す。
「大筋では、文句は無いけどな。」
「無いけど。」
間延びした顔の克を、香がなおも促す。
克は弛緩したような口元はそのままに、
「ほら、エロ本とか、官能小説、確かに図書室には無いかも知れないけど、持ち込みって手があるだろ。」
その締りのない、重そうに振幅する瞼同様に、克はどれだけ本気で言っているのか定かでない言葉を選んだ。香にしても…
「ああっ、その手があったか。」
推奨されないであろう過ごし方ではあるが、まぁ、試験を遥か先に見る学校の自習スペースなど、こんなものなのかもしれない。
いや、その模範的な光景に置いてけぼりにされて…もとい、気が散って、口出しせざるを得なくなった生徒も、約一名居られた様だ。
「あの。」
稔が明らかに気後れしたように、二人の会話に口を挟む。
「あの…私、勉強中なんですが…。」
克と香の、いやにさっぱりとした視線を受けて、稔の顔は言葉を言い終えたままの引き攣ったような笑みで固まる。もし尋ねられたのならば、それに習ったとでも言うつもりなのだろうか。なぜだか克も、いかにも形だけだが、満面の笑みを浮かべた。
「こりゃ失敬した。橋本、そういう訳だから、猪山のこと構ってやってくれ。」
「わ、私、構ってなんて。」
「同じことだろ。それとも俺にだけ、失せろと。」
稔はまた拗ねた様な目線を手元のノートの方に落とすと、
「それは…本田先輩の好きにすれば…私はいいと思いますけど…。」
そういうと、稔は吐く小さない気に合わせて、克と香の目の前に並べられた二つの手に繋げられた肩を、心なしか沈めて見せた。
思わず、二人は眼を見合せた。
「な、なんですか。」
すかさず稔の文句が飛ぶ。
「何だと問われても、なぁ、橋本。」
含み笑いで嫌みったらしく香に話を振る、克。香は懐から零れ落ちる荷物を掻き集める様に、
「あっ、違うんだよ、稔。私の場合はこいつと違って、からかおうって気は一切なくって…。」
「別に当方にも、そんなつもりは用意して無いんだけどな。」
「本田、本当にこりないね。」
香は大義そうに起き直ると、木製の椅子の、背もたれの固さを確かめた。
それは、何てことのない仕草。西日の温もりが、靴下を介して、じんわりと足首に伝わる。
背もたれに身を預けて、急に安らかそうに眼を瞑った、香。それを不思議そうに、そしてどこかぼんやりと眺めていた稔の隙をついて、
「どれどれ。」
克が値踏みでもするように、稔の手元のノートを取り上げた。
「あっ、それ今、私使ってるんですから。」
読まれて困るものが書かれている訳でもあるまいに…それでも稔は、テーブルを乗り越えんばかりに手を伸ばして、慌てて見せる。克は上半身を横に捻ってそれをかわすと、
「年号と、それからぁ、記述式の問題が出された時の為の要点の暗記か…でも、これって書いてる分、手間だな。まぁ、暗記は五感を活用しろとはいうけどなぁ。」
稔はしばらく手をバタつかせながら、ノートの奪還を図っていたが、結果としてどうにも成らないと悟ったのか。立ち上がると、いよいよ克の目の前に立ちふさがった。
克はそんな稔の怖い顔を見上げると、
「一々、こんな丁寧にやってたら、能率悪くないか。」
稔は克から丁寧に差し出されたノートを片手で受け取って、
「じゃあ、どうしろって言うんですか。」
試すような、挑むような稔の眼を付き合わされて、克はまた面白そうに口元を持ち上げた。
「別に、俺の方からどうこうしろなんて言うつもりはないって。」
「それは、無いんじゃない。」
小気味のいい音をさせて、克の肩を掴むものが居る。
「むっ。」
克にしては珍しく、閉じた口から微かな声が漏れる。だが、どうやら、その小さな反応は聞き咎められずに済んだようだ。
「ねっ、折角こうしてるんだから、本田も先輩風吹かせてやりなよ。ほら、稔もお願いしな。」
稔は、ぼんやりとしているところ突然つつかれた様に、
「は、はぁ…はい、えっと。」
そこまで言うと稔は、肩を乱暴に揺すられている最中の克の、怪訝な表情に気付いたのか、またムスっとした顔で席に戻ると、
「あの、ぜひお願いします。」
多少、事務的な感のある口調で克に要請する、稔。もしかしたら稔は、違和感とも呼べない様な克の喉の震えを、ちゃんと気付いたのだろうか。
「あぁ、まぁ、いいけど…っぐ、おい、橋本。」
今一つ掴みきれない態度の稔に、生返事を返す克を、香が急に引き寄せた。克の口からは今度は、カエルのつぶれた様な声が漏れる。
香は克が自分の名を呼んだ声の意味をどこまで理解できたのだろうか、ニッコリ笑ったまま手を離そうとはしない。
「はい、はい。で、稔もこう言ってることだし、一つご教授願えるかしら。本田先生。」
克は溜息を一つ。次いで、今はほとんど無理やり捻られているとも言える傾いた我が身を支えるために、テーブルと椅子の背もたれの上に肘を置いて体を固定する。そして、可笑しそうに肩を乱暴にあつかう香の所業にさらされつつも、比較的キリリとした表情を稔に向けた。
「さっき言った、五感を利用する方法ももちろん有効だけど。俺は、特に記述式の問題に対応するときは、要点を押さえるのに加えて、人に説明するつもりで、覚えたい文章を諳んじたりしてる。まぁ、俺の場合は、書いて覚えることと、あまりに相性が良くなかったこともあるけどな。」
克は、柄にもなく優等生っぽいオーラを放ちながら、ペラペラと稔に語りかけた。稔もそれなりに神妙そうに、加えて感心もしたように聞いているようにも見えなくはないが…目の前で、香に肩を揉まれつつ、ガクガクと張り子の虎のように振れている首だけ自分の方にやっと向けているといった克の現状をまじまじと見せつけられているだけに、いったいどの程度まで腹の中と、学生らしいとも形容できるその上っ面が一致しているかは、定かではない。…まぁ、吹き出さずに堪えているだけ、上出来と言ったところだろう…。
さてさて、ここで、自ら進んで脱線した感のある香が口を挟む。
「『人に説明するつもりで』って、具体的にはどういうことなの。」
克は、もはや首はこれ以上後ろに曲がらないので、目線だけ動かして肩越しに後ろを伺うと、
「そのまんまだよ。もし、他人に、それも出来るだけ丁寧に、自分が今、暗記したい文章を説明するとしたらこうする。そういう具合に、口に出すなりして、内容を頭で一度整理するんだよ。この方法、頭の中で内容を関連付ける作業も経てるから、理にかなってるらしい。実際、俺も結構お世話になってるからな。まぁ、ただ漠然と教科書の内容丸写しよりは、幾らかはマシだってことは言えるだろうな。」
稔は克の言葉を聞き終えると、済ました顔でペンを取り上げる。ちょっとした、防御のつもりだろう。
こんどは掴んだ手で押しやる様に、なぜか無口な稔に代わって、香が言葉を次ぐ。
「ふーん、流石と言うか。私はどこそこを勉強しろって言われても、言われた分だけこなしてたからなぁ。能率とか、効率って発想はなかったな。稔は。」
香に尋ねられて稔は、ようやく柔らかい笑顔で、
「えっ、私ですか。そんなの、わざわざ聞かないで下さいよ。そもそも、話がこんな方向に発展したのは、私の今の恰好が発端だったですから。」
そこで香は微妙な、またもや値踏みするような表情で、
「私、ときどき思うんだけど。稔、あんた最近、しゃべり方、本田に似てきてない。」
それは、稔の脳天を貫く雷に等しい威力を持った一言だった。稔は眼を丸くして、固まったように香の笑いを含んだ顔を凝視してから、たっぷりと息を吸い込んで大きく口を開けた。
「そ、そ、そんな、私と本田先輩が似てるなんて、そんなこと…第一、私、本田先輩みたいに頭良くないですし…。」
「橋本は別に、俺とお前が似てるなんて言ってないぞ。それに、俺はそんなに頭が恵まれた方じゃない。」
「本田先輩は黙ってて下さい。」
克の冷静な分析を一蹴して、稔の抗議は続く…かに思えたが…。
「だから…ですね。えっと、私と本田先輩は…似ていると言われても…それは…私はそうでも無いんじゃないかって…。」
稔はその頬が赤くなっていくにつれて、ゼンマイでも切れたのか、少しずつ大人しくっていた。最初から、似ているか似ていないかそれ以上でも以下でもないことが起爆剤になっているのであるからして、冷静に成ってしまえば、そこから先に続く言葉も無いのもまた当然である。
そして、ここのところ始終、何か嬉しいのか、いかにも楽しそうにしている香が、機を得たりとばかりに、
「本当、こういうときの稔って可愛いよね。どことなく佑子に似てる。融通の利かないところとか。」
香の思惑が当ったのか、稔の顔がますます赤くなる。特に嫌そうでも無かったのは、前からだが…。
克にも思うところがあったのか、香にまた肩を乱暴に扱われながら、ぽつりと呟きが表れる。
「よくも悪くも正直なんだろ。面倒臭がりの俺なんかと違って。」
そんなどこか自嘲気味の言葉を香が聞き逃すはずもなく、克を今までよりもいっそう自分の方に引き寄せると、
「あーあ、庇っちゃって。本田って、結構やさしいとこあるよね。」
「そうか。まぁ、でも、橋本が言うんだから根拠あってのことだろうけどな。」
香は克の皮肉っぽい目線にも動じず、克の耳許に顔を近づける。
「本田だって、私の口からそんなの聞きたいなんて思ってないくせに。で、結局どっちなの。」
「何がだ。」
「だから、本田が今、必死に成って庇おうとしたのは、だよ。」
克は割合無表情で、香の問いに答える様に、稔の方に眼をやる。逃げるように稔が、ノートの上でペン先をモゾモゾさせ始めたように思えたのは、たぶん克の気のせいだろう。…克が気にしない以上は…。克は、靠れるもののない不安定な姿勢のままで、聞こえよがしに溜息を吐きだした。
「さしあたっては、可愛い後輩かな。」
克の言葉を聞いて、徐々に俯いていた稔の首が跳ね上がった。またもや、香は可笑しそうな、そして『してやったり』とでも言いたげな笑みを浮かべた。
「また、いかにも本田らしい薄っぺらい台詞だ。それにしても、佑子には聞かせられない台詞だけどね。」
「居ない奴に媚を売ったって、仕様がないだろ。その点、猪山なら、お怒りだろうと、おべっかだろうと高値で買い上げてくれるんだからな。なぁ、猪山。」
ペラペラとまことに良くお滑り遊ばす、克の舌。その鋭鋒を俯きがちの眼前に突き付けられた稔はと言うと…
「へっ、あの…はい、ありがとうございます。」
「ほらな、ざっとこんなもんよ。」
鬼の首でも取った様な調子で見得を切る、克。
香は軽く首を傾げるような仕草をすると、吐き捨てるかのような溜息を一つ。心底、下らないと言いたげな顔だ。
で、稔だが…残念ながら、皮肉られていると言う事実に関しては、稔の目の前をすり抜けて行っていたようだ。
「あの、そう言えば、篠原先輩の様子どうでした。」
ようやく我に返った稔が、思い出したように克に尋ねた。どうやら、佑子の体調が思わしくないことは知っているようだ。
克は変わりなくガッチリとロックされた肩を、窮屈そうに振るわせてから、二人の様子を盗み見た。そしてどこかとぼけた様な語気で、言葉を選びながら、
「あぁ、篠原は早退したよ。様子は…まぁ、マスクはしてたけど、それほど辛そうでも無かった様に見えたけどな。あとは…そんなとこかな。」
「それだけぇ。他になんかあるでしょ。あんたと佑子の間には。」
香が、何やら不満そうな声を上げた。
それに反応する様に、克の喉を冷たい何かが滑り落ちて行く。
「人聞きの悪い事言うなよ。橋本も知ってるだろ、最近のあいつのモテ具合。人垣が常に組まれてるから、傍眼から見ることもままならない。ましてや、話なんてな。ここのところ、めっきり篠原とも疎遠になった…とっ、そう言うことだから。憚る必要もあんまり感じないが、場合によっては悪しからず。」
克は捲くし立てる様に言いきって、もう一度香の方に視線を送る。唾を飲み込んだときの音が耳から離れない…。
香は、何か納得したように、軽く頷く。そして一言。
「嘘ね。」
「えっ。」
克は自分の口から逃がした声が、何の意味もないことに気付くと、慌てて、
「う、嘘って何だよ。いや、じゃなくて、どうしてそういうことになるんだ。と言うか、どの辺に嘘があるって言うつもりなんだ。」
克にしては目いっぱい慌てているのが良く解る。肩を押さえられている分、その首は口を開けている間中、曲げっぱなしである。とは言え、それが、今、克の顔がやたらと赤くなっていることのいい訳には成り得ないだろうが…。
稔がキョトンとした顔で見守る中、軽やかに克を手玉に取った香の、種明かしが始まって…、
「佑子に聞いてたんだ。熱があるから早退すること、ちゃんと本田には伝えてあるって。」
あっさりと白日の元にさらされる真相。存外、自分の思惑の外にありそうな出来事も、ごくごく常識的な問題として片付く場合が多い。今日も、そのようだ。
口が閉じられ、瞬きが止まった克の顔面から、血の気が引く。随分穏やかになった陽気に、それでも窓の外にはまだまだ青さが残っている。
たっぷり間を置いてから、どうにか克の頭にも血が昇ってきたようだ。
(あの、馬鹿。余計な真似を…。)
多少、多めにではあるようだが…。そこへ、さっきから克の後頭部ばかりを眺めていた香が、追い討ちを掛ける。
「で、本田くんは、何で肝心のところを隠したのかなぁ。」
声の抑揚に合わせて、克の肩を押したり引いたりと弄ぶ、香。仏頂面の克が横目でチラリと見た先では、なぜか稔が顔を赤くして見守っている。…何となく、進退窮まる。
克は気まずさを引き摺りつつも、気を取り直したかのように、相変わらずテーブルに乗せられたままの右手の人差し指を立てた。
「それはだね…余計な誤解を招くのを妨げるためと言うか…。俺のことはともかくとしても、彼氏もちの篠原の周りに、無駄に波風を立てるのも如何なものかと考えて…俺としても、拙いながらも一計を案じたと言う次第で…。」
香は克の釈明が詰まると、
「早退の理由を知ってるからって、どんな騒ぎになるっての。ねっ、稔。」
稔も不思議そうに小さく首を振った。
克は立てた人差し指を戻すと、香と稔の顔を交互に見比べながら、
「いやいや、それは君たち、篠原佑子を舐めてるよ。あの女の人気は相当なもんだから。それこそ、石川以外の野郎が、必要以上にあいつの個人的な事情に精通していた日には…バイトとして雇われた他校の女生徒との妙に親密そうな写真を押さえられて、灰色の高校時代を過ごす羽目に…。」
「へぇー、でも、写真撮られたくらいで、そんなに困るもんなのかな。」
どうやら香の興味を引くことには成功した様子の、克。何気ない風に問い返してくる香に、克も勢い面白そうに…話を別方向へと誘導する。
「ほら、それはだね。知り合いとエレベーターに乗ったときに、見ず知らずの人が同じ箱に乗り合わせた場合、なぜかそれまでの会話が途切れてしまう心理と言うか。」
「それっ、何か違うんじゃない。」
「まぁ、微妙な男心の機微と言うやつだな。他人だと解っていても、大胆に成れないみたいなことだよ。」
「ふーん。」
興味が有るのかないのか定かでない、香の反応。それでも克は、お構いなしに笑顔を振りまく。
「とりあえず、感じさえ掴んでくれれば、俺は満足だから。なっ、何となくは解ってくれただろ、猪山も。」
「はぁ、なんとなくは。」
生返事を返す稔の乗り切らない様子にも、もちろん一切遠慮することなく、克はくるくると話を廻し続けた。
「それは結構。ところで、さっきから言おうか言うまいか迷ってたんだが。猪山、おまえせっかく橋本が勉強を見てやろうと意気込んで、こうしてここに控えていると言うのに、そういった、自分と座る場所さえ確保されていれば事足りる様な、暗記の対策ばかりに精を出すのはいかがなものかと思うんだが。」
稔は、自分に向けられた話題が説教臭くなってきたのを受けて、困ったような、嫌そうな、引き攣ったような笑みを浮かべる。克は誰もそんな状況に待ったを掛けないことをいいことに、話をまとめに掛った。
「本来なら、事前に質問を用意して来て、この場ではひたすら橋本に働いてもらうのが本当なんだろうが。まっ、しかし、猪山にも他に課題やら何やらと、こなすべき問題があることであろうし。そこまでの準備を要求するのは、同じ学生として心苦しくもある。とは言え、いや、だからこそ、せっかくご足労願った橋本に報いるためにも、この場では数学とか、英語とか、すぐに質問の浮かびそうな科目を自習するのが、教えを受ける者としての正しい在り方と言えるんじゃないか。なぁ、猪山。」
「えっ、ええ、そうかも知れませんね。」
克は稔の返事が不服だったのか、陰険そうなうすら笑いを浮かべた顔で、
「かも、知れませねぇ。」
「い、いえ、そうです。その通りです、でした。」
稔は克の妙に感情のこもった言いように、慌てて言葉を翻した。克も一応、それでその部分には満足がいったようで、こんどは香の方に目線をやる。
窓から伸びる陽も、短く、淡くなっている。香は、その光に音もなく浮かぶ塵を気にしてか、瞬きを繰り返した。黒いまつ毛は、瞼の上でしっとりと重みを増す。
「何っ。」
克が飲み込んだ唾と、不意に迷い込んだ間に、香の口から自然と疑問が現れる。克はそんな香の顔を見ることが出来ずに、香から逸らす様にして正面を見た。首が妙な軋みを上げるのを、克は確かに感じていた。
「あぁっ、何かと問われれば、何というか。その、なぁ。えっと…ああ、そうだ。だからな、橋本だって、数学や、英語なんかの方が、経験則とかをだな。指摘しやすいんじゃないかってことをだな。言いたい訳だ。俺は。…どうでしょうか。」
顔が見えていないことをいいことに、笑って誤魔化そうと必死の、克。そんな姑息な対応にも、香はちゃんと思案していることを示すかのように、可愛らしい声を漏らす。
「んー。そう言われれば、そうかも。でも、経験則なんて言われたら、私、どちらかと言えば、質問する立場の方が多かったから。主に、佑子とかに…。」
「確かに、篠原は面倒見良さそうだからな。」
克が間髪入れず、香の話をひったくる。
「ところで、今日は、篠原先生には勉強見てくれるように頼まなかったのか。」
「何言ってんの。今日は、あの娘早退したって知ってるくせに。」
「そうだったっけな。」
香は克の馬鹿に白々しい、空っとぼけた様子を半眼でジロリと伺ってから、
「あっ…もしかし、あんた、私のことからかってた。」
「なんのことやら。」
克は香の問いにやんわりと肯定するように苦笑を漏らした。実は、眼の前で急に方向を変える展開に、内心付いていけていない自分を認識しながら…。
香がため息を吐く。
「なんだ。思わせぶりなこと言うから。私、ちょっと期待したのに。」
克はまた苦笑すると、
「まさか、俺はそこまで冷淡じゃないって。」
「その心は。」
「俺はちゃーんとっ、篠原が猪山の好い人だって知ってっからな。仮に本腰入れて、篠原に歯の浮く様な台詞のたまう日が、百年ののち来たとしても。とりあえず、猪山に一声掛けておく位の仁義は、いくら俺でも心得てるから。」
「なるほど、御見それしました。」
…ところで、稔のことだが。当然、こんな会話に黙っていられるたちではない。したがって、
「二人して何言ってるんですか。第一、篠原先輩には、石川先輩って人が、ちゃ、ちゃんといるじゃないですか。」
稔のどことなくこそばゆい反応に、克と香は示し合わせたように目を合わせる。そこで眼と眼で申し合わせたのだろう。克の、代表して口を開くことに対する了解を求める、無言の笑みに、香がこれまた無言のすまし顔で、いかに教えてやってくれとばかり、簡単に頷いて了承を示した。
「あのな。猪山。」
「な、なんですか。」
妙に優しげな克の声に、稔があからさまに警戒感露にする。探る様な表情が拗ねたようにも見えるのは…まっ、相手が克だからであろう。
「ん、んっとなぁ、ようするにだ。ここに居られる橋本さんが期待に胸を打ち震わせていたことはだね。別に、俺や、あるいはお前が篠原に当たって砕けることではないんだ。」
克の説明。それを聞いた稔の反応は…、
「当たって砕けるって、それ、いったいどういう意味なんですか。」
どうやら、いま一つ伝わっていないようだ。まぁ、この程度の言い回しですっきりと飲み干してくれるくらいならば、今の克の苦労も初めからあり得ないものであったろうが…。
次いで、香の反応は…、
「なんか、『胸を打ち震わせって』って言葉。本田が言うと、なんとなくエッチに聞こえるんだけど。まぁ、距離がかなり近いこともあるかも知れないけどさぁ。」
言い表し辛い表情…少なくとも照れてはいる様なので、偽りを言っている訳ではなさそうだが…どちらにせよ予想の範囲内…。よって、こちらの意見に関して、軽く流して克は、人の悪そうな笑いを隠そうともせずに、いよいよ確信に迫った。
「だからっ、こいつは、俺と篠原が、石川に隠れてこそこそと…そうだな、例えるなら『秘密の関係』を育んでいるのではないか。そんなようなことを期待していたんだな。解った。」
稔は数秒の間、口を噤んだ状態で、それまで年号の暗記に費やしていたのとは比べ物にならない集中力を使用した。これは評価に値する…っと言ったなら、やっぱり彼女は怒るだろうか。
そんな外野の思惑から完全に隔絶された瞑想から帰って来たとたんに、稔の口がポカンと開いた。
「そうだったんですか。」
「そうだった訳じゃないんだけどね。それより、古典的な反応をありがとう。」
「違うんですか。」
「違うんだよ。だから期待外れだったんだ。解った。」
「はぁ。」
やっぱりと言うか、なんとも納得がいかない、稔。そんな後輩との噛み合わないやり取りにも、克は晴れ晴れとした表情で、面白そうにしている香に眼をやった。
「なんだな、俺は期待外れで、お前は橋本の期待に応えた。そういうことだ。」
満足そうな顔で、克は話を締めに入っているようだ…が、
「いや、それは違うんじゃないですか。そもそも、今の話に私が期待にどうこうなんて部分がどこにあったんですか。」
稔は食い下がる。今となっては、初めは自分がからかわれているんじゃないかという危惧に対して食い下がっていたことを、覚えているかも解らない熱の入れようである。…まっ、この手の類の話は、赤の他人の話でも微に入り細いに入り知っておきたいと願ってやまない人種が、決して少なくないのもまた、事実であるが。
そうして稔は、さらに食い下がった…。
「本田先輩。本田先輩と篠原先輩って、いったいどういう関係なんですか。」
本当に、周りに他の生徒がいなくて良かった。克も心底そう思ったことだろう。
稔の詰問に、香は待っていましたと言わんばかりの顔で、
「ワォッ。」
感嘆の声を上げた。確かに、ことここに及んでは、場を盛り上げるのに言葉を費やす必要はない。
さて、そうして沸騰した場は、克の手のへと委ねられた。
「…なんて恐ろしいこと聞くのかね、この娘は…。猪山…、『ひとごろしいろいろ』だ。」
「へっ。」
克が選らんだのは…どうやら熱湯をまき散らすという答えだったようだ。
香と稔は、足もとに飛び散る飛沫を避けてタップダンスでも踊るかのように、眼を白黒させている。
「ひ、ひとごろし…ですか。」
尋ねたのは、稔だった。それに対して克はと言うと、
「そっ、『ひ・と・ご・ろ・し・い・ろ・い・ろ』っだ。」
口にした言葉の重さとは裏腹に、いつもの飄々とした様子が、ようやく取り戻されてきようにも見える。腹を決めたと言う事なのだろうか。
「それってどう言う…。」
恐る恐る問う稔に対して、克は、
「1564年から、1616年ってことだな。」
そう言われたところで、稔に納得がいったはずもない。未だ続く不審そうな目つきが、それを雄弁に物語っている。
「だから、語呂合わせだよ。暗記してたんだろ、年号とか。」
「…あぁっ。」
今度はなんとかかみ合ったようだ。稔は合点がいったとばかりに、克の説明に合わせて手でも打ちたくなる様な、感嘆の声を上げた。
「おっと、それよりも、猪山は、俺と篠原のとの、口にするのも面映ゆいが…関係に付いて疑問がおありだったんだよな。…まだ聞きたいか。」
稔が一応の満足を得た瞬間を狙って放たれた、一条の矢。…本人以外に気付いているものは居ないのかも知れないが。実際、克も必死である…事情が事情だけに…。
そんな克との攻防の果てに、稔は少し気まずそうな顔を上げて克を見た。
「あの、やっぱり、もういいです。」
「左様か。」
どうやら、舞上がった埃は全て、地に振り戻ったようだ。…叩けばもっと埃がでたであろうことは解っているだけに、少々惜しかったと言う気はするが…。
「さてっ。」
克は一区切りつける様に、声に溜め込んだ息を織り交ぜて吐きだした。
「橋本、そろそろ腕、痛くないのか。」
香はちょっと考えるように、瞳を動かすと、
「そうだね。今日のところは、この辺でお開きにしようか。ねっ、稔。」
そう言いながらも、相変わらず手は克の肩を掴んだまま放していない。
「あっ、はい、じゃあ、またお願いします。」
稔の了承は得られた。克はそれを聞いて満足そうに、
「さすが橋本。しかし、良く俺の言いた事解ったな。」
「当たり前でしょ。私は稔と違ってからかわれっぱなしじゃいないから。」
「からかわれて、っか…にしても、猪山と違てってのは酷いんじゃないか。おい、猪山。お前も何か言い返しておいた方が、いいんじゃないか。」
稔がまた、半眼に戻って、
「本田先輩がそれを言いますか。と言うか、もう私のことけし掛けたりしないでもらえます。」
「冷たい反応だな…はいはいっ、猪山さんの後ろに雪山を積み上げたのが誰かは、良く解っていますから。なるほど、これは退散したほうが良さそうだ。」
克は軽い笑いを吐く。ずっと同じ姿勢で抑えつけられていたせいか、義足の足が鈍く、気だるい。
克は改めて香の手を意識しながら、口を開いた。
「それで、もう猪山も帰るのか。」
「いえ、私はもう少し一人で勉強してから帰ります。だから、本田先輩も、橋本先輩も先に気にせず先に帰って下さい。」
「そうか、なんか…いや、意図的に邪魔して悪かったな。」
「いいんですよ。退屈はしませんでしたから。」
克は楽しそうに歯を見せると、
「言う様になったねぇ。んじゃ、お疲れ。」
「まって。」
立ち上がろうとした克を、香が抑え込む。変に勢いがついて、仰向けに倒れそうになった克が。香に不満の目を向ける。
「なんだよ。」
「少しくらい待ちなさいよ。まだ、次をどうするかって話が終わってないじゃないの。」
「次…っね。」
克が崩れた態勢を整えて、椅子に深く座り直す。香はその克の挙動に合わせる様に、立ち上がると今度は、克を上から押さえつける。
「俺は特に、橋本と一緒に帰るのには異存ないけど。」
「違うっ。ううん、解っててはぐらかしてるんでしょ。でも、まっ、二度手間になる訳でもないから、あえて言ってあげる。そうね…私は次回に集まるの、明後日の日曜日がいいと思うんだけど。時間は午前の十時くらい。二人はどうかな。」
克の顔にゲッという言葉が浮き出る。
その上面を飛び越して、稔が平静に会話を受け持った。
「日曜日って、学校締まってるんじゃないんですか。」
「それは大丈夫。うちの図書室、日曜日は一般開放されてるから。本田は知ってるでしょ。…あっ、答えを待つまでもなく、そうだって顔に書いてあるか。」
香が小さくなって座る克の耳元に、顔を近づける。克はむず痒そうに、首を香の口元とは反対側に傾けた。それでも、
「へっへっへっ。」
余裕しゃくしゃくといった風情の香の笑い声が、ほんの少しでも遠のいたとは言い難いようだ。
「でも、いいんですか。せっかくの休みの日に、わざわざ付き合ってもらって。」
「気にしなくていいよ。私も一人でやるより、少しはまじめに出来るだろうから。願ったりかなったり。ねっ、本田。」
「俺は、一人でもちゃんと自分を律することの出来る子だから、同意を求められても困る。」
香の笑顔から見るともなく視線を外して、克が呟いた。そんな克を香が乱暴に揺する。
「なに詰まらないこと言ってんのよ。みんなでやった方が良いに決まってるじゃない。それともなに、あれだけ偉そうなこと私たちに言っておいて。協力できないとは言わないよね。」
「うっ、それは…。」
克の怯みを見て、香が腕の動きを止める。逃げ口上だったとは言え、克も自分が偉そうなこと言っているという認識くらいはあったようだ。
克が言葉を飲み込んでしまわない様に、香は克の肩を揉みながら、
「それから…なんて言うつもり。」
香に催促されて、返答に窮した克の肩から急に力が抜けていった。
「…それで、十時に集まるんだとしたら。やっぱり昼食持参なわけか。」
「ん、そうしようか。」
香は高らかに凱歌をあげた。
それに反比例して、克は肩にどっと疲れが圧し掛かる。
(どうせこの連休中は、部屋に居づらい理由があるんだから。こうして外に出る用事が出来てくれると何かと助かる訳なんだが…しかし、なぁ。頼みごとをされる度にこっちから折れてる状況が、こうも続くとなると…沽券に関わるというか。あぁ、さらに情けなくなってきた…。)
香は、眼の前で乾いた笑いを顔面に張り付かせながら沈む克に、かいがいしく笑みを向ける。
「どうしたの。まさか、何か都合悪かった。」
そう尋ねられて、克も自分の表情があからさま過ぎたことに気付いたのか、一息つくと。
「いや、俺の体を引張ってくるだけなら、なんら問題ないよ。ただ、日曜日は学食も、校内の売店も閉まってるだろうから、昼食をどこで調達しようかなって思ってな。やっぱ近場のコンビニで…って、ことになりそうだけどな。」
舌を滑らかに動かしながら、少しずつ表情を柔らかくしていく、克。香は克の言葉を二、三度頷いたりしながら聞いていた。
「うーん、そうか、食糧調達の問題があったか。なにしろ私も初めてのことだし…どうしようか。」
そう優しく語りかける香の表情を見ていると…さっきまでの表情が本当は、ほんの少しの陰りを含んでいた様にも感じられる。不安か、それともまったく別の感情なのか。どうちらにしても、香は案外と気苦労の多いタイプなのかもしれない。
そんな香が残念そうに、
「佑子の体調さえ悪くなければ、何か作ってもらえるんだけどね。」
そう同意を求められた稔は、はにかんだ様な、困ったような顔で応じた。
「何かって、弁当のことか。」
「うん。佑子が料理も得意なのは知ってるよね。ミスコン委員の人なら。」
克の無造作な質問に対して、香が無警戒な答えを返す。克はギョッとして辺りを見渡してから、
「まぁ、話くらいには聞いてる。」
声を潜める克に、香は楽しそうな笑い声を隠そうともしなかった。
「猪山も食ったこと有るのか。その篠原の手料理ってやつ。」
「はい。でも、篠原先輩のお弁当から、少し摘まませてもらったくらいですけど。」
「ほぉっ。で、味の方は。」
「すごく美味しかったですよ。」
「不味いとは言いかねるにしても、もう少し面白い答えは無かったのかね。」
「本当に美味しかったんですって…。」
克は勢いを取り戻しつつある稔を笑って制して、
「そうなると、篠原の手料理が労せずに食べられる、石川。猪山としては面白くないってわけだ。」
…克も、佑子が達雄に何度か弁当を渡していたのは知っていた…。
稔はまた勢い任せに何かを言おうとしたが、自分に目を向ける二人の顔を見比べてから、
「否定はしませんけどね。そういう先輩はどうなんですか。」
聞き返された克は、済ました顔で小さな声を漏らすと、稔の動作習う様に、残りの二人の顔を見比べた。
「本来なら、お二方同様頭の角をむき出しにして、烈火のごとく息巻きたいところだけどな。しかし、残念ながら俺は篠原の弁当食べたこと無いんでな。もう一つ理性の皮を破れない。それがまた、なんとも悔しい。そんなところかな。」
克らしい分析結果。稔は呆れたというか、慣れたとでも言いたげに、表情を和らげた。それでとりあえず、玄人の稔さんのことは良い。だが、まだ、付き合いのとても良い御仁が残っているのを忘れてはならない。絶妙のタイミングで、克の肩に『橋本香』一人分の体重が圧し掛かった。
「年頃の娘を捕まえて、よくもそれだけのことを言いきった。覚悟は出来ってんでしょうね。」
白い歯を覗かせる香の唇から、楽しげだが、凄みの効いた声が広がる。
克は、そこは流石に男子高校生、ぐいぐいと後ろから迫る香を、余裕で…あるいは虚勢でか…押し戻しながらも、
「その、年頃の娘さんに進言しますけど。娘盛りを強調するんなら、暗くならない内に帰りません。御望みとあらば、お送りいたしまずが。」
どうにか会話を成立させる、克。声を聞いている限りでは、平気そうに見えるが。会話の端々で、すぐに口を閉じるのは…以外に、歯を食いしばっているのを隠すためだったりして…。
どうやら、真相が明らかになる前に、香の方がバテてしまったようだ。
「なに…まさか、送り狼ってのやつなのか…ハァッハァッ…怖いわ…ハァッハァッ。」
「息を荒げながらも悪態を吐くその執念、尊敬の念を禁じえないけど。喉いためる前に、水分補給だけをしておけと、俺は言いたい。」
「大きなお世話…じゃない…あんたにだけは言われたくない、でもなくって…あぁ、もういい、帰るよ。」
「はいはい、仰せの通りにいたしましょう。それじゃあ、そろそろ、その手を放してくれません。さすがの俺でも、この状態のまま外に出て、学徒の賞賛を浴びながら帰るのはちょっと辛い。」
こうして、克はどうにか、筋道を踏みしめ、踏み越えつつも、体裁を保ちつつ帰路へとつくことが出来そうだ。やせ我慢にしろ、よくぞ耐えきったと言えることだろう。賞賛だってこれでもかと浴びせかけたくなる。男には七人の敵がいるとはよくぞ言ったものだ。
あとは香の汗ばんだ手さえ切り離せば、順風満帆の船出となる…が、やはりそう上手くいかないようだ。
「あの、ちょっと待って下さい。」
稔の泣きの一手によって、動きが初めていた香の手が止まる。…そう、一歩踏み出せば、周りにいるのは何も敵だけとは限らない。善意の第三者だって、足もとに落とし穴を掘っていないとは言い切れないのだ…ただ、注意を無視して落っこちるのは、あくまで自分の責任だったりするのだが…。
「あの、さっきの、『ひとごろしいろいろ』でしたっけ、えっと、1564年から1616年っていうやつ。あれ、いったい何の年号を覚えるためのごろ合わせなんですか。」
話の途中で切れていた内容。克本人も、どうしてこの話が中途半端になったのかは思い出せないが、大した問題でもなさそうだ…克は何気なく答える。
「そう言えば、言ってなかったっけな。それな、シェイクスピアの生没年なんだよ。だから、1564年生誕で、1616年没する、てな。」
「シェイクスピアの生没年。そんなの試験に出るんですか。」
「えーっと、そうだな、倫理とかには出るんじゃないかな。ほら、シェイクスピア作品の主人公は、運命の存在を知っているて言われるし。倫理向きの分野だよな。」
「だよなって言われても私解りませんから。本田先輩、先輩はなんだってこんなことを教えてくれようと思ったんですか。」
これには香も呆れたような声を出す。克もいつしか自由になっていた手で頬を擦っている。
「どうしても聞きたいか。」
「えっ…あっ。」
克の意味深な言葉に、声に、ようやく稔も、自分が何を聞いていたのかを思い出したようだ。確かに、世界史の問題と並べるには、ちと重い話題かも知れない。
「そうだねぇ。まぁ、あれだけの器量だから、俺の方はもちろん惚れこんでるけどねぇ。あちらさんがどう思ってるかは、解んないな。ミスコンは仕切れても、意識調査は出来ないからなぁ。なんせ、極秘裏にってのが、建て前だから。ところで、篠原は、俺のことなんか言ってたか。あいつ彼氏もちだけど、脈はあると思いますか。」
最初は稔に答えていた克だが、その内容はいつの間にか、稔への質問へと変わる。…相手を目の前にして、この辺の手際の良さは流石と言うか…。何はともあれ本日の、稔のしどろもどろ加減はピークを迎えた。
稔の回答を待たずに、克は落ち着きはらった顔で質問攻めを続行する。…怒っているわけではないと思うのだが…。
「この手の内容は、篠原と同じ部に所属してる猪山か、橋本に聞くのが有効だと思うんだけど、どうかな。違う、立ち位置にいる奴を利用しようと考えたのは、そう言えば猪山もそうだったような。」
「えっ、えっ。私もって…。」
遂に自分が引き合いに出されたことで、稔の口が無意識に動く。その小さな唇の動きを見逃す克ではない。
「どうかな。あっ、心配しなくても、俺からは、猪山は篠原のこと好きかなんて、解りきったこと聞いたりしないから。なっ、一つ聞かせてくれよ。」
「あっ、あの、私。私は…その…。」
「そこまでにしときな。」
一瞬離れた香の両手が、勢いを付けて克の肩を打つ。稔の言葉が途切れたのと同時に、乾いた音が鳴り響いた。
「橋本…痛いんですけど。」
「五月蠅い。本田、あんた本当にしつこいよね。」
「今のは違うだろ。今のはそう…俺も本当に気にはなってたんだよね。例えばぁ…ほら、周りのやつらに、惜しかっただの、付き合うはずだと思ってだの言われたりしたもんだから。」
「だまれ。てか、今考え付いたような理由で正当化しようとするな。」
「嘘は言ってないぞ。」
「関係あるかそんなもん。」
克が不平を述べるたびに、香が一刀両断…この掛け合いも、なかなか板に付いてきたようだ…。
「私の可愛い後輩を玩具にすんなっての。」
「ひどいな。まるで俺が悪者みたいな言いようだ。それに、俺だって、猪山のことは可愛く思ってるから…はいはい、解ってますよ。じゃあこれで最後にするから。あのさ、猪山、聞いておかなきゃいけないことがあるんだけどな。まぁ、本当は、今日のところも聞かずにおこうかと思てったんだけどな、お前の態度見てたら、踏ん切りがついた。でだ、もし、今から俺が聞くことと、何かここしばらくのお前の態度が、嫌にしおらしいことの理由に関係があるとしたら。誤解を解くためとは憚りにも言えないけど…俺もお前が、決めつけるわけじゃないけど、気にしてるんじゃないかと思うこと、事情の説明くらいしてやれるから。そのことに関して、いくつか質問してもいいかな。もちろん、言いたくなければ言わなくていいから。」
克は顔を思いっきり寄せて睨む香を、どうにか煙に巻いて、稔を見据えた。平常時とそう変わらない柔和な顔つき…しかし、この男はこういう何気ない仕草に、真実味や、迫力があったりするのだ。まぁ、誰でも、ありったけのものを振り絞って誰かと対面する必要に迫られ時がくる…それだけのことか…。
『最後』という言葉が効いたのか、はたまた稔にも克の言わんとすることの辺りが付いているのか、稔の顔に緊張の色が加わる。その様子に、香もどうやら、克の『最後』の一言を了承してやる気に、なってくれたようだ。
克は肩で香を引きずったままで、テーブル越しに肘をついて、稔の方に頭を傾けた。つられて稔も克の方へと乗り出す。椅子の足がフローリングの床を擦る音、しばらく遅れて、稔の制服がノートのページを捲り上げる音が続く。
克は、香がいかにも素っ気無い風を装って、聞き耳を立てていないのをアピールしていないのを確認すると、
「あのな…。」
それでも心配だったのか声は、こそばゆくなるほど潜められて、稔の耳元へと届けられた。
克の質問は、聞きづらそうに今少し前へと乗り出た稔へ、伝えられる。
「まず…お前、さっき、橋本が俺をからかった時だけどな。意味を解ってない振りしたよな。」
突如として固まる、稔。なるほど、本来、心底驚いた時は、彼女はこのようなリアクションをとってくれるはずだったようだ。
克はさらに、念を押す様に、
「『秘密の関係』の件、覚えてる…ようだな。」
克の断定に対して、稔が必死そうな表情を向ける。
バッと音の出そうな勢い。首でも横に振る積りだったのかも知れないが、どうにも動かない…稔にもどうしようもないようだ。
「いや、別に弁解しなくても良いからさ。別に責めようってことじゃないし…それに、猪山がそんな素振り見せた訳。俺にも心辺りがあるから。…それで、その心辺りってのが、本題になるんだけどな…。」
克は言葉を途中で区切ると、深呼吸して、稔の眼を見据えた。稔が克の顔から耳を離したのは、息が掛かったから…それだけではないだろう。
香もそんな二人に、あるいは可愛い後輩にだけかもしれないが、多少の気を遣ってか。どうしても、克の肩から手を放すようなことはないらしいが。その両腕を精一杯に伸ばして、二人から距離をとった。もちろん、微々たる変化ではあったが…。
克は一層潜められた声で、稔に尋ねた。
「猪山…お前、いつかの日曜日、あの遊園地の観覧車の中で…いつから起きていたんだ。」
確かめるように、稔を見る、克。稔は辛そうな、泣き出しそうな顔で、だがこんどは逃げたりしない様だ。…観念したか。
三人が足下に被せた自分の形の影達は、薄墨を流したように、どこまでも広がっていく…。




