第二十話
(1)
とある金曜日、そして時間は、克と佑子が書庫で別れてから四時間程が経過し、放課後となっていた。
午後の授業を終え再び図書室へと戻って来た克が、部屋の前方の貸出返却窓口で、コンピュータを操作している女生徒へと近づいて行く。
克の近づいて来るのに気付いた女生徒が、振り返る。何かを食べていたのだろう、片方の手には割りばしが握られている。
「本田君か、何か用。手が空いているんなら、この本、棚に戻して欲しいんだけど。一口、どう。」
以前にも克と似たような会話を交わしたこの女生徒は、手に握られた箸の先で、積み重ねられた新書サイズの書籍を指してから、もう片方の手に携えられたポテトチップスの袋を、克の方にズイッと差し出した。
克は黄色の踊るその袋に、無関心そうな眼を落してから、
「今日は、部活の方は早めに切り上げさせてもらう積りなんで、その連絡を。本は、片付けてから帰ることにします。それから、結構です。」
克が言い終わると、女生徒はおもむろに足下に横たえられていた鞄を探り始める。そして、取り出したものを、またズイッと克の目の前に差し出すと、
「これ、使う。」
克は突如視界に現れた新品の割り箸に対して、
「いえ、確かに、手に油が付かないから便利そうですけど、そう言うことじゃなくて。…そう言えば、先輩、三つ編み止めたんですね。くせっ毛とは不敬にして存じ上げませんでした。やっぱり、もともと茶髪だった先輩には、そっちの方が柔らかくて、良く似合いますね。」
女生徒の耳元を…なんと言うか、多少不謹慎とは思わなくもないが、これはそう…何となく興味深そうに覗きこむ、克。女生徒はそんな近づいてくる克の顔を、眼だけ動かして見る。瞳の色素も、佑子と比べるとずいぶん明るいようだ。
女生徒はもの言いたげ顔でしばらくの間、割り箸を克の方に向けていた。しかし、克の柔和な表情を確認してから、首をコンピュータの画面に戻すと、今さっき取り出した割り箸を割って、改めてポテトチップスを摘まみ始める。
無言で作業に戻った女生徒に対する克の眼に、これといって不審の色はない。それとて何てことはない、単に慣れているのだろう。
克は、もうこちらを振り向こうとしない女生徒に向けて、小さく笑い返した。多分、割り箸のお返しとして…自意識過剰に成らない程度に…。
克は鞄を小脇に挟んでから、
「それじゃ、失礼します。」
そういって、積み重ねられた新書を一気に持ち上げた。一番上に重ねられた一冊が、トンと胸板を小突く。
女生徒は、挨拶の積りだろうか、割り箸を持った手を軽く掲げて見せた。
後ろを向いて歩きだした克に、女生徒の背中を覆い隠して、ただ長い髪だけが波立っていた。
(2)
「はい、それじゃあこっちね。」
本棚に手持ちのすべての新書を詰め終わった克の背を押す者がある。
「橋本。」
克は背中越しにその人物の名前を呼んだ。それはいいが、当の克に動く気はなかったようで、香が腰を入れてグイグイ押しているにもかかわらず、ひたすら起き上がり小法師のように上体が危なっかしく揺らめくだけだった。
どうにも成らないと諦めたのか、克と少し距離をとって、背筋を伸ばした香が大きく息を吐く。そして今度は、克の腕をとって歩きはじめた。よく見ると香の手には、いつの間にか、克が近くの机に置いたはずの鞄が持たれていた。
「ふむ。」
どうやら克も、興が乗ったようだ。
二人は書架の森を退けて、テーブルの林立する自習スペースへと分け入って行った。
(3)
「ああ、こういう趣向。」
こんどは、克の第一声から始まるようだ。
克は、すでにテーブルに陣取って、教科書やら、ノートやらを所狭しと広げている稔を見下ろして、開口一番そう言った。
「行き成り、何かとてつもなく失礼なこと言われて気がするんですけど…。」
稔はテーブルを挟んで自分の向かいに座り始めた克と、香に眼を向けながら、低い声を漏らす。その顔は、勉強半ばですでに、煮えすぎて鍋底が焦げている…そん風情である。これを見たとしたら、克ならずとも、趣向なり何なりと言葉を弄したくなるのも解る。
「世界史か。…そう言えば、定期試験まで後、二週間強ってとこだもんな。」
克は稔の苦り切った声をスルーして、目の前に広げられた教科書取り上げる。ページの端々には、おそらく授業ででも指定されたところなのだろう、律儀に蛍光マーカーで線が引かれていた。
克は、その一挙手一投足をつぶさに且つ半眼で伺う稔に見せつける様に、教科書を元の位置戻すと、
「いやー、これは謝っとかないといけないなぁ。悪かったな、猪山。」
克はいかにも深く感じ入ったように、
「俺はてっきり、猪山のテスト対策は一夜漬けだけの、何と言うか、多少彩りに欠けるもんだとばかり思ってた。本当、大変な失礼をいたしました。」
克は暗記した文章をそらんじる様に、滑らかに舌を動かす。
稔はポッカンとした顔でその様を眺めていたが、やはり気に障ったのだろう、ジロッと克を睨んだ後で、面白くなさそうに鼻を鳴らすと、無言でノートにペンを走らせ始めた。
しかし、というより当然に、克の口上は、稔の機嫌とは無関係に淡々と進行する。
「いやー、そうは言ったものの、実際目の当たりにして見ると、また、後輩の試験対策っていうのは結構趣があるもんだなぁ。何かもう、申し訳ないどころか、有難くなってきた。一応、礼を述べさせてもらっても良い。」
克がそんな様な事を口にする度に、稔の表情に険が増す。誰だって、舐められて良い気分のするはずはない。そこで遂に…
「本田、言いすぎ。ごめんね、稔。この嫌みなのを引っ張って来たのは私なんだ。だから、ごめんね。ほら、本田も謝りなさい。」
静かな図書館の一角で、少しだけ険悪さが加わった二人の間に、香が割って入る。それに対して、稔はペンを動かす手は止めたものの、うつ向いた視線の先は移らない。
そんな間柄を知ってか知らずか、克はまだ茶々を入れる気アリアリで、
「何言ってんだよ。さっきから再三、謝ってるだろ。…はいはい、そうだな、不謹慎だったかもしれない。」
克も、香の白けた様な表情で、ようやく場の空気を悟ったようだ。
「からかったのも、自分だけ面白がったのも悪かったよ。とっ、今さら口だけで言っても誠意が伝わらないだろうから、頭も下げるわ。」
そう言うと、克は前のめりで両手をテーブルにつくと、
「すまん。」
動作が大げさだったのはどうかとも思うが、この場合、口上がざっくばらんだったのは正解だったかもしれない。いつの間に正面を向いていたのか、稔は真剣な顔つきで克の様子を見つめていた。
克はほんの少しの間ではあったが、固まった様に頭を下げていた。しかしすぐに起き上がると、あっけらかんとした顔で、ドカッと椅子に腰かける。
一応の礼儀は尽くされたとはいえ、まだまだ残る、何とも打ち解け辛い空気。
「頭下げてもらったし、私も黙っちゃって雰囲気悪くしたから、もう、大丈夫です。」
この状況で、第一声を発したのは、意外にも香ではなく稔であった。稔は手にしていたシャープペンシルを、ノートの上に丁寧に置いて、
「その、だから、本田先輩も、機嫌悪くしたりしないで下さい。」
稔の一言に、呆気にとれたように瞬きを繰り返す、克と香。その様を直視して、赤い顔をした稔が、ノートの上に指を突く。その勢いで、シャープペンシルが項と項の間へと滑り落ちた。この一言を言うために、稔にも随分な葛藤があったと見受けられる。
「あっ。」
稔が慌てたようにシャープペンシルを取り上げる。何気ない風を装ってか、教科書の方に向けられた顔は、耳まで真っ赤に成っている。
克は追い打ちをかける…つもりが有ったかは定かではないが、稔の視点の高さに合わせる様にテーブルに頬杖付くと、
「猪山って、可愛い奴だったんだな。」
「へぇっ。」
克の言葉に、バネ細工のように稔の首が起き上がる。その眼は最初、割けんばかりに見開かれていたが、克の目線とかち合うやいなや、途端に恨めしそうな半眼へと変化した。
加えて、ようやく香にも、話の進行させるチャンスが巡ってきたようだ。
「はい、そこまでね。」
言葉と同時に、克のこめかみの辺りに、トスッという音をさせて香のチョップが突き刺さる。
「稔も、悪いけど、二人の世界を造るのはそのくらいにしときなさい。これじゃあ、あんたの勉強見に来た筈の私がやったこととしては、本末転倒ってことになるから。あれ、言葉の使い方間違ったかな。」
こめかみに手刀を宛がったまま笑う香に、克は動じた様子もなく、眼だけ香の方に動かして、
「間違ってはいないだろ。物事の扱い方は、人それぞれだからな。それより、やっぱり橋本は、猪山の監督役として居るのか。」
「監督って、本田ぁ、またっ。」
「いや今回は、別に変な意味はないから。」
「じゃあ、『本末転倒』は、どうなの。」
「別に、いいんじゃないか。」
どうやら、今度は、克と香の話に熱が入っていったようだ。香は手を退けると、食い入るように克に身を寄せる。あえて言うまでもないかもしれないが、克にも退こうなどという気は見当たらない。
そして二人に取り残された稔はと言うと、黙ってペンを持った手を動かしながら、時折、チラチラと拗ねた様な眼を向けていた。…あえて、誰にとは言うまいが…。




