第二話
(1)
図書館から教室へと戻った、克と佑子。二人は何食わぬ顔で、昼休みに入っていた他のクラスメイトの中に混じる。
「え、違うよ。ただ図書館で会ったから、一緒に教室に来ただけ。…そうのなの。確かに、本田って口は上手いよね。」
克が席に着いたころには、佑子はすでに、弁当箱を広げてクラスの女子の談笑の輪に入り込んでいた。
(はぁー、要領いいよなぁ。さすがと言おうか、何と言おうか…。)
そんな佑子の姿を横目で捉えながら、克は購買のコロッケパン齧った。そこに、なかなか整った顔をニヤつかせながら、一人の男子生徒が近づいて来た。
「克〜。上手くやったみたいだな。」
「何をだ。」
克はコロッケパンを口に含んだまま、言葉をもごつかせながら、聞き返した。男子生徒は克の前の席に座る。
「何って、さっきの授業中、篠原と一緒に過ごしたんだろ。たく、お前はあれこれ手際が良すぎなんだよ。」
克の机に突っ伏しながら、さも羨ましそうに話す、男子生徒。克はその頭を机の端の方に、手で追いやった。
「偶然図書館であっただけだ。それに、俺はずっと書庫の方に居たから…。」
「書庫…。ま、まさかお前、あれを…。」
克の言葉を聞き咎めて、男子生徒が蒼白な顔面を克に向けた。そして、嫌そうに体をのけ反らせる克に、さらに言葉を継ぐ。
「お、お前…。あれが俺たちにとって、どんなものか…。」
「解ってるよ。…夢だろ。」
「そ、そうだよな。いやー悪いな、つい取り乱して。そうだよな、まさか俺達を管理する立場にいる克が、裏切るわけないもんなぁ。すまん、すまん。」
(ゆるせ、寺町…。俺は夢より、現実に生きる。)
安心したように、克の背を叩く男子生徒に、克は生暖かい笑顔で応じた。
「まぁ、そういうわけで、俺は一人で書庫に居たわけで…お前の考えているようなことは、ないから。」
克はペットボトルに口を付けながら、寺町と呼ばれた男子生徒に、嘘情報をリークする。
この男子生徒、本名を寺町豊と言う。学内でも情報通で、口が軽いことで有名。克とは同じクラスで、克が所属しているある組織の…その下っ端であるという縁から、こうしてつるむことも少なくない。
しかし、いつもなら、こうして情報を供給してやれば、乾いたスポンジの様に委細構わずあること無いこと吸収していく彼が、一向にニヤついた顔を改めようとしない。そんな級友の態度に、冷汗をかきながら、克は喉を鳴らす。そんな、克の態度に豊がさらに口元を歪ませる。
「嘘はいかんね、嘘は。俺知ってんだぜ…。」
(まじぃ…まさか、俺が篠原にアルバムを見せたのが、バレてる…。)
嫌な笑い声を混じえながら、克を見る、豊。そして、緊張がピークに達したころ、遂に…。
「お前、さっき購買に昼飯買いに出てただろ、その時に、俺、篠原に聞かれたんだよねー、お前のこと。」
「…そ、そうか。」
ようやく口元で止まっていた息を吐き出して、克はどうにか答える。
(…どうにか、停学だけ回避できたか。)
心底安堵する、克。…いったい何の組織に所属しているのやら…。
「んで、聞かれたお前はどうしたわけ。」
克は机の上に残っていたカレーパンに手を伸ばしながら、努めて何気なく問う。豊も聞いて欲しかったのか、満面の笑みで応えた。
「もちろん、話したよ。」
「…知ってること、全部か。」
「ああ、一秒でも長くお話ししたかったからな、我らの姫と。」
「寺町…お前なぁ。」
歯形のくっきりと付いたパンを口から外すと、苦笑いで睨む、克。その顔を見て、楽しそうに笑い返す、豊。
「あ、なんだ、不味かったか。」
「たりめーだろ、篠原がせっかく俺を驚かそうと考えた、その好意を、お前が台無しにしたんだぜ。まぁでも、心配すんなって、俺からちゃんと謝っといてやるから。」
「うわ、ムカつく。お前、本当に月の無い夜は、背後に気をつけた方がいいぞ。篠原、性別に関係なく、誰かれ構わずモテるから…善意の第三者に、何かされるかもよ。」
そうやって、軽口を交えながら、昼休みは過ぎている。それは、何てことのない風景…ただ一つ、気遣わしそうにこちらを窺う、佑子の視線を除いては…。
(2)
(篠原が俺のことをねぇ…。期待しても、良かったりするのかね。)
放課後、多くの生徒と同じく、克も部活に出る。
克の所属しているのは、読書部という名ばかりの文化部で、たいていの生徒は、内申点稼ぎを兼ねた放課後の居場所探しに入部する。克もそんな一人であった。
部室兼活動場所となっている図書室に入ると、克はぼんやりとさっきの豊の言葉を思い出しながら、今日読む本を探す。部員らしき何名かの生徒は、すでにマンガやカードゲームに熱中し、三つ編み、眼鏡という典型的な文学少女の部長は、パソコンで貸出記録をもくもくと整理している。
隆弘は書庫の近くにある、新書を集めた棚の前に来た。どうしても克の視線は、扉の奥…あの部屋での出来事を見ようとしてしまう。
篠原佑子、確かに克の目から見ても美しい少女だった。そして、彼女の麗しさを反芻する度に、克は思い出してしまう。
(何だったんだ…何のつもりで、篠原は…あんな眼で、俺を…。)
克は今見ているように佑子の瞳を回想する。そして改めて、慄然とした。
克は適当な本を棚から見つくろうと、近くの机に掛けた。そして、納得する。
(やっぱ、あのとき感じたのは、悪寒か…。美人にビビるとは、まだまだだね、俺も。)
克は軽く唇を歪ませると、ページに意識を向けた。夕日にすっぽりと包まれた書庫の扉は、足もとの影よりも、遠くに見える。
(3)
「へぇー、読書家ってのは、本当なんだ。」
本に意識を向けて、それ以外のことには頭空っぽにしていた克が、急に呼びかけられて、勢いよく頭を上げる。
「篠原か…。」
ようやく追い付いてきた心臓の鼓動を誤魔化す様に、克は素気なく佑子の名を呼ぶ。
佑子は克と対面する席に座ると、印象的な黒い瞳で舐め上げるような視線を克の顔に向けた。克は息を一度吐き出すと、視線を本の方に戻した。
「あら、私には構ってくれないの。」
その様子を見て、佑子はからかう様な言葉を投げかける。克は文字に焦点が定まらなくなった目を、それでも本の方に向けたまま、尋ねた。
「篠原は、部活終わったのか。」
「うん、ミーティングだけだったから。私の入っているの、アウトドア部って言って、休日の活動がメインだから。本田の入ってる読書部とは、えらい違いでしょ。」
克の視線が向かないのも気にせずに、楽しげに話す、佑子。しかし、その笑顔も克の次の質問を聞くまでの事だった。
「…そんなことまで、寺町に聞いてたのか。」
本から目を動かさずに言った、克の呆れた様な一言。そんな克の他愛無い言葉への返答は、
「…ごめんなさい。」
と、克も思わず声の主の顔色を、確かめざるを得ない様なものだった。
「ごめんて…。どうした、篠原。」
佑子の顔は、柔和さを留めたものだった。しかしその表情は夕日に照らしだされ、お世辞にも良好とは言えない、そんな苦しそうな顔だった。克の驚いた顔と、問いに、佑子が呟いた。
「ごめん、本田のこと他人から探るようなまねして…やっぱ、気分悪いよね。」
「気にすんなよ。そりゃあ、あんなもん見せられたら誰でも不安になるだろ…謝んなよ。むしろ、篠原は謝罪を要求していい立場にいるんだから。たく、そんなこと気に病んでいたのか、几帳面だなぁ、篠原は。」
克は書庫の方を軽く指で突くように示して、さらにそれに笑顔を重ねた。
「ひど、人が真剣に謝ってるのに、本田はそれを几帳面で済ましちゃうんだ。何か損した気分だな。」
克の声に勇気を得てか、子犬のような不安そうな目線を彷徨わせていた佑子に、いつもの調子が戻る。克は満足そうな笑顔を口の端に浮かべて、立ち上がった。
「どこ行くの。」
「あんまり騒ぎすぎるのも何だし、この本返して、帰ろうと思ってな。」
少し咎めるような、佑子の口調。克は気にした様子も見せずに、本棚に乱暴に本を押し込んで居る。
「で、篠原はどうすんだ。」
「え、私。私は、えーっと…。」
テーブルの上の鞄を片付けていた克に尋ねられ、佑子は慌てた様な素振りを見せる。
「えっと、私も帰るよ。帰り道、本田がこけたりしないか心配だし…。」
「そいつは、ご親切に。でも、お前の用事はいいのか。何かしに、ここに来たんだろ。」
「いいの、いいの。何か本田の顔見ていたら、面倒くさくなって来たから。私も今日は帰ることにする。」
「…人の言い草に難癖付けておいて、その舌の根も乾かないうちに言う言葉が、それですか…。いいけどね。じゃあ、俺、部長に挨拶してくるから、篠原は…まぁ、そこらで、好きにしててよ。」
克は佑子の笑顔の敬礼に見送られながら、図書室の前の方に居る部長の元へと向かった。
「ん、本田君、もう帰るの。読書感想文の提出は、来週までだから。…これ、欲しいの。」
「帰ります。提出は、間に合わせる積りです。それ、要りません。」
克は鯛焼きを食べながら、パソコンに向かう部長に、要点だけ答えて返した。そんな克に、部長は加えていた鯛焼きを、少し手でちぎると、ニッコリと笑い、いきなり克の口に切れ端を突っ込んだ。
「遠慮しないで、美味しいから。…あ、間接キスじゃない、これ。」
「…先輩、三つ編みと、そのキャラさえ無くなれば、結構モテると思いますよ。…ん、確かに美味しいですね。それじゃあ、ご馳走様でした。また、明日。」
克はもうパソコンの画面しか見ていない部長に、挨拶を済ませる。部長は鯛焼きを加えたまま、軽く手を上げて応じて見せた。克は開きっぱなしの図書室の出入り口に、足早に向かった。
(4)
図書室の内外に、佑子の姿が見つけられず。克は諦めて下足箱に向かった。
(帰ったかな。まぁ、気まぐれっぽい奴だからな。)
しかし、その予想に反して佑子は正面玄関のところで待って居た。
「ん、待ってたのか。」
「好きにして待って居ろ。…そう言ったのは、そっちでしょ。」
そういうと、佑子は校門へと歩き出した。克は苦笑交じりに、その後を追う。
しばらく家路を進んだとき、佑子が話しかけた。
「本田って、髪の長い女に弱いわけ。」
また、いつものからかう様な口調。克も何気なく返答する。
「そうだな…そうかもなぁ。…何だよ。」
そして気付く、自分の顔色を覗き込むように窺う佑子に…。佑子は、内心を隠すように咎めるような口調をする克に、なおも質問を続ける。
「でも、三つ編みはしちゃダメなんだよね。」
「篠原、まさか…さっきの聞いてたのか…。」
克はいつしか、佑子の独特の視線に居心地の悪さを覚える様になっていた。そしてどうも、下手に出てしまう。
そんな克のひきつる様な表情を見てか、佑子がまたいつもの可愛らしい笑顔に戻る。
「さぁ、どうかな。それより、本田って一人暮しなんでしょ。じゃあ、当然これから押しかけてもいい訳だよね。」
「い、いい訳無いだろ。そういうことは、せめて三日前に言えよな。」
突然、歩き出した、佑子。その背中を追いかけながら、克は努めて落ち着こうとした。
(なんか、情けないな、俺。まぁ、経験不足は否めないけどさ…。)
佑子は立ち止まると、拗ねたような口調で尚も交渉を試みる。
「えー、いいじゃないの。別に、汚くても構わないしさぁ。なんなら、私も掃除、手伝うからさぁ。」
「俺は構うの。それに、今日はもう疲れたから、一人でゆっくりしたいんだよ。三日経ったら、また言って。」
「それって、三日後に聞いたら、また三日後って言うつもりなんでしょ。ねぇ、いいでしょ。そうだ、じゃあ手付ってことで、どこに住んでいるかだけでも良いから。部屋の前までいいから、連れてって、お願い。この通り。」
「まぁ、それくらいなら。…てか、それって何か意味あるのか。」
手を合わせて、半笑いに頼む佑子に、克が遂に折れた。
そして二人は、長く伸びた影を引きずりながら向う…。
(5)
事件は、克が住むアパートの前に来た時に起きた。克がここが自分の部屋だと、アパートの一室を指示した瞬間、佑子の声とともに彼女の左手がゆっくりと持ち上がった。
「あの、本田。…ごめん。」
「お前、それどうしたんだ。」
持ち上げられた佑子の左手の甲から、ダラダラと赤い血が流れていた。克は驚愕しながらも、息を飲んで何とか己を保つ。
「お前、確か、傷って…。」
「うん、私、糖尿病だから。…下手したら、化膿するかも。」
克は暗い顔で俯く佑子の右手を取って、自分の部屋に引っ張って行った。
「あ、あの、入っても、いいのかな。」
「悪いい訳あるか。ほら、もたもたするな、さっさと手当てするぞ。」
克は振り返らず、ひたすら佑子を先導することに専念する。あるいは克は無意識的に、傷口を見るのを避けようとしたのかもしれない。しかし、嬉しそうにする佑子の、朗らか過ぎる笑顔には眼を向けておくべきだっただろう。二人を飲み込んで、頑丈そうな扉が独りでに閉まった。
(6)
「おい、ガーゼがずれるから、あんまり触るなよ。」
克はベッドに座りこむと、台が透明な小さなテーブルの前で、嬉しそうに包帯の巻かれた手を撫でている、佑子に忠告した。佑子が手を止めて、笑顔を返す。
傷口は血の割には深いものでは、無かった。しかし、相応に気疲れしたのか、克はベッドに体を投げ出すように、仰向けになる。
しばらくすると、部屋をあさる音が聞こえてきた。
「…何してんだよ、人さまの部屋だぞ。」
「そっか、家主に聞けばいいんだよね。えっと、いかがわしい本とかは、どこにあるんですか。」
悪びれる様子など欠片もない、佑子の質問。克は溜息を吐くと…観念した。
「好きに探して下さい。…でも、くれぐれも怪我が悪化しないように気を付けろよ。」
克の気使いに、弾むような佑子の返事。そして、克がウトウトし始めたころ、それは突きつけられた。
「んー、戦果は雑誌だけか、なかなか巧妙に隠してるようね。にしても、これ、ね、これ見てよ。ハァー、世の中にはこんな度胸ある人がいるんだねぇ。」
克はいきなり顔の眼の前に現れた、水着姿のグラビアアイドルのアップに目を見張る。そして、克は自分の今の状態が、さらに非常なものであることを知った。
「ちょっ、悪いけど、どいて頂けません。」
「へぇー、私たちと同い年だって…え、はいはい…にしても、いい体してるわぁ。」
克に言われて、初めて気付いたとばかりに、克の上に覆いかぶさる様にしていた佑子が飛び退く。佑子はまだ雑誌を見たまま、オヤジ臭いセリフを吐いた。
(こいつ、…まさか、これ程危機感の欠如した奴だったなんて…。)
人さまに、到底言える立場に無いことを考えながら、克は本日何度目になるかも忘れた様な、心臓の拍動の音に耳を傾ける。すると、そんな克に、雑誌を見比べていた佑子が、また質問した。
「ねぇ、やっぱり本田も、女の子のスリーサイズとか気になる。」
笑いの混じった佑子の声…だが、その眼は…。克はそれに天井を仰いだまま答えた。
「んー、どうかな、サイズを言われても、はっきり言ってピンと来ないしなぁ。でも、篠原のは…知りたいね。」
「えー、ちょっと、それどういう意味。いろいろ、身の危険を感じるんだけど。」
「いい勘だ。篠原の情報は、何でも学校の連中に高く売れるからな。」
それに答えは返って来なかった。代わりに冷蔵庫の開く音が響く。
「おい、ちょっと、何勝手に開けてんだよ。」
「いいの、いいの。私、料理得意だから、何か作って上げるよ。手当てしてくれたお礼も兼ねてね。」
本当に楽しそうな、佑子の声。さすがに克もそれには起き出して、止めに入ろうとする。
「いや、せっかくだけど…。」
そしてまたこの眼に射すくめられる。佑子は言葉を継げずにいる克を見て、微笑んだ。
「ねぇ、ご飯とかある。」
「あ、ああ、冷や飯なら…。」
「ん、じゃあチャーハンにしようかな。」
そういうと、佑子は冷蔵庫あさりを続行する。克は二、三歩後ずさった。そして、
「あの…俺、トイレ。」
と、わざとらしく弁解すると、トイレに逃げ込んだ。
便座の上に腰を下ろし、深いため息を吐いた克は、自問自答し始める。
(疲れる…。女を部屋に連れ込むのって、ここまで居心地悪くなるものなのか…。それに、あの眼…。そう、あの眼だよ。あの眼が…解らん。)
克はトイレでがっくり肩を落とした。遠くの方で、炒めものをする音が響いていた。
(7)
「あれ、オムライス。」
「うん、急に思い立って。…ネギ無かったし。あ、ご免。ケチャップ使い切っちゃったから。」
「いや、それはいいんだけど…。お前、包帯。」
「料理している時にずれちゃって、勝手に替えさせて、もら、おう、と。」
「…それも、いいんだけど…。とにかく、包帯貸せ、そんな手つきじゃ、悪化しかねない。」
克は、テーブルのオムライスを前に、片手で包帯を付けようと悪戦苦闘している佑子から、包帯を奪い取る。近くのゴミ箱には、何故か血まみれの包帯が捨ててあった。
「さぁ、どうぞ、食べて下さい。」
佑子の声に誘われるように、いよいよ試食タイムに入る。ケチャップで描かれたハートマークが、なんだか目に痛い。克がスプーンを手に取った。
「それじゃあ、頂きます。」
克は軽くお辞儀をして見せてから、記念すべき一口目を迎え入れた。
「どう…。」
期待の眼で待つ、佑子。克は完全に飲み込んだあと、評価を下した。
「美味しいな。半信半疑だったけど、料理が得意ってアピールは本当だったんだな。さすがミスコン覇者。確かに、覇道に生きている味がするわ。」
笑顔でブイサインを克の鼻っ柱に突き付ける、佑子。克は二口目を食べながら、本心に思いを巡らす。
(美味しい。美味しいは、美味しいけど…何だろう、この味付けの足りない焼きナスみたいな後味は…いや、美味しいけどね。)
もくもくと、克はオムライスを食べ続けた。佑子はそんな様子を、優しげな笑みを浮かべて見つめていた。
「どうかしたのか。」
佑子のあまりにうっとりとした様子に、思わず克が訪ねた。佑子は陶然とした面持で、それに答える。
「うん、嬉しくって。」
「嬉しい…むしろ、喜ぶべきは俺なんじゃないか。」
「そう思うのはきっと、私の思いが貴方にも分けられたからだよ。」
「なんのこっちゃ。」
遂に克が食べきった…。克は佑子に笑顔で礼を述べる。
「サンキューな、篠原。思わぬ、優良イベントだったな。で、腹も満たされたし、そろそろ帰る。」
克の指さす先には、時計が18時30分を示していた。克の言葉を聞いて、佑子がよよと泣き崩れる真似をして見せた。
「うう、しょせん私は飯炊き女なのね…本田、送ってくれるよね。」
「当たり前だろ。右手まで怪我されたら、堪らないからな。」
「そ、じゃあ、私の左手を握って歩いてもらおうかな。」
「え…左手。右手じゃなくてか。」
「いいの、いいの。ほら、行こう。」
さっさと鞄を持った佑子が、今度は逆に手を引いて外へと導いた。街灯の光が、夜を濃くする。
(8)
手こそ握っていないものの、二人は仲好く歩調を合わせて歩いているようだ。点々と続く、丸い光を通りながら、二人はまた他愛無い会話を重ねていた。
「なぁ、お前の家、どの辺なの。結構、学校に距離あるんだな。」
「そうかな、もう少しだから、我慢してよ。あ、寂しいなら手を握って上げようか。」
克が終始明るい佑子に、苦笑する。佑子が時計を見て、わざとらしく嘆いて見せた。
「ああ、もう、七時か…。これは、怒られるかもなぁ。…本田、彼氏役、一時間800円でやらない。」
「えーと、俺はこの辺で…。」
「待て、せめて玄関まで…解ったわよ。門の前まででいいから付き合え。」
引き返そうとする克を、佑子がその襟首を掴んで、捕まえた。
「解ったよ。でも、説教を聞く人員が欲しいなら、俺をあてにしないで、本物の彼氏でも何でも呼べよ。」
佑子はその言葉をキョトンとした顔で聞いてから、呆れたように溜息を吐いた。
「何、馬鹿言ってのよ。そんなの居るくらいなら。こんな状態になってるわけないでしょ。」
「失敬。俺もまさかとは思ったんだが…万が一ってこともあるから。」
「…今から、親に電話しようかしら。内容はそうね、彼氏を連れてくから…。」
「失礼しました…勘弁して。」
楽しそうに笑い合いながら、ひたすら歩き続ける、二人。克が気になっていたことを、ポツリっと吐いた。
「にしても、なぁ、篠原。お前あれだけ人気あって、何で彼氏いないんだ。やっぱ、敷居が高いって、告って来る奴がいないのか。」
佑子は少し困った顔をしたが、それでも丁寧な口調で応えた。
「告白されたことは、その…何度か、あったよ。でも、全部断ってしまったから。…私、なんか…好きってことが良く解らなくて。あ、き、気になる人は…いるんだよ。」
じっと克を見つめて、佑子は語りかけた。克は興味が有るのかないのか、ただ、
「そっか、でも、みんなそんなもんだと思うけどな。」
と、同意でも否定でもないような言葉を返した。
佑子は少し歩調を速めて前に出ると、かなり大きめの家の門を指差して示して見せた。
「あそこが、家の門。ありがとう、ここまででいいから。」
佑子は克に慈愛に満ちた笑みを掛ける。
「今日はご馳走になって悪かったな。時間も大分、遅くまで付き合わせたし。」
「うんうん、こっちこそ…。それより、また本田の部屋に行っていいかな。」
「ああ、もう恥も外聞も掘り下げられたからな。いいよ、いつでも来てくれ。」
「ん、じゃあね、お休み。」
そういうと、佑子は克の言葉を待たずに門の中へ消えて言った。
克は首をぐるぐると回した後、家路につき始める。見上げる新月の夜は、はるか高い。
(もしかし、俺…何かされたのかもな…。)
克はどこまでも遠い空を、見上げ続けた