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第十九話

(1)

 それは金曜日の早朝、午前三時の出来事だった。克の耳元で携帯電話が激しく揺れ動いた。

 最近、めっきり寝起きの良くなった克が、仰向けだった身体を左に向けた。横になった視界の真下で、携帯電話の背面ディスプレーが激しく明滅している。

 克は下にある左目を眩しそうに細めながら、暗がりでも鮮やかなエメラルドグリーの枕に同衾しているものの、その寝相をぼんやりとした頭で無為に観察する。携帯電話は枕を介して克の耳に、いびきの様な振動を伝えながらその身を震わせている。

 克は溜息のような鼻息を静かに吐き出して、枕に沈みこませていた頭を少しだけ持ち上げた。っと、その拍子に、断続的に克の方に這うようにして近づいてきていた携帯電話が、急に傾斜の逆転したシルクの表面を、衣をずらすどこか艶めかしい音を残して滑り落ちて行く…ほどなく、フローリングの上に引かれた、蛍光灯さえ付いていたなら色はアイボリーに見えるはずの、カーペットとの激突音。

 克はここにきて初めて、視界の中ほどでうっすらと光る、もうかなり蛍光塗料の光の弱まった置時計から、今が、いったい何時であるかを知った。

 克はベッドの上で仰向けに戻ると、今度こそ、はっきりと深いため息を吐き出した。携帯電話は、枕に乗っているときより目立って高くなった唸りを部屋中に響かせながら今も、当たり前の様にカーペットを這いまわっていた。

(2)

 「…悪いけどもう一度言ってくれるか、良く聞こえなかった。」

 お決まりの罵声を予想していた克は、耳から離していた携帯電話から聞こえる囁くような声に、肩すかしをくらったように息を吐いた。

 「うん…朝早くから、ごめんなさい。」

 暗がりの中の克の耳に、ようやく佑子の声が届く。克は佑子の声に意識を向けながら、起き上がってベッドに腰かけた。ベッドから投げ脱した足から…それに無い筈の足からも、カーペットの繊維の一本一本が熱を奪い去っていく。

 「俺にとっては、まだ、深夜なんだけどな…。」

「えっ、なに。」

 克の愚痴を今度は、佑子が問い返す。克はキョロキョロと眼を動かして、蛍光灯のスイッチを探したが、すぐ諦める。

 「いや、何でもないだけどな…で、その早朝から、何の用なんだ。」

克は開いた方の手で、むず痒そうに頬を掻いて尋ねる。佑子はそれに応えて、

「用って言うか…実は私、今朝は…言い難いんだけど、本田の部屋に行けなくなったんだ。だから、そのことを伝えておこうと思って…本当に、ごめんね。」

真っ暗な部屋の中にシンと木霊する、佑子の心底申し訳なそうな声。克はがっくりと肩を落として、

「そっ、そうか…まぁ、それは、言い難いだろうな。」

克は疲れたように、弱々しく返答した。もちろん…、

(そんなの…こんな時間から、しかもわざわざ相手を電話に起こしてまで、連絡してくるような内容じゃないだろうが…寝惚けてんのかよ。)

心の中で悪態をつくことを忘れずに…。

 「解った。わざわざ連絡、有り難うな。じゃあ、学校で…。」

「ちょっと、それだけ。」

 早く電話を切って、寝直したい克に、佑子の怒った声が待ったを掛ける。

 「それだけって、なんだよ。」

 克の眠そうな声が尋ね返す。それに、また、佑子の怒りが触発される。

 「だって可笑しいでしょ。普通、理由くらい聞くものじゃないの。」

佑子の声に克はとぼけたように、

「そうかな、根掘り葉掘り聞く方が、かえって失礼だと思うけどな。それに、女の子にはいろいろあるかなって思って。」

「最低。第一、心配じゃないの、私のこと。」

 佑子はなじる様に、克に語り掛け続ける。克は困った様に、今度は、頭を掻くと、

「そうは言わないけど…まっ、声は元気そうだしなぁ。」

 克の言葉の最後に、大きな欠伸の音が混じる。当然、佑子がそれを聞き逃すはずもなく、

「あっ、今のっ…本田、人がこれだけ人が真剣に話し掛けているのに、よく欠伸なんて出来るよね。こっちは、きっと本田がいろいろ聞いてくるだろうなって、楽しみに…じゃなくて、えっと、そう思ったから。だから、少しでも本田の労を省いてあげようと思って、わざわざ、メールじゃなくて、電話にしたのに…それは、お休み中起こしたのは悪ぅございましたけどね。やっぱり、もう少し気にかけてくれたって良かったんじゃない。」

 佑子の、確かに克の配慮が足りないと言えば足りないとも言える、訴えに、克はそれでもなお眠そうにして、

 「あー、それだけ周到に俺のことに心を砕いてくれていことは、俺としても感謝に堪えない思いだけど…どうせなら、俺が素っ気無い態度とった時のことも想定して欲しかったと言うか…はいはい、解りましたよ。じゃあ、さっきの会話の途中から改めるから、いいか。」

克の声に、佑子は威儀を正す様に可愛らしい咳払いをした後で、

「いっ、いいわ。」

その、少し緊張したような佑子の声を合図にして、克が寸劇を再開する。

 「ハァッ…で、来れないのには、よくよくの理由があるんだよな。」

「うっ、うん、えっと、実は私、ちょっと風邪をひいちゃったみたいなんだ、それで…」

「だったら、寝てろよ。ていうか、お前、体調悪い癖にどうしてこんな時間に電話よこそうとか考えるかなぁ。」

 佑子は克から突然要求されたアドリブに戸惑ったように、

「えっ、っと、少しでも早めに連絡した方がいいかなって…それに、何か、そういうこと考えてたら、なんか寝付けなくって、可笑しいよね。」

 佑子の明るい声に、克は呆れたように、

「いやっ、笑えないから…俺のことを言う前に、まず、自分で自分のことを労われよな、本気で…。」

 「あっ、うん、ありがとう。」

 克はそんな佑子の素直な反応に、すっかり責め込む気がそがれたのか溜息を吐く。それから、一息に冷えた部屋の空気を吸いこんで、

「それじゃあ、今日は、医者に行くから来れないってことか。」

「そう、流石は本田、話が早い。」

 「それは、学校には行くってことだよな。」

「んっ、本田さんが推理した通りです。」

 克は佑子のいつもの変わらない雰囲気に、なぜかいい訳でもするように、

「大丈夫なのか…その、お前も、シックデーは薬だけ飲んでいればいいってことはないんだろ。」

 佑子にも克の気持ちが伝わったのか、佑子は穏やかに克の言葉に応える。

 「大丈夫だよ、慣れてるから。それに今日の体育の授業は見学するつもりだし、後、それから、午後になったら早退しちゃおうかとも思ってるから。」

「そうか…そういうことなら、上手くやれよな。でも、無理はするなよな。」

「かしこまりました。」

 佑子の明るい声に、克が呆れた様な、安心したような溜息を吐き出す。この何度目かの溜息は、もう大分温度を持っていた。

 「用件は、良く解ったから。篠原、風邪気味なのにわざわざ連絡、悪かったな。」

「うんうん、いいんだっ。私にも役得は十二分にあったから…まぁ、考えてたのとは少し違ったんだけど…でもっ…本田、ありがとう。」

 静謐な沈黙。電話は、どっちらともなく口に出された『学校で』の言葉の後に、切られた。

 克は携帯電話を再び枕元におく。そして、大きな欠伸。

 克は小さく溜息を吐き出して、両手で顔を強く擦りあげと、蛍光灯のスイッチを探して立ち上がった。まだまだ暗い部屋の中、だが、片方の足の裏だけはずいぶん温かくなっていた。

(3)

 そういえば、テーマパークに四人連れ立っていたあの日から、佑子には日課が増えていた。

 克は学校の教室の二つある入口のうち、後ろ側にある方から、何食わぬ顔で…多少は白々しくも見える表情だったかも知れないが…中に歩み入ったところを、今日も、目ざとく佑子に声を掛けられる。

 「お早う、本田。」

 その、くぐもったような声に気付いて、克が佑子の方を見ると…今日で何日目だっただろうか…佑子は今日もまた、複数の男子生徒に囲まれて、楽しそうに話をしているようだ。人垣になって、どんな表情でいるのかまでは定かではないが。

 「ああっ、お早う。」

 克は入口からの歩みの勢いを止めずに、簡単に返事をすると、さっさと自分の席へと付く。 そうして姿勢が低くなって、ようやく佑子がマスクをしていることが確認できた。

(なるほどね。何時にもまして、盛況だとは思ったけど、どうやらあれが客寄せに一役買ってるようだな。)

 克が鞄を机の横に掛けながら、横目で佑子の様子を観察する。確かに、佑子は顔の半分を覆う分厚いそうなマスクを付けて、それでも取り巻きに何か言われたときは、しっかりとニコニコと笑顔を浮かべて見せている。

 克は今度は鞄から本を取り出す。枝折を取り出そうとパラパラとページを捲るが、考えるのはもちろん、目の上のたんこぶならぬ、視界の端の集団のこと…。

 (しっかしっ…篠原の奴も、毎日、よくもああして『風と共に去りぬ』のスカーレット=オハラみたいなことして、他の女どもに睨まれないよな。んっ、いや、待てよ…)

 克はいつの間にか頬杖付いて、

(よく見ると…篠原と一緒になって集団を形成している女子が数名…実際の男女比は、4対1くらいだったか…まぁ、多数の方がいったい何を目的としているかは、今日の外壁の隙間の無さ具合からいっても、推して知るべしだな。とにかくモテてる構図としか思ってなかったけど、意外に他人の嫉妬を煽りづらい、安定した構造だってことか…狙ってやってんのかは解らんが…男どもに関してはそうなんだろうが…まぁ、誰にでも過剰に好かれるミスコン優勝者の貫禄ってことかな。にしても…)

 克は溜息を吐いて、申し訳程度に呼んでもいないページを捲りながら、

(ああしていて、誰に不都合がある訳じゃないんだろうけど…まさか、石川が文句をいうとも思えんし…まぁ、仲好きことは良きことか。しかし、『薄幸の美女』とか、『美人薄命』とかいうけど、マスク一つでああも違うものかな…完全、ケーキに群がる蟻にしか見えないな…)

 そんな考え廻らせていた克がチラリと集団に眼を向けると、今しも克の方に目線を向けてきていた佑子と視線が重なる。そのとき、離れていていもはっきりと解る佑子の黒い瞳が…ニヤリと笑った。

(また、やったか…俺も、大概しょうがいないよな。)

 克は心の中で一人ごちてから、嫌なものでも見たように目を本に落とした。

 佑子が行う様になった日課とは、実は、このことなのである。

 あのテーマパークでの一件以来、佑子の男性との接触は眼に見えて多くなっていた…少なくとも、克の眼にはそう映っている。もちろん、克はそんな佑子の態度をいぶかしみながらも、何も言えずにいたのだが…そんな、ある瞬間…克が屈託なくある男子生徒と楽しげに会話をしている佑子に、不可解そうな眼を向けたとき…それに気付いた佑子は…嬉しそうに、そして多分、小さく胸を高鳴らせながら…微笑んだのである。

 そんなことが数度に渡るにつけて、最近、佑子のことを考えるのを放棄しがちだった克も、確信に近い考えを得るに至った。

 (明らかに、あれは俺のこと意識してやってるよな…ハァ、やっぱ、観覧車であんなこと口走ったのが、そもそもの間違いだったんだよな。それに、こうも毎度毎度俺の態度の変化を弄んで楽しんでいるってことは、俺、篠原に遊ばれてるってことか…考えたくもない。)

 気疲れして、克は本に覆い被さる様に机に突っ伏した。そんな、克の頭を軽く叩くものがあった。

 「お前は、あれに混じんないのか。」

克には呼びかけたものが誰か解っているようで、突っ伏したままで、

「俺にはあの和に混じってスクラム組む度胸はない。文科系だからな。ところで、そういうお前はどうなんだ。」

克に呼びかけられた男子生徒は、克の机のわずかな隙間に腰かけて、

「俺か、俺はガツガツ行かないことにしてるんだよ…いろいろあったんでな。」

「そう言えば…」 

 男子生徒の言葉に何かを思い出したように、克は顔を上げると急に改まったような顔つきで、

「復学おめでとう、寺町くん。」

克のその台詞に、男子生徒はかしこまった表情で立ち直って、

「その件につきましては、本田さんには何かと便宜を図って頂いたそうで、有り難うございました。」

「んっ、まぁ、これからも、励んでくれたまえよ。」

「ハハッ、全力で努めさせていただきます。」

 取り澄ました表情の上でも、口元を歪めつつ進行する、二人の珍妙なやり取り。克はいつの間に、この寺町という男子生徒に恩を売っていたようだ…さすがというか、抜け目がない。

 そんな二人の会話が、その複雑怪奇さを増していくのを止めたのは、一本のメールだった。

 「でだね、例の人物と同じクラスにいる者、つまり我々の様な会員にはね。自然、重要なポストがだね…おっ。」

 ちょうしよく舌を滑らせて話していた克を、胸ポケットの震動が中断した。」

「んっ、メールか。」

 それを、いつの間に克の机に腰かけなおしていた寺町が覗きこむ。

 克は背面ディスプレーを覗き込むや、その物欲しそうな顔を手で明後日の方向に押しやって、隠す様にしてメールの文面を呼びだした。

 内容を見て、克が非難めいた疑問の声を呟く。寺町がふざけた様な声を掛けてきたが、それも聞いてはいなかった。

 文面は…

『今日、体育を見学するってことは今朝、話したよね。それで、今度は、別のお話があるので、本田も体育を見学して、なんとか抜け出して来て下さい。場所は、いつもの図書館の書庫で。待ってるから。』

 克は携帯電話を閉じると深い溜息を吐いた。文面から察するに、どうやら送り主は佑子の様だ。そんな克の様子を、寺町がからかうように、

「朝っぱらから大丈夫かよ。」

「ああっ、おかげさんでな…。」

 克はまた机に突っ伏しながら、力なく応える。そんな克を、再度の振動が揺り起す。

 仕方なさそうに、再び胸のポケットから携帯電話を取り出す克に、寺町は今度は、近くの机の一つに腰かけて、面白そうな眼を向けている。

 さて、次の文面には…一言…

『こっち向いて。』

(んっ。)

克は声に導かれる様に、不意に佑子の方に眼を向ける。そこでは、待ち構えていた様に佑子は微笑んでいた。そして、すぐに取り巻きたちとの会話に、まるで見せつけるように、打ち興じ始める。

 「ハアァ。」

 克は喉の奥から吐き出したような呻きを漏らして、横向きに机に突っ伏す。顔は妙な笑いを湛えていた。

 「お前、マジに大丈夫なのか。」

寺町は克の様子を困った人を見る様に、もとい困った様に眺めながら声を掛ける。克は妙な笑顔のままで、

「あーっ、ゴメン、やっぱダメみたいだわ。ということで、悪いんだけど、体育の担当教師にまた、義足の調査するから、そっちの方で点数付けてくれっていっといてくれないか。」

「それくらい、お安い御用だけどな。休むにしても書類とか必要ないのか。」

「いいだろ。俺、教師からは割と信用有る方だから。んじゃあ、頼んだから。」

 そう言って、話を切り上げる克の消極的な態度。義足のモニターとしての作業を、アルバイト兼、単位を取得するのに利用してしまう要領のよい克にも、ままならないものが存在する。

 そして、克はもうチラリともこちらを見ようとはしない佑子の方に眼を向ける。

 (…なんか、情けなくなってきた。)

 克はやり場のない思いを抱えながら、佑子の楽しそうな声を耳に、顔を机に押し付けた。

(4)

 「はいっ、鍵貸して。」

 大量の紙片が集まっている場所独特の、乾いた匂いに囲まれて、克は見覚えのある佑子の姿を夢現のうちで見つめた。

 「本田…。」

自分の手をしげしげと見つめる克に対して、佑子はというと、不思議そうな眼を向ける。そんな、佑子の素の反応に対して、克は顔に手を当てて深い息を漏らす。

 「えっと…篠原には言わなかったかな。この書庫は、建前では一般生徒の立ち入りは禁止されてるんだけど…というか禁止されてるんで、ここの利用者の都合上、終日、扉は開放されていて…つまりは、鍵の心配をする必要はないんですよ、これが…。」

克の何か言い訳めいた説明に対して、佑子はニンマリと口の端を伸ばして、

「何のために話を逸らそうとしているのかは、私も体調が万全じゃないし、この際、追及しなでおいてあげるけど…私の気が変わらないうちに、早めに出した方がいいんじゃない…今、本田が本当に連想している方の鍵を…。」

 克はズイッと鼻先に突き出された佑子の手を、頭を仰け反らせて注視する。佑子の指先との距離を意識してか、いやに口元に意識が残る…。

 「あっ、あのさ、朝っぱらから、風邪気味だとか電話よこしたのは、お、お前だっただろ。病人は大人しく家で寝てた方が、健全だとは思わないか。」

 佑子は、なぜか窮屈そうな克の説得を聞いて、キュッと差し出した掌を握ると、克に見せつける様にゆっくりとその手を引っ込めた。そして可愛らしく顎をしゃくりながら、克の顔を興味深そうに見つめて、

「なんでそう、嫌がるかなぁ。解んないなぁ。」

「俺は、なんでお前が、そこまで俺を困らそうとするかが解らない。」

「何を困ることがあるの。」

 平然とした顔で疑問をぶつけてくる佑子に、克の表情は不安そうな、押しつぶされたようなものへと変わっていく。こういう時に限って、どうして脚というのはこうも重いのだろうか。

 「困るっていうか…そう言えば、お前、俺の部屋に何しに行くつもりなんだ。いや、その前に、なんで今の時点でお前に鍵を渡す必要がある。」

「それは、だって、私、早退するから。」

「なるほど、それはつまり、先に俺の部屋に行って、俺が帰るのを待っててくれるって寸法か。」

「そう言うことになりそうだね。」

 克は今自分の頭に浮かんでいる何かをかき消す様に、乱暴に頭を掻く。佑子はそんな克の明らかに乗り気でない態度を前にしても、なんら躊躇の色を見せない。

 そして克は再度、噛んで含めるように佑子に確かめる。

 「んで、篠原は一体、何しに俺の部屋に行こうってわけ。」

半眼になって自分の顔を凝視する克に、佑子もさすがに自分と相手との温度差を自覚したようで、多少は思案気な顔を作る。それから佑子は力の入った表情でまた、しばらく顎をしゃくったのち、最高に明るい笑顔で克に応えた。

 「やっぱり、看病してもらいにかな。」

 言い終えた後も、佑子は照れかくしつもりか、朗らかな笑顔を咲かせ続けている。その赤らめられた顔を正面に受ける光栄に浴しながら、克は眼を瞑って何かに堪える様に小さく息を吐いた。どうやら佑子の出した回答が予想の範囲内だったらしく、皺のよった眉間を押し戻すように、人差し指と中指で軽く叩く動作以外は、克に目立った動揺は見受けられない。

 そのことに気を良くして…ということでもないだろうが、佑子がはにかんだ様に口元を緩ませて、再び克の目の前に手を突き出す。今度は、何も言わずに、克の顔のすぐ傍で手の接近は止められた。

 克は逃げる様に体ごと視線を横に向けると、

「そもそも、なんで俺のとこなんだよ。」

「だって香に、『病気療養のため今日は、親戚の家で過ごす』って言っちゃたんだもん。」

 克の抗議にも、佑子はまったく動じない。当然、手は自信たっぷりに克を牽制したままだ。克の目つきも、自然、その次の動作を窺う様になる。

 「いや、そういうことじゃなくて…まぁ、いいか。…じゃあ、篠原の本日のご予定は、親戚の家で療養でいいんだよな。」

「まっさかぁ、風邪引いたくらいでいちいち親戚のお世話になるなんて、そんなの、恥ずかしいじゃない、高校生にもなって。」

 「では、どうして親戚の家に行くなどと、橋本に行ったので。」

「それは、香がもし家に来るようなことがあるとしたら、その時私がいない理由が必要かなって思ったから。先手を打って、来ないでもらうためにも。」

 克は深いため息を吐き出して、

「なるほど、橋本にはそう言った。でも、本当は俺の部屋に居る、っと、そういう段取りになってるわけか。理由は、俺に看病させるためにだよな。」

佑子はようやく核心に至った話を、楽しそうに弄ぶように、

「その通り。だから、はい。」

催促する手にさらに力を込めて克に突き出した。それで、克の渋い表情が、いくらも緩和されたはずがないのは言うまでもないことだが。

 克は意を決したように、質問を続行する。

 「篠原の中では俺の部屋に来ることが、ほぼ決定しているってことはよく解った。」

「本当、それって、私、よろこんでいいってこと。」

「悪いけど、喜ぶのはまだ早い。というか、そういう結果にはならないんじゃないかな。」

「どうして。」

 「第一、病気のお前が、学校早退したにも関わらず、家に帰って来なかったら、親御さん心配するだろ。」

「それは大丈夫。この土、日の連休中、両親とも家にはもどらないはずだから。それに、荷物とりに戻らないといけないから、本田の部屋に行く前に一度、家には帰るつもりだよ。」

克がまた半眼になって顔を擦り始める。佑子は気が急いているのか、それても単に熱が出てきただけか、頬蒸気させて身体を刻み動かしていた。

 克は顔を擦りながら、

「篠原、それって…んっ、あえて今は聞くまい。…看病する人手、俺に以外にいないのか。橋本とか。」

「それ酷いよ、本田。本田がそんな寂しいこと言うなんて…それは、頼めば…香は看病してくれだろうけど…。」

口籠っている佑子に、克が顔を擦りあげる動きを止めて畳み掛ける。

 「大体…俺もこんなこというのは口幅ったいし、ガキっぽくて恥ずかしいけど…年頃の娘がだねぇ、そう安易に男の部屋に行こうとするのは、いかがなものかと…本当に、なんで俺がこんなこと言わなきゃいけないんだよ。」

 克もさすがに照れたのか、言葉尻はどもったように聞き取りづらかった。

 佑子はそんな説教じみた克を心底不思議そうに見つめながら、

 「うーん、なんか今さらって感じかな。」

「いやいや、そうでもないだろ。それに…そうだっ、お前、彼氏いるだろ、彼氏。そんなので、俺の部屋に来るのは申し訳が立たないんじゃないか。…ほら、これは朝来ているのとは、多分、別だし…。」

 克の苦しいいい訳を聞いていた佑子の眉が跳ねる。

 「へぇー、そういうこと言ってくれちゃうわけなんだ、本田くんは。まさか、忘れちゃったわけじゃないよね。」

「な、何をだよ。」

 また、嬉しそうな、そしてとてつもなく底意地悪そうな笑顔に豹変した佑子に、克はたじろいで問い返す。その克の少し怒ったような顔に、佑子は優しい笑みを浴びせかけた。

 「まぁ、いいから、いいから。それに、私は早退するからいいけど、次の授業に出る本田は、もう、あんまり時間ないでしょ。」

克は腕時計をやや大げさに見て、

「おおっ、これは確かにまずい。じゃあ、そういうことで。」

「待て。」

入口に向かって踵を返した克を、佑子の手があっと言う間に捕獲する。何のことはない、もとより克のすぐ傍に差し出されていたのだから。

 克は観念したように、笑顔の佑子の方へ振り返る。どうやら、克の脱出計画はこれにて終了の様だ。

 佑子は含み笑いで、呆れたように溜息を吐いた。

 「本田は、私にどうして欲しいわけ。」

「それじゃあ、せっかく聞かれたわけだから答えさせてもらうけどな。…来ないで下さい、俺の部屋に。」

佑子は深々と溜息を吐いて、

「なんで、解んないなぁ。ふつう、女が部屋に来るっていったら、男って喜ぶものじゃないの。」

「ふつうじゃないだろ、この場合…。」

 克の声から徐々に力がなくなっていく。確かに、噛み合わない会話と言うものは、疲れるものではある。それでも佑子は、風邪もなんのその、休むことなく口を動かし続ける。

 「私の風邪のこと言ってんの。もう、水臭い。知らない仲でもないんだし。それに、いざとなったら、二人仲良く寝込めばいいだけのことじゃない。」

「…お前、自分が痛いこと言ってるの…解ってるのか。」

 「そんなに気にしなくても大丈夫だって。本田、小さい子供ってわけじゃないんだから、抵抗力もあるし、私だってちゃんと薬も飲むしさ。ねっ、迷惑は掛けないつもりだから。むしろ、私がいる間は食事も作ってあげようかなって思ってて…どう、いい加減に、観念して、本音を入ったら。」

「本音って言われても、困るとしか言えないんだが…それにな…。」

克は佑子の黒い瞳を深々と見つめて、一呼吸置いてから切り出した。

「篠原は、俺の部屋に泊まる気だよな。しかも連休中、ずっと。」

 克の声が無人の図書館に響く。それに対する佑子の反応は…

「そうだけど、それがどうかしたの。」

「それが一番の問題なんだよ。」

 「ああっ、もしかして。もっと、本田のことを警戒しろってこと。さっきの話からしてそうだよね。」

 克の厳しい口調に、やっと克の言いたいことを掴んだ佑子は、それでもやはり、少し呆れたように笑った。

 「もちろん、そういう部分もある、多分にな。」

「でも、本田の方がそれを気にし過ぎるのは、健全じゃない気がするな。それとも、何か私に遠慮でもしてるの。」

 「何が悲しくて、俺がお前の頼みごとでそこまで恐縮しないといけない。それから、お前にだけは健全とか言われたくない。」

 「ずいぶん言葉に刺がある様だけど…。」

「自分の胸に手を当てて、じっくり考えてみるんだな。」

と、克は言ってはみたものの、実際に佑子が自分の胸に手を置いてぼんやり克の方に眼を向けながら、物思いにふけるにつけて、

「まさか本当にやるとはな。すまん。今のは、単なる慣用表現だから。」

「だから。」

「だから、そんなに気にされても困ると言うか…。」

 このように、事態は克の手に余るほど紛糾していた。理由は勿論、二人の会話が致命的にかみ合っていないからであろう。だが、どうやらそれも、克もやっと佑子の言いたいことを掴んだことによって、一応の方向性を得るようだ。…問題の解消が、その先にあるかは、また別の問題として。

 佑子はいい加減疲れたように、克の鼻先に突き出していた手を戻すと、少し拗ねた様な目つきで二の腕の辺りを撫でる。

 「本田がどうしてそこまで強く遠慮するのか解んないよ。本田は、私にどうして欲しいわけ…どういうふうに言って欲しいの。」

「言い方の問題じゃなくて、俺はお前に危機感をもったらどうかって諭してやっているんだろうが…その、俺に対して。」

もやもやと目線を合わせ切らない克に、佑子は余裕の笑みを浮かべると、

「そのことは大丈夫だって、もし本田がそんなにバイテリティに溢れた奴だったら、私が今、こんなに苦労させられてるはずはないんだから。それより、本田さぁ…どうしてそんなに、頑ななの。それって一種の照れ隠し。あんまり続くと、さすがに鬱陶しいよ。」

話す佑子の瞳は、いつの間にか『拗ねた』を通り越して恨めしそうなものになっている。そして克にも、佑子がそんな態度をとる理由…つまり自分と佑子との間にある決定的な矛盾が理解できたらしい。

 克はハッとして息を飲む、そして今度ばかりは寒気にも似た感覚を覚えた。

 (こいつ、俺の方こそ篠原に部屋に泊まりに来て欲しいと思ってる…そう、思ってるのか。…まさか、どうしてそう思えるんだよ。)

 気付いてしまった克に、見えない何かが圧し掛かる。それでも克は、重たくなった唇を動かして、すりつぶされる様な心境で佑子に語りかける。

 「あのな、篠原。」

「ん、何。」

克を覗き込む様に見上げた佑子のシルエットに、いつの間にか腰の辺りにまで伸びていた髪が揺れる。克はその動きに合わせて揺り動かされる様な後ろめたさを感じている。克にもそれがいったい誰のために成っているのかなど、最早解ってはいなかった。

 「改めていうけど、俺は、もし篠原が心細いなら、ちゃんと面倒みてくれそうな人のとこで寝泊まりさせてもらった方がいいと思うぞ。それから…そういう意味でも、俺は…俺のところには来て欲しいとは思ってないから。」

「なにそれ。何が不満なの。」

 「不満じゃなくて、お互いのためにならんだろってことを言ってるんだけど。」

「なに、そのことはさっき大丈夫だって言ったじゃない。それとも本田は、私が他の人のとこ行ってもいいの。」

 「俺はその方がいいと思う。まっ、行くなら同性の知り合いの所にしとくべきだと、お兄さんは思うな。」

「むぅ。」

 佑子は克の説得に、可愛いうめき声を上げる。そして…本日、何度目だったか…また名探偵がそうするように、克の表情を伺いながら顎をしゃくり始めた。その容赦ない、魅力的な瞳の追及に、克の眼は斜め上へと少しずつ逃れて行く。

「ふむ。」

 佑子はもう一つうめくと、顎から手を離して背筋を伸ばす。そして何かを納得したように、二、三度、コクリコクリと頷いてから、克に…

「もしかして、本田って、マゾ。」

「ハァッ。」

やや高めの、克の素っ頓狂な声。それは克にとってあまりに意外な言葉だったのか、妙な声を上げてから佑子を見て固まっていること以外、克に目立った反応は見られない。見開かれて視野の広くなったはずのその眼には、おそらく、整然と並べられた書籍の列どころから、佑子の問いかけた言葉の意味すら見えてはいないだろう。

 佑子は、克の痛いところついたとでも思っているのだろうか、また余裕そうな目を克に向けて訳知り顔で首を二、三度縦に振って見せる。

 「解った。つまり本田は、私に本田が納得せざるを得ない理由をつくって欲しいてことだよね。まぁ、私もそういうふうにされるの、嫌いじゃないから…解るよ。」

「な、何を…。いや、俺の言いたいのは…」

 克の中をまた寒気が染み渡る。そんな一瞬の遅れが災いしたのか、佑子は克の言葉にも耳をかさず、遂に…二人の関係を決定的に変化させる呪文をとなえる。

 「ばらすから。」

「…。」

 佑子の口にした言葉に思考が付いて行かなかったのだろう…克は唇を次に喋るはずだった意味の形にしたまま、その先を継げずに、ただただ眼を白黒させていた。佑子にはそんな克の心中は汲み取る素振りなどない。

 これは無情な宣告などでは決してない。そのことは言葉を抉られた克にもはっきりと解っていることだろう。後ろ手に組まれた佑子の指先に、甘えるような声に、そして黒い瞳にも、感情が、意識が…そして何よりもその存在が、溢れかえっていた。それはきっと、耳の奥に、今後の克の人生に、生涯残るであろう囁き…。

 「ばらすから。」

佑子はもう一度、克の反応を試すように同じ言葉を口にして、

「私が毎日のように、朝、本田の部屋に通っていること、みんなに話すから。それにミスコンのこととか全部、洗いざらいみんなに教えるからね。…本田が、どうしても私のこと部屋に泊まらせてくれないって言うんなら。」

 佑子は、まだこの状況を飲み込めていない様子の克に、笑顔で念を押す様に、

「これで、良いんだよね。」

 身を寄せながら、克と最後の回答との距離を詰める様に迫る、佑子。終始逃げ腰だった克の中で、唯一後ずさることを拒んだ義足の脚に支えられて、克は諦めきれずに反論を続ける。

 「篠原、お前それは反則だろ。いや、そもそも、それをぶちまけられて一番困るのは、篠原自身だろ。何で、そんな得に成らない様なこと言いだすんだよ…今さら。」

 克の堪えるそこは、真実二人の行く先を分かつ分水嶺だったのだろう。果たして、この時の克に、佑子を突き放すだけの力が、意志はあったのだろうか。見えないそぶりで、見せたことのないような必死な表情で、今この瞬間も自分に縋り付いているのかも知れない佑子を…。

 「今さら…っか、もし本田が本当にそんなふうに考えてくれてるんだったら、私も嬉しいよ。だって、それって本田が、今まで私が本田にしてきたこと…解ってたんだよ、私だって。きっとこれって、私の一方的な事で、本田は私と一緒にはいるけど、私と一緒にやろうなんてつもりないんじゃないかって…。」

切なげに湿った佑子の瞳。それがそのままの湿度で克に向けられる。

 「でも、今日、そんなふうに本田が思ってくれてるんだって解って幸せだな。…本田も私との時間を惜しんでくれてるんだって、解って…。」

 佑子は熟れたように赤い頬を隠す様に、何度も角度を変えて、それでも克のことを見続けている。しかし、あまりにも表情豊かな佑子に直面した克は未だ、次々と投げ渡される矛盾の整理すらついてはいない。

 「お前…自分がいったい何言ってるのか…解ってるのか。」

口を衝く言葉の響きも、それがいったい誰に宛てられたものかすら、ひどく曖昧に擦れて行く。そんな克の不安定さに、佑子は幾度も微笑みを浮かべる。それがますます、克の意識を自分から遠ざけるとは知らずに…。

 佑子は、克の強張った表情に気付いて、

「あっ、ごめん。別に今笑ったのは、本田のことをどうのこうのって訳じゃ…なくもないんだけど…ほら、いつもだったら本田、私が勢い任せなこと言ったら…って、いけない、認めちゃった。えっと、だからいつもだったら、本田はまず、『冗談だろ』って聞いてくるのに、今日はそれがないから…。」

佑子は身体中にため込んだ思いを微塵も逃がすまいと…強く、抱きすくめる様に、

「何か…通じ合ってるなって…思って。」

 一言が、克の中にも有った何かを締め上げた。

 (駄目だ。…もう篠原へは…違う、俺が気付いていなかっただけで、たぶん最初から…何も無かったんだな…。でも、やはり…どうして、今になってこんなに近づいてこようとする。何が篠原の中で、俺たちの距離をここまで縮めたんだ…。)

 その一言は、克を諦めさせるのには十分だった。

 「負けたよ。俺の方が足りなかたようだな、いろいろと。」

 克はどこか寂しそうに吐息を放した。佑子はすかさず、嬉々としてその手を突き出した。

 克は制服の胸ポケットから鍵を取り出すと、いつかのときの様に佑子の掌の上へと…しかし今度は、鍵を摘まんだ指をすぐには話さない。克は鍵と自分の顔を見比べる佑子のものと痛げな視線に答えて、

「ただし、これっきりで、二度とばらそうなんて思わない様に。いいか。」

克の声を、真剣な面持ちで静聴していた佑子が、軋む音が聞こえそう程勢いよく頷いて応える。そんな佑子眼差しに、克が疲れきったような吐息を放す。

 「部屋の中、あんまり荒さないでくれよ。」

 克は…何故だろうか…いつものからかう様な笑みを浮かべて、佑子に語りかける。そして、指に摘まんだ鍵を…鍵ごとその手を…佑子の手に重ねる様にペタリと付けた。

 鍵を間に挟んで、隙間なく圧し合わされた二人の手。加わった確かな重さに、反射的に握り返していた佑子の頬が紅潮する。

 克は佑子のその困ったような、照れたような穏やかな表情を見届けた後で、

 「悪い。」

面白そうな顔で佑子の手から、そっと指を離した。

 「んっ。でも、何かその見下したような表情が…まぁ、許してあげます。」

 佑子はまだ無防備だった掌を慌てたように閉じると、取り返されるのを警戒でもしたのかサッと小さな握りこぶしごと背中の方に隠してしまった。それから、抗議の混じった顔が一転、明るく瞳を輝かせて、

「ところで、夕御飯のリクエストある。あんまり、高級なものは困るけど、食べたいものがあったら何でも言ってよ。」

 「篠原…これから、昼飯を食いっぱぐれた()きっ腹かかえて午後の授業に向かう俺に、なんて恐ろしいこと聞いてくれるのかね、この人は…。」

 鼻息荒く意気込む佑子に、克が軽口を吐く。それにまた、笑った。どうやら克の心境でも、佑子との間で持て余していた距離に、何らかの決着がついたことは確かなようだ。

 佑子は恐縮したように、そしてその何倍もの確かさで楽しそうに笑う。

 「アハッ、えーっと、ごめん。でも、そういうことなら、なおさら腕によりをかけて作らせてもらいますのでぇ…食べたいもの何かない。」

「今日のところは、具合の悪い篠原に合わせるよ。」

「えーっ、何かないの、食べたい物。私、確かに糖尿病だけど、食事に関しては、三食きちんととって、空腹期間を出来るだけ作らない様にするくらいしか縛りはないんだから。ま、もちろん、ヤケ食いとかは不幸にして経験は無いんだけど…ねっ、そういうことだから、本田もそんなに遠慮ばかりしてないで、何でも私にやって欲しいこといってよ。」

 克は特に顔色も変えずに、

「なるほど、お前の食事が俺と同じものでいいことはよく解った。…ところで、お前の早退の理由は、どこにいったんだ。」

 佑子は眼を見開いて、

「あっ…そう言えば、そうだったけ…。…じゃあ、今日の晩御飯は…。」

「俺は篠原と同じものでいいからな。」

「そっ、そう、じゃ今日の晩御飯は、とりあえず和食ってことで。」

 佑子は克の了承の頷きを合図に、机の脚の傍に置いてあったらしい鞄を取り上げた。

 「それじゃ、私、職員室に挨拶に行ったらそのまま早退するから。それで、今日は…私が本田のこと待ってるから。」

 佑子は言い終えると克の返答も聞かずに、早足で扉をすり抜けていった。

 次の授業までは残り十分弱…どうやら克の予想通り、昼食はとれそうにない。それでも、克は近くのテーブルに腰かけると、なんとか人心地ついたようだ。

 克はうつろな目で考える。

(怖がるべきは、気を付けるべきは篠原じゃなかった。本当に気を付けるべきなのは、俺のこの頼りない二本の脚が、狭いあいつの道を踏み外さないかどうか…それだけだ。)

克は義足の脚を強く叩いて、

(あいつはああなんだから。篠原はああいうやつだから…それに、俺にだって必要以上にあいつを傷つけるつもりがないんだから、しょうがないよな。)

 克はテーブルから飛び降りると、誰にともなく呟いた。

 「だから、俺たちのこと悪く思わないでくれよ、石川。」

 克は言い終えてから、心情を吐露したことを照れる様に襟首を撫でた。佑子が言ったこと…もしかしたら当たっているのかもしない。

 克は不意に鼻孔を擽る紙とインクの匂いに我に帰る。そして、身震いする。

 「移されたかもな…。」

 克は独り言と、小さな談笑を残して書庫を後にした。

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