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第十八話

(1)

その観覧車は、あまりと言えばあまりに緩慢に、時計回りの行程を進んでいる。そしてそれ故に、中心から放射状に延びて、一つ一つの箱をぶら下げるポールをひどく軋ませていた。

そんな渦中…三人のいる箱の中では、しゃべるものもなく、ただ座席の下部に備え付けられたヒーターだけが単調な唸りを上げていく。そして言うまでもなく、このアトラクションは人を興奮させるようなものでは絶対にない…たぶん、それらの全てが要因となったのだろう。

最初に『それ』に気付いたのは克だった。

「…こいつ、もしかして寝てないか…。」

克は自分の隣で、俯いたまま微動だにしない稔の俯いた顔を覗きこむ。そこには、安らかに閉じられた瞳と、ヒーターのリズムから置き去りにされた様に細かに震えるまつ毛があった。余程疲れていたのか、克とは反対の窓際に寄り掛かるその小さな肩は、舞い上がる蒸気の隙間で、寝息に合わせて穏やかに波打っていた。

「こいつ、あれだけ強引に人を引っ張り込んでおいて…本当に、しょうがないやつだな。」

そういう克の声も表情も、優しげで、非難めいたものは微塵も感じられない。佑子はさっきから、そっぽ向く様に、窓の外の景色を無言で見下ろしていた。

克は顔を上げて、改めてゆっくりと船を漕ぐ稔の、無防備な横顔を確かめる。

それから口元を綻ばせて、ヒーターで暖められた箱の中に、熱に浮かされた様な軽い息を吐き出した。

「おいっ、猪山…。」

少し潜められた声で稔を呼ぶ、克。その手が稔の肩に触れる…

「やめときなよ。猪山さん、せっかく眠ってるんだから。」

それを止めたのは佑子の声だった。

克は、そっぽむいたままの姿勢の佑子を、探る様に見つめた後で、

「まぁ…それも、そうだな。」

克は稔の肩口に延ばされた手を引いて、どこか言い訳めいた声で佑子に応えた。下に向けられた克の目には、足下を覆う影が色濃い。

三人を乗せた箱は、ようやく四分の一程の行程を昇ったようだ。それでも、何かに遮られるように、地上を鮮やかなオレンジに染め上げる光は、沈んだ様にこの箱の中には届いてこない…佑子が克に声を掛けたのは、そんな…克がずいぶん地面から離れた足下に、おぼつか無さを感じ始めた、そんなときだった。

違和感を確かめるためか、はたまた無言の空間に耐えかねたのか、克が義足の脚で床の鉄板を何とはなしに踏みにじっていると、

「ねぇ、本田…どうだったかな…。」

「ん、どうだったって…ああっ、なるほど、気になるってのは解らなくもないが…俺の口からは、ちょっとねぇ。」

克のからかう様な面差しを、どこからか零れおちて来た夕陽が微かに閃かせる。佑子は少しムッとしたように、

「なに、それ。…流石に、本田が、何か失礼なこと考えてるのは解るけど、何か文句でも…やっぱりあるかな。」

話の途中で急に自信なさそうな表情に変化した佑子に、克は訳知り顔で、

「文句。そんな、まさか、滅相もない。ただな、模範的な遊園地での男女交際のあり方だったかって聞かれるとなぁ…。」

克は親指で、隣で小さく収まっている稔を指して、

「お粗末とまでは言わないものの、問題はあったよな、お互い様に。」

佑子は眉根を曇らせて、克の屈託のない笑顔から目を逸らした。そして辛そうに顔を表情を萎ませて、

「そっか、そうだね…私が無理に引っ張って来たんだから、本田が乗り気じゃないの、私解ってはずなのに…でも、やっぱり残念だな。初めて一緒に来た遊園地で、心残りが出来るなんて…。」

佑子はどん底に沈み込んでいくように、一言、一言を、淡々と呟いた。そんな佑子の感情の激変にもすっかり慣れっこにった克は、落ち着きはらった様子でただただ不思議そうに、

「なんか、俺の…いや、俺と猪山のこと気にしてくれてるみたいだけど、そんな深刻に考えなくても…たしかに、ああは言ったけどさ。そもそも俺も猪山も、篠原に振り回されるために今日は、わざわざ連れ立って来たようなもんだし。だから、心残りがあるなら遠慮して無いで言えよな。あっ、でも石川のこと考えると、あんまり無茶も出来ないか。」

克は気まずそうに佑子に眼を向ける。佑子の方もチラチラと克の様子を伺っている。さすがに、そんな佑子の態度を不審に思ったのか、克が、

「篠原、どうかしたのか。」

そう、心配そうに尋ねる克の声に、佑子の肩がビクリと跳ねる。佑子は何かに脅える様に、躊躇する様に克の態度を伺っている。

「お前なぁ、どうしたんだよ、今になって。なんか俺、お前の気に入らないことしたか。」

呆れたように尋ねる、克。佑子はまだどこか躊躇はしていたが、そんな克の態度に不満があったのか、微かに怒気の宿った眼で、

「…気に入らないのは、本田の方なんじゃないの…。」

「はぁっ、なんだって。」

佑子の呟きが聞き取れなかったのであろう、克がすぐさま尋ね返す。佑子は再び躊躇したように押し黙ったが、

「なんだ、嫌みの一つでも言ってくるかと思って構えてたんだけどな。」

克と自分の心情との間にある温度差が面白くなかったのか、佑子は再びぼそぼそと呟いてみせた。

「だから…気に入らないのは、本田の方なんじゃないのって…そう言ったの。」

「この際、俺のことは関係ないだろ。今は、お前と石川の話を…そんな睨むなよ。」

とぼけたように後ろ髪を掻く克に向けられた、佑子の視線は厳しい。

「まぁ、俺も不手際だったとは思うけどな…。」

克がさらになにか言おうとするのを遮って、佑子がすかさずと口を開く。だが、稔の居ることを憚ってだろか、結局喉を通ったのは、

「関係あるもん…。」

佑子はそれだけ言うと、口を噤んで俯いてしまった。克も困った様な表情で窓の外を見下ろす。視界からあふれ出る様な非日常的な風景は、西日に溶け込んだ様に全てが同じ方向に薄い影を伸ばす。その片隅で丸い日時計だけが、凍った様に色濃い土の色を残していた。

「俺のことか…。」

克が、いつのまにか乾ききって動かし辛くなっていた唇で呟く。佑子がそんな熱をもたない克の声に、そっぽむいたままで、だが確かに横目を向けて伺う。それを知ってか知らずか、克が嘆息するような声を継ぎ足した。

「もともと、ここに来た動機が動機だけに、自分では上手くやれたかどうか良く解らないけど…まぁ、正直、篠原にとってはさらに面白くない話かもしれないが…やっぱ、言わない方がいいかな。」

克に笑いかけられて、その様子を横目でマジマジと見つめていた佑子が、二、三度首を横に振って見せる。もちろん、そっぽ向いたままで。

克は少し安心したように笑うと、

「えっと、それは…。」

そう言葉の続きを自分に促す克に、佑子が、

「言って。」

首を正面に向けて、澄んだ声で続けた。

佑子はすぐに、耐えかねたように、そして宣告に備える様に、手を膝のあたりで重ねた格好で俯いた。

克は佑子のただならぬ様子に、戸惑ったように顔を顰める。

「篠原がどうかは解らないけど、遊園地堪能させてもらったよ、俺は。」

「それ…本当。」

「当たり前だろ、俺はそこまでしてお前に媚びる気ないからな…まぁ、何事も穏便に済めばと思って、本日は、ここにご一緒させて頂いたしだいではありますけどね。」

克のおどけた様な態度。しかし、その顔面にそそがれるのは、克が予想したよりもはるかに強力な熱視線だった。

「本当に、本当。私のこと誤魔化そうとして、嘘付いたりはしてないよね。」

前のめりで印象的な黒い瞳を克に向ける、佑子。克はその今にも火花が飛び散らんばかりの距離に身構えるように、せまい箱の中でもぞもぞと腕組みして、

「…くどいね、君も…。」

呆れたような言い回しも、やり場のない箱の中では不格好この上ない。隣で浅く息を吸い込む稔を横目に、もうずいぶん地上から離れた足下が、克にはひどく心もとなく感じられた。

当然、克の葛藤とは関係なく、佑子の追及の眼差しは弱められることはない。

「本当だよ…。」

言葉と入れ違いに、克の鼻に、口に、熱い外気が流れ込む。克は今さらながらに気付く、眉間のあたりがやけに涼しい…。

睨む様な目つきで、待ちに待った克の返答を得た佑子は、深い息で小さな背中を膨らませると、急に項垂れて、

「…よかったぁ。」

ため息と安堵の声が重なると、こんな響きになる…そんな、吐く息で祈る様に絡められた両手を温める様に、佑子は潤んだ瞳を見えなくなるほど細めて呟いた。

「何が良かったんだよ、人を散々脅かすような素振りを見せて。」

「だって…でも、本当に良かった。」

克はしみじみと余韻に浸る佑子を見つめる。その視線は確かに不可解そうだが、だが決して冷たいものではない。…そう、克は忘れていた。自分にとって佑子が、どんな存在であるかを…。

観覧車は暮れていく空に置き去りにされたかのように、その巨体を静かに傾けて行く。克たちの居る箱もようやく、車輪の四分の一ほどを登った位置に到達した。

克が背もたれに深々と身体を沈めると、軽く瞼を落として一息吐く。

「ところで、そう言う篠原の方はどうなんだよ。」

「どうって、何がよ。」

「別に謎かけしようって気はないよ。解るだろ、今までの会話の流れで。」

「そんなふうに言われると、私ますます解らなくなるんだけど…。」

今度は克がそっぽ向く様にして、窓の外の景色を見下ろす。意外なほど明るい園内。そこで客たちは、アトラクションの間を網の目を縫う様にして広がる道を伝って、同じ方向へと目指している。…日は沈む、克の視界から消えていった人々も、家路についたのだろうか。

「ねぇ、本田…。」

克の一時の瞑想を佑子の催促する様な声が破る。そこで、ようやく克は、自分がまだテーマパークにいることに気付いた。

「あぁ、んーっと、だな…せっかくだから、篠原にも今日の感想を聞いておきたいなと思ってな…。今聞いておけば、帰ってからわざわざ電話する必要もないだろ。」

佑子は渋い顔で、

「感想って、今言って電話してくれないくらいなら、言わない。」

「あっそう、じゃあ、感想は仕方なしに帰ってからのお楽しみにして。」

「『仕方なし』にお楽しみにね。」

克の笑顔に対して、佑子がニンマリと笑い返す。楽しそうだが何か引っかかっている感は否めない。克は当然のごとく、いけしゃあしゃあとして、

「この後は、どうする積りなんだ。このテーマパークが閉まるまで、確か、まだしばらく余裕あったはずだけど。ぎりぎりまで遊ぶ気あるのか。」

克の質問が、意外や意外、まともなものだったからなのか、佑子は口元に手を当てて思案顔で首を捻る。そんな姿を、ときおり気がついたように差し込む西日が、くっきりと浮かび上がらせる。

克の小さな笑い声を、佑子の不愉快そうな声が追いかる。

「何なの。」

「いや、なんというか、その、仕草がさぁ。」

佑子は、焦っていないというところアピールするためか、努めてゆっくりと手を膝の上に戻した後、『それで』とでも言いたげな目を克に向ける。しかし、こんな程度で怯む克ではない。

「本当、ステロタイプな可愛い仕草、どうもご馳走様です。さすがはミスコン覇者、風格が違うよな。」

佑子はムッとしたと言うよりは、困ったような顔つきで、そして間違いなくその白い耳まで紅潮させて照れていた。

佑子が何かをふっきる様に、急に空せきして見せる。そこでまた、克の乾いた笑い。それもこれも、やはり佑子には癪に障る部分があったのだろう。佑子は皮肉っぽい表情を浮かべると、

「へ、へぇ、私、可愛く見えてるんだ。それは、ありがとう。」

まだ、恥ずかしさが残っていたようで、言葉は照れ隠しに俯き加減に放たれる。そして、しばらくの無言。その後で、克の照れたような顔を期待して上げられた佑子の目の前にあったものは…

「礼には及ばんよ。俺は石川の代打でもあるからな。直球くらいは打ち返しとかないと…しかし、ど真ん中だもんな、さすがに面食らった。」

このように、佑子には…多分、初めから、勝ち目は無かったようだ。それにしても、克は、よくこう次から次に厭味ったらしい文句が口を吐くものだ。どうやら、返す言葉が見つからなかった様子で溜息を吐く佑子にも、悔しさよりも、呆れたような、子供の悪戯を許すような、そんな穏やかな印象が強いようだ。

「そう、それはお勤めご苦労様です。えっと、それじゃあ話を戻させてもらうけど…」

「どうぞ、どうぞ。」

ここぞとばかりに間の手を入れる、克。今度は佑子もムッとした様子で、ジロリと克に、それでもいま一つ迫力に欠ける一睨みをくれてから、

「そ、そうね。時間のことはまだいいとしても、石川も、それに猪山さんもこんな状態だから。今日のところはこの観覧車を最後にしておこうか。」

そんな佑子の申し出を、克から拒むはずもなく、

「英断だな、隊長どの。」

「う、うん。調子の悪いって人たちを、無理やり連れまわしたりは出来ないからね…あ、あれ、どしたの。」

佑子は、急に自分に胡散臭そうな視線を送り始めた克に、困惑したように尋ねた。克は鼻息を潜める様に吐き出すと、

「お前なぁ、よくもまぁそういうことが言えるよな。」

「へっ、何、何のことを言ってんの。」

克はもう一度、先ほどよりもはっきりとした鼻息を吐き出した後で、

「俺も迂闊ではあったかもしれないけどな。それでも…猪山のことこんな使い物にならない状態にしておいて…。篠原、今日のこいつに対する一連の行動…あれ、わざとだろ。」

一点して箱の中を支配する冷やかな空気。今はヒーターの駆動音もどこか空々しい。そんな身を切る様な沈黙が破られたのは、克たちの乗った箱がやっと頂上に到達したころだった。

「えーっと、やっぱ、ばれてた。流石は、本田。」

答えを口にする佑子は、はにかんだ様に…微笑んでいた。克は苦渋でも飲み下すように眉間を窄めて、舌うちの様な音をたてて鼻から息を吐きだした。

「解らないわけないだろ。あれだけ、あからさまじゃあな。」

そう答える声にも、どこか力が感じられない。

「そっか、私もとくに隠そうとしてた訳じゃないんだよ。もともと、本田に解って欲しくてやってたわけだから。でも、面と向かって言われると、なんか照れるな。」

「照れるって、お前な…。」

克の責める様な語気に、佑子の顔にも陰りが生まれた。ここに至って、ようやく佑子の台詞に弁解らしい意味が加えられる。

「私だって解ってるんだ、本当は。私、猪山さんに、酷いことしてるって…でも…。」

「でも、なんだよ。」

佑子は拗ねた様な眼を克に向ける。そして、やはり、また言い淀んだ様に頭を垂れた。克は呆れ顔で溜息を吐くと、突き出した親指で稔を指して、

「解ってるんだろ。こいつがお前のこと…えーっと、慕っているとうか、尊敬しているのというか…何と言おうか。とにかく、こいつはお前のこと間違いなく好きなんだからな。じゃなきゃ、休日を丸ごとつぶしてまで、のこのここんなとこまでひっついてくるはずないからな。普通、どこまで付き合いのいい奴でも、なかなかここまではしないだろうな。なんせ、遊園地くんだりまできてエキストラで出演、加えて演目が偽装カップルの片割れじゃあな。俺にも、しみじみ思うところがある。…いや、まぁ、そこんとこは、配慮しようと気を使ってくれてたってのは、了解したけどな。やっぱ、こいつが絶叫系苦手だって知っていて追い詰めるような真似したのは、流石に越権行為ではないか、監督。」

話し終わって、克が再び溜息を吐く。佑子は膝の上で重ねた指を、引き攣らせたように擦りながら、それでも目線は克の顔を正面から見つめていた。

そんな、この近距離では、ある意味決然としても見える佑子のいで立ちに、克は後ろ髪の辺りをこそばゆそうに掻きながら、

「まっ、越権って言うのは、俺もだったかな。悪い、解りきったことをペラペラと…。ただ、俺が言わないと、こいつからは絶対に出ない言葉だからな。」

克は首を稔の方に曲げて、佑子に語りかける。佑子の表情が不愉快そうに曇る。

…本田克。普段はこれほど迂闊な男ではないはずだが、本当に、今日という日はどうしたと言うのだろうか。これは、やはり、克が、あれほど佑子に追い詰められていた克が、彼女に対してある種の気安さを覚えているからなのだろうか。そういう意味では、この状況は佑子にとっては歓迎するべき者なのかもしれない。しかし、それを今、この狭い箱の中に押しこめられている佑子に解れと言う方が酷と言うものであろう。だれだって、そうだ。もちろん佑子もそうだろう。目の前で他の女を見ている男の考えていることなど、解りたくもない。

「だって…。」

「んっ。」

克が自分の方に眼を向けるのを確認して、佑子は言い訳する様に、どこか甘えるように続ける。

「猪山さんが私のこと、好きでいてくれてるんだなってことは解ってるけど…なんだか、わざと本田を、私から遠ざけようとしているような気がして…そんなふうに考え始めたら、どうしても許せなくって…だから。」

いつの間にか伏し目がちに成っていた佑子が、克に返答を催促するかのように瞳を動かす。克は肘を窓際に付けると、頬杖付く様にして、佑子に疲れきった眼を向けた。

「篠原って、実は根の暗いやつだったんだな。」

克の吐き捨てる様な感想。それを予期してはいたのだろう。佑子は大して驚いたような表情を見せることはなかった。しかし、切なさと、やり切れなさの浮かび上がった顔を隠すように、抱え上げるように座席の上に引き上げた両膝に顔を埋めると、

「悪ぅございましたね。でも、それだって、本田の所為じゃない。…どうせ、『人の所為にするな。』とか、『そういうことは、石川に言え』だとか、そんなこと考えてるんでしょ。それくらい私にも解るよ。だけど、お生憎さま。だって…私がこんなふうに思うのは石川がここに居ないからでも、猪山さんが眠ってるからでもないんだもん。…変じゃないよ。少なくとも私にとっては…。当たり前のことなんだ…だって、私は本田のことだけは…。」

「それ以上、言うな。」

自分の言葉を遮った克に、佑子は眼を割けんばかりに見開いた。そこにあるのは、怒りか…失望か。

「それ以上は言わないでくれ。俺は解ってるつもりだから。でも、こいつらには…猪山と、石川には…せめて言わないでくれ。」

佑子の苛烈な無言の問いかけに、克は悲痛そうに顔を曇らせた。

克は何に対してこれほど苦しんでいるのか。自分の気持ちか、達雄や、稔の気持ちか…それとも、佑子を思ってか…。

佑子はやり切れなさそうに口元を歪めて、目線を下げる。

「私のこと追い詰めたくせに、あんまりだよ。…ずるい。」

吐きだされた溜息には、心なしかホッとしたような温もりがこもっていた。

克にもそれが感じられたのか、

「すまん。」

そう言い返す声に、気安さが滲んでいた。

下り始めた箱の中。克たちの目にも、眩いばかりにオレンジが焼き付けられていく。光の粒子を遮って、蒸気の影が克のジーンズの上で波打っていた。

「静かだね。」

佑子の声が耳鳴りの様に響く。夕陽を背にした佑子の影が、身じろぎする様に蒸気に揺らめいた。

「だな。」

ヒーターの駆動音に聞き入る克は、自然、口数が少なくなる。佑子が何気なく、この観覧車の終点に眼を向けた。

「ねっ、本田。」

「んっ。」

佑子に呼びかけられた克が、唇を閉じたままで応じた。今この箱の中では、眠気の様な重たさが広がっている。それでも佑子は続ける。

「あのさ、これで最後だから。最後にするから、最後に一つだけ聞いていいかな。絶対に、今日は、これで最後にするから。もう絶対に、面倒くさいこと聞いたりしないからさ。…だめかな。」

佑子が喋り終わるのを克は、ただ、黙って待っていた。そうして、静かになるや、大儀そうに瞼を落とした後で、大きな欠伸を一つ。

「なんだ。」

「えっ。」

「聞いてるぞ、俺は。」

「あっ、はい。」

佑子は納得したとばかりに、背筋を伸ばす。だがすぐに思い直したように力を抜いて、

「どうして…石川と私をくっ付ける様なまね、しようとしたの。」

 佑子の声に、閉じられた克の口を衝いて喉が鳴る。克の足の裏では、上りとはまた別種の細かな感覚が蠢いていた。

 克は観念したのか、眼を開けて、

「どうしてって、俺たちは…いや…俺はそのために、ここに連れて来られたんじゃないのか。」

 克は言い訳がましいことは言わなかった。いつにない強い視線が、佑子の黒い瞳を揺らす。

 とたんに佑子が何か言おうと小さく口を開く。しかし、言葉はない。ただただ、今にも泣き出しそうな表情が、この際雄弁だった。

 「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。」

 佑子の潜められた声は、震えていた。克はまた、鼻から熱い息を送りだすと、やおら姿勢を元に戻す。そして、佑子の心の整理が出来るのを見計らって…しかし、

「でも…。」

 佑子の謝罪には、どうやら続きが有ったようだ。役目を果たしきれずに綴じなおされる克の唇は、本人が意識するほどに、血の気が薄い。

 言葉を継ぐ佑子の眼は、克に向けられる。

 「私、そんなつもりがあるんだったら。そんなつもりだったら私だって、本田を連れてきたりしない。本田にだけはこんなこと、して欲しくなかった。」

 佑子の目線は片時も、克から乱れることはなかった。克も引き締まった顔で相対する。…佑子は求めていなかったと言う。だとすればそんな佑子の態度が、克に佑子と正面から向き合う心構えをさせたことは、皮肉と言えるだろう。…今日の克は少し変だった。そんな克の態度が、佑子を不安定にし、また彼女にある種の『勇気』を与えたといえるかも知れない。

 これは悲劇だ。ここはテーマパークで、誰にとっても非日常。それが克を佑子の傍らに引き寄せたのであれば、克にとって佑子とは、日常の一部とは言い難い。…魔法は解ける。並んで歩いたとしても…それが出口ならば。

 言い終えた佑子の視線は、徐々に下へと下げられていく。克にも言葉はない。

 静かに浮き沈む稔の寝息。佑子は額を膝に押し付ける様にして、状態を折りたたむ。弾かれたように佑子の背後から差し込む日差しに、克は顔を背ける。

 「静かだね。」

 佑子が思い出したかのように、もう一度克に語りかける。その声ははっきりと透通って聞こえた。

 「今日一日、慌ただしかったもんな。」

 答える克が、稔に視線を落とす。窓ガラスにこめかみの辺りをピッタリと押しつけるその姿は、少し窮屈そうだ。佑子も前屈みのまま、首だけ正面に向けて、そんな姿に微笑みを向ける。

 「猪山さんのおかげだね。」

「篠原って、やっぱ悪女だな。」

「どういうつもり言ってんのか解んない以上、同意しかねる。」

 すかさず返した佑子の顔は、柔らかく、暖かい。そんな、少し首を傾げて自分見る姿に視線を移して、克は、

「ミスコン覇者は、後輩の一人や二人手玉に取ったところで、許されるってことだな。心配しなくても、ミスコン委員である俺が得票数に影響しそうなことは吹聴出来ない決まりになってるから、このことはオフレコにしといてやるよ。」

「また、人聞きの悪いことを…第一、私がいつ猪山さんのこと手玉に取ったての。」

克は、ゆっくりとシートに背を付ける佑子に、面白そうな視線を向けながら、

「お前なぁ、猪山のこの状態をなんとする。こいつが今、こんな情けない面をさらしてんのも、篠原に良いように翻弄されればこそだろ。せめてもの救いは、こうして完全に潰れてくれてことだな。」

 「それって、本田にとって都合がいいてことだよね。」

「結果的に密談するには助かったよな。お互い、良い後輩もったもんだ。」

「ひどっ。…でも、まっ、猪山さんには私も感謝しなきゃね…いろいろ。あっ、謝るのが先かな。」

「止めとけ。こいつはこいつなりに、今日の、『初、篠原と、他オマケ二名との遊園地』を楽しんだんだ。それをお前に謝られたりしたら、こいつテンパって…場合によっては泣くかもな。せっかくこんな、何にも悩みのなさそうな顔してるんだから、いい夢見させといてやろうぜ。」

 「まぁ、本田がそう言うんだったら良いけど…それは、私だって猪山さんに喜んでもらえるなら、その方が断然良いに決まってるし…。」

佑子のそんな、どこか煮え切らない態度に克は、

「なんだ、まだ言い足りないことがあるのか。」

 佑子を促す、克。ここは非日常、だからそこには、佑子との距離を離そうとしていた克は居なかった。そもそも、最初に互いの距離を縮めようとしたのは、克ではなかっただろうか。

 拗ねた様な表情で、佑子が呟く。

 「猪山さんには優しいよね、本田って。」

克は心底可笑しそうに、

「篠原にだって、最大限譲歩して接してる積りだけどな。それに、今日、わざわざこいつの彼氏役にあまんじてるのだって、誰のためにやってんだか…。まさかお前、解らないわけじゃないよな。」

 最大限譲歩しているという克の言葉でも、佑子の不満そうな表情は拭えない。それを、克は可笑しそうに見る。…克にも未練はあっただろう。なるほど、落日の光を浴びて、佑子は美しい。…残っていたのだろう。おそらくはそう言うことだろう。克が自分と、自分を取り巻く環境、つまり『日常』を守るために除こうとした全てがここにある。佑子と言うな名の、眩い『非日常』が…。

 「そんなこと言われたって、結果的に猪山さんを庇ってるんだから、私にとっては面白くないよ。」

克は佑子のそんな拗ね言った様子に、困ったような、面白そうな表情を浮かべて、

「猪山には聞かせられないセリフだな。」

「ほら、またそういうことを言う。」

「俺だって、篠原が猪山と縁切りたいなんて思ってる様だったら、こんな…忠告めいたこと言わないって。良かれと思ってだよ…誰にとは、言わないけど。」

 「…私なんかより、本田の方がよっぽど、人のこと手玉にとってるじゃない。私のこと弄んで楽しいわけ。」

「そこらへんは、篠原と同じかもな。」

「えっ。」

 ゆっくりと下降を続ける観覧車。今、佑子の眼がしっかりと克を捉える。

 少し赤らめられた頬。自嘲気味な笑み。そして克は、自らが引いたはずの一線を踏み越える。だが、仕方無いことかも知れない。となりで一人、我関せずとばかりに眠り続ける稔の寝顔が言ってる。『目覚めるために眠る者は居ても、目覚めるために夢を見る者は居ない。』と…。

 克は照れたような、躊躇いがちの視線を落とした後で、出来るだけ素っ気無いふうに、その言葉を口にした。

 「俺も、焼けたからな。」

 しばしの沈黙。しかしその間にも、佑子の瞳は、猫のそれのように少しずつ拡張していく。居たたまれなくなったのか、克が口火を切る。

「…なんだよ。」

「へっ、え、えっと、あの…」

克に呼びかけられて、佑子は慌てたように口を開く。それでも、思考の整理はつかなかったのか、言葉は大した意味をもたなかった様だ。それでも、今自分が一番やるべきことは決まっていたようで、佑子は慌てたままで、

「あ、あのさぁ。」

ここで佑子は唾を飲み込んで、

「焼けたって…それ、焼きもちってこと…で、いいの。」

「おいっ…まぁ、そうなんだけどな。普通聞くかそういうこと。本人に、面と向かって。」

 不満そうに、そして恥じ入る様にブツブツと呟く、克。佑子はその口元にサッと手を押しあてて、

「解ってる。でも、大事な事なの。でっ、え、えっと、だからだよ…その焼きもちって言うのは、本田が…。」

 佑子の小さな手からはちょっと想像しづらいほどの力に、克は窮屈そうな目線を、視界の下半分を埋める小さな佑子の手に向ける。それから、大仰に首を縦に振って応えた。佑子も申し合わせた様に首を振り返したのが、この際少し滑稽だった。

 「それは、わ、私に…じゃなくて、石川…というか、私と石川に、その…焼きもち…焼いたってこと。私と石川のこと、見て、焼きもち焼いたってことなんだよね。」

 佑子が切羽詰まった様に克を見つめる。その瞳の光沢は克を有らぬ方へと導く。

 克が追及する佑子に促すかのように、目線を再び下げた。

「あっ、ごめん。」

 佑子が初めて気付いたとばかりに、克からソッと手を放す。しかしその眼は、言葉とは裏腹に言い知れぬ期待に満ちて、揺れていた。

 観覧車は間もなく終点に到着するだろう。そして克も、今日までの二人の関係を終わらせるために、最後の言葉を口にした。

 「…そうだな。」

 克はその一言を何気なく口にした。その、何気ない筈の一言が生み出した静寂はあまりにも色濃い。その意味に、当人の克ですら気付かないほどに。

 だからそれは、完全に克を取り残して始まった…。

 「…っくぅ、くくっ、ふっ。んふっ…。」

 妙な充足感に浸っていた克の耳に、いつからか、異質な響きが届いていた。その、粘つく様な、剥がれるのを掻きあつめ抑えつける様な、そして何とも嬉しそうな声。…そうだ、他人の喜悦は、無条件で同調できるたぐいのものばかりではない。とくに、それが己から引きずり出されようとする何かならば…。声はさらに続く。

 「くっ、くくくっ…あはっはははは、っつふっく。うふふっふっふふ。」

 ここに至って、克もようやく気付く。突然、佑子の背後から入り込んできた、血を吸ったような緋色が、克の瞼を閉ざそうと明滅する。いつの間にか張り付いていた克の唇が、躊躇う様な音をたてて別れた。

 「篠原、お前…。」

 笑っているのかという言葉は、声に成らなかった。

「あはっ、あははははっ、くふっ、ふふっふふふうっふふふふふふふふふふ。」

 最早、遮るもののない佑子の声が、この箱を赤く染める。涙さえ浮かべて笑い続けるその顔に、一欠けらの屈託もない。…彼女だって言うなれば共犯だ、悪くないはずはない。だからこそ思う。克は、克だけは佑子を責めてくれるなと…佑子にとって、それが『日常』でも、『非日常』でも、きっとそこには、克の姿があるはずだから…。

 今、現実として向き合う克を、怖気が這いあがって行く。後悔か、それとも未来への漠然とした不安なのか、その眼は、心底嬉しそうな、そして克を気圧して止まない彼女の笑みから、決して放されることはなかった。

 赤い光の中、いつ果てるともしれない笑い声を乗せて、観覧車はゆっくりと下降していく。

(2)

 遊園地を後にしたのは、いったいいつのことだったろうか。克の頭は、酩酊したようにフラフラと、そして重い。

 今、佑子が隣を歩きながら、二言三言何かを呟き、そして克にはにかんだような笑い顔を向けた。稔とは近くのバス停で別れたことは、かろうじて覚えている。

達雄に至っては、どこで別れたのかさえ定かではない。

 別れ際、稔も笑顔で何度も克に頭を下げた。

 克ははっきりしない頭で、愛想笑いを浮かべながら、ただ、

「俺の方も、ありがとうな。」

とだけこたえた。

 とっ、視界に入り込んできた佑子の笑顔に現実に引き戻される。

(ありがとう…っか。)

 そういえば、突然の克の意味深な謝意に慌てたように笑いだした稔にも、佑子はこんな笑みを向けていた。克の隣に寄り添う様にして…。そう、ちょうど今の、二人の距離の様な…。

 「本田。」

 再び現実と夢想の間を行ったり来たりしていた克を、今度は佑子の声が自分の方へと引き戻す。急に立ち止まって、義足の足が靴底を削る。

 「大丈夫。」

 ただ棒立ちに立ち尽くす克を、佑子が心細そうな眼差しで見上げる。どうやら、克の表情の陰りは、夜道でさえも隠しようのないものだったようだ。

 克は頭の中の空気を入れ替える様に、首を二、三度左右に振って、

「久しぶりに人ごみの中歩き回ったから、気疲れしたのかもな。まっ、寝れば治るだろう。」

 佑子はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、普段より幾分柔らかい克の顔に追及する気を削がれたのか、『しょうがないな』と言わんばかりの表情で、

「そういうことなら、私も、今日のところは早めに退散してあげなくもない。だから、はい。」

克は急に目の前に突き出された佑子の掌を見据えながら、

「なんだ、この手は。」

 「かぁぎ。」

「かぎ。」

 「もう、本当に解んないの。」

 佑子は自分の言葉を復唱してなお釈然としない顔をしている克に、憤慨したとばかりに顔をムッツリとさせて、鞄から黄色い何かを取り出して見せた。

 「ついさっき、お願いしたでしょ。今日は、いつもと違う時間の間隔で注射してるから。危ないことにならない様に、本田の部屋で注射させてって言ったよね。」

 「そうだったっけ。」

「ちょっと、しっかりしてよね。って、まさか、駄目とか言わないよね。部屋の前まで来て。」

 佑子に言われて、克は初めて自分がどこに居るのかに気付いた。見慣れたはずの家並み、電信柱とそこに張り付けられた近くのコンビニのチラシ…。そして、眼の前には確かに自分の部屋へと続く扉が見える。

 「そうか…そうだったよな。」

 克はどこか寂しそうな顔でジーンズのポケットをまさぐり始めた。

 「本田、本当に大丈夫。」

 どうも反応の鈍い克に、佑子も流石に真剣な表情で尋ねる。そんな佑子に克はもう一度、『大丈夫だ』と笑った。

 佑子は克がポケットから取り出した鍵を受け取ると、小走りに克の部屋の前に向かう。

 「本当は、少しくらい居座ってやろうかって思ってたんだけど、本田さんもお疲れのご様子ですし、特別にチャチャッと終わらせましょう。任せて、何しろ私、慣れてるから。」

 そういいながら、鍵穴と悪戦苦闘していた佑子の手元で、ようやく錠の開く乾いた音が響く。佑子はノブに手を掛ける…しかし、すぐにはその手を捻らずに、瞳を克に向けて、

「えっと、本田が疲れてるのは解ってるんだけど…あの、だから、本田が寝て、明日の朝でいいから…電話してくれないかな。ちょっとだけでいいから…。」

 「朝でいいって、どうせ朝にはここに来てるだろ、お前。」

「そう言われれば、私もそうだとは思うけど…。」

 佑子は克の無表情に耐えきれなくなったのか、ドアノブの方に顔を向けた。だが、瞳だけは何かを探す様に彷徨っている。

 「いいよ。」

 克の声に佑子の瞳の向けられる先が定まる。もちろん、そこには克のぼんやりとした顔がある。

 「本当に。」

「ああ、どうにかするよ。」

「うれしい。ありがとね、本田。」

克は軽く笑い返すと、

「それより、後がつかえてるんで、悪いけどさっさと収まる所に収まってもらえるか。」

 克に急かされて、ハッとしたように、佑子は少し恥ずかしそうな笑みを残して扉の中へと消えて行った。ドアのしまる音とともに、一人取り残される、克。見慣れたはずの扉にも、なぜだか現実感が伴わない。

 『非日常』を抜けてたどり着いたここは、いったいどこだというのか。そして、克は何と言い張る積りなのか。ない筈の右足の裏が、どうにも痒い。

 克は力なくため息吐き出した。

 「どうしろって言うんだよ。俺に…。」

 そういいながらも、克はドアノブに手を掛ける。冷たくなった喉の奥で、心臓だけが静かに動いていた。


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