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第十六話

(1)

 喧騒が何所からともなく聞こえる度に、稔が力なく笑いを漏らす。

 「大丈夫か、猪山。」

 ベンチに座る克が、隣に腰掛けた稔に声を掛けた。

稔は精魂尽き果てたというような風情で小ぢんまりとしているが、生乾きだった髪はなかなか弾けた感じになっている。

 「ふぁい、大丈夫です…先輩…。」

 克は気の毒そうにその様子を横目で見た後、缶ジュースに口を付けた。

 また、稔が乾いた笑いを漏らした。その手にも、湯飲み茶碗をそうするように缶ジュースが包まれている。それが、稔が笑うたびに小刻みに震えるのだ。…哀れである。

 「そうか。で、感想の方はどうだ。」

「お、思い出させないで下さいよ…。」

 よっぽど海賊船とは相性が悪かったのか、稔が青い顔で頭を抱えた。克はそんな稔を面白そうに見下ろす。明日は我が身という自覚は、あるのだろうか…。

 「さてと…。」

 克が、仕切りなおすような台詞を一言、立ち上がる。それから、稔の手の中でいつの間に空になっている缶を引き抜いた。

 「どうする、これから。」

 克が、二つの空き缶をゴミ箱に落としながら、尋ねた。

 稔はベンチの背もたれにその身を任せるように、空を見上げた。雲などあろうはずがない。

 「そうですねぇ…。」

 果てしなくのん気に、稔が呟いた。

 「いっそのこと、あの二人のこと、つけてみるか。」

 いきなり稔の視界に割り込んできた克が、これまたのんびりとした口調で提案する。

 稔は、そんな克にも態度にも、ほとんど感情の動きを見せないでいる。これは、いよいよ不味い領域まで来ているようだ。

 かなり間をあけてから、やっと稔が一言だけポツリと呟いた。

 「そういえば、私の髪のこと、なんだったんでしょうか。」

 稔の、もっともな質問。克は苦笑を漏らした。

 「石川が篠原を誘って二人になる。これは手はずどおりいった。で、お前の髪の事だけど…本当なら、髪が濡れてることを理由にして、動きの大きなアトラクションを避ける言い訳にしようと思ってたんだが…。やっ、それを理由にしようと考えたのは、もちろんお前が溺れ掛けた後からなんだけどな…一種の保険として…。」

 「…保険。」

 稔がうつ伏せのまま、克の方に顔を向ける。疲労の色は濃いが、流石に我が事だけに探る様な眼には余念がない。克はそんな稔の視線を避けようと、稔の目の前に人差し指を伸ばした手を持ち出す。そして、まるでトンボを相手にするかのようにクルクルと稔の眼の前で遊ばせながら、器用に稔の眼をあるアトラクションの方へと誘導した。

 「ああ、たとえ篠原が、石川と二人で動くことを承知しなくても…ほーらっ、あれだ。あれに乗る理由を作るためのな…ま、必要なかった上に、篠原もお前の髪の状態に気付いてはくれなかったんだけどな。」

 「観覧車…。」

 稔は見上げた先にある巨大な、放射状に伸びた無数の鉄性の茎を、そしてその一本一本に下げられたカラフルな円い花を見て、引きずる様な低い声で呟いた。そして、ガックリと頭を落とすと、また項垂れる。

 「猪山、本気で大丈夫か。体調悪いんなら、医務室を探して…。」

「じゃあ、篠原先輩たちは今、あの観覧車に乗っているんでしょうね。」

「そのはずだけど…猪山、辛いなら遠慮しないで言えよ。休むなら、篠原のいない今のうちだろ。」

 克がここまで心配するとは…それほど、稔の顔色は悪いんだろうか。

 稔自身が、そんな克の口から並べられる言葉に困った様にしている。弁解がない以上稔の体調が良好でないと見て、間違いなさそうだ。何せ、蓄積がある。

 「猪山…。」

 気遣う様に小さな声で、克が稔に呼びかけた。稔は辛そうに大きく息を吐きながら、身体を起こしたす。眼は閉じられていた。

 「無理するなって。」

 克は身を寄せると、押し込むように稔をベンチに寝かしつけた。

 一切の抵抗なく木製のベンチの背を軋ませた稔が、か細い息を吸った。

 そんな状態の稔が、克に、力を振り絞る様にして希望を口にしたのは、克が枕代わりに突っ込んだジャケットの袖が、音もなくズレ落ちたのと同時だった。薄っすらとだが稔の眼が開いる。

 「本田先輩。」

「んっ。」

 「私、先輩にお願いがあるんですけど。」

 「なんだ。ジャケットに涎を垂らしたことを許しってくれって言うつもりなら…いっそのこと黙っていてくれよな。」

 稔がほのかに微笑む。

 「違いますよ。私、気分が悪いんですから、あんまり茶化さないでください。」

「辛いんなら、静かにしてろ。んで、お前の体調が落ち着きしだい、医務室に移動だ。解ったな。」

 「そんな、大袈裟な…。」

 「もし、これ以上大事にされたくなかったら、とにかく従っておいてくれよ。それで、俺も安心してやることが出来るだろうからな。」

 稔の頭の上で、克が腰かけた音が響く。稔は心地良さそうな息を漏らした。

 「私、情けないな…。」

 克もそんな稔に答える様に、軽い息を漏らした。

 「緊張の連続だったんだ。お前はよく頑張ったと思うよ。」

「やっぱり、ずるいな先輩は…こんなときばっかり…。」

 傾きはじめた日に暮れなずんだ路面を、潮騒の音がなぞる。克は口もちをほんの少し歪めて、苦笑した。

 「先輩…お願いします。」

「猪山ぁ、だからさぁ…。」

 改めての稔の懇請に、焦れたように克が頭を掻いた。それでも稔の声は、真剣そのものだ。

 「お願いします、先輩。先輩がお願い聞いてくれたら、私その後にはきっと、先輩の言う通りにしますから。…厚かましいこと言ってるのは解っています。でも、どうしても…お願いします。」

 「本当だな。満足したら、ちゃんと医務室行くんだな。」

「はいっ。」

 いつになく弱々しい稔の切実な懇願に、ついに克が根負けした。

 「わぁったよ。じゃあ、とにかく、言ってみ。」

 克のほとんど了承に間違いない言葉を得て、稔が嬉しそうに目線を上げる。克は頭を抱えているようだ。

 そして、稔がはにかむ様に、克に向けて願いを口にした。

 「あの、私も観覧車に乗りたいです。」

 克がおでこを荒々しく撫でながら、低い声を漏らす。稔はその様子をジッと見つめていた。

 「やっぱり、駄目ですか。」

「それを決めるのは、篠原だろ。」

「いえ、私は出来れば先輩と…。」

「よし。」

 稔が何か言いかけたのを遮る様に、克が行き成りベンチの前にしゃがみ込む。稔がその後ろ姿を追い掛ける様に、身体を浮かせた。

 「乗り場までの移動は、俺が猪山を負ぶっていく。それから、篠原が駄目だと言ったら諦める。いいな。」

 「えっ…あ、はい。お願いします。」

 稔はふらつきながら慌てたように、起き上がった。そして克の肩に全体重を預ける様に前のめりで倒れ込む。

 そんな稔の存在をグッとこらえると、克は稔の足を抱えて立ちあがった。克にも、稔にも次の言葉はない。

 歩き出した克の左足が、わずかに震えているように見えた。

(2)

 「篠原…お前のとこもかよ…。」

「本田…人が困ってんのに、なんて格好、見せつけてくれるかなぁ…。」

 思わぬ荷物を抱えてしまったとでも言いたげな佑子が、不愉快そうな声で喉を震わせる。克はそんな、佑子のいろんな意味で険悪そうな瞳に、途方にくれた顔で歩みを止めた。

 衣ずれの音をさせて、ジャケット右襟が、肩の所まで下がる。

 「違うんです、先輩。見せつけるとかじゃなくて、これは、本田先輩が…。」

「稔ぃ、俺のせいにするのは、ちょっと酷いんじゃない。」

「そ、そういうことでもなくて…だから…本田先輩は悪くなくて…それで…。違うんです、篠原先輩。」

 当然、克の背中で小さくなっていたはずの稔が、息を吹き返したように声を上げた。

克は必死の主張を続ける稔に、頭を押さえつけられて、窮屈そうに身じろぎした。

 佑子はそんな、煮え切らない克と稔を見据えながら、小さなため息を漏らす。克はそれを聞き咎めてか、不愉快そうに眼を瞬かせた。

 「ところで、本田たちは、いつまでそうしてるつもりなの…。」

「それは…稔、調子どうだ。」

 「は、はい、全然、大丈夫です。…いえ、大丈夫です。」

「あいよ。」

 克は肩から乗り出す様に動き回る稔に、苦笑した。そして、その身をそっと『ベンチ』の、佑子の隣に腰かけさせた。一つ一つの動作の度に、チラチラと注がれる、佑子の容赦ない視線が痛い。

 克はその猛火を避ける様に、『ベンチ』から距離を取った。そして、眼の前に広がる三つの様相を観察する。

 (猪山がグロッキーなのは、論外。それと篠原が不機嫌そうにしている理由は…まぁ、いいとして。問題は、ベンチに寝っ転がっている石川の方だな。さっきから、ピクリとも動いてないけど、まさか、ついに篠原の毒気に中てられたか…打たれ弱そうな奴だしな。…冗談としておいて。とにかく、この分だと…。」

 克は稔を下したことで行き場を失った両腕を、収める様に胸の辺りで組んだ。そして、頭上で音も無く、ひたすら緩慢に回転を続けるそれを見上げた。

 「なぁ、篠原。お前たち、これ乗ったのか。」

 「えっ、ああ。実はまだなんだ。ほら、石川がこんなだし…でも、なんで…。」

 克が何気ない風に投げかけた、問い。確かに、不自然さはない。

 しかし、それを受けた佑子は、普段の克らしからぬ何かを感じ取ったのか、克に理由を求めたがった。困ったような笑顔。当然、佑子の眼は一切笑っていない。…夕陽が映り込んだわけではないか…。

 克の歯の根元が、血の気を失う。だが、克はやるべきことはこなして見せた。

 「なんでって…それは、俺たちも、というか、稔のやつがお前と、観覧車に乗りたいんだと。そんなわけで、篠原たちがまだ乗って無いんだったら、そんなお願い礼を逸してるかなって思ってな。ま、察してくれってのが、無理な話だよな。」

 この場を取り繕う様に、克が佑子に笑顔を向ける。

 佑子はその表情を、裏側まで読み取ろうとでも言うのかジッと見つめた。そして、そのままの眼付で、ベンチの、顔を赤くして小さくなっている稔の方を見る。

 そうしてから佑子は、

「…それはね…。」

と鼻であしらう様に冷淡そうな口調で同意すると、完全に苦り切った様子で、組んだ足に頬杖を付いた。

 佑子の顔は、他の三人の、いずれの方にも向けられてはいない。だが、それでも佑子が、十秒とおかず克の方に目線を流すのを、止めることはなかった。

 それは、そんなことにすら気付いていないからだろうか。

 本日何度目になるのだろうか。克はまた、むくれた佑子に困ったような、それでもどこか柔らかい笑顔を作る。これも、夕陽が映り込んだのだろうか…。

 (なるほど、なるほど。暫定的にではあるが。石川は失敗したのか…で、篠原に膝枕してもらえてないのは、このベンチよりは敷居が高かったってことだな。道理だ。)

 一段落つけるように、訳知り顔の克が達雄の耳許へ口を寄せた。達雄の眼がうっすらと開く。どうやら、気絶したとか、死んだと言う訳でも、なかったようだ…。

 「どうなってるんだ、何か問題でもあったか。」

 囁くような小さな声。状態も、佑子がそっぽ向いているので…あと、稔は居ても居なくても…お構いなし。

 克の尋ねられた達雄は、この、もう一つの木製の『ベンチ』で、身体を捻った。

 そんな達雄を、克は察したように、躊躇うこともなく、その口元に耳を寄せた。…別段、躊躇う理由があるわけでも、ないのだが。

 「その、とにかく、観覧車の前まで来ようと…来てしまえばと、思ってたんですけど…いざ、間近で見てみると、すごく大きくて、それに…考えていたよりも、ゆっくりと回っていましたから…。」

 切れ切れに克に説明する、達雄。かなりまいっているのか、それとも緊張感がないだけか、その声には釈明しようと言う様な印象はまったくない。…確かに、緊張すべきいわれは、なかろうが。

 そんな達雄の一言、一言、を繋いで意味を持たせようと、克は忙しく眼球を動かしていた。そして、達雄がしゃべり終わってから間もなく、克の眼は観覧車の上で定まった。

 「…石川ぁー。お前、もしかして、高所恐怖症だったわけ。」

 克が眠気を覚ます様な声を漏らしながら、達雄に確認をとる。その低く、ひそめられた声に、達雄が恥ずかしいと言うよりも、申し訳なそうなに眼を閉じて、首を縦に振った。

 打てば響く様な反応。克は予想だにしない事実に、ガックリと肩を落とすと、勢いよく顔を手で擦り始めた。

 (勘弁してくれよ。)

 心からの泣き言は、克の胸の内だけに秘められた。どうやら、溜息は吐かずに堪えたらしい。

 空も、何もかも、オレンジ色の帳に覆われたと言うのに、楽しげな声の残響が止むことは無かった。


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