第十五話
(1)
祐子の、携帯電話の時報を気にする仕草が止まらない。
克たちがもたもたしていた分、結果として待たされる破目になった、祐子と達雄であったが、その間に会話らしい会話が交わされたような形跡は見当たらない。そのせいか、達雄がどこかそわそわしているようだ。
また、祐子が携帯の時報を確認した。細く小さな親指が、何度も、整然と連ねられたボタンの上を彷徨っている。もう、達雄に気を配る余裕もないようだ。
と、アトラクションの出入り口から、二人連れの男女と思しき声がする。
「つまり、私たちは篠原先輩たちから出来るだけ距離をおく…とかでいいわけですか。『急に、二人だけで回りたくなった。』、みたいなことを言って。」
「俺たちが本当の彼氏彼女なら、それもありだろうけど。この場合は、お前にとっては却下だろ。」
「どういうことですか。」
「さっきも同じような会話をしたよな…いいけど。改めて念を押しておくとだな…篠原の性格からいって、自分が頼んだ、彼氏彼女に扮したお邪魔虫が二匹、不適切な言い訳残して逃げ出したとしたら、デートそっちのけで心配するだろうな。仮に、無断で姿を晦ましたとしても、右に同じ…いや、下手すると、俺たちの命が…。」
「命が…。」
「…冗談だ。とは言え、程度には違いがあるが、やっぱり逃げるのは不味いだろ。」
「そんな、別に逃げるつもりなんて。」
「問題は、置き去りにされた方の心理にあるのだ。ま、どうしても猪山がこの線で行きたいっていうなら、まぁ、俺は構わないけど…そちらさんは困るんでないの、今後、篠原に裏切り者として扱われるのは…。」
「ぐぅっ、確かに…。」
「何、心配するな。用意のすこぶるいい、この俺様が、そんな事態を回避できるよう、すでに石川と話をつけてある。あんなゴム臭いボートから下りたばかりでなんだが、大船に乗ったつもりで…。」
「それって、私たちの分の席もあるんだよね、篠原。」
「…篠原、お前いつから…。」
「本田は、私が手を振ってたの、気付いていた。」
突然、キャストに加わった、祐子。
克は慌ててその背後に眼を向けるが…便りの達雄は、どちらとも取れない顔で瞬きを繰り返している。稔はそ知らぬ顔で、克の後ろに隠れていた。
こうして、仕方なく克は、引きつった薄ら笑いを浮かべて、今一度祐子の微笑みにお伺いをたてる破目にと相成った。
「あーっと、だね…大船もいいけど、次は何に乗るんだ。なぁ、稔、何かあるか。」
克にいきなり指名されて、驚いた稔が自分の顔を指差している。ちょっとした寸劇、続行中。そんななかでも、きっちり『稔』と呼んでみせた克は、さすがというか…。
そんな克が眼を離していた隙に、舞台は意外なところから急変した。
「えーっと、そのことなんだけどさ。」
克の窮した様子を無心に楽しんでいたかに思えた祐子が、申し訳なさそうに話を切り出した。祐子の美貌にさした陰に、稔が逸早く反応する。
「どうしたんですか、篠原先輩。」
何かを惜しむように笑う祐子に、稔が克を押しのけて歩み寄る。その必死な顔…。
押しのけられた克はというと、ほっとした様子で、舞台袖にいた達雄の傍に位置取りする。 克の訳知り顔に、達雄が小さく頷いて見せた。
そんな端の方での出来事とには委細興味を示さない稔の、熱心な追求はなおも続く。そんな姿に圧倒されたのだろう。祐子が困ったように克の方に、眼をやった。
(俺にどうせいと言うんだ…。それよりも、俺がどうにかしていいんですか。)
当然、克は見てみる振り。
そのために、祐子は、すがり付いてくるような稔を、適当にあしらいつつ話を次ぐしかなかった。
「違うんだよ、猪山さん。…じゃないか、その、違うってことじゃないんだけどね。とにかく私のことは心配要らないんだけど。ちょっと、二人に…。」
祐子はそこまで言って、また克を見た。それに、対する克は普段のまま、別段変化も見られない。祐子は見ていられないとばかりに、切なそうな瞳をそらした。
…実際、ここまでやって祐子と克以外のものに、主だった反応がないのは、その『以外』の一方が常に俯きがちで、もう一方が注意力欠如気味であるからに他ならない。事実、それいがに頼るものない危険な橋を、少なくとも克だけは渡らされているのだ。おそらく、彼女役が香だったとしたら、こうも上手くはいかなかっただろう…。
そして、また、ようやく克と祐子の高次元の遣り取りに追いついた稔が、祐子に子犬のような目を向けた。祐子はまず、とにかく笑顔を返す。窮屈なのは克だけではない。
「ごめん、ちょっと気になることがあって。それで、猪山さんと本田にお願いがあるんだけど…。えっと、せっかく一緒に来ていて、その、勿体無いとは思うけど…しばらく、私と石川、二人で動いちゃだめかな。」
祐子の提案に、ハッとした稔が克の方を振り向く。克はそ知らぬふりで後頭部を撫で上げていた。
「どうかな、猪山さん。」
申し訳なさそうに潮垂れた、祐子の笑み。その理由が自分にあること、そしてこのことに関して散々議論してきたこと…。稔も納得はしているだろう。納得はしているはずだが、まだ、稔は名残惜しそうに、祐子の前で頑張っている。
そんな稔の肩を、後ろから何者かがガッシリと掴む。少し怒気の混じった祐子の瞳と、完全にしょぼくれた稔の瞳が、その誰かさんを同時に射抜いた。
「もちろん、いいに決まってるよな。な、俺の彼女の稔さん。」
稔はそんな克に、首を横に振って抗議した。
克はそんな稔の懇願を一笑に付す。そして、稔の両肩を一度強めにタップすると、有無も言わさず稔を祐子から引き離す。
あっと言う間に、開かれる祐子と稔の間の距離。この時、不機嫌そうな祐子の表情が、稔にはどう見えたろうか。
無声映画のような一幕の後、克が再び稔に尋ねた。克の割には威圧的だ…この場から、一刻も早く離れたいのかもしれない…。
「いいよな。間違いなく俺の彼女の、稔さん。それとも、俺と二人っきりじゃ不服か。」
稔は遂に観念したのか、克に背中を預けると不承不承口を開いた。
「はい、いいです。間違いなく私の彼氏の、ほ…克さん…。」
「それじゃあ、決まり。はい、行きましょう、二人とも。」
いつの間に間合いを詰めたのか、いきなり克と稔の間に祐子が割ってはいる。その際、勝るがアピールするように、両手を挙げたのが傍目からも悲しい…。
祐子はそんな克の姿には見向きもせず、稔の腕を掴むとグイグイと歩き始めた。
自然、動転する、稔。
「えっ、でも、先輩…。」
流石の究極の篠原祐子贔屓の稔も、不安の色を隠せない。
今度はそんな二人の間に、克がトライする。
「おい、篠原。その行動は、矛盾してないかい。」
「違うよ。ただ二人の目的のアトラクションまで、送っていこうと思って。別れるのはそれからにしよう。」
「目的のアトラクションって…。」
祐子の言葉を聞きとがめて、がっちりと腕を拘束された稔が、我知らず口を動かしていた。
祐子が目の前を指差して、言う。
「あれでしょ、二人が次に乗りたがっていたのは。」
祐子に言われるがままに、祐子の指差す先を見上げた克と、稔。その先には…。
(なるほど…大船ね…。)
稔が呆然として見る先には、海賊船をもした巨大な空中ブランコに満載された、楽しそうな悲鳴を上げる人々。今の稔には、人事でさえ理解しかねるようだ。
「あのな…。」
「なかなか面白そうな乗り物だね。私たちは一緒に乗れないから、後で感想聞かせてね。」
祐子が、何か言おうとした克の気配を察知して、先手を打つ。
追い込まれた稔はというと、当然というか…
「は、はい。任せてください。」
と誘われるままに安請け合い。やけに意気込んでいるのは、テンッパっているからだろう。
そして、克と稔だけが、祐子も興味津々らしい、ド派手な海賊船の席に着いた。
見張っているのだろうか…祐子はまだ、前方を向いた状態で固まっている稔を見つめてにこやかに微笑んでいる。
しばらくして、ゆっくりと前に持ち上がっていく、克と稔。
ふと、克が横目で伺った先には、足早にその場を後にする祐子と達雄の姿が…。
(篠原…お前って女は…。)
海原の様に深い克の溜息だけを残して、船は勢いを増していった。水平線のない、ここでさえ、空は何所までも広がっている。




