第十三話
(1)
稔にとって、今日も飽きることなく燃え続ける太陽の存在が、改めて有難味を増したことであろう。
克は己の義足を抱きかかえる稔を、今更やり過ぎに気付いたように躊躇いがちの笑顔で、そらっとぼけたように見ていた。
放心したように動かない稔の頭から、ボタボタと大粒の水滴が落ちる。ここで『雨合羽』がようやく、本領を発揮する。
「あ、あの猪山。これ、使ってくれ。それと、悪いんだけど、それ返してくれるかな。濡れると不味いんで。」
克は流石に自分の右足の扱いが気になりだしたのか、どこから出したのか、タオルを稔に差し出して交換を要請した。
見れば確かに…稔は、ぼーっとした顔で深めに俯いているのと、いつからそうなのか、克の義足をしっかりと抱きしめているために何とか水滴の落下を避けてきたようだが、きわどいタイミングは何度となく訪れている。
「あの、猪山さん…。」
稔は克の再度の呼びかけに、ぼんやりとタオルの方に目を向ける。頭を上向かせたことで、水滴が勢いよく稔の方の辺りを打つ。克のスリルがさらに、増す。
「あー、よし、今日は、特別に俺が頭を拭いてやろう。えっと、ですから…せめて、義足方は…あっと、その…返すのは後でいいので、濡れないように…しっかり持っていて貰えると有り難い…というか。」
『義足』の言葉に反応して、稔は克の顔に視線を上げた。克はそんな稔のもの問いたげな、顔に、口ごもりつつ義足の安全を請う。そもそも克は、ほんの少し前の出来事…稔がボートから落っこちていたとき、どうするつもりだったのだろうか。少なくとも、克の義足にとっては、プールの水が底まで見えるほど透き通っていることは、救いには成らなかったはずだ。それにしても太陽は偉大だ、ボート上にばら撒かれた水滴はもう乾き始めている。
「あーっと、稔さん。もしよろしければ、もう少しばかり頭を前の方に出してもらえませんか。ほら、俺、こんなだから、体勢の変え様がなくて、で、そこにいられると拭きにくいわけで…。」
未だ一言の言葉も発しない稔に、克が恐る恐るお伺いを立てる。その慎重に選ばれた言葉が功を奏したのか、それとも当惑したような表情が御気に召したのか、無言ではあるが、稔は克の声に応えるように、深々と頭を垂れた。義足はまだ、ひしと抱きしめられている。
克は、普段の彼でもなかなか見せない安堵を押し隠したような笑顔で、稔の突き出された頭を勢いに任せるようにタオルで包んだ。
稔はしばらくの間、克のされるままに首をコックリコックリと、小さく上下させていた。そして克の手のリズムに合わせるようにしてポツリと、
「ごめんないさい…。」
と震えた様な小さな声で呟いた。
それに対する克の応えは…。
「はぁっ、なんか言った。」
どうやら稔の声はか細すぎて、意味ある言葉して克の耳に届かなかったようだ。
克の何の気もない言葉を受けて、ビクリと肩を持ち上げた、稔。そして、また、言葉を深く呑み込んだような、沈黙。
目の前の艶のある髪を、タオル越しとは言え、撫で回すことに熱中していたようにすら見えた克だったが、そこはしっかりと負い目を自覚しているだけに、意思疎通に対する根気も萎えてはいなかった様だ。克は手を止めると、
(しまった、糸口を…。しくじったか。)
とでもいいたげな顔をした後、それでも気を取り直したように優しげな声で稔に語りかけ始めた。日差しを受けて温まった髪を、タオルに重ねられた手が覆う。
「お客さん、痒いところは御座いませんか。って、ちょっと他人行儀すぎか。後輩で、幼馴染で、恋人に尋ねるにしては。ま、3分の2は偽装だけどな。」
克の湿度のある問いかけに、俯いた稔のたゆとう様な瞳が瞬く。その微細な変化を感じ取れなかった克は、そのままの口調で稔に語りかけ続けた。
「やっぱ、面白くないか。そうだよな。いや、ごもっともです。本当、いろいろすいませんでした。…ん。」
軽快に舌を滑らせていた克が、急に息を呑む。それは、ほんの一瞬の出来事だった。
自分の言葉に照れて様に、克は手を動かしたままで目線を右にずらした。そして、移動した眼球が捉えたものを、克が意識する前に帰った視界の先にあったものは…なんとも恨みがましそうな、稔の顔。
意外なお出迎え。克は反射的に咽を鳴らしていた。
そして今度の稔は目を離さなかった。しかし、一度だけ言葉を躊躇うように開いた口を閉じた後で、稔は、多分彼女の心の中では何度となく繰り返された台詞を、もう一度呟いた。
「先輩。…こ、この、これ…。先輩の大切な脚を…ご、ごめんなさい。」
稔はしぼり出すようにして、克に届けて一生懸命思いを伝える。そして、言い終えると、克のどんな叱責にも耐えようとするかのように、稔は頬を抱きしめた義足に擦り付けて俯いた。
身につまされるような、稔の謝罪。だが、それは克には、確実に、正確な意味として伝わってはいなかったようだ。
「いや、ごめんだなんて…。それは、俺の台詞だって。…あ、大丈夫だって、まぁ、完全防水って訳じゃないけど、水周りでの使用も想定されてるから、そんな水滴くらいじゃなんともないから。大丈夫だって…あら、違ったか…えっと、ジーンズのことも気にするな、どうせすぐ乾くから…。」
克は驚いた顔で口をパクパクさせている稔の様子を伺いながら、徐々に、自信なさそうに声のトーンを落としていく。それでもまだ納得のいかない様子の稔に、いつの間にか覗き込むように俯いた稔を観察している克が、さらに口頭で事の次第を確かめた。恐縮した様子で…。
「これも違ったかな…。」
「違うに決まってます。」
業を煮やして、稔が遂に吠えた。
いかにも堪りかねたような鋭い眼光。すくっと起き上がるように伸びた背筋。振り乱されたセミロングの髪から、衣擦れの音をさせてタオルが滑り落ちる。
この時の克の姿こそ見ものであった。克は心底驚いたように目を点にした状態で、仰け反ってボートの縁の手を突いた。一気に水面近くの水が沈み込み、底の層と水面の層の水が入れ替わった。
プールの流れとは関係無しに、今までの中で一番大きく揺れる、ゴム臭いボート。
つっかえ棒代りとなっていた右腕が再びタオルを掴んだ時も、克の目は見開かれたままだった。
ボートはどうにか、トラックの半周を消化したようだ。何にもまして幸いだったのは、ここまで派手な寸劇を、祐子が目撃しそこなっていることであろうか…。
とにかく、まだ克は固まっているため、どうやらここでは稔のアドリブが必要になっているようだ。
「あっ…、私…すいません。」
演技だったらたいしたものだ。さっき克を叱責したはずの稔の表情が、心細そうなものへと転じる。ここでようやく、克が自分の役に気がついたようだ。
「お、おう、大丈夫だ。いや、とにかく問題ないんだって。そうそう、今のことも、さっきのことも、まったく心配ないからさ。むしろ、俺の所業を君が問題にすべきなくらいだから。」
克の身振り手振りを交えた声に、稔がおずおずと耳目を向ける。克も必死である。何せ、まだ虎の子の『義足』を、稔に握られている。
「本当だって。」
努めて優しげな言い回しで、克が畳み掛けた。平静を取り戻したボートが、全体を大きく回転させながらコーナー曲がる。そのさまは川面に一枚だけ浮かぶ木の葉のようで、なんとも心もとない。
ボートが鼻先を壁にぶつけながらコーナーを曲がりきった時、稔が意外にはっきりとした声で問い返した。
「本当ですか。」
「本当だって。」
克は稔の声を受けると、折角得た会話の糸口を逃がすまいと、すかさず駄目押しに稔に見えるように明るく微笑んだ。
それでも稔はまだ暗い顔をしている。しかし、克の同意ともとれる、おそらくは彼女にとって克の許容ととれただろう言葉を渡されて、とにかく、稔はすがる様に抱きかかえていた克の義足を、震える両手で大事そうに克に差し出した。それから、また、力なく俯く、稔。
「おお、やっと帰ってきたか俺の大事な脚。玩具扱いしてごめんなぁ。あ、猪山も、本当に勘弁な。」
克はひょいと片手で義足を取り上げると、乱暴に頬擦りして見せた。そして、未だにテンションの上がらない、彼にとっては不可解な稔に、簡便な謝辞を述べて見せた。眼は最早、義足しか観ていないが…。
ボート上の稔の申し訳なさそうな顔に、ここに来てやっと、不審そうな色が加わる。なるほど、確かに話はまったく噛み合っていないし、二人の明暗もはっきりしすぎている。
「先輩、その、タクシーとか呼んだ方がいいですよね。」
遠慮がちな口調。しかし、それを言う稔の眼には探るような鋭さがあった。
克は当然、そんなこととは露知らず、健やかに能天気に接する。
「タクシー、そんなもの必要ないって。それより、ここの施設に、ドライヤーとか用意されてるといいんだけどな。」
万華鏡でも除く様に義足の内部を覗き込んでいる、克。稔は納得がいかないと言いたげに、眉間に皺を寄せつつその様子を見ていた。
「それなら、帰りは私が肩を貸しますから。」
「はぁっ。あー、それはどうもだが…。そんな必要はないんじゃないか。俺、ここまでちゃんと歩いてきた訳でもあるし。てか、帰りの話をするには、ちょっと早くはないか。」
「それは…だって。」
「だって何だよ。…っと、まぁ、そう言えばお前が俺の脚のこと知らなかったようだから、んで、それをネタにしたのは俺だし。正直強くは出られんけど。そんな、急に過保護になられてもなぁ。第一、俺、この脚で毎日のように通学してるわけなんだからさぁ。そこら辺、猪山も信用してくれてもいいんじゃないか。」
克の落ち着いた言葉が、稔の眉間の皺をスッと引かせる。今の克の顔には、彼らしい生真面目さがあった。
だが、稔はそれでも満足いかないようすで、心配そうに眉根を曇らせたままで居る。煮え切らない稔の態度に、克もしっくりいっていないと思っているのか、不思議そうに眼をぱちくりさせて見せた。この期に及んでまだ、表情に険が生まれないのは流石というか…やはり、克は、人は悪いが、苦労人だ。
稔が三度、核心を躊躇うようにその言葉を口にした。
「だって…。」
「だって何だよ。」
克もため息を吐いた後で、ジーンズの左足を膝のまでたくし上げながら、同意するように同じ台詞で答えた。
稔はそんな克の消極的な反応をどこかつまらなそうに、見つめた。どこかで波が打ちつけられるような音がしている。
そして、拗ねたように、稔が呟いた。
「だって…先輩の義足は…私が、壊しちゃったから…。だから…歩けないんじゃないかって思って…一人で。」
稔はさっきまで申し訳なさそうにしていたことも忘れて、完全に拗ねいっていた。そんな稔に、克が呆れはてた様、に大げさに鼻息を吐く。
「なんだ、そんなことか。」
「そんなことって…そんな。」
克の冷たいともとれなくもない感想に、勢い、稔が噛み付く。またしても、尻すぼみではあったが。そんな稔に克は、なぜか勝ち誇ったよう眼を向けた後、優しく諭すように話しかけた。
「壊してないぞ。」
「えっ。」
「別に壊してなんかいないぞ、猪山は。そうか、そんなこと気に病んでいたとはなぁ。おっと、笑っている場合じゃなくて、謝るところかな、ここは。」
「だって…。」
克の軽さが今一つ信用出来ないのか、稔は四度目となる躊躇いを口にした。
今度の克はまず、笑い返した。そして笑顔を見守る稔に向けたままで、義足を自分の左膝に宛がった。固唾を呑む水槽の底。
「だって、現に義足が外れてるってか。心配しなくても、外したのは俺だから。あ、君が引っ張る前に外してたて訳ね。それに、こんなものは、こうだ。」
克の掛け声とともに、ジーンズの中に押し込まれる、義足。
見つめる稔の眼は真剣そのものである。そして、ほどなく小さな金属音を合図に克の手が離された。
「さぁ、ごらんあれ。仕掛けは聞くなよ。エンターテーメントには野暮ってもんだ。」
克は一体化した義足の脚を、寝転がるようにしてブラブラさせる。稔は張子の虎のように、首を上下に振りながら、その勇姿を眼で追いかけている。
「そんな、間抜けそうな顔してまで楽しんでもらえるとは…ここも、謝るとこですか、お客さん。」
呆然としているところを克に突っ込まれた稔は、開きっぱなしになっていた口を急いで閉じた。そして、克を少し赤みの見られる目元でキッとにらむと、地響きのような声で抗議を始めた。
「ど、ど、どど、どうしてこんな…。そういう重要なことは早く、教えてくださいよ。そんな、私知らなかったから、てっきり…。と、とにかく、どう責任とってくれるんですか。特に、この髪。」
稔は一気にまくし立てた。
その気迫に圧倒されるように、克は倒れこんで来るように詰め寄る稔を押しとどめようと、両手を前に降参のポーズ。しかし、稔の声や、怒りより、安堵が多いことは克にも届いていたのか、その顔はふんわりとした苦笑いをしていた。
「責任ってそんな大袈裟な。禿げたわけでもなし…。とにかく、な、早めに乾かそうな、痛むから。」
克は愛想笑いで、タオルを稔に差し出す。稔はむすっとした顔でタオルを克の手から引っ手繰ると、乱暴に頭をかき乱し始めた。もちろん、その間も、稔の口はぶつくさ言うために、休みなく稼動している。
「だいたい何なんですか。これだけ私を申し訳ない気分にしておいて…。結局は、一から十まで私をからかっていただけなんて…。それは、始めたのは、確かに私ですけど…。」
「悪かったって。謝ったろ、再三。」
子供をあやすような口調の克を、稔がジト眼で一睨み。キョットンとした克の顔に引きつったような笑いが浮かぶのを確認して、頭を抱える稔の手の動作が再会された。
「もう少し早く、教えてくれても良かったんじゃないですか。趣味悪いですよ。」
最後の一言をいじけたように呟く。稔のぐずぐすとした態度に困り果てたか、克が困り果てたとでも言いたげな顔で、とぼけた様に嘯いてみせた。
「いや、それはさ、猪山が…。なんだよ…だから猪山が気にしてるのは、片足義足の俺を遊園地くんだりまで引っ張って来た事を、気にしているのかなって思ってたんだよ。」
「それは、その、私に行き届かないところはあったとは…思ってます。」
「もういいさ、そんな風に思わなくても。呼ばれて、着いてきたのは、他ならぬ俺様だからな。義足で。…と、お互いのわだかまりが解消されたところで、そろそろ、第二段作戦会議
に移りたいと思うんですが。時間もないし。」
「…そうですね。…解りました。先輩のこと、許してあげますから。ですから、先輩も私のことは気に病まないでくれていいですから…とりあえず、ここにいる間は。」
稔はそっぽ向いて克に、タオルを差し出した。ぼそぼそと話す稔に対して、克は愛想がいい。だが、そこに明暗の差は無い様だ。
「おう、スコンと忘れてやるよ。だから、このタオル、新品だったけど返さなくていいぞ。
」
胡坐をかいてすでに密談モードの克が、目の前のタオル越しに稔に語りかけた。稔はというと、まだタオルもった手をピンと伸ばしたまま、不思議そうに克の方を眺めていた。そんな稔の表情が伝染したのか、克が怪訝そうに眼を細めた。
「どうした。やるぞ、そのタオル。」
「…いえ、そうじゃなくて…。」
「んっ、そうじゃなくて、なんだ。」
克に追及されて、稔は自分の考えていたことにようやく自覚を持ったのか、急に照れたように頬染め俯いた。内容が定かでないのが、非常に残念だ。
稔は早口に、
「ありがたく、い、頂いておきます。」
と言うと、いそいそとビニールの『雨合羽』をたくし上げるて、照れ隠しのつもりか鞄の中にタオルを突っ込む。
「あ、あぁ…。」
その一連の動作をじっくり眺めた後で、克がようやく生返事を返す。直射日光を浴びて、こめかみが焼けるように熱かった。




