第十一話
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久方ぶりに対面した克と稔の面構えは正反対のものだった。
「おっ、猪山、ご苦労さん。で、役得だったな。存分に感謝してくれていいぞ。」
「どういたしまして。『で』、その様子だと、どうやら私はお役にたったようですね…ハァッ、何よりです…。」
それは克の生き生きとした顔がよほど恨めしかったのか、はたまた裕子と過ごしたひと時…おそらくは、晴天を切り裂くこの羨ましくなる様な嬌声の波に加われなかったための乾いた笑い…でもないか…。ともかく白昼に不釣合いなこの即席の幽霊は、どんよりとしたその顔の中でも、よほど特徴的なその口元をいかにも苦々しく歪めて見せた。
ところでもう一方のカップルはというと、そちらもやはりというか、にこやかな笑顔で俯き加減の達雄に笑いかける祐子と、しきりに恐縮するように、なにやらぼそぼそと呟きながら、小刻みに頭を上下に振るわせる達雄…という、天井を覆う真っ青な背景に生えるくっきりとした明暗の別れっ振りであった。と、視線に気付いて達雄が、カッキリと首の運動を止める。そして、アナログ時計がそうするように、いかにも音でも聞こえてきそうな動作で視線の主に対して軽く目礼を送った。その顔は微かに笑っているようにも見える。
「…いったい、二人で何の話をしていたんですか。あ、『何の話をするはずだったんでしたっけ』の方がよかったですか。」
達雄と、今は満面の笑顔の主となった、克のアイコンタクトを生暖かい目で見ていた稔が皮肉で一杯であろうその頬を目元まで引き上げながら聞こえよがしに言う。克はと言うとそんな観衆の意見などどこ吹く風と、
「野暮な奴だなぁ。まぁ、隠すことじゃ無し、知りたいのであれば丁寧に、分かり易く教えてやるが…なぁ、今は、俺たちの新たな関係を近くばよって目にも見よ。」
と、ついにはまた照れた様に俯きなおした達雄に、軽薄そうにヒラヒラと手まで振って見せる始末。
この、遊園地というある意味局地でさえ白々しい、というか君が悪い『男同士』の交流にようやく気付いたのか。嫌そうに眉間を人差し指で押さえる稔に習うように、祐子も口を半開きの状態にしたままで、軽快に瞬きするそのつぶらな瞳を乗せた端正な面差しを、距離感不明の群像の間で行ったり来たりさせている。驚いているのが、傍目にもよく分かる。が、その表情からでは、自分がその劇の演者の一人である自覚があるかは、心もとないとはいえる…。
ひとしきり祐子の黒い瞳が右往左往した最後に、克の楽しそうな目線に捕らえられて、一応の落ち着きを見る。そして、そんな二つの画面に克の笑顔が不意に大写しになった。
「次さぁ、あれ乗らないか。」
何が嬉しいのか、彼を知らない者でも興味を抱いてしまいそうなほどの、克の笑み。たぶん、祐子がキョットンとしたのは、これのせいだろう。祐子が一呼吸分は十分にある間をおいて克の問いに答える。
「へぇ…ああ、あれね、ああそう。うんと、私は本田がいいっていうならいんだけど…あ、でも服…濡れちゃわないかな。」
「大丈夫だろ。多分、水しぶきを浴びてもいいように、それようの雨合羽とか用意しているだろうから。な、猪山。」
少し困ったように、どこかもったいぶったようにゆっくりと言葉を返す、祐子。克はそんな祐子に向けられていた満足そうな表情を、首だけ動かして、そのまま稔に向ける。その時、稔の顔がむっとしていたようだったのは、克の口元が緩みきっていたからだろうか…ともかく、稔が返事をした。
「はあ、私も遊園地なら大抵、あの手の施設にはそういうのがあると思いますけど…ああ、はいはい、私もぜひとも乗りたいです。で、いいでしょ、彼氏殿。もう、どうとでも連れまわしてください。」
軽く目を閉じた笑みから、鼻息一つ。これで稔の許可が下りた。それを受けて克の顔がまた祐子の目の前に戻る。今この瞬間、祐子の鼻先から頬にかけて鮮やかさが加えられた。たぶん、それは祐子が克の態度に、今までに感じたことのないよう気安さを感じたから…ではないだろうか。克は気付いているのだろうか。
「若干投げやりなのが気になるが、まぁよしだ。んで、石川の了承はすでに頂戴しているので…。」
また祐子の訴えるような目線だけを残して、克の頭が傾く。その先では、タイミングを見計らったように達雄が首を二度縦に揺らしていた。
「万事よしっと。んじゃ、行ってよし。」
「ちょっと。」
今度は首が定位置に戻される前に、克の耳元に祐子の唇が寄せられる。
「なんだ。」
克の声は、祐子のそれに合わせたようにか細い。そして、この簡素な台詞に祐子が満足したはずもなく密談は、さっさと歩を進め始めている二人を尻目に続行される。
「聞いてるのは、わた…じゃない。とにかく、おかしいじゃない。どうなっているの、アンタの態度。急に、乗り気になったりして…なんかあったの…その石川と二人で…えっと、その、さっきまで二人で居た間に。」
自分の詰問にも相変わらずの克の微笑みに根負けしたように、祐子の声から徐々に勢いが剥がれ落ちていく。攻め入るようなその口調は、いつの間にか躊躇う様なものに変わり、そのためか、恥ずかしそうに手をこすり合わせながら尋ねる祐子の囁きは、内容の割にはどこか艶めいて聞こえた。そんなことも手伝って、対する克の声が子ども内緒話のように、いかにもそれらしく祐子の心に届く。
「なんにもないって、特に疚しいことは…わぁったよ。分かったからそんな可愛い顔で睨むなっての。…だから、ごめんなさいって…んーそうだな。公明正大に強いてあげるなら、俺に遊園地にいるってことの自覚が芽生えたってことだ、な。ま、案外楽しかったってことだ、遊園地デート。エキストラでの起用だけどな。」
克はスムーズに首を回しながら、楽しげに祐子の言葉を待つ。稔たちは知ってか知らずか、振り返ることもない。祐子が、その必要ももうないはずだというのに、克に熱い吐息とともに呟いて見せたのは、ストレッチを終えた克がそんな様子を横目で一瞥した時だった。
「そっか…。そうなんだ。」
ふわりとした声に誘われるように、克の目が祐子に向けられた。そんな克の動きに答えるように、祐子は自分より背の高い相手に、見上げるようにニッコリと笑いかけた。
「そっか、本田が楽しんでいるなら、何よりだよ。ん…んっと…。」
そんな祐子に克の不思議そうに見下ろす顔。祐子は恥ずかしそうに、気付いた相手の反応に、そして自分に小さく苦笑する。
…さっきから、少なくとも今、祐子がこれほどまでに楽しそうにしているのは…なぜだろうか。祐子は照れ隠しにか、顔を伏せる。まるで宝物をポケットに突っ込むように。そして空いたもう一方の手は克の頭に伸ばされる。
「お、おい、何だよ。」
いつも飄々としている克にも、これは不意打ちだったのようだ。ややいつもより低いその声からはそれが本当に今、頭の中を支配している疑問であることがよく分かる。祐子はフニャケた様な緩んだ表情で、さらに克の頭をなで続けた。
「んー、ん、可愛い。なんか今日は可愛いよ、チミ。いいこ、いいこ。」
なで続ける祐子の手は、身長差を埋めるために祐子が背伸びをしているため、じゃっかん押さえつけるように克の頭をなで続ける。しばらくは札をペタペタと貼り付けられているキョンシーのように大人しくしていた克であったが、義足の片足が物理法則にしたがってズリズリ地面削りながら後退しているのに気付くに及んで、当然、行動に出た。
「あいたっ。」
「いろいろ言いたいことはあるが、とりあえず彼氏を待たせているっていう自覚はもてよ。っと、言ってる間に行くぞ、篠原。」
交差する腕、そして稔のおでこを軽くタップした克の手の奥からは、まだ落ちずに祐子の笑顔が見えてくる。それに対面した克の表情もどこか満足そうだ。
祐子は小さく声を出して笑ったあと、克に頷いて見せた。そしてどちらともなく歩き出す二人。
今、克は幸せそうだった…たぶん、隣に並ぶ二つ黒い瞳が、彼女であることを忘れているから…。




