僕と守護者、そして彼女の三日間
―――――Prologue. 1st.day.
「そうして君は飛び降りてしまうのかな?」
金色に染まった夏の入道雲が覆う校舎の屋上。
よじ登った金網から身を投げ出そうとした時、僕の耳に、彼女のその言葉が流れ込んできた。
小さく頷く僕に、「ずいぶんとせっかちなことだな」と苦笑する彼女。
「そう言わずに、せめて三日間ばかり私に付き合わないか?」
その時から。
僕と守護者と、そして彼女の三日間が始まった。
――――2nd.day.(1)
いつもどおり制服に着替えると、静かで人気のない我が家を出て、僕は学校へ足を向ける。
夏休みに入った日差しの強い町の中を通り抜ける。
アスファルトの照り返しでゆらめく景色の中を、僕はゆっくり歩いていく。
校門をくぐり。階段を上り。自分の教室がある階を過ぎて、校舎の屋上へ。
重い鉄の扉を開けると、僕は屋上の縁へと向かっていく。
高くてしっかりして、人がよじ登っても大丈夫な金網に、僕は何気なく手をかける。
「やれやれ、三日間は付き合ってくれるのではなかったかな」
背中にかけられた声に、僕はゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、この学校の制服を着た一人の少女だった。
腰まで流れる黒い髪と、整った顔立ち。
深く澄んだ瞳で僕を見ながら、彼女はこつこつ、と屋上に靴音を響かせた。
「飛び降りに来た訳じゃないし、三日間付き合うことを約束した訳でもないよ」
僕の言葉に、彼女は苦笑してみせた。
「ああ、そうだったかな。昨日の君は飛び降りるのを止めてくれたものだから、てっきり約束してくれたものと思っていたよ」
そう言いながら、彼女は僕の傍らに立つ。
金網にそっと指を絡め、「今日もいい天気だな、少年」と町の景色を眺める彼女の横顔を、僕はぼんやりと見ていた。
夏の風に髪をなびかせながら、彼女が急に僕を見る。
慌てて視線を逸らす僕の横で、彼女はくくっと笑い声を上げていた。
「ふむ、見とれていたのかね?」
「見てなんかないさ」
「そうか。今日の夏空は町に映えるからな、てっきりこの景色に見とれていたと思ったのだが」
そう言って再び笑い声を上げる彼女。涼やかな声に、僕はむっとした表情をしてみせる。
「ああ、気を悪くしたのなら申し訳ない。君の反応を見ていると楽しいのでね、ちょっとからかってみただけなんだ」
「・・・まあいいけれど」
苦笑する彼女に、僕はため息をついて金網から手を放す。
「そろそろ教室に行くよ。講習が始まる時間だから」
「ふむ、夏期講習を受けるのは久しぶりだな」
「・・・付いてくるのか?」
僕の言葉に、彼女は手を後ろで組みながら首を傾げる。
「当たり前だろう? 今日は『君と私の三日間』の、まだ二日目なのだからな」
彼女の言葉に、僕はもう一度、大きくため息をついてみせた。
「ところで、どうして少年は今日も屋上に来たのかな」
僕を先導するように屋上の出入口に向かう彼女が、ふと思い出したように訊ねる。
僕は彼女を見て、そして少し視線を外しながら呟く。
「だって、今日は『君と僕の三日間』の、まだ二日目なんだろう?」と。
僕の言葉に彼女はまず目を丸くして、そして。
満面の笑みを浮かべながら、僕の肩を何度も叩いてみせた。
「少年、君と話をするのはやはり面白いな。さあ、今日も楽しい一日を過ごすことにしよう」
そう言って、屋上の出入口に駆け出していく彼女。
彼女と僕の二日目が、こうして始まった。
同級生たちがまばらに座る教室の中、僕はいつもどおり窓際一番後ろの席に座る。
――ねえ、講習終わったらどこに行く?
――来週の旅行、何時に集合だっけ?
色々なクラスの生徒が混じる夏期講習の教室は、それでもみんなの声で賑やかだった。
そんな中、僕は一人で外を眺める。夏の青空に湧き起こった入道雲は、校舎の屋上で見るよりもなぜか曇っているような感じがした。
「ずいぶんと賑やかなものだな」
僕の隣に腰掛けた彼女は、どこか嬉しそうに周囲を見渡す。
「珍しい?」と訊ねる僕に、「ああ、私は屋上にいることが多いからね」と答える彼女。
「登下校の時や部活をしてる皆の様子は知っているが。教室というのはもう少し静かな感じだと思っていたよ」
確かに、夏期講習の教室は、いつもよりも賑やかな感じがする。夏休みというのが普段と違う感じになって、仲のいい友達と近い席で講習を受けたりできるためなのかもしれない。そうは言っても、僕には関係のないことだけれど。
教室のざわめきは、僕の周囲には届かない。
あちこちで交わされる笑顔も、僕に向けられたものじゃない。
自分がいてもいなくても変わらない光景の中に、僕は静かに、透明に溶け込んでいた。
「にもかからわず、君はここにいたいと思うわけだ」
不意に飛び込んできたその言葉に、僕は隣に座る彼女の顔を見つめた。
澄み渡ったその瞳をまっすぐに僕に向け、彼女は静かに微笑んでいた。
「別にここにいないといけない訳でもない。どこにだって行ける。それでも、君はここにいることを望むわけか。不思議なものだな」
「不思議でも何でもないよ。他に行く場所が思いつかないだけだからさ」
学校に来なくて、家からずっと出てこない同級生もいる。
学校を辞めて、別の生活を送っているクラスメイトもいる。それが、学校に居場所がなくてそうしたのかは分からないけれど。
自宅には、ずっと居たいような場所はない。
学校以外の場所で、時間を過ごせる場所なんて知らない。
だからこうして夏期講習を受けて、誰とも喋らず一日を過ごす日々を繰り返す。それだけのことだった。
僕のそんな様子に、「ふむ、そんなものか」と彼女は呟く。
「自分のことを想い願うのであれば、それは純粋な願いだかならな」
「? それって、どういう――」
彼女の言葉に僕が首を傾げた瞬間。
教室の入口に姿を現した先生が、「そろそろ始めるぞー」と言いながら教壇に上がる。
「さて、授業が終わるまでは失礼させていただくとしよう」
そう言って立ち上がる彼女。
「授業は受けないのか?」と訊ねる僕に、彼女は苦笑してみせた。
「勉強は苦手でね。後でまた会おうな、少年」
そう言って、彼女はかつん、と靴で床を鳴らしてみせる。
次の瞬間。
僕に片手を挙げながら、彼女の姿は溶けるように教室から消えていく。
彼女が消えるのに合わせるかのように静かになっていく教室の片隅で、僕は隣の席を見ながらため息をつく。
昨日から始まった、彼女との三日間。
その初日、彼女と初めて会った時のことを、僕は思い返していた。
―――――1st.day.
飛び降りてしまおう。
そう思ったのは、何かきっかけがあったわけじゃない。
普段どおりに家を出て、いつもどおりに夏期講習を終えて。
ノートや筆箱をしまい終えた後、何気なく窓の外を見た時のことだった。
窓から見えるグラウンドを夏の夕映えが染め上げるのを見た時、何となくその向こう、グラウンドの向こうの建物に沈んでいく夕日を見かけて。
屋上だったらもっと良く見えるんじゃないか。ただそう思っただけだった。
笑いさざめきながら階段を下りていく同級生たちの流れと逆に、僕は一人屋上へと向かい、重い鉄の扉を開けた。
そこにあったのは、夏の強い日差しと、秋とは違う淡い色合いの夕映えの世界だった。
金網を溶かして照らす黄昏色の光景に、僕は一歩、また一歩と屋上の縁へと足を進めていた。
もっと近くで。
もっと夕日をいっぱいに浴びることができるようにと。
いつしか僕は校舎の端の金網にたどり着いていた。
金網に何となく手をかけ。
軽く体重をかけてみて。
一段、二段。
色の薄い夏の夕映え空を目指して僕は金網をよじ登っていた。そう、ただ何となく。
金網の天辺にある有刺鉄線も、うまくつかめばなんということもなくって。
金網の一番上にたどり着いた僕は、そこから見える、町の中に沈んでいく夕日の黄色く赤い様子に、しばらくの間見とれてしまっていた。
その時だった。
―――飛び降りてしまおう。
何のきっかけもなく。
ただ、ふと心に浮かんだその想いだけで、僕は少し、体重を前にかけようとした。
「ふむ。そうして君は飛び降りてしまうのかな?」
その瞬間、僕の隣からその声は聞こえてきた。
顔を向けたその先には、金網の上に腰掛け、静かに微笑む彼女の姿があった。まるで、先ほどからずっと、一緒に夕焼けを眺めていたかのように。
小さく頷く僕に、「ずいぶんとせっかちなことだな」と苦笑する彼女。
「ここから見る夏の夕焼けはな。太陽が沈んでからがとても綺麗なんだ。それを見てからでも遅くはないだろう?」
そう言いながら足を数度ぶらぶらしてみせる彼女の様子に、僕も金網の上に腰掛ける。
器用なものだな、と鈴のような声で笑いながら、彼女は落ちていく太陽に視線を移した。
「どうして死にたいと思ったのかな、少年は」
夏の風にそよぐ髪を軽く押さえながら彼女がそう言った時。
僕は、自分が死のうと思っていたことに、改めて気がついた。
けれど。
「・・・別に」僕の口から出た言葉は、ただそれだけだった。
静かで人気のない自宅。
僕のことを、子供が飽きたペットのように淡々と育てる両親。
毎日何も変わらない学校での生活。
そこに行けば時間だけは確実に過ぎていってくれる、空気のような世界。
そうしたことが少しずつ、僕の心の中にざらざらした砂のように降り積もっているのかもしれないけれど。
だけど。それは理由ではないような気がして、僕は軽く首を横に振った。
「そうか。言葉では表せない想いというのもあるものだな」
しばらくの沈黙の後、彼女は苦笑しながらそう呟いた。
「・・・まあいいとしよう。それより、時間がきたようだ」
「時間?」
訊ね返す僕に、彼女は「ほら」と指をさしてみせる。
彼女の指先を追った僕の視線が、そこで釘付けになった。
黄昏色と宵闇色の、二つが交わる世界がそこにあった。
赤く滲んだ夕映えが少しずつ、蒼く、昏く色を落としていく。
まるで緞帳を下ろしていくかのように、ひっそりと、世界に星空の輝きが降り始めていく。
「こういう光景も悪くないだろう?」
彼女が静かに微笑む様子に、僕はこくりと頷いた。
「生きていればこういう景色を見られるわけだが。それでも君は、やはり飛び降りてしまうのかな。死にたいと願うわけかな?」
朱色の世界が去りつつある世界の中、僕はもう一度こくりと頷いた。
「そうか。残念なことだが、君が望むのであれば仕方がないか」
彼女はそう呟いて少し黙り込んだ後、何かを思いついたかのように、ぽん、と手を打ってみせた。
「ふむ。そうだな、せっかくだから三日間ほど私に付き合わないか?」
急な提案に、僕はぽかんと口を開ける。
「君もそう死に急ぐこともあるまい。私も久しぶりの話し相手とすぐにお別れしたくもないしな。どうだ、良い考えだろう?」
彼女は嬉しそうに「うむ、そうしよう。それがいい」と何度も頷く。
そのあまりの喜びように、僕は思わず「久しぶりってどういうこと?」と、見当違いなことを訊ねていた。
僕の言葉に、ああ、と頷いてみせる彼女。
「毎日こうして屋上をぶらぶらしているが、ここには滅多に人が来ないものでね。君が久しぶりの来客だったというわけさ」
「毎日? ここで何をしているの?」
僕の言葉に、彼女はすっと立ち上がる。
金網の上部、数センチの枠の上で、彼女は僕に微笑みかけた。
「私か? 私はな、皆の『願い』を叶えるためにここにいるのさ、少年」
夕闇の訪れる校舎の屋上。
髪をなびかせ僕を見下ろす彼女。
「願いを叶える? 君は、一体―――」
「私は、『この街の守護者』。この街に住む者の願いを叶えるために存在する装置。それでは、あと二日よろしくな、少年」
それだけを言い残して。
僕の前でくるりと回って見せた『この街の守護者』は、夜の気配に溶け込むように消えていった。
その日、その時から。
僕と、そして守護者の三日間が始まったというわけだった。
―――――2nd.day.(2)
「ふむ。ようやく一つ終わったか」
朝一番の講習が終わり喧噪が戻ってきた教室の中、僕の隣の席で守護者が欠伸をしてみせる。
そんな彼女にあきれ顔をしながら、「今度は別の教室に移動だよ」と僕は席を立った。
「ところで、守護者の姿は他の人には見えてないの?」
僕の言葉に、「ああ、見せないようにしてるからな」と答える彼女。
「じゃあ、僕は誰もいない空間に向かって喋ってるように見えるわけだ」
他人から見たらおかしな光景だなと思いつつ、僕は教室を出る。どう見えるにしろ、僕に注意を払う人はいないのだから、別に気にする必要もないのだけれど。
「講習は一日ずっとあるのかな?」と訊ねる守護者と一緒に、僕は隣の教室のドアをくぐり抜けた。
「―――三木くん?」
後ろからかけられた声に、僕は振り返る。
ショートヘアーに、少し重たそうな眼鏡をかけた、小柄な女の子。
そこにいたのは、同級生の椎木美沙だった。
僕を見て、まるでお化けにでも出会ったかのように驚いた表情をしている彼女に、僕は「どうしたの?」と声をかける。
「あ、いや、ううん、何でもないよ」
「?」
彼女は何度か首を振ると、「じゃあね」と廊下を走っていく。
たたたっと音をたてる彼女の後ろ姿を、僕は何とはなしに見送っていた。
「ふむ、知り合いがいるではないか」
ふと視線を動かすと、そこには意地悪そうに笑みを浮かべる守護者がいた。
「椎木さんとは別に知り合いじゃないよ」守護者の表情に、僕は苦々しく答える。「クラスも一緒になったことないし」
「だけど彼女の名前は知っているという訳か」彼女の笑みは止まらない。
「昔は家の近所に住んでいたからね」
ごめんね、三木くん。
車から身を乗り出し、大きく手を振る彼女。
あの日の光景が不意に脳裏を横切る中、僕は苦笑してみせる。
そんな僕の顔を見ながら、「・・・まあいいとしよう」と『この街の守護者』は呟いた。
「それにしても、不思議なものだな」
「? 何が?」
守護者は僕の質問に答えず、「それより少年、講習は何時まであるのかな?」と言って教室に入っていく。
賑やかな教室の中、生徒たちの中を縫うように歩きながら「少年、席はここでいいのか?」と訊ねる彼女にため息をつくと、僕は最後尾の席へと足を向けた。
―――――10years ago.
椎木美沙と初めて会ったのは、もう十年以上前の小学校の帰り道だった。
いつもどおりに一人で歩く通学路の途中で、僕は彼女を見かけた。
数人の同級生と上級生に囲まれ、脅えた様子の女の子が、椎木美沙だった。
転校生、名古屋から来たんだろ?
みゃーみゃー言えよ、おい?
周囲から浴びせかけられる声に、目尻に涙をためる彼女。
そんな中、僕は彼らの脇を歩いていく。
僕の姿を見て、一瞬静かになる通学路。
僕をにらむ何対もの目。
そして、すがるような彼女の泣き顔が、ちらりと彼らを見た僕の視界に入る。
三木、邪魔するなよ。
お前も同じ目に遭いたいか?
上級生の言葉が耳に入ってくる中、僕は彼らの脇を通り過ぎた。
背後から再び湧き起こる罵声の中。
僕は背中に背負ったランドセルを、脱ぎざまに上級生の頭目がけて叩き付けた。
「!!――――」
不意の衝撃にそのまま昏倒する上級生。
「三木、お前」
周囲に湧き上がった同級生たちのわめき声の中、僕はランドセルをぶら下げたまま、アスファルトの道路に転がる上級生をただぼんやりと見下ろしていた。
どうしてあの時あんなことをしたのか、今でも正直分からない。
だからあの後、同級生と上級生に殴られ蹴られ、ランドセルを中身ごと田んぼに放り込まれた僕に椎木美沙が「だいじょうぶ?」と泣き顔のままで訊ねた時も、僕は何も答えず、ぶちまけられた筆記用具や教科書を拾いに田んぼへと入っていったのだった。
「あの子たち、君をいじめたりしないかな」
「さあ」
僕はそれだけ答えると、泥水を垂らすランドセルを背負って、そのまま通学路を歩き始めた。
後ろからぱたぱたと足音が聞こえ、僕の隣に彼女が走ってくる。
「痛くないの?」
「痛いよ」
「すごいね、上級生に飛びかかるなんて」
「べつに」
ぽつりぽつりと話ながら、僕らは二人、学校からの帰り道を歩いていく。
「・・・ありがとう、わたしね、椎木美沙」
小さな声で呟く彼女に、僕は「知ってるよ」と答える。
「どうして?」
「同じクラスだからね。僕は三木悠人」
「・・・ごめん、わたし、君のこと知らなかった」
「いつものことだよ」
「・・・ごめん」
黙りこくったまま、僕らはそのまま歩いていく。
自分の家の前に着いた僕にもう一度「ごめんね」と呟く彼女。
「明日から大丈夫? 三木くん、いじめられたりしない?」
心配そうに僕の顔を見る彼女に、僕は黙って手を振り、自宅の玄関へと足を向ける。
ありがとう、三木くん。
ランドセルからしたたる泥水が冷たい背中に、彼女の小さな声が飛んで来た。
―――――2nd.day.(3)
「ふむ、それが君と彼女の馴れ初めというわけだな」
講習が終わった昼間の校舎の屋上、日陰で寝転ぶ僕の横で『この街の守護者』が呟く。
「馴れ初めとは言わないと思うけど」
なぜ自分の心の中が分かるんだろうと思いつつ、僕は彼女に抗議してみせる。
「まあ、言葉のあや、というやつだ。ところで、その後は彼女とはどうだったのだ」
興味深そうに訊ねる守護者に、僕は寝返りを打ちながら「べつに」と答えた。
その後に起きたことは、別に何ということはなかった。
翌日から、僕の靴は下駄箱から消え、机の中からは教科書やらノートやらが捨てられた。
その度に。
教室の隅で僕を見て笑う彼らに対し、僕はささやかな抵抗をした。
授業中に席を立ち、いきなり後頭部を殴りつけた。
朝礼の間に、無防備な背中を蹴りつけた。
その度に先生に止められ、後で彼らに倍返しを受け、身体中を腫らして家に帰る。それが僕の日課になった。
彼らの標的は僕に移り、そして椎木美沙には友達ができた。そう、それだけのことだった。
通学路から離れた小屋の裏で袋だたきにあって倒れてた僕に、彼女が泣きそうな顔で、「三木くん」と声をかけてくれたりしたこともあったけれど。
僕は彼女に返事をすることなく、黙って家に帰っていった。後ろをついてくる彼女を振り返ることもなく。
だから別に、何ということもなかった。
そして、そんな日々が続いて三ヶ月ほどした時。
彼女は再び、違う学校へと転校していった。
「ごめんね、三木くん。わたし、わたし――――」
僕の家まで来て、目尻に涙をためた彼女が、車から身を乗り出して手を振っていた光景が再び頭をよぎる。
彼女がいなくなり、同級生たちが僕に飽きて。
僕は再び、ひとりぼっちになったのだった。
そんな昔のことを思い出しながら、僕は夏の日差しを避けるように手をかざす。
「君は人間すぎるほどに人間だな、少年」
「・・・そうかな」
「そうさ」
僕の隣で、『街の守護者』が立ち上がった。
「他人に関心がないようで面倒ごとに首を突っ込む。頬を叩かれれば相手を蹴り返す。人と触れ合うことが怖いのに、ひとりぼっちは寂しい」
それだけ言うと、彼女は僕に微笑みかける。
「いいものだな、人間というものは。君を見てるとつくづくそう思うよ」
夏の強い日差しの中に、踊るように駆けていく彼女の姿は、嬉しさに満ちているように僕には思えた。
そんなに、いいものだろうか。
物静かな家で一人、冷たい食事を取ることが。
学校に来て、誰とも言葉を交わさずただ時間だけを過ごすことが。
家族で囲む食卓を羨んだことはないけれど。
級友たちが笑いさざめく様子に耐えられなくなったこともないけれど。
「・・・いいものでは、ないと思う」
彼女が言う通り、これがいいものだったなら。
あの日、僕は屋上の金網をよじ登ることはなくて、そして、そこから――――。
その瞬間、頭に激痛が走る。
思わず両手で押さえた頭の中で、切れ切れになった光景が浮かび上がっていく。
夕映えの屋上。
金網の上によじ登る僕。
そして、悲しそうな表情で僕の様子をじっと見つめる、『この街の守護者』の姿。
なんだ、これ。
浮かび上がっては消えていく断片的な記憶に、僕の頭がきりきりと悲鳴を上げた、その時だった。
「三木くん、三木くん!?」
薄れゆく意識の中で。
ぼんやりとした僕の視界に映ったのは、目いっぱいに涙をためた、椎木美沙の姿だった。
「・・・椎木さん?」
頭を軽く振りながら僕は身体を起こす。頭の中を駆け回っていたばらばらの光景が、急速に消え去っていく。
「三木くん・・・」
僕の姿にほっと息をつく椎木さんは、「よかった」と小さな声で呟くと、涙をごしごしと拭く。
そして。
「お話しするのは久しぶりだね、三木くん」
そう言って、彼女はにっこりと笑ってみせた。
―――痛くないの?
―――三木くん、ごめんね、わたし。
僕の中の彼女にはなかったその表情。
僕は呆然として、彼女の笑顔をただ見上げていた。
「・・・三木くん?」
その言葉に、はっと我に返ると、僕は思わず顔を逸らす。
もう一度「どうしたの?」と訊ねる彼女に、僕は何と言えばいいか分からず、「椎木さんこそ、どうしてここに?」とちぐはぐな質問をするばかりだった。
「え、うん、その」
なぜか急に慌てだし俯く彼女は、どう答えていいのか分からず戸惑っているようだった。
「いやはや、君の知り合いは可愛いな、少年」
そんな彼女を見ながら、小さく笑い声をあげる『この街の守護者』に、僕はしかめ面をしてみせる。
「どうして急に出てくるんだ」
小声で呟く僕に、彼女は「わたしはずっとここにいたのだがね」と意地悪そうな笑顔を浮かべる。
「君の姿は彼女から見えないんだろう? 僕が独り言を言ってるみたいで、椎木さんにヘンに思われるじゃないか」
僕の抗議に、彼女は「ふむ」と頷いた。
「おかしなことを言うものだな、少年」
なにが、と答える僕の前で。
彼女は静かな笑みを浮かべて、言った。
「他人からどう見えたとしても、君は気にならないのではなかったかな、少年」と。
「な――――」
絶句する僕の前で、『この街の守護者』が微笑む。
教室で、周りを気にせず守護者と話していた自分の姿が、急に脳裏に浮かび上がる。
「それは、」
「三木くんと話がしたいな、って思ったからです!」
口を開きかけた僕を遮るように響き渡る声。
思わず顔を見合わせ、そして同じ方向に顔を向けた僕と守護者の前で。
椎木さんは、顔を真っ赤にしていた。
「だから、わたし、ええと」
再び俯きだして、声が小さくなっていたと思った瞬間。
彼女はまた真っ赤な顔を上げて、泣き出しそうな口調でこう言った。
「・・・だから、三木くん、一緒に、帰りませんか?」
その言葉に。
僕と守護者は、再び顔を見合わせた。
午後からの講習を終えての、学校からの帰り道。
「三木くんは、あの、その、ええと」
僕の横で、椎木さんがしどろもどろになって何かを喋ろうと悪戦苦闘している。先ほどからずっと、「三木くん、そういえばね」と言っては口ごもり、「・・・なんでもないです」と俯いてはしばらく歩くを繰り返す様子は、見ていてちょっと気の毒になってくる。
そして。
そしてその横では、僕達を意地悪そうな笑みを浮かべながら眺める『この街の守護者』の姿。
「いやはや、椎木さんは可愛いな、少年」
涼やかに笑うのがまた憎らしい。
僕ら三人は、こんな風にして夏の夕べの街を歩いていく。それにしても。
椎木さんは、どうして一緒に帰ろうなんて言ったんだろう。
「受験、そう、受験の話にしよう」と小声で呟く椎木さんを横目で見ながら、僕は何となく思う。
小学校の頃に、三ヶ月だけすれ違った彼女。
高校になって、今まで一言も言葉を交わしたことのない彼女。
それが、どうして今日になって彼女は僕に話しかけたのだろう。答えなんて出ないことを、僕は何とはなしに考え、そして思う。
守護者と出会ったから、なんだろうか。
その時だった。
「あ、この場所」
椎木さんの声に、僕はぼんやりとした思考から引き戻される。
立ち止まった僕たちの前には、別に何もなかった。
そこは、ただの道路だった。
僕が小学生の頃から今まで、通学路として歩いてきた道路が続いているだけだった。
だけど。
だけど、昔から変わらない田んぼ沿いの道路を見ながら、椎木さんは小さな声で、けれど、少し嬉しそうに言った。
「わたし、ここで三木くんに助けてもらったよね」と。
ごめんね、三木くん。
僕の目の前で微笑む姿に、十年前、ここで同級生や上級生に囲まれていた彼女の姿が重なった。
「転校してきたばかりで、友達もいない時で」
少しずつ赤みを増していく夏の夕暮れの中。
「あの子たちに囲まれた時ね、わたし、怖くて仕方がなかった」
紅くて黄色い夏の夕日に、彼女の顔が少しずつ染まっていく。
「誰かに助けてほしかったけど、怖くて声が出なかった。何人もわたしの前を通っていったけれど、誰も助けてくれなかった。でもね」
彼女は僕を見た。
微かに微笑んだまま、真っ直ぐに。
「でもね、三木くんは助けてくれた。同じクラスなのに、名前も覚えてなかったわたしを」
だからね、三木くん、ありがとう。
椎木さんはそれだけ言った後に。
そのまま、ぽろぽろぽろと涙をこぼした。
「椎木さん?」
「ごめんね、三木くん、ごめんね」
僕の前で、先ほどまでの笑顔を崩し、泣きじゃくる彼女。
ごめんとただ言い続ける彼女に、僕は訳も分からず、何が、どうして、と訊ねることしかできなかった。
「わたしね、ずっと三木くんにお礼が言いたかった」
泣き止まない彼女の口から、そんな言葉がこぼれた。
「高校に入ってすぐに、三木くんがいることを知ったよ。だから、すぐにでもお礼を言おうと思ってた」
だけどできなかったと彼女は言った。
教室の片隅で外を眺める僕に。
一人学校から帰っていく僕の背中に。
何度と声をかけようとして、だけどどうしても声をかけることができなかったと。
「本当なら、もっと早く、こうやって三木くんと話がしたかった。あんなことになる前に」
「あんなこと?」
僕の問いに、彼女はしゃくり上げながら再び涙をこぼす。
ごめんね、ごめんと繰り返しながら、彼女は言った。
三木くんが飛び降りる前に、話がしたかった、と。
夕映えの屋上。
金網に登り、沈んでゆく夕陽を見つめる僕の姿が脳裏に浮かび上がる。
違っていた。
それは、昨日の光景ではなかった。
「三木くん?」
心配そうな椎木さんの声。
「・・・帰ってくれ」
僕の口からこぼれたのは、そんな言葉だった。
「三木くん・・・」
「・・・いいから、いいから一人にさせてくれ・・・っ!」
僕は顔を両手で覆ってその場にしゃがみ込んだ。
なんだ、これ。
金網に腰掛けた僕が、少し前のめりになる。
悲しそうに僕を見つめる、守護者の姿。
そう。
「そうして君は飛び降りてしまうのかな?」
その言葉を掛けられるよりも前に。
僕はすでに、校舎から身を投げていたのだった。
「―――思い出してしまったようだね」
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
守護者の声に、僕は少し顔を上げる。
椎木さんの姿はすでになく、僕と守護者がいるばかりの街角は宵闇に包み込まれ、ただ街灯の明かりが微かに照らすばかりだった。
「守護者と会ったのは、昨日が初めてじゃなかったんだね」
僕の言葉に、彼女は微かに頷く。
「そうだ。夏休みに入る前。君の心と体がばらばらになる前に、私たちは会っているよ、少年」
そう言って、彼女は悲しげに微笑んだ。
その日から毎日、屋上に上がってきては身を躍らせる僕の姿を見ていたこと。
そして、昨日初めて、僕に声を掛けたこと。
「どうして声を掛けたの?」と訊ねる僕に、「私も、自分の役割に耐えられなくなる時があるのさ」と彼女は答えた。
「役割?」
「最初に言っただろう? 私は『この街の守護者』。人々の願いを叶えるためだけに存在する、ちっぽけな装置だと」
「願い、だって?」
「そうだ」
そう言って一度言葉を切った後、彼女は僕をまっすぐに見て言った。
「私は人々の願いを叶える装置。だからあの日、私は叶えたのだ、君の願いをね」
僕の願い。
それは。
「そうだ。あの時、沈みゆく夕陽を見て君が願った、飛び降りたいという願いを、わたしは叶えた」
僕の目の前で。彼女は僕から視線を逸らすことなく、ただ静かにそう言った。
金網の上で腰掛け、少し前のめりになった僕。
その僕をそっと押し出すように吹いた一陣の風。そして。
その瞬間を思い出し、僕は思わず目を閉じ、そして小さく息を吐いた。
そうか。
僕は、死んでしまったんだ。
心の中でそう呟いた瞬間、それは僕の中に染み渡ってきた。
「もう、家にも、学校にも行かなくていいんだね」
ぽつりと呟く僕。僕を見て、笑顔を浮かべる『この街の守護者』。
「君が望むのであればそうすることもできる」
だけど、彼女の表情は、どこか寂しげなように僕には見えた。
「・・・どうしたの?」
僕の問いに、彼女は軽く首を横に振り、少し黙り込んだ後に口を開いた。
「私は皆の願いを叶える装置だ。装置には心もなければ、願いもない。あってはいけないのだけれどな」
そう言って、彼女はもう一度僕に笑いかけた。
「だけどな、私は皆に幸せになってほしい。死にたいなんていう願いは叶えたくないし、誰かに泣いてほしくないんだ」
「でも、僕はもう死んでしまったんだろう?」
そう言って僕は自分の手のひらを見つめる。
今までと何も変わらない、けれど変わってしまった世界がそこにはあった。
人に言われて初めて死んだことを気づくぐらいなのだから、生きていても死んでいても変わらない。そういう生活を僕は送っていた。ただ、それだけのことだった。
「そう言えば、小説とかだと幽霊って空に浮かんだりしてるけれど、僕もできるのかな?」
たわいもない僕の言葉に返事はなかった。
守護者はしばらくの間ただ黙ってそこに佇み、じっと僕を見つめていた。
いくばくかの時間が過ぎた後だった。
熱のこもった夏の夜気が立ち込める中、彼女は再び口を開いた。
「なあ、少年」
「なに?」
「生きたくは、ないのか?」
僕は黙って首を横に振った。
そんな僕に、守護者はもう一度、静かな口調で訊ねた。
「まだ死んでいないとしたら、少年、君は生きたいと思わないのか?」と。
「な、」
絶句する僕の前で。
『この街の守護者』は、僕を見据えたまま、ただそこに佇んでいた。
薄暗い照明が照らすリノリウムの床と、少し汚れた白い壁の続く病院の中。
その壁に貼られた「三木様」のプレートを前に、僕と守護者は立っていた。
あの後、僕らは二人、夜の町を歩きながらこの病院にやってきた。
「面会謝絶とかになってないんだね」
「そうだな。一ヶ月近く経つとそういうものなのだろう」
僕らは見当違いの会話を交わしながら、すっとドアを抜けて病室に入っていく。
廊下よりも明るく白い蛍光灯の光に満ちた病室に、ぽつんと置かれたベッド。
様々な機械に囲まれ、たくさんのチューブにつながれてベッドに眠るこの部屋の主を見て、僕は息を吐いた。
自分が眠る姿を見るというのは、滅多にできる経験じゃあ、ない。
そして。
ベッドの傍らに置かれた椅子には、僕の見知った人影があった。
「・・・椎木さん」
先ほどまで一緒にいた彼女の姿が、そこにはあった。
ベッドに眠る僕の横顔を、さみしそうに眺める彼女。
「さっきまで一緒にいたとは思えないね、三木くん」
ぽつりと呟きながら、悲しそうな笑顔を浮かべて、椎木さんは僕に話しかけていた。
「さっきね、やっと三木くんにお礼を言うことができたよ。でも三木くん、忘れていたみたいだったね。わたし、ちょっと寂しかったかな」
そう言って僕の頬を軽く指でなぞった後。
彼女はぽろぽろと涙をこぼしていた。
「さっきの三木くん、あんなに元気だったのに。こうしてずっと目が覚めないなんて、嘘だよね? わたし、ここで、目を覚ました三木くんにお礼が言いたいよ。だから、だから」
彼女はそれだけ言うと、ベッドに倒れ伏した。
「彼女は毎日見舞いに来ている。こうやってな、いつも話しかけているんだ。少年、君に会ってお礼が言いたいとな」
僕の傍らに佇む守護者の声が、病室の中に静かに響き渡る。
「だから私は彼女の願いを叶えた。君に会いたいという彼女の願いを。だけどな、少年。『生きている』君に会わせることは、今の私には不可能なんだ」
どうして、と訊ねる必要はなかった。
生きていたくないという願いがあるからだ。
彼女の願いと、僕の願い、二つの相反する願いがある以上、『この街の守護者』には、どちらの願いも叶えることはできない。そのことを、僕は十分すぎるほどに分かっていた。
「自分のために自分を想う願いは純粋で、そして強力だ。そして、他人のために他人を想う願いもまた、けしてそれに劣らない。だからな、君たちを前に、私はただの役立たずという訳だ」
それだけ言うと、彼女は微かに微笑んだ。
「・・・とりあえず、この部屋を出よう」
そんな彼女に、僕はそれだけしか言うことができなかった。
病室の前、薄暗い蛍光灯に照らされた壁にもたれかかりながら、僕らは二人、ぼんやりと天井を眺めていた。
「・・・僕は、どうして助かったんだろう」
行き交う看護婦さんや患者さんを目で追いながら、僕はぽつりと呟く。校舎の屋上の高さから飛び降りたはずなのに。
「知りたいかい?」
手を後ろで組みながら訊ねる守護者に、僕は小さく頷いた。
「あの時、私は君の願いを叶えようとした。君の姿勢を崩すのに十分な風が吹き、そして君の身体は宙を舞った」
僕の記憶に残っている光景を話す守護者は、「だがね」と言葉を続けた。
「だがね、別の願いが入ったのさ」
「別の、願い?」
「そうだ。別の願いをした者がいたのさ」
そう言うと、彼女は僕を見て微笑んだ。
「落ちていく君の先に、一人の生徒が歩いていたのさ。『今日もダメだったけれど、明日こそは三木くんと話をしよう』と、毎日想いながら帰っていく生徒が、ね」
だからね、三木くん、ありがとう。
夕映えの通学路で、笑顔で僕に話しかける椎木さんの姿が、僕の心の中に浮かび上がった。
「飛び降りた時点で君の願いは叶っていた。だから私は、彼女の願いがいつか叶えられるように、君を死なせる訳にはいかなかった。そういうことさ」
それだけ言うと、彼女は「ただ、」と小さく呟いた。
どうしたの、と訊ねようとする僕の前を、一組の看護婦さん達が通り過ぎていく。
ああ、この部屋の患者さん。
可哀想にね。
病室のドアの前で少し立ち止まると、彼女たちはため息混じりに呟いた。
明日、装置を外すんでしょう? ご両親の希望で。
棒立ちの僕の前で。
彼女たちは「かわいそうにねえ」ともう一度言うと、廊下を歩き去っていった。
「・・・願いは、君と彼女だけではないのだ」
振り向いた僕の前で、『この街の守護者』は俯きながらそう言った。
僕に生きて欲しい、椎木さん。
生きたいと思わない僕。そして。
僕に生きていてほしいと思わない、僕の両親。
相反する力は、均衡が破れていた。
椎木さんの想いだけでは足りないほどに。
「・・・まさか、三日って」
僕の言葉に、守護者は苦笑してみせた。
「ああ、明日までに君が『生きていたい』と願ってくれたらなと思ってね。ただ、私と一緒に過ごすくらいでは駄目だったようだな。やはり力不足というやつだったようだ」
そう言って、はは、と守護者は軽く笑った。寂しそうに。
だけど、僕には何も言うことができなかった。
自分の親に、生を望まれていない、なんて。
自分に関心がないのは分かっていた。一緒に過ごした思い出なんてなかった。運動会も授業参観にも両親の姿はなかったし、家族旅行の思い出なんてものもなかった。泥まみれの服を洗濯かごに放り込んでも、何も聞かれたことがなかった。だけど。
だけど。
「自分のために他人を思う願いは、強いものではない。だが、今のままでは」
「別に、いいじゃないか」
守護者の言葉を遮るように、僕はぽつりと、だけど強い口調で呟いた。
「少年?」
「どうせ飛び降りた時に失う命だったんだ。親にも必要とされてない命なんだ。別にいいじゃないか」
必要とされてないし、自分でもやり残したことがあるわけでもない。だったら。
その場にしゃがみ込み、僕はもう一度呟く。別に、明日死んだっていいじゃないか、と。
「彼女の想いはどうなる?」
降り注いだ守護者の言葉に、僕は顔を伏せたまま首を横に振った。
「・・・椎木さんとは、もう話したじゃないか。それに、すぐに僕のことを忘れるよ。その方が、彼女にとってもいいことじゃないか」
「本当にそう思うのかね?」
顔を上げた先で、守護者は僕をじっと見据えていた。
深く、澄んだ瞳で、静かに。
僕と彼女との間に、しばらくの静寂が訪れた後だった。
「もう一つ、君に見せておきたいものがある。さあ、一緒に行こう」
膝を抱える僕に手を差し伸べながら、守護者はけれども、笑みを浮かべずにそう言った。
守護者に手を引かれてたどり着いたのは、小さな集合住宅だった。
築四十年は過ぎているような外観。一つしかない玄関を上がった先の廊下に並ぶドア。小さなコンロの置かれた台所。
「ここは?」
そう訊ねる僕に返事をせず、彼女は僕の手を引っ張って突き当たりのドアをくぐり抜ける。
淡い月明かりの中に浮かび上がる部屋は、こじんまりとしていたけれど、綺麗に整頓されていた。
いや、殆ど物がない、といったほうが正解かもしれない。
守護者は僕の手を離すと、部屋の隅にある机に足を進めた。
「ここはな、椎木美沙の住まいだ」
机の上に置かれた何かを手に取りながら、彼女は僕に背を向けたままそう言った。
「椎木さんの? 一人で住んでいるの?」
「そうだ。ここに住んでいるのは、高校生になってからだがね」
小さな机。
こじんまりとした冷蔵庫。
備え付けのクローゼット。
同じくらいの年頃の女の子の部屋を見たことはないけれど、あまりに質素な部屋の中を僕は見渡した。
「ただな、少年」
薄闇の中に響く言葉に、僕は彼女を見た。
「彼女は一人ぼっちだった。君と別れてから、ずっとな」
「それって、」
三木くん、わたし、わたし―――
あの日、車から身を乗り出して手を振っていた彼女の姿を思い出しながら、僕は聞き返していた。
「君と別れた時点で、椎木美沙は天涯孤独の身となっていたのさ」
なぜ、と訊ねる僕に、彼女はぽつりと呟いた。
「両親が自殺したのさ。彼女を一人置いてね」と。
「理由は色々あったのだろうが、彼女は一人残された。遠い縁の親族が引き取りに来たが、すぐに施設に預けられてね。中学生まではそこで過ごした」
彼女の部屋の中で、守護者は淡々と言葉を紡いでいく。
「高校になって、彼女は施設を出た。そしてこの町に戻ってきた。学費は奨学金、家賃や生活費は両親の遺族の年金とアルバイトで払っているようだな」
そう言って、彼女は手にしていた物を僕に渡した。
それは、小さな写真立てだった。
「これは?」
その中にはさまれていた写真には、クラスメイトと一緒の椎木さんが写っていた。
「写真の隅を、よく見てみるといい」
彼女の言葉に、僕は視線をずらしていく。
その先に。
写真の隅に、小さく僕の姿が写っていた。
「この部屋にある写真はそれだけだ」
写真立てを持って固まる僕。
「どうして、彼女は、こんな」
「少年、君には何もないのかもしれない」
カーテン越しに月明かりが差す窓辺に立ち、表情を隠した守護者の声が、部屋の中に響く。
「そして椎木美沙には、君への感謝しかない。それ以外に、彼女にはこの世界とのつながりがないのだ」
「そんな」
「彼女がたった三ヶ月しか住んでいなかったこの町に、両親に置いていかれたこの町にどうして引っ越してきたのか、その写真を見て考えることだな、少年」
三木くん、ごめんね。
十年前の、不安そうな表情の彼女が心に浮かぶ。
三木くん、ありがとう。
街灯の下、笑顔を浮かべてそう言った彼女の顔が浮かんでくる。
そして、ベッドで眠る僕の傍らで泣きじゃくる、彼女の姿が脳裏をよぎっていく。
僕はただ、写真立てを片手に立ち尽くすばかりだった。
「私にはな、皆の願いを叶えようとする機能しかない」
そんな僕の前で、彼女は静かに口を開いた。
「自分のために自分を思う願い。他人のために他人を思う願い。自分のために他人を思う願い。そういった願いを、叶えられるものだけ叶えていくだけの、ちっぽけな装置だ」
だから、と彼女は小さく微笑んだ。
「少年。私は君に何もしてあげられない。私ができるのは、願いを叶えることだけだからな。だからな、君自身が願うのだ。自分のため、他人のため、自分を思う、他人を思う。君の願いが、明日の君を決めるだろうさ」
それだけ言うと、彼女の姿は少しずつ月明かりの中で薄れていく。
「今日はこの辺りにしておこう。それでは少年、明日もよろしくな」
守護者の姿が消え去った部屋の中で。
僕は写真立てを片手に、いつまでも、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
月明かりと街灯の光の下、僕は一軒の家の前にいた。
十数年間ずっと生活してきた、自分の家。
椎木さんの部屋を出た僕は、ふらふらと町をさまよい。
そして、気がつけば自分の家にたどり着いていた。
玄関の前、しばらく家を見上げて佇んで後、僕はドアをくぐり抜けた。
見慣れた廊下と、僕の部屋に上がる階段。
そして、ドア越しに漏れてくる居間からの声に、僕は三和土を上がって近づいていった。
父と母に、僕の姿は見えるのだろうか。
もし見えたとして、彼らは僕に何と言うのだろうか。
喜ぶ姿も驚く姿も全く想像できないまま、僕は居間のドアを抜けようとした。
「そう言えば、明日だったな」
不意に飛び込んできた父の声に、僕はドアの前で立ち止まった。
「そうね」と答える母の声に、なぜか、心臓の鼓動が強く速くなったような気がした。
「朝からだったかな。明日は仕事を休むよ」「そうね」
両親の言葉に、僕の胸がぎゅうっと締め付けられていく。
二人が僕のことを話している。僕のことを。
父さんが、僕のことを気にしてくれているんだろうか。
母さんが、僕のことを悲しんでくれているんだろうか。
「・・・もう一ヶ月も目を覚まさないとはな」
「そうね」
その言葉に、僕は声を上げて部屋に飛び込んでいく。父さん、母さん、僕は。
その瞬間。
「まあ、さっさと終えて、昼飯でも食いにいくことにしよう」
飛び込んだ部屋の中。
テレビを見ながらビール片手に呟く父。
「そうね」
雑誌を読みながら、父に返事をする母。
そこには、僕の存在する場所は、なかった。
保健所に連れて行かれる犬のように、もはや僕の存在は過去のことに、もういない存在のように扱われていた。
「病院の近くだとどこが良かったかな。かつ正かな」
「そうね」
二人の会話は続いていたけれど。
僕は部屋を飛び出し、玄関から夜の町に駆け出していた。
ばかだ。ばかだ、僕は。
何度も何度も叫びながら。
僕はひたすらに走った。あの場所から逃げ出すかのように。
自分が許せなかった。
父と母が自分のことで悩んでくれてるかもしれないと。
両親が、僕に生きていてほしいと願ってるんじゃないかと。
これまで、そんなこと無かったのに。分かっていたのに。
それでも、少しでも期待してしまった自分を、僕は許すことができなかった。
悔しくて、走りながら涙が溢れてきた。
恥ずかしくて、大声で喚きながら走った。
死んでしまえ、みんな死んでしまえばいいんだって。
そして、気がついた。自分が死んだ方が、早いということを。
別に今まで、辛いと思うことはなかったけれど。
一ヶ月前は、ただぼんやりと飛び降りようと思っただけだったけれど。
死のう。はっきりと、今はそう思った。
だから。
いつの間にか立ち止まっていた僕は、再び、とぼとぼと歩き始めた。
椎木さんに、お別れを言うために。
すでに夜も更けた中、僕は彼女の住む集合住宅にたどり着く。
明かりのない彼女の部屋の前に立ち、一度深呼吸をして、僕は部屋の中に入っていった。
綺麗に片付けられた、物の少ない彼女の部屋。
机と冷蔵庫と、備え付けのクローゼット。
そして、布団の中で眠る椎木さんの姿。
明日でお別れだって知ったら、椎木さんはどう思うんだろうか。
そんなことを思いながら、僕は彼女の傍らに立ち、すやすやと眠る彼女の横顔を眺める。
その時だった。
彼女の枕元に何かが置いてあるのを僕は見つける。
しゃがみ込み、目をこらした瞬間、僕の身体はその場で固まった。
それは、机の上にあったはずの写真立てだった。
それが彼女の枕元にある意味に気づいて、僕は再び彼女の顔を見つめた。
写真立てにそっと手を掛けて眠る彼女の寝顔に浮かぶのは、微かな笑みだった。
『わたし、ここで、目を覚ました三木くんにお礼が言いたいよ』
病室で涙をこぼす彼女の姿。
『椎木美沙には、君への感謝しかない。それ以外に、彼女にはこの世界とのつながりがないのだ』
僕を真っ直ぐに見つめてそう言った守護者の姿。
僕は椎木さんの傍らで、ただ立ち尽くすばかりだった。
――――――Last day.
「いい朝だな、少年」
校舎の屋上。
朝日が差し込む中、いつの間にか僕の隣に立っていた『この街の守護者』が微笑む。
「ここからだと日の出は見られないんだね」
「山の影になってしまうからな。だが、山の稜線を溶かすような朝の光も、そう悪いものではないよ」
そうだね、と頷きながら、僕は朝焼けが薄れていく町を眺めた。
椎木さんの部屋を出た後、僕はずっと、ここで、校舎の屋上で、膝を抱えて町を眺めていた。
自宅の光景を思い返しながら。
椎木さんの部屋を思い浮かべながら。
そして、守護者の言葉を思い出しながら。
けれども。
「僕は、どうしたらいいんだろう」
膝を抱えて、朝を迎える町を眺めながら僕は呟いた。
三日目の今日、僕の身体は、このままなら生命を維持する機械を外されることになっている。
あの日、この屋上から身を投げた時、僕は心のどこかでそれを願っていたはずだった。だけど。
どうしたらいいのか、僕には今も分からないままだった。
居間でテレビを見ながら淡々と話す両親の姿を思うたびに心がきしむ。
小さな部屋の中、写真立てを枕元に置く椎木さんの姿を思い浮かべるたびに、胸が苦しくなる。
こんなことは今まで無かった。ただ朝起きて、学校に行って、そして帰ってくる。それを繰り返すだけ、繰り返していれば良かっただけなのに。
僕は、どうしたらいいんだろう。
「願いにはな、色々な形がある。前にそういう話を君にしたかな」
突然の守護者の言葉に、僕は彼女を見上げた。
涼しげな朝の風に長い髪を押さえながら、彼女は僕を見て微笑んだ。
「自分のために自分を想い願うのは純粋で強い。他人のために他人を想い願うのもまた、尊く美しさに満ちあふれている。自分のために他人を想い願うのは、力が弱い。だが、それだけに狡猾だ」
だがな、と彼女は言葉を続けた。
「だがな少年、願いの形には、もう一つあるのさ」
「もう一つ?」
何とはなしに訊ねる僕に、『この街の守護者』は、頭上に広がる夏の青空を仰ぎ見ながら答えた。
「ああ。もう一つあるんだ。それは純粋で、そして尊いがゆえに、最強の願いだ。他のどんな願いも、その願いにはかなわない。そんな願いがあるのさ」
そして、彼女はもう一度僕を見て言った。
「少年、君はすでに、その願いを手に入れているよ」と。
「僕が?」
どうしたらいいのか分からず、途方に暮れている僕が、すでに?
守護者は僕の問いには答えず、にこりと笑った後に軽く伸びをしてみせた。
「私と君との三日間も今日で終わりだな。さあ、今からどこに行くとしようか?」
その言葉に、「決まってるよ」と答えながら僕は立ち上がる。
そう。
三日目の今日、行く場所は一つしかなかった。
ブラインド越しに差し込む朝日が、ベッドに眠る僕の顔に注がれる。
機械に囲まれた中で眠る僕の身体を、僕と守護者は二人、ベッドの傍らで見ていた。
「いきなり病院に来てよかったのかな?」
守護者の言葉に僕は小さく頷く。
「ここ以外には、もう行くところなんてないよ」
それだけ言うと、僕は再び自分の顔を眺めた。
もうすぐ僕の両親が来るだろう。
そして、僕の身体中につけられた機器を医師が外す様子を二人して見るだろう。そう、昼ご飯を食べる場所を思い浮かべながら。
胃の奥からこみ上げる気持ち悪さを呑み込みながら、僕は頭を横に振った。
そんな両親がいる世界に、自分は戻りたいのだろうか。
「ねえ、守護者」
「うん?」
僕の言葉に、ベッドに眠る僕を見つめていた彼女が顔を上げた。
「僕は、生きていてもいいんだろうか」
僕の言葉に、彼女は僕をまじまじと見つめた。
「・・・私は人の願いを叶えるだけの装置だ。君の考えを肯定することも、そして否定することもできないよ」
そう言った後で。
彼女は急に、僕の頭を撫でた。
「え、なに、どうしたの」
わしゃわしゃと僕の髪を乱す彼女の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「ああ、嬉しくてな。こんなに嬉しい気分になったのは久しぶりだ」
そして、ひとしきり僕の髪をくしゃくしゃにすると。
彼女はそっと、僕から離れた。
「?」
首を傾げる僕に、彼女は笑顔のままで言った。
「私と君との三日間はここまでだよ、少年」と。
その言葉に、僕は息を詰まらせた。
どうして? まだ今日は始まったばかりなのに。
僕の様子に、彼女の笑みが少し寂しげなものに変わる。
「少年、君はもう大丈夫だ。私がいなくても、君は自分の願いを決めるだろう」
「だけど」
「それに、私との三日間が終わったとしても、彼女との、椎木美沙との三日間はまだ終わっていない。それを忘れるなよ、少年」
それだけ言うと、彼女は病室の床を軽く靴で叩いてみせる。
かつんという音が部屋に響き渡る。
「まだ、僕は―――」
「楽しい三日間をありがとう、少年」
薄れていく姿で、彼女は僕に軽く手を振る。
「君との三日間の思い出に、私も一つ約束するよ、少年。君が何を願おうと。それがどんな願いだろうと。君の願いは必ず叶う。私が叶えてみせるよ」
やがて、彼女の姿が病室の風景に消え去っていく。
僕と守護者との三日間は、こうして終わりを告げたのだった。
一人残された病室で、僕は自分の身体をぼんやりと眺めていた。
「大丈夫だよ」と言ってくれた守護者の姿を思い出して、僕は小さく首を横に振る。
君はそう言ったけれど、僕はまだ、何も決められない。
「・・・僕は、生きていてもいいんだろうか」
ぽつりと、口に出した時だった。
病室のドアが開いた。
白衣に身を包んだ医師や看護婦たちが部屋に入ってくる。そして。
そして、続けて病室に姿を現した人影に、僕の身体が硬直する。
「三木さん、治療行為を中止して、本当によろしいのですね」
医師の言葉に頷く二人。
それは、僕の両親だった。
医師にお願いしますと伝える父。
父の後ろで、ハンカチを目に当てる母。
その様子に、昨夜の光景が重なる。
この人たちは、どうしてそんな態度ができるんだろう。
悲しい様子を見せる二人の姿に、僕は吐きそうな感覚に襲われた。
「十八年間育ててきた息子を、こんな形で失うのは残念です」
顔を伏せて呟く父に、重々しく頷く医師。
その光景に、僕は無力感に包まれる。
守護者、君は僕に「大丈夫だよ」と言ってくれた。
でも、僕には無理みたいだ。
今、僕がここで生きたいと願えば、生きていたいと強く願えば、ベッドから身を起こすことができるかもしれない。けれど。
自分の息子を、さも残念そうなふりをして殺す両親と一緒に生きていくなんて、僕には耐えられない。
ごめん、守護者。
ごめん、椎木さん。
目の前で、医師が生命維持装置に手をやるのを、僕はただ見つめるばかりだった。
その時だった。
「三木くん!」
病室のドアから聞こえる声に、僕も、医師も、両親も振り向いたその先に。
椎木さんが、息を切らして立っていた。
皆が呆然としているその瞬間。
椎木さんは医師や看護婦をかき分け、ベッドに眠る僕の身体にのし掛かるようにすがりつき、皆を睨んだ。
「先生、何をしてるんですか、三木くんに何をするつもりなんですか」
突然の闖入者に困惑する医師に、看護婦が「毎日お見舞いに来ている学生です」と耳打ちする。
その言葉を聞いた父親が、穏やかな口調で椎木さんに声をかける。
「君は悠人の友人かな。いつも見舞いに来てくれていたんだね」
「・・・三木くんのお父さん、ですか」
ええ、と答える父に。
「ご両親まで・・・三木くん、まだ生きてるんですよ」
そう言って、彼女は厳しい目で父を睨み付けた。
「自分の子どもに、生きていて欲しいと思わないんですか。どうして」
「悠人はもう一ヶ月も目を覚まさない。先生も、回復の見込みはないと言ってるんだよ」
医師に目をやる父。
その視線に気づいた医師が、椎木さんに声をかける。
「私たちも残念なんだ。ご両親も悲しんでいる中、今回の決断をしたんだよ」
「違います! 三木くん、まだ生きてます、生きて、私と話をしてくれたもの」
頭を振る椎木さんを見て、顔を見合わせる大人たち。
「君、それはいつの話だね」
「昨日、昨日です。わたし、三木くんと話しました。話したんです」
いつの間にか、椎木さんの目には涙が浮かんでいた。
そんな彼女を見て困ったような顔をする医師たち。
少し苛立った様子を見せる、父。
いつの間にかハンカチをしまい込み、ため息をつく母。
椎木さんは、一人ぼっちだった。
「君、悠人は昨日も、ずっとここで眠っていたんだよ」
「目も開けられない彼が、どうやって話ができるんだね」
大人たちの言葉が、次々と彼女に突き刺さっていく。
そんな中、椎木さんはただじっと、僕の身体を守るかのようにすがりついていた。
その彼女の姿に。
この病室の光景に。
あの日の、十年前の通学路の情景が僕の脳裏を横切った。
―――こんなことは、ダメだ。
僕の心が叫んでいた。
あの日、あの時のように、彼女を助けるんだ。今、彼女が僕を守ってくれているように。
だから、僕は願った。
彼女を、椎木さんを守る力を、僕にと。
僕は祈った。彼女を助けるために、僕に力を。
力を貸してくれ、『この街の守護者』と――――。
『ああ、約束を果たそう、少年』
その時。
部屋中に、涼やかなその声は響き渡った。
『自分のために自分を想う願いは、純粋で強い。
他人のために他人を想う願いは、尊く美しさに満ちあふれている。
自分のために他人を想う願いは、狡猾だ。
そして。
他人のために自分を想う願いは、この世に比べられるものなどない、最強の願いだ』
そして、穏やかな彼女の声が、僕にそっと囁く。
『少年、君の願いは今、叶えられた』と。
次の瞬間。
僕の意識は何かに吸い込まれるかのように薄れていき、そして。
そして一瞬の後。
僕の前には、顔を泣きはらし、じっと僕にしがみつく、椎木美沙の姿があった。
「ありがとう、椎木さん」
一ヶ月ぶりに開いた口は少したどたどしかったけれど。
僕の言葉に、彼女は顔を上げ、そして僕と視線が合う。
「三木くん?」
「一日ぶりだね」
ぎこちなく笑ってみせる僕を見て、ぽろぽろと涙をこぼしながら、彼女は僕にしがみついた。
「三木くん、ごめんね、わたし、わたし」
「それは昨日も聞いたよ」
苦笑しながら、僕は彼女の髪を軽く撫でる。
「そんな、どうして急に」
「こんなことがあるのか」
騒然とする医師たちと、呆然と立ち尽くす両親の前で。
僕と彼女の三日目は、今から始まろうとしていた。
―――――Epilogue.The day after.
授業の終了を終えるチャイムが鳴り、僕は筆記用具やノートを鞄に放り込む。
級友たちの交わす会話にさざめく教室の中、僕は机の脇にひっかけたコートを羽織る。
あれからもう、半年近くの月日が経った。
病室で目覚めた後、僕の生活はそれほど変わることはなかった。今までどおり実家で生活し、学校に行って、そして帰ってくる。
両親は相変わらず僕と接することはなかった。
僕もまた、彼らとの生活を特に変えようとは思わなかった。あの人たちはそういう人なんだと、そう思えばそれだけのことだった。
僕はマフラーを首に巻くと、教室を出ようと席を立った。
「三木、お迎え来てるぞー」
そんな僕にかけられた声。
冷やかす同級生に「うるさいな」と苦笑いをしてみせて、僕は教室の出口に向かう。
「お待たせ、椎木さん」
僕の言葉に、彼女が小さく笑って頷く。
「二月も終わりなのに、まだまだ寒いね」
頬を紅くする彼女に、僕はそっと片手を差し出す。
恥ずかしそうに僕の手を握って、「あったかいね」と笑う彼女に、僕も笑みを返す。
あの日から毎日、僕らはこうして一緒に帰るようになった。
「きれいな夕焼けだね」
日の入りが早い冬の夕焼けが広がる空を見て、椎木さんが嬉しそうに言う。
「そう言えば、この学校の屋上から見える夕焼けはすごくきれいだよ。ある人に教えてもらってね。夏のしか見たことがないけれど、今度見ようよ」
僕の言葉に、椎木さんがなぜか頬を膨らませる。
「?」
「三木くん、誰に教えてもらったんだろ」
ひょっとして椎木さんは嫉妬深いのかな、なんて思いながら、僕は苦笑してみせる。
あの日から、僕は『この街の守護者』に会えなくなった。
校舎の屋上に上がって何時間も待っても、彼女は僕の前に姿を現すことはなかった。
楽しい三日間をありがとう。
そう言って別れた彼女。
そして、僕の願いを叶えてくれた、かけがえのない『守護者』。
校舎を振り返り、僕は屋上に目をやる。会うことはできないけれど、きっと今日もそこにいて、グラウンドを走る生徒や、僕たちのように下校する生徒たちを眺めているんだろう。
だから僕は、軽く屋上に向かって手を振ってみせた。
また、どこかで会えたらいいな、って。
「?」
首を傾げる椎木さんに、「何でもないよ」と言って、僕は帰り道へと足を向ける。
『女子と手をつないで下校とは、青春だな、少年』
どこからか聞こえてきたその声に、僕は再び振り返った。
誰もいない屋上。
僕はしばらく見つめると、もう一度、今度は大きく手を振った。
ありがとう、『この街の守護者』。
できたら、三人で一緒に、校舎の屋上で夕焼けが見られるといいな。
「三木くん、どうしたの?」
「なんでもないよ。さあ、バイト行こうか」
「うん!」
僕の言葉に、満面の笑顔で頷く椎木さんと二人、僕らは手をつないで帰り道を歩いていく。
僕と守護者と、椎木さんと過ごした三日間は終わってしまったけれど。
僕らの日々は、これからも、ずっと、ずっと続いていく―――――。