舞踏会
「ママ見て、吸血鬼!」
幼い少女が毛布の端を首元でぎゅっと結び、マントに見立てて嬉しそうに母親へ駆け寄った。
「まあ! とっても立派な吸血鬼ね」
母親は楽しげに微笑む。
「血を吸っちゃうぞ〜!」
少女はけたけた笑いながら、母親のお腹に勢いよく抱きついた。
「あら、怖い。血を吸われちゃうわ」
そう言いつつも、母親は抱きついてくる娘を優しく包み込む。
腕の中にすっぽり収まった小さな体。
そんな娘も、もう今年で五歳になる。母親はその成長をしみじみと感じた。
「わたしもパパみたいに、立派な歯が生えるかな?」
お腹にうずめていた顔を上げ、少女――ユーリは母親を見上げる。
「そうね。きっとユーリにも、パパみたいに立派な歯が生えてくるわ」
母親は娘の頬を軽くつまんで答えた。
ユーリはぱあっと花のように笑った。
「あーあ、早くパパ戻ってこないかな」
そわそわと、父の帰りを待ち遠しそうにする。
「パパは叔父様とお話中よ。さあ、もう遅いから寝る時間」
母親はユーリが羽織っていた毛布をそっと外した。
「はあい」
不満をこぼしながらも、ユーリは返事をしてベッドに上がり、横になる。
「えらい子ね。おやすみなさい、可愛いユーリ」
母親は優しく額にキスを落とした。
◇
まだ人々が寝静まっている頃、ひとりの男が静かな夜道を歩いていた。
尖った耳、鋭く光る牙、そして闇の中でも遠くを見通す瞳――
人間とは明らかに異なる特徴を備えたその男は、吸血鬼だった。
名をヴァレンという。
丘の頂上に辿り着くと、ヴァレンはゆっくり歩みを止めた。
「寒いな……だが、やはり夜風は心地いい。過ごしやすい」
夜空を仰ぎ、満月の光を浴びながらそう胸の内で呟く。
王女の専属執事になって三ヶ月。
慣れない仕事に追われ、息が詰まりそうな日々の中で、こうして一息つくために彼は度々この丘を訪れていた。
もともと星を見るのが好きで、ここはお気に入りの場所でもある。
(あの王女は、どうすれば心を開いてくれるだろうか)
未だ一度たりとも目を合わせてもらえない。
どうにか振り向かせ、恋心を抱いてもらわなければならないのに。
ヴァレンは顎に手を添え、深く思案した。
王女は吸血鬼にとって“最上級の血”を持つ特別な存在だ。
その血を得られれば、若さのみならず、どの種族の吸血鬼にも匹敵しない強大な力を手に入れられる。
そこに恋慕が加われば、血の質はさらに上がる。
だが――問題はそこだ。
吸血鬼にとって人間は所詮“食料”。
人間が家畜の馬や牛に恋心を抱くだろうか。
いや、抱かない。
同族ならまだしも、食べ物相手をどう口説けばいいというのか。
ヴァレンは夜風に髪を揺らしながら、途方に暮れるように空を仰いだ。
いつも王女の身の回りの世話をしているとはいえ、ただ一緒にいるだけでは距離は縮まらないのだろうか。
何を話しかければいいのかすら分からない。
故郷にいた頃、ヴァレンの周りにはほとんど女の吸血鬼がいなかった。
恋愛など縁がなく、経験もない。
同じ吸血鬼の女心ですら分からないのに、人間の女心など分かるはずもなかった。
そんな思考の渦に沈んでいるうちに、周囲で鳥や小動物たちが動き始める気配がした。
どうやら夜が明けるらしい。
ヴァレンはそっと目を閉じ、ひとつ深く息を吸い込む。
「……城に戻らなければ」
小さく呟き、彼は丘をあとにした。
◇
バサッ、と音を立ててヴァレンはジャケットを羽織った。
自分の肩幅にぴたりと合わせて仕立てられているはずなのに、なぜか妙に着づらい。
身だしなみを確認しようと姿見の前に立つ。
その瞬間――鏡に自分の姿が映っていないことに気づき、ヴァレンは息を呑んだ。
そうだ。今は本来の姿のままだった。
慌てて人間の姿へと戻すと、鏡の中にようやく人間の青年の姿をした自分が映し出される。
(危ない……まだ気を抜くと人間の姿になるのを忘れてしまう、気をつけなければ)
ネクタイを締め直し、ぎこちなくも微笑みの表情を作る。
――今日こそ、王女との距離を縮めよう。
そう胸に決意を宿し、ヴァレンは自室を後にした。
朝、王女が目覚める前にヴァレンが必ず行うこと――それは湯を沸かし、温かな紅茶を用意しておくことだった。
年が明けてから、本格的な冬の寒さが続き、王女はなかなかベッドから起きられない。
せめて体を温められるようにと、毎朝の習慣になった支度である。
陶磁器のティーポットに触れると、指先にひやりとした冷たさが伝わる。
水を注ぎ、火にかける。
続いて、顔を洗うための桶に水を入れ、新しいタオルを用意した。
王族用のタオルは執事やメイドが使うものとは質がまるで違う。
従者が使うタオルは、王族が使い古したものばかりで薄く、使い心地も良くない。
その差に、思わず苦笑しそうになる。
そこへ一人のメイドが厨房へ入ってきた。
「ヴァレンさん、今日アウレリア様がお召しになるドレスは、こちらでよろしいでしょうか?」
彼女が掲げたのは、ミントグリーンのような柔らかい色味のドレスだった。
「ええ、それでいいでしょう。その色なら、寡黙なアウレリア様でも柔らかな印象を持っていただけるかもしれません」
内心では“どれでも変わらないだろう”と思いながらも、ヴァレンは穏やかに答えた。
「分かりました。では、こちらのドレスをお着せしますね」
メイドは微笑みながら厨房を出ていく。
ちょうどその頃、湯が沸いた。
火を止め、王女が顔を洗うための桶に少しだけ湯を混ぜ、適温のぬるま湯にする。
ヴァレンはそっと手を浸し、かき混ぜて温度を確かめた。
(よし、このくらいならいいだろう)
ティーセット、ぬるま湯の入った桶、タオルをトローリーに丁寧に並べると、
ヴァレンは厨房を後にした。
厨房から王女の部屋までは、王宮内でも特に長い廊下が続いている。
王女の部屋は、その一番奥――まさに隔離された場所にある。
王女がそこに“軟禁”されている理由は、ヴァレンにはまだ知らされていなかった。
専属の執事となって三ヶ月の新参ゆえか、詳しい説明は与えられていない。
だが、おそらく王女の血が特別であるがゆえ、身の安全のために王と王妃がそうしているのだろう。
本来は王宮の敷地から出なければ問題ないらしいのだが、王女自身がほとんど部屋から出ようとしないため、事実上の軟禁のようになっている――どうやらそんな事情らしい。
ヴァレンはトローリーを押しながら長い廊下を進む。
すると、横から気安い声が飛んできた。
「よう! 今日も朝から頑張ってんな」
声の主を見やると、ヴァレンとほぼ同じ時期に王宮勤めを始めた執事の青年、ライネが立っていた。
「ライネか。またお前は仕事をサボっているのか」
呆れたように言うと、ライネは慌てて手にしたはたきをパタパタと振って見せる。
「いやいや、サボってねーし。ほら、ちゃんと掃除してます〜」
「ここで働き始めてもう半年近いのに、掃除ばかりだと文句を言っていたのは誰だ」
ヴァレンが冷ややかに返すと、ライネは肩をすくめた。
「いやだってよ、昨日の晩も掃除したのに、朝起きてまた掃除。意味ある? そりゃあ飽きもするし、窓のひとつくらい割れるって」
「文句ばかり言っていないで掃除を続けろ。この間も窓ガラスを割ってメイド長に叱られていただろう。そんなだから、いつまで経っても掃除係なんだ」
ヴァレンは深くため息をついた。
ライネはヴァレンの肩にぽんと手を置き、ニヤニヤしながら言う。
「ていうかよ、よく王女の専属執事に名乗り出たよな。誰もやりたがらないってのに」
「お前こそ、反省という言葉を知らないようだな。それに俺が何を選ぼうと、お前には関係ない。行くぞ」
ヴァレンはライネの手を払って、再びトローリーを押して歩き出した。
「やぁ〜冷てぇなあ。唯一の同期なのに、もっと大事にしてくれよ」
背後でぼやくライネの声を、ヴァレンは完全に無視し、王女の部屋へと向かった。
王女の部屋に着き、彼女を起こさぬよう静かに扉を開けた。
ベッドでは、アウレリアがヴァレンに背を向けたまま横になっている。
「寒いから、先に暖炉に火をつけて……」
布団の中で身じろぎしながら、眠たげな声が聞こえた。どうやら、もう目は覚ましていたらしい。
「おはようございます、アウレリア様。起きておられましたか。すぐに火をおつけします」
ヴァレンは暖炉へ向かい、薪をくべて火を灯した。
パチパチと小さく爆ぜる音が部屋に広がり、冷えた空気がゆるやかに温まっていく。
「珍しいですね。アウレリア様がもう起きているなんて」
声をかけると、アウレリアは短く答えた。
「ええ……あまり眠れなくて」
「さあ、起きましょう。今日は年初めの舞踏会ですよ」
「……えぇ……そうね」
明るく促したつもりのヴァレンだったが、返ってきた声は氷のように淡々としていた。
「お顔をお洗いください。その間に紅茶をお淹れします」
ヴァレンはぬるま湯の入った桶をベッド横の台に置き、ティーポットを手に取った。
アウレリアは布団からゆっくりと起き上がり、髪をかき上げながら顔を洗いはじめる。
その様子を横目に、ヴァレンはお湯をマグに注ぎ、ティーバッグを沈めた。
頃合いを見て、そっとタオルを差し出す。
「ありがとう」
アウレリアはタオルを受け取り、優しく顔を押さえた。
「舞踏会……あまりお気が進まないのですか?」
彼女は間を置いて、小さくうなずく。
「そうね……出たくなわね」
いつも通りの淡白な返事。しかし声の奥に、ほんのわずかな疲れが滲んでいた。
「ですが、隣国の王子や貴族の方々もいらっしゃいます。国王陛下のお立場もありますから……」
「わかってるわよ」
ヴァレンはどう答えるべきか迷いながら、蒸らし終えた紅茶を差し出した。
アウレリアは無言で一口飲み、静かに息を吐いた。
その時、扉が開いた。
「朝食のご用意が整いました。準備いたします」
王宮のシェフがメイドとともにトローリーを押して入ってきた。
「頼む」
ヴァレンが答えると、二人は手際よくテーブルに料理を並べていく。
アウレリアが席につくと、シェフは丁寧に説明した。
「牛肉の煮込みスープ・グーラッシュと、本日焼き上げたパンでございます。どうぞお召し上がりください」
一礼して部屋を出ていくと、アウレリアは「良い食欲を」と小さく呟き、食事を始めた。
しかし、いつにも増して動作がゆっくりだ。
ヴァレンは見かねて問いかけた。
「何か……不安なことがあれば、お聞かせください」
アウレリアはスプーンを持つ手を止め、俯きながら答えた。
「そうね……やっぱり舞踏会には出たくないわ。大勢の前に立つのも嫌だけど……なにより、ダンスを踊るのが嫌なの」
「あんなに練習なさっていたのに?」
王女は翡翠色の瞳を持つ。それは特別な血を証明する印。
その輝きを狙う者も少なくないため、王女は婚姻を迎えるまで、必ず目枷をつけて公の場に出なければならなかった。
「練習したって、目枷をつけてるのよ。足元なんて見えないわ。無理よ」
アウレリアの声は震えてはいないのに、その言葉には確かな苦しさがあった。
「踊れなかったらお父様の顔に泥を塗るわ。それに……これ以上、失望されたくない……」
ヴァレンは息を呑んだ。
王女がここまで心情を語ったのは、おそらく初めてのことだった。
ヴァレンは今朝姿見の前で練習した微笑みを思い出し、そっと口角を上げた。
「でしたら……今から目枷をつけて、私と練習なさってはいかがでしょう?」
「え、あなたと?」
驚きと少しの疑念が混じった声。
「講師の方とは踊れても、私とは一度も踊っていません。良い練習相手になれるかと」
「あなた、踊れるの? 練習の時、ずっと見ていただけじゃない」
「ええ。ずっと見ておりましたので、リズムは完璧かと」
アウレリアは半眼でじっと見つめた。
怪しんではいるが、拒絶もしていない。
今だ——ヴァレンは距離を詰める好機と見て、迷わず手を差し出した。
「……わかったわ。少しだけよ」
アウレリアはそっとその手を取った。
その瞬間、初めて触れた王女の手の温度に、ヴァレンの鼓動が跳ね上がる。
吸血鬼とは違う、人間の温もり。
恐ろしいほど柔らかい。
――さっき、ぬるま湯で手を温めていたせいだ。
自分にそう言い聞かせながら、ヴァレンは平静を装った。
「あなたの手……とても冷たいのね」
「え、ええ……少し冷えやすいもので……」
咄嗟に答えた声がわずかに上ずる。
アウレリアは本番同様に目枷をつけた。
ヴァレンは左手で王女の手を取り、右手でそっと腰へ添える。
王女とこれほど近い距離に立つのは初めてで、
自分で提案したにもかかわらず胸の奥がひどくざわついた。
(俺が狼狽えていてはダメだ。うまく導いて、アウレリア様に自信をつけてもらわないと。それに……距離も、少しでも縮めたい)
心の中でそう決意すると、アウレリアは目枷越しに不安げに顔を向けてくる。
彼女の視線は見えないはずなのに、戸惑いだけが真っ直ぐ伝わってきた。
「それでは……始めますね」
声が思ったより柔らかく響いた。
アウレリアは「うん……」と頼りなげに返す。
「ゆっくりで構いません。まずは一歩、右へ」
二人の足が木の床をすべり、ぎこちなくステップが始まる。
しかし数歩進むうちに、動きは次第にほぐれ、
まるで朝の風に乗る二枚の羽根のように軽やかになっていった。
「……本当に、踊れるのね」
アウレリアが小さくつぶやく。
ヴァレンは照れ隠しの冗談めかして答えた。
「ええ。アウレリア様が思っているよりは、たぶん」
彼はアウレリアのリズムに合わせて歩調を細かく調整する。
踏み出す瞬間の重心、指先から伝わる微かな緊張――
すべてを受け止めて、そっと支えながら。
やがてアウレリアの身体から緊張がひとつ、またひとつほどけていった。
その変化に気づいたヴァレンは、柔らかく声をかける。
「大丈夫です。アウレリア様は、とても優雅に踊れております」
アウレリアがわずかに息を呑む。
ヴァレンが腰を引き寄せたり緩めたりして自然にエスコートし、
アウレリアも不安げな表情を浮かべながらも彼に身を預けていた。
ステップが床に触れるたび微かな音が規則のように重なり合い、
まるで決められた運命の軌道を巡る星々のように、二人の円は乱れなかった。
(よし、いい感じだ)
そう思った瞬間――
アウレリアの足がヴァレンの足先を踏みつけた。
「きゃっ!」
バランスを崩し、ふたりは横に倒れ込む。
ドタッ、と鈍い音。
ヴァレンは咄嗟にアウレリアの頭を手で庇い、自分が下敷きになった。
「す、すみません! ご無事ですか?」
「え、ええ……大丈夫よ」
その声を聞いてヴァレンは胸を撫でおろす。
だが次の瞬間、状況を認識した。
アウレリアが、自分の胸元に覆いかぶさっている。
顔が近い。
甘い香りがふっと鼻を掠め、心臓が大きく跳ねた。
目枷越しなのに、まるで真正面から見つめられているように感じる。
ヴァレンは羞恥に耐えきれず、そっとアウレリアの肩に手を添えた。
「あ、あの……立てますか?」
「立てるわ。ありがと……」
二人は慌てて立ち上がり、気まずい沈黙が降りる。
「す、すみません……練習のはずが、怪我をさせてしまいそうになってしまって」
「べ、別に大丈夫よ……気にしないで」
互いに顔を合わせられないまま、鼓動だけがまだ速い。
すると突然、ドアが開きシェフが顔を覗かせた。
「何か物音がしましたが……大丈夫でしょうか?」
心配そうな声に、ヴァレンは咄嗟に姿勢を正し答える。
「ああ、問題ない」
シェフはほっとしたように頷きつつ、ちらりとテーブルに視線を向けた。
料理は半分ほど手つかずだ。
「申し訳ございません。お料理がお口に合いませんでしたか?」
アウレリアに向けられた丁寧な問いに、彼女は慌てて手を振った。
「そ、そんなことないわ。まだ食べるから……」
そう言って席に戻り、食事を再開する。
だが先ほどより明らかにペースが速い。
(練習でお腹が空いた……わけではなさそうだな)
戸惑いを隠しながらヴァレンは思う。
せっかくダンスで自信をつけてもらおうとしたのに、
あの転倒でかえって舞踏会への不安を募らせたのでは――
そんな懸念が胸にのしかかった。
アウレリアは早足で食事を終えると立ち上がる。
「もう……着替えにするわ」
ヴァレンは考えに沈みかけていた思考を慌てて断ち切った。
「しょ、承知いたしました。アウレリア様のお召し物を準備して差し上げて」
声をかけられたメイドたちはすぐに動き出し、
数名が華やかなドレスを抱えてぞろぞろと部屋へ入ってくる。
「では、お着替えが終わりましたらお呼びいたしますね」
一人のメイドがそう告げると、
ヴァレンは「はい」と返し、深く一礼して王女の自室を退出した。
アウレリアの部屋を出て、扉が静かに閉まると、
ヴァレンはようやく張り詰めていた息を吐き出した。
(……何をやっているんだ。これでは距離を縮めるどころか、離れてしまう)
胸の奥にじんわりと広がる後悔と焦燥。
王女を励まし、自信をつけてもらうつもりでいたのに――
結果は逆効果だったかもしれない。
あの転倒の瞬間、アウレリアが見せた驚きと恥じらい。
そして腕の中で感じた体温と、ふわりと漂った甘い香り。
思い返すだけで、額に熱が滲む。
(落ち着け。あれは事故だ。
今は舞踏会に向けて、王女の心を整えるのが先だ)
廊下には冬の日差しが差し込み、石畳の上に白い帯のように光が落ちている。
冷たい空気のはずなのに、その静けさは心を少し落ち着けた。
ヴァレンは歩きながら、先ほどのダンスの感触を指先で思い返す。
(王女は踊れる。問題は……“見えない状態”への恐怖か)
講師ではなく自分の手の中で、彼女はあれほど自然に動けていた。
それは確かな成果だ。
しかし、彼女の不安を完全に消すには、まだ足りない。
「……何かあれば俺が支えるしかない」
小さく呟いた言葉は、廊下の静けさに淡く溶けた。
***
舞踏会開始の刻限が迫る頃、王宮の空気は一変していた。
香油の甘い香りが廊下に満ち、
磨き上げられた大理石の床にはシャンデリアの光が揺れている。
控えの間ではメイドたちが忙しく衣装の最終調整をし、
遠くからは貴族たちの笑い声が絶え間なく響いてくる。
ヴァレンは王女の控室前で姿勢を正し、深く息を吸った。
黒い燕尾服は肩にぴたりと沿い、
袖口からは冷たい指先がわずかに覗く。
緊張は隠せないが、それでも胸の奥には確かな決意が灯っていた。
本番では、隣国の王子にダンスを誘われれば断れない。
王女はもちろん、相手の王族に怪我などあってはただでは済まない。
(大丈夫だ。さっきの練習でアウレリア様はちゃんと踊れていた。
本番でも、俺が目を離さなければ――)
控室の中から、メイドの慌ただしい足音が聞こえる。
そのとき、扉が軽くノックされた。
「ヴァレンさん、アウレリア様のお支度が整いました」
胸が静かに跳ねる。
今日の鼓動は、なぜかいつもより少し強い。
(さあ……お迎えに行かなければ)
ヴァレンは自室を出てアウレリアがいる控室へ向かった。
控室の扉に手をかけた指先が、冷たい金具に触れた瞬間、わずかに震えた。
――この扉の向こうに、王女がいる。
扉を開けると、
アウレリアは今朝メイドたちが見せてきたものと同じ、
柔らかなミントグリーンのドレスに身を包んでいた。
生地には細やかにクリスタル装飾が散りばめられ、
首元には白いチョーカーが清楚な輝きを添えている。
ヴァレンは、いつもとは違う雰囲気のアウレリアに息を呑んだ。
「どうですか、アウレリア様。お綺麗でしょう?」
メイドの声で我に返る。
「あ……ああ、とてもお綺麗です、アウレリア様」
呆然としていた意識が戻り、慌てて褒め言葉を口にする。
アウレリアは少し頬を染めて、「あ……ありがとう」と答えた。
「着慣れないドレスだから、なんだかむず痒いの。これでダンスなんてできるかしら」
(やはり、あの練習だけでは不安は拭えないか……)
ヴァレンが言葉を探していると、
アウレリアは視線をそらしながら続けた。
「で……でも、あなたとの練習で……少しは、自信がついた気がするわ」
その控えめな言葉に、ヴァレンの胸が温かくなる。
「そうですか。なら、練習に誘った甲斐がありました」
自分では失敗だと思っていたことが、
アウレリアの力になれたと知れただけで、嬉しさがこみ上げてくる。
「では、そろそろ舞踏会会場へ向かうお時間です。
自信を持って……皆さまに、ダンスを披露して差し上げましょう」
ヴァレンはアウレリアに手を差し出し、そっと立ち上がるよう促した。
「ええ……そうね」
アウレリアはその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
二人は控室を後にし、舞踏会会場へ歩き出した。
***
舞踏会会場の扉の前に辿り着いた瞬間、アウレリアは足を止めた。
小さく拳を握り締め、その場から一歩も動こうとしない。
ここまで来たというのに、気持ちが前へ進まないのだろう。
そのとき、背後から規則正しい足音が響いた。
「……やはり、入れぬか」
低く威厳のある声。
この国セレスティアの国王にして、アウレリアの父――
アウグスト・ストリブルスである。
その隣には王妃ゼーレ・ストリブルス。
さらに数名の執事とメイドを従え、二人はゆっくりと歩み寄ってきた。
「お、お久しぶりです……お父様、お母様」
しどろもどろになりながらも、アウレリアは頭を下げた。
一瞬だけ、アウグストの瞳に父としての迷いが宿った――
ようにも見えたが、それはすぐに消え失せる。
王は娘を見下ろし、淡々と告げた。
「こんなところで何をしている、アウレリア。
舞踏会に出席したくないのなら、無理に出る必要はない。
また大勢の前で恥を晒されても、私の顔が立たぬからな」
辛辣な言葉を残し、アウグストは扉の前で足を止めた。
そのとき、ゼーレが一歩前に出て、そっとアウレリアの頬に手を添える。
不安と、どこか申し訳なさを滲ませた微笑みだった。
だが、何も言わぬまま――
ゼーレもまた、夫の後ろへと戻っていった。
***
舞踏会会場の中は、すでに隣国の貴族や来賓たちの声で満ちていた。
壁際には豪奢な料理が並び、
客人たちはワインを片手に談笑している。
執事やメイドが忙しなく行き交い、杯を替え、料理を運ぶ。
天井から吊るされたシャンデリアは、
いつも以上にまばゆい光を放っていた。
やがて、澄んだベルの音が会場に鳴り響く。
談笑は静まり、視線が一斉に入口へ向けられた。
「皆様、お待たせいたしました。
我が国セレスティア国王、アウグスト・ストリブルス陛下の御成でございます」
ガチャリ、と重厚な音を立てて扉が開く。
国王アウグストは王妃ゼーレと並び、堂々と会場へ足を踏み入れた。
自らの席の前で立ち止まり、会場全体を見渡してから咳払いをひとつ。
「年の初めにあたり、こうして皆が一堂に会してくださったこと、心より感謝する。
今年もまた、我が国セレスティア、そして同盟諸国が、
平穏と繁栄のもとに歩みを進められる一年となることを願ってやまない。
今宵はどうか、日々の政をひととき忘れ、杯と音楽を楽しんでほしい」
その言葉を合図に、歓声と音楽が一斉に鳴り響いた。
舞踏会の幕が上がる。
***
扉の向こうから溢れてくる、華やかな音と笑い声。
先ほどの王の言葉が、アウレリアの胸の奥へ沈み込み、
冷たく、重く居座っていた。
アウレリアはその場に立ち尽くし、動けない。
涙すら流れず、ただ静かに俯いている。
「……アウレリア様」
ヴァレンの柔らかな声が、沈黙を破った。
一歩だけ距離を詰める。
だが、決して触れようとはしない。
「大丈夫です。お気持ちが整うまで、待ちましょう。
……私も、そばにおります」
逃げることを勧めるでもなく、
無理に背中を押すでもない。
――ただ、そこに“居る”と告げる声音。
胸に刺さっていた鋭い棘が、
ほんの少しだけ、温度を取り戻した気がした。
アウレリアは、ふうっと息を吐く。
「……私、行くわ」
覚悟を決めたように、そう呟く。
「アウレリア様は、とてもお強いです。
何かあれば、私もおります。安心してください」
「ええ……なんだか、心強いわね」
アウレリアはそう言って、わずかにぎこちない笑みを浮かべた。
メイドが扉を開く。
次の瞬間、眩い光が瞳に差し込んできた。
会場内では、大勢の人々が音楽に合わせて踊り、
ある者はそれを眺めて楽しみ、
ある者はワインを片手に談笑し――
舞踏会は華やかに盛り上がっていた。
国王アウグストも、隣国エルディオスの国王イシュトンと笑顔で言葉を交わしている。
そのときだった。
玉座の奥にある白い大扉が、ゆっくりと開かれた。
音楽が、ほんのわずかに音量を落とす。
誰かが息を呑む気配が、波のように広間を伝っていった。
現れたのは――
セレスティア王国第一王女、
アウレリア・ストリブルス。
淡い栗色の髪は丁寧に結い上げられ、
柔らかなミントグリーンのドレスが細い肩から静かに流れ落ちている。
胸元と袖口には星屑のような刺繍が施され、
歩くたび、クリスタルの装飾が光を弾いた。
そして何より、人々の視線を釘付けにしたのは――
その瞳を覆う、白いレースの目枷だった。
アウレリアは、ゆっくりと歩みを進める。
慎重な足取り。しかし、迷いはない。
まるで、見えぬ星を頼りに歩いているかのようだった。
「……あれが……」
「噂の、王女殿下……」
囁きが、あちこちから漏れる。
外界にほとんど姿を見せない王女。
病弱だ、呪われているだの――
数多の憶測が、今この瞬間、ひとつの現実として結実していた。
アウレリアは玉座の手前で足を止め、優雅に一礼する。
王族として完璧に教育された所作。
だが、伏せたままの顔の奥で、
ほんのわずかに肩が強張っていることに気づく者は少なかった。
音楽が再び満ち、舞踏会は続いていく。
人々は次第に談笑へ戻るが、
それでも無意識の視線は、王女を追っていた。
――触れてはいけない、硝子細工の星のように。
アウレリアは促されるまま、静かに広間の一角へと向かう。
その少し後方で、
執事ヴァレンは無意識に息を止めていた。
彼女が一歩進むたび、
星灯りが祝福するかのように瞬いた――
そんな錯覚を覚えたのは、きっと自分だけではない。
***
用意された椅子の前まで辿り着くと、
ヴァレンはそっと手を差し出した。
「足元にお気をつけください」
アウレリアはその手を取り、静かに腰を下ろす。
小さく息を吐いた。
「お飲み物はいかがいたしましょう」
「水でいいわ」
「お食事は?」
「今はいらないわ」
表情はこわばり、
緊張で喉を通らないのが見て取れる。
「かしこまりました」
ヴァレンは一礼し、水を注いだグラスを差し出す。
アウレリアは一口だけ飲み、そっとテーブルに戻した。
そのとき、音楽が曲調を変えた。
一人の青年が、アウレリアの前へ進み出る。
「初めまして、アウレリア王女。
エルディオス第一王子、ラースローと申します。
この一曲、私にお預けいただけますか?」
赤い髪に整った顔立ちで柔らかい表情をしている。
黒のタキシードを纏い、胸に手を当てて一礼する姿は、
王族としての品格と自信に満ちていた。
アウレリアは立ち上がる。
一瞬の迷いの後、小さく頷く。
「よ、喜んで……お受けいたします」
スカートの裾を持ち、丁寧に一礼する。
ラースローは手を差し出し、
彼女を会場中央へとエスコートした。
「……あの王女が踊るのか」
周囲がざわめく。
「では、王女。私に身をお任せください」
音楽に乗せて、二人は床を滑るように踊り出す。
ラースローのリードは巧みで、決して強引ではない。
目枷をつけていても、動きは分かりやすかった。
アウレリアの身体から、次第に力が抜けていく。
「とてもお上手ですね」
「殿下こそ……噂以上にお見事です」
囁くような会話。
周囲から感嘆の声が上がる。
曲が終わり、ラースローは深く一礼した。
「素晴らしい夜です。また機会があれば」
アウレリアも、ぎこちなく微笑み返す。
だが、安堵する間もなく――
別の青年が近づいてきた。
「次は、私と踊ってはいただけませんか」
声は柔らかい。
しかし、その視線に、まとわりつくような違和感。
アウレリアは無意識に一歩退きそうになる。
だが、父の顔を思い、断ることはできなかった。
「……ええ、喜んで」
再び、音楽が始まる。
だが、違った。
距離が近すぎる。動きが早すぎる。
合わせようとするが、
目枷がある以上、限界があった。
ステップが乱れる。
「……っ」
次の瞬間、腕が強く引かれ、
足がもつれ、視界が傾く。
ヴァレンはその瞬間を見逃さなかった。
勢いよく飛び出し手を差し伸べた。
ドン、と鈍い衝撃。
「……っ!」
ヴァレンの肩が、何者かにぶつかる。
ぶつかった相手は、勢いを弾かれるように後方へよろめいた。
だが気にしている余裕はない。
踏み込みの勢いを殺さぬまま、ヴァレンは前へでる、
――倒れる。
アウレリアはそう思った、その瞬間。
腰に回された、力強い腕。
同時に、青年の手首が鋭く制止される。
「……そこまでです」
冷え切った声。
ヴァレンだった。
「な、何をする! 離せ!」
「申し訳ありません。
ですが、王女殿下に無礼があってはなりません。
次の一歩を誤れば、事故では済まなかったでしょう」
青年は言葉を詰まらせ、
周囲の視線に気づき、舌打ちを隠すように手を引いた。
「……失礼する」
足早に去っていく背中を見送り、
ヴァレンはゆっくりとアウレリアの腰から手を離した。
「危ないところでした。お怪我はありませんか」
いつもの、優しい声。
「だ、大丈夫よ……ありがとう……」
胸の奥で、心臓が小さく跳ねる。
拍手が起こる。
「さすがセレスティアの執事だ!」
「素敵ね、あの方……」
ヴァレンは軽く一礼し、照れを隠す。
「お席へお戻りになりますか?」
「ええ……少し、他の方のダンスを見て楽しむわ」
「では」
彼は手を取り、席までエスコートした。
音楽は再び流れ、舞踏会は続く。
だが、アウレリアの鼓動は、
席に戻っても、まだ少し早かった。
(……何かしら、この気持ち)
胸に手を当てる。
腰に残る、支えられた感触。
倒れるより早く伸ばされた腕。
彼が最初からあの青年を警戒していた。
――見えていなくても、彼は見ていてくれる。
この夜、アウレリアの心に残ったのは、
音楽でも、称賛でもない。
倒れる前に、必ず支えてくれる人がいる。
その確かな安心だった。
アウレリアは――
あの日以来、楽しいと思えている自分に、気づいていた。
初めまして透明なアトリエです。
いつか自分の中の創造するものを作品にしたいと思い書いてみました。
初めて作品を書くので読み苦しかったりするところも多々あると思いますが、沢山の方に読んでもらい楽しんでもらいたいと思うのでよろしくお願いします!




