婚約破棄された令嬢は、幽霊姫のお茶会を終わらせる
第一話 婚約破棄の夜のお茶会
婚約が破棄されたとき、エレノアは泣かなかった。
王宮の大広間には、楽団の演奏がまだ流れていた。けれど踊っていた人々は次々に足を止め、誰もがこちらを見ている。
「エレノア・ハーシェル。君との婚約を、今日限りで解消する」
第一王子アルフレッドの声は、広間の隅までよく響いた。短く整えた金色の髪に、澄んだ青い瞳。幼い頃から見慣れてきた端正な顔には、王族としての決意を示すような硬さがあった。
「理由を述べよう。君は一度も、私に心を開こうとしなかった。ローザ嬢が王妃候補の茶会への参加を願ったときも、人前で冷たく退けたと聞いている。王妃となる者が、身分の低い令嬢をそのように扱うのでは困る」
エレノアは、手袋に包まれた指をそっと重ねた。濃い栗色の髪は一筋の乱れもなく結い上げられ、灰青色の瞳にも動揺は浮かんでいない。王妃候補として整えられたその姿は、広間の誰の目にも、いつもどおり冷静に映っているのだろう。
聞きたいことも、言い返したいこともあった。
八歳から続けてきた王妃教育は、何のためだったのか。友人を作る時間も、好きな本を読む時間も、侯爵令嬢として自由に過ごせたはずの年月も、すべて未来の王妃になるために差し出してきた。
それを、たった数分の宣言で、本人の言葉を聞くこともなく終わらせるのか。
あの茶会は王妃教育の一環で、参加者を限るよう命じられていたのだと、なぜ確かめなかったのか。自分がこの婚約を望んでいないと、なぜ一度も尋ねなかったのか。
けれど、口から出たのは、長い年月をかけて身につけた言葉だけだった。
「承知いたしました」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
広間の端で、伯爵令嬢ローザが息を呑むのが見えた。柔らかな蜂蜜色の髪を肩に流し、淡い緑の瞳を大きく見開いている。普段なら人懐こく見える丸みのある顔も、今は血の気を失っていた。
彼女もまた、これほど大勢の前で婚約破棄が告げられるとは知らなかったのだろう。驚いたように口元を覆い、それからエレノアと目が合うと、慌てて視線を逸らした。
エレノアは膝を折り、礼をした。
顔を上げず、振り返らず、ただ広間を出た。
誰かが何か言っていた気がするが、よく覚えていない。
控室へ案内されかけたが、エレノアは首を振った。あの部屋に戻れば、侍女たちの同情の視線に晒される。今は、誰の顔も見たくなかった。
迎えの馬車が来るまで、庭で待つことにする。
夜気は冷たく、ドレスの裾を風が払う。月は雲の合間に隠れたり現れたりしていた。
エレノアは王宮の裏庭を歩いた。よく手入れされた花壇が途切れ、やがて使われなくなって久しい古い建物が見えてくる。離宮、と昔聞いたことがある。先代の王女が住んでいたが、その死後は誰も使っていないという。
扉に手をかけると、本来は施錠されているはずのそれが、わずかに開いていた。
迷うことなく、中へ入った。
誰もいない場所が、今は何よりも欲しかった。
内部は埃をかぶり、家具には白い布がかけられている。足音が高い天井に反響した。
ところが、奥の一室だけ、扉の隙間から明かりが漏れていた。
エレノアは足を止めた。引き返すべきだと思った。けれど、その明かりには人の気配があって、なぜか目が離せなかった。
扉を押し開ける。
中には、百年前の意匠を持つ薄紫のドレスを着た、十五、六歳ほどの少女がいた。淡い銀髪を丁寧に結い上げ、紫の瞳をこちらへ向けている。小柄な体つきにはまだ幼さが残っているのに、その座り姿には王女らしい気品があった。テーブルには、湯気の立つ紅茶のカップが二客と、皿に並んだ焼き菓子。
少女はエレノアを見るなり、ほっとしたように笑った。
「遅かったわね、セシリア」
そう言って、向かいの椅子を軽く叩く。
「お茶が冷めてしまったじゃない。今日は最後のお茶会だというのに」
エレノアは戸口に立ったまま、答えを探した。
「申し訳ございませんが、私はセシリアではありません」
少女の笑みが、すっと曇った。
「また、その遊び?」
眉根を寄せ、不機嫌そうに腕を組む。
「今日は最後のお茶会なのよ。あなたまで、変なことを言わないで」
「失礼を承知で申し上げます。私はエレノア・ハーシェルと申します」
少女はしばらくエレノアを見つめ、それから胸を張って名乗った。
「私はミレーヌ。この国の第三王女よ」
エレノアは、息を止めた。
第三王女ミレーヌ――その名は、古い記録で見たことがある。百年前、若くして病で亡くなったという王女だ。
なぜこの少女は、自分を別人と思っているのか。
大声を上げるより先に、そんな疑問が浮かんだ。エレノアは観察した。紅茶からは確かに湯気が立っている。菓子も乾いていない。けれど、この部屋には長く人が住んだ形跡がない。壁には埃が積もり、窓硝子は曇っている。
壁際の鏡に視線を移す。エレノア自身の姿は映っているのに、向かいに座る少女の姿はどこにもなかった。
背筋が冷えた。それでも、声に出して取り乱しはしなかった。
今は、これ以上問い詰めるべきではない。そう判断する自分が、いつものように先回りしている。
けれどミレーヌのほうは、不安げにエレノアを見つめていた。
「あなた、本当にセシリアじゃないの?」
「はい」
短く答えると、ミレーヌの表情が強張った。
「違う」
掠れた声だった。
「あなたはセシリアよ。そうでなければ、おかしいもの」
その瞬間、テーブルの蝋燭が大きく揺れた。
風など吹いていないのに、炎が斜めに傾き、影が壁を這う。次の瞬間、ミレーヌの前のカップが小さな音を立てて床に落ち、砕けた。
エレノアは思わず一歩下がった。
だが、割れた破片は床にあるそのまま――ではなかった。瞬きの間に、カップはテーブルの上へと戻っていた。割れ目もなく、湯気も再び立ちのぼっている。
ミレーヌも、何事もなかったように、最初と同じ姿勢で座っていた。
「遅かったわね、セシリア」
まったく同じ声、同じ笑み。
「お茶が冷めてしまったじゃない」
エレノアだけが、今しがた起きたことを覚えていた。
窓の外に目をやる。雲の合間から覗いていた月が、再び同じ位置で雲に隠れていく。さっきと、寸分違わぬ動きで。
心臓が、静かに、しかし確かに早鐘を打つ。
この部屋では、夜が繰り返されている。
エレノアは、震えそうになる手を、もう一方の手でそっと押さえた。
第二話 百年前から来ない客
「遅かったわね、セシリア」
ミレーヌの声は、何度目であっても変わらなかった。
エレノアは今度、否定しなかった。
部屋の隅で起きたことを思い出す。自分がセシリアではないと告げるたびに、夜は巻き戻る。ならば、今は急ぐべきではない。
「お茶をいただいても、よろしいでしょうか」
穏やかに尋ねると、ミレーヌの表情がぱっと明るくなった。
「もちろんよ。座って」
差し出された椅子に腰を下ろす。カップを手に取ると、温かい紅茶の香りが立った。本物の温度、本物の香り。それなのに、この部屋には誰も住んでいない。
ミレーヌは機嫌よく話し始めた。
「今日のお菓子は、厨房から持ち出したの。料理長には内緒よ。あの人ったら、王女が三つも食べたなんて知ったら、大騒ぎするんだから」
子どものように得意げに笑う。
「セシリアも、いつもそう言って怒るのよ。『王女殿下が三つ召し上がったことは、厨房には黙っておきます』って。真面目な子だから」
エレノアは黙って聞いた。口を挟まず、ただ相槌だけを打つ。それは王妃教育で身につけた技術でもあったが、今は別の理由で役に立っていた。
ミレーヌは止まらなかった。
「セシリアとは、よく本を交換したの。彼女は侍女見習いのくせに、難しい歴史の本ばかり読んでいて。私が物語の本を貸すと、つまらない顔をするのよ。でも、ちゃんと最後まで読んでくれる」
「仲がよろしかったのですね」
「当然よ」
ミレーヌは胸を張った。
「いつか王宮を出たら、一緒に町のお菓子屋へ行く約束をしているの。今日……」
そこで、ふと言葉が途切れた。
「今日が、最後のお茶会なんですか」
エレノアが尋ねると、ミレーヌの瞳が揺れた。
「そうよ。今日で……」
「今日で、何があるのですか」
「だって、明日には……」
ミレーヌの表情から、すっと光が引いていく。
「知らないわ。そんなこと」
苛立ったような声だった。エレノアは、それ以上踏み込まなかった。蝋燭の炎が揺れかけたが、すぐに落ち着く。今度は巻き戻らなかった。
話を逸らすように、ミレーヌがエレノアの手元を見た。
「あなた、どうしてそんな顔をしているの?」
「どのような顔でしょう」
「泣きたいのに、泣いてはいけないと思っている顔」
エレノアは思わず手元のカップを見つめた。
「気のせいかと存じます」
ミレーヌは納得していない様子だったが、それ以上は追及せず、代わりにエレノアのドレスへ視線を移した。夜会用の繊細な意匠。そして、左手の薬指には、指輪を外した跡だけが残っている。
「喧嘩したの?」
「……終わっただけです」
「終わったのなら、何か言えばよかったじゃない」
エレノアは答えられなかった。何年も努力してきたことを、最後の一言も言わせてもらえずに終わらされた。そう思っていることにすら、今初めて気づいたかのようだった。
ミレーヌがぽつりと言った。
「私も、セシリアに言いたかったことがあったの。でも、今日言えばいいと思っていたから……」
二人とも、それ以上は続けなかった。似ている、とエレノアは思った。けれど、認め合うには早すぎた。
しばらくして、ミレーヌが立ち上がる。
「お菓子のお代わりを取ってくるわ。少し待っていて」
軽やかな足取りで部屋を出ていく。足音は立てているはずなのに、なぜかほとんど聞こえなかった。
一人残されたエレノアは、部屋を見回した。
壁際に、古い書棚がある。埃をかぶった背表紙の中に、一冊だけ表紙の擦れ方が違う本があった。手に取ると、それは日記だった。
『ミレーヌ』とだけ表紙に記されている。
最後のページを開く。
明日はセシリアと最後のお茶会。
そのあと、私は北の離宮へ移される。
でも、セシリアは必ず来る。あの子は、約束を破らない。
その下に、何かが書かれていた形跡があったが、紙が破り取られている。
日付を見ると、百年前――ミレーヌが亡くなったとされる、その前日だった。
エレノアは日記を閉じ、そっと書棚へ戻した。胸の奥が、静かにざわついていた。
そのとき、廊下から物音がした。
軽い、何かを擦るような足音。ミレーヌのものではない。
扉の隙間から覗くと、廊下の先に白い侍女服を着た少女の後ろ姿が見えた。長い髪を一本の三つ編みにまとめ、足早に奥の部屋へと消えていく。
「待って」
声をかけても、振り返らない。
エレノアは思わず廊下へ出て、その後を追った。曲がり角を曲がると、もう少女の姿はどこにもなかった。
代わりに、床に何かが落ちている。
拾い上げると、それは古い鍵だった。
柄の部分に、見覚えのある紋章が刻まれている。
ハーシェル侯爵家の紋章――エレノア自身の家の印だった。
第三話 セシリアが残したもの
拾い上げた鍵を握りしめたまま、エレノアは少女が消えた部屋へと近づいた。
扉は固く閉ざされているように見えたが、鍵を差し込むと、思いのほか軽い音を立てて回った。
中は資料室だった。古い帳面や書類が棚に積まれ、机の上にも紙束が広げられたままになっている。誰かが最近まで使っていたかのような乱れ方だが、すべての表面には等しく埃が積もっていた。
エレノアは灯りを頼りに、棚の書類を一枚ずつ確かめた。
王宮の人事記録、行事の覚書、会計の控え。
王妃教育では、華やかな礼儀作法だけでなく、王家に届く報告書の読み方も教え込まれていた。日付、署名、封蝋、文書が置かれた順序。
これまでは、王妃になるために覚えさせられた知識だった。
けれど今は、誰にも命じられず、自分の知りたい真実のために使っている。
読み進めるうちに、百年前のある出来事に行き当たった。
第三王女ミレーヌは、王位継承には直接関わりのない立場だった。しかし母方の一族を担ぎ上げようとする勢力があり、王女の名を利用した陰謀が進められていたという記述がある。
そして、その少し後の記録に、こう記されていた。
『機密文書持ち出しの罪により、侍女見習いセシリア・ハーシェルを王宮より追放す』
エレノアは、その名を見つめたまま動けなかった。
ハーシェル――自分と同じ姓だ。
家の記録には、百年前、王宮で罪を犯したために名を残されなかった先祖がいると、幼い頃に一度だけ聞いたことがある。詳しい事情は誰も語らなかった。それが、この人物のことだったのか。
別の書類を開く。そこには、セシリアが持ち出したとされる文書の写しがあった。読み進めるうちに、エレノアの手が止まる。
それは、ミレーヌを失脚させるための計画書だった。
つまりセシリアは、文書を盗んだのではない。証拠を持ち出し、王女を守ろうとしたのだ。
だが、本人の供述には、こうとだけ記されていた。
『すべて私一人が行ったことです。王女殿下は何もご存じありません』
エレノアは、その一文に自分自身を重ねた。
相手のために黙り、自分一人で背負い、本当の理由を誰にも説明しない。それが誰かを守ることだと、信じて疑わなかったのだろう。
舞踏会の夜、自分が「承知いたしました」としか言えなかったことと、どこか似ている。
紙を持つ手が、わずかに震えた。
「――何をしているの」
振り返ると、戸口にミレーヌが立っていた。お菓子の皿を手にしたまま、エレノアの開いている書類を見つめている。
「セシリアについて、調べていたの?」
「はい」
エレノアは隠さずに答えた。
ミレーヌの顔から、すっと血の気が引くように表情が消えた。
「セシリアは悪くないわ」
「私も、そう思います」
ミレーヌの声が震える。
「なら、どうしてそんな目で記録を見るの?」
エレノアは慎重に言葉を選んだ。
「セシリアは、あなたを守るために、罪を引き受けたのではないかと思います」
しかし、ミレーヌは首を激しく振った。
「そんなのは、守ったことにならないわ」
皿が床に落ち、割れる音が響いた。
「何も言わずに、いなくなったのよ。私はずっと、待っていたのに」
その声には、来なかったことへの怒りよりも、もっと深いものが滲んでいた。理由を知らされなかったことへの痛みだ。
エレノアは、つい庇うように言った。
「事情があったのだと思います」
ミレーヌが、エレノアをまっすぐに見た。
「あなたも同じね」
短い沈黙のあと、続けられる。
「事情があれば、何も言わなくていいと思っている」
言い返せなかった。図星だった。
その瞬間、部屋全体が軋むような音を立てた。
壁の向こうで何かが崩れ、机の上の紙が端から白紙へと変わっていく。廊下に通じる扉が、輪郭をぼやけさせながら消えかけていた。
ミレーヌの感情が乱れるたびに、夜そのものが巻き戻ろうとしている。
「待ってください」
エレノアは咄嗟に、消えかけた紙の中から、見覚えのある紙質の切れ端を探した。日記から破り取られたものと同じ紙だ。
白くなりかけた紙の中に、一枚だけ、文字が残っているものを見つけた。
『離宮の青い鳥は、春になっても飛ばない』
それだけが書かれた、短い一文だった。
手にした瞬間、周囲の崩壊が止まる。ミレーヌも、肩で息をしながらこちらを見ていた。
「飛ばない」という言葉は、鳥そのものを指しているのではない。動かない鳥――絵か、彫刻か、紋章。
しかも「離宮の」と場所まで限定されている。
セシリアは、ほかの者には意味が分からず、ミレーヌだけには思い当たる言葉を残したのだ。
エレノアは、その一文を見つめながら、ふと思い出す。
ミレーヌの日記に、青い鳥の絵が描かれていたことを。
そして、お茶会の部屋の壁にも――確か、青い鳥をかたどった装飾があった。
その鳥の両目だけが、不自然なほど鮮やかな青い宝石でできていたことを、エレノアは思い出していた。
第四話 届かなかった手紙
エレノアは、紙片を手にしたまま、お茶会の部屋へと戻った。
ミレーヌも、無言のままついてくる。先ほどの崩壊で乱れた皿や紙は、いつの間にか元通りになっていたが、二人の間に流れる空気だけは元に戻らなかった。
壁際に立ち、青い鳥の装飾を見上げる。羽を広げた小さな鳥の彫刻。両の瞳に嵌め込まれた宝石が、灯りを受けて鈍く光っていた。
エレノアは近づき、指先でそっと宝石に触れた。微かに動く感触がある。よく見ると、それは鍵穴だった。
「もしかして、この鍵は」
懐から、資料室で拾った鍵を取り出す。柄に刻まれた紋章――ハーシェル家の印。鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。
軋むような音とともに、壁の一部が内側へ開いた。
現れたのは、小さな空洞だった。中には、黄ばんだ一通の手紙が、丁寧に折りたたまれて納められている。
宛名には、こう書かれていた。
『ミレーヌ様へ』
差出人の名は、セシリア。
エレノアが封を開けようとした、その時。
「読まないで」
ミレーヌの声が、震えていた。
「これを、ずっと待っていたのではありませんか」
「だって……」
ミレーヌはあとずさった。
「もし、嫌いだと書いてあったら、どうするの」
エレノアは、手を止めた。
ミレーヌが恐れているのは、真実そのものではない。真実によって、見捨てられたことが確定してしまうことだ。
それは、エレノア自身の中にもあるものだった。
婚約者の本心を、一度も尋ねようとしなかった。自分の本心も、一度も伝えなかった。聞かなければ、決定的に傷つかずに済む。言わなければ、拒絶されずに済む。そう思って、ずっと黙ってきた。
けれどその沈黙の果てに、関係は終わった。
誰にも理解されないまま。
エレノアは、手紙を持つ手に力を込めた。
「私は、殿下を深く愛していたのではないと思います」
声が、自分でも驚くほど穏やかに出た。
ミレーヌが、こちらを見る。
いつも感情を隠してきた灰青色の瞳が、今はわずかに揺れていた。
「けれど、何年も努力してきたことを、何もなかったように扱われて、傷つきました。それを、一度も言えなかった自分にも、腹が立っています」
初めて、口にした言葉だった。
ミレーヌは何も言わず、ただ黙って聞いていた。
「怖くても、読まなければなりません」
エレノアは、封を開く。
「あなたのためだけではなく、私自身のためにも」
便箋を広げる。流れるような、けれど少し崩れた字だった。
文面は、ミレーヌを守るために罪を引き受けたことを、まず認めていた。けれど、そこで終わってはいなかった。
『本当は、最後にお会いしたかった。けれど、お顔を見れば、離れられなくなると思いました。あなたを守るためと言いながら、私は逃げたのです』
立派な決意の言葉だけではなかった。自分の弱さを、隠さずに綴っていた。
手紙は続けて、ミレーヌに何も告げずに決めたことへの謝罪を記し、最後にこう結ばれていた。
『町のお菓子屋へ行く約束を、私は忘れていません。いつか、別の朝が来る場所で、もう一度あなたを待ちます』
読み終えたエレノアは、しばらく声が出なかった。
ミレーヌは、両手で顔を覆っていた。指の隙間から、涙が伝い落ちる。淡い銀髪が頬にほどけ、初めて王女ではなく、置き去りにされた一人の少女に見えた。
「私は、怒っていたの」
声は掠れていた。
「来なかったことより……私に、何も言ってくれなかったことに。でも、嫌われていたと知るのが怖くて、それも言えなかった」
エレノアは、何も言わずにそばに立っていた。
ミレーヌは、震える声で続けた。
「私は、セシリアに会いたかった」
初めての言葉だった。百年間、一度も認められなかった本音。
窓の外が、わずかに白み始めていた。雲の切れ間から、淡い光が差し込んでくる。
百年間、一度も訪れなかった夜明けが、今、近づいていた。
けれどその光と入れ替わるように、ミレーヌの輪郭が、ゆっくりと薄くなっていく。
「ミレーヌ様」
エレノアは思わず手を伸ばした。指先が、ミレーヌの肩をすり抜ける。
ミレーヌは、それでも微笑んでいた。寂しさと、どこか安堵の入り混じった笑みだった。
「お茶会を終わらせたら……私はもう、ここにはいられないのね」
その声は、これまでで一番、人間らしく聞こえた。
最終話 夜明けに言葉を残して
窓の外が、少しずつ明るさを増していく。
ミレーヌは薄くなりかけた姿のまま、それでも椅子に座り直した。
「エレノア、お茶を飲みましょう」
初めて、本当の名で呼ばれた。
「はい、ミレーヌ様」
エレノアも、向かいの席に着いた。
百年間、何度も繰り返されてきたお茶会を、今、初めて最後まで行おうとしていた。
紅茶はもう冷めていた。菓子も固くなっている。これまでなら、時間が巻き戻るたびに元の温かさへ戻っていた。けれど、もう戻らない。
ミレーヌはカップを見つめ、寂しそうに、けれどどこか満足げに笑った。
「冷めたお茶も、悪くないものね」
「そうですね」
二人は静かにお茶を飲んだ。言葉は少なかったが、沈黙は気まずいものではなかった。
「あなたは、これから、どうするの?」
ミレーヌが、ふいに尋ねた。
エレノアは、しばらく考えてから答えた。
「古い手紙や記録を調べて、過去に置き去りにされた言葉を見つける仕事がしたいと、思っています」
初めて、自分の口で言葉にした望みだった。
「王妃になるために学んだ歴史や語学も、無駄ではなかったのだと思います。でも、それを誰かに決められた道のためではなく、自分が選んだことのために使いたいのです」
ミレーヌは、目を細めて笑った。
「では、ちゃんと言いなさい」
「はい」
「言わなければ、誰にも届かないわ。私のように、次のお茶会を百年も待たないように」
朝日が、窓硝子を通して部屋いっぱいに差し込んだ。
光の中で、ミレーヌの姿が、ゆっくりと淡くなっていく。
「さようなら、エレノア」
最後に微笑んで、その姿は朝の光に溶けて消えた。
あとに残ったのは、空になった二つのカップと、銀色の髪飾りだけだった。
エレノアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
もう一度名を呼んでも、答えは返らなかった。けれど、悲しみだけが残ったわけではない。ミレーヌが最後に告げた言葉は、胸の奥に確かに残っている。
エレノアは銀色の髪飾りをそっと拾い上げ、胸元にしまった。
言わなければ、誰にも届かない。
その言葉を胸の中でもう一度繰り返してから、エレノアは離宮の扉を開けた。
離宮を出ると、白み始めた庭に、アルフレッド、ローザ、そして侍女のマーサの姿があった。三人とも、夜通し捜していたのだろう。マーサが真っ先に駆け寄ってくる。
「ご無事でよかったです」
それだけ言って、マーサは深く頭を下げた。
エレノアは、いつもなら「心配をかけて、ごめんなさい」と言うところだった。けれど、今は違う言葉が出た。
「心配してくれて、ありがとう」
マーサが、わずかに目を見開いた。
アルフレッドが、ためらいがちに歩み寄ってくる。昨夜は迷いなく婚約破棄を告げた青い瞳が、今はエレノアの顔色をうかがうように揺れていた。
「昨夜のことは……私も、少し性急だったと思っている」
「殿下」
エレノアは、初めて彼の言葉を遮った。
「私は、傷つきました。婚約が終わったことだけではありません。私が何も感じていないと、殿下が勝手に決めつけたことにです」
アルフレッドは、言葉を失ったように立ち尽くした。
口にしてしまえば、もっと胸が乱れると思っていた。
けれど実際には、長く止めていた息を、ようやく吐き出せたような感覚だった。
アルフレッドが何と答えるのかを待つ必要もない。許しを求めるためでも、考えを変えさせるためでもなかった。
自分が傷ついたことを、自分自身でなかったことにしないために、伝えたのだ。
ローザが、おずおずと前に出た。
「あなたも、殿下との婚約を望んでいないのだと聞いていました。あの茶会への参加を断られたときも、私のことを嫌っているからだと思って……確かめようともしなかった。ごめんなさい」
「参加者は、王妃教育を担当する者が決めていました。私の判断ではありません」
ローザが顔を上げた。
「では、どうして、そのときにそう言ってくれなかったのですか」
「説明する必要はないと、思っていたからです」
エレノアは、初めて自分の過ちも言葉にした。
アルフレッドが、低い声で言った。
「私は、その事情を知らなかった」
「知らなかったのではありません。確かめなかったのです。けれど、婚約を元に戻したいとは思っておりません。私はこれから、自分で選んだ道を歩きたいのです」
アルフレッドは何も答えなかった。
言わなかったエレノアと、尋ねなかった二人。その沈黙の間を、勝手な思い込みが埋めていた。
その日のうちにエレノアは侯爵邸へ戻り、父オズワルドに呼ばれた。
父は王家への抗議と、新たな縁談について話し始めた。これまでのエレノアなら、黙って聞いているだけだった。
けれど今回は、自分から口を開いた。
「お父様。私は、新しい縁談を望んでおりません」
父が眉を寄せる。黒髪に白いものが混じり始めた厳格な顔立ちと、エレノアによく似た灰青色の瞳。その目が、初めて見るもののように娘を見つめた。
「私は、古い王宮記録を調べる仕事がしたいです」
「その道で、侯爵家に何が残る」
「私が残ります」
エレノアは、まっすぐに父を見た。
「お父様の望む形ではなくても」
父はすぐには答えなかった。
「婚約がなくなった今、お前には新しい立場が必要だ。侯爵家の娘として生きる以上、好きなことだけを選べるわけではない」
「分かっています」
以前なら、それだけ答えて黙っていただろう。
だがエレノアは、膝の上で重ねていた手をほどいた。
「だからこそ、私にも選ばせてください。家のために何ができるかを、お父様に決めていただくのではなく、私自身に考えさせてください」
「王宮の記録を調べて、何になる」
「言葉を残せなかった者の名誉を取り戻せます」
「百年前の死者のためにか」
「生きている者のためでもあります」
父がわずかに眉を動かした。
「間違った記録を残せば、その間違いを信じる者が生まれます。セシリアの名を消したことで、ハーシェル家も百年間、一族の一人を罪人として扱ってきました」
父の顔から、反論しようとする色が少しずつ消えていく。
「私は、その誤りを正したいのです。それが侯爵家に何も残さないことだとは思いません」
父は長い間、何も言わなかった。
エレノアも、今度は目を伏せなかった。
やがて父が、小さく息を吐いた。
「お前が、私にそこまで言い返したのは初めてだな」
「はい」
「認めたわけではない。だが、何を見つけたのかは聞こう」
父は引き出しから古い鍵を取り出し、エレノアの手のひらに置いた。
「侯爵家の資料室の鍵だ。まずは、お前の言うものを探してみろ」
全面的な理解ではなかった。けれど、初めて娘の言葉に耳を傾けようとしていた。
その日の午後、エレノアは侯爵家の資料室へ入った。
古い鍵を回すと、乾いた音とともに扉が開いた。書棚には、歴代当主の記録と王宮から届けられた書状が年代ごとに並んでいる。
百年前の棚を探し、セシリアの名が記された箱を見つけた。
中にあったのは、罪を犯した娘との縁を切ることを王家へ申し出た、当時の当主の書状だった。
だが、その下には、送られなかった別の手紙が残されていた。
『セシリアが理由なく王女殿下を裏切るとは思えない。だが、家を守るため私は、追放され辺境へ送られる娘に真実を尋ねることさえしなかった』
エレノアは、その一文を何度も読み返した。
ここでも、尋ねなかった者がいた。言わなかった者だけでなく、聞こうとしなかった者がいた。
エレノアは手紙を閉じ、父のもとへ持っていった。
三日後、エレノアは再び王宮を訪れた。
今度は夜会用のドレスではなく、簡素な外出着をまとい、腕には資料の入った箱を抱えていた。
王宮文書官はセシリアの手紙を読み終えると、難しい顔で首を振った。
「お気持ちは分かります。しかし、私的な手紙だけで百年前の公式記録を覆すことはできません」
「承知しています」
以前のエレノアなら、その言葉を拒絶として受け取り、引き下がっていたかもしれない。
だが、今は次の書類を机に置いた。
「ですから、手紙だけをお持ちしたのではありません」
陰謀の計画書に残された署名と、同じ日に開かれた会議の出席記録。セシリアが文書を持ち出す前から、ミレーヌを北の離宮へ移す命令が準備されていたことを示す書状。
エレノアは、それぞれの日付と筆跡、記録の食い違いを一つずつ説明した。
「セシリアは文書を盗み、王女殿下を陥れたのではありません。王女殿下を利用しようとした者たちの証拠を持ち出し、一人で罪を引き受けたのです」
文書官は、もう一度資料へ目を落とした。
「調査には時間がかかります」
「かまいません」
エレノアは答えた。
「百年待った言葉です。今度は、途中でなかったことにはいたしません」
それからエレノアは、王宮文書官とともに、残された記録を一つずつ調べた。何度も書状を交わし、食い違う日付や証言を確かめた。
王家の過ちを百年後に認めることに、反対する者もいた。古い事件を蒸し返す必要はない、と返されたこともある。
それでもエレノアは、そのたびに新しい記録を示した。
「古い誤りであっても、誤りでなくなるわけではありません」と。
調査の結果、ミレーヌとセシリア、二人の名誉は正式に回復された。
セシリアの手紙も大切に保管されることになった。
正式な記録を書き終えた日、エレノアは廃離宮のお茶会の部屋を訪れた。
ミレーヌの銀色の髪飾りを資料箱に納める。
箱には、こう記した。
『第三王女ミレーヌ・アルヴェール。最後のお茶会の記録』
窓辺に、二つのカップを並べる。一つは自分の分。もう一つは、百年間待ち続けた少女の分。
エレノアは温かい紅茶を一口飲み、朝の光を見つめた。
今度のお茶会には、もう誰も遅れてこない。
(了)




