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「もうイヤホン片方貸すのやめていい?」と言われたので、自分の音楽を聴くことにしました

作者: マイコ
掲載日:2026/01/23

「ねえ、もうイヤホン片方貸すのやめていい?」


健吾の言葉に、私の指先が止まった。

洗い物をしていた手から、ぽたり、と泡が落ちる。


(ああ、来たな)


振り返らないまま、私は静かに蛇口を閉めた。

リビングからは、かすかに香水の匂いが漂ってくる。ディオールのジャドール。私が絶対に選ばない、甘すぎる香り。


(相変わらず趣味悪いな、この人)


「俺、好きな人ができた。悪いけど出てってくれ」


彼の声には、申し訳なさすら含まれていない。まるで「今日の夕飯、外で食べてくるから」と言うような、あっけないほどの軽さ。


私はゆっくりと振り返った。

リビングのソファに浅く腰掛けた健吾は、スマートフォンをいじりながら私を見ていた。画面には、見知らぬ女性とのLINEのやり取りが映っている。隠す気すらないらしい。


「わかった。荷物まとめるね」


「……え?」


健吾の顔から、余裕が消えた。

泣き縋られると思っていたのだろう。あるいは「どうして」と問い詰められるか。だから先手を打って、イヤホンの話から始めた。私たちの始まりを否定することで、終わりを突きつけようとした。


計算高いようで、浅い。

三年も付き合っていて、この人は私のことを何も知らない。


「いいの? 説明とか、聞かなくて」


「聞いてほしいの?」


「いや、別に……」


健吾は戸惑ったように視線を泳がせた。台本通りに進まない展開に、彼の方が動揺している。


(この人、本当に馬鹿なんだな)


三年間、私は気づいていた。彼が私を選んだのは、私が「都合のいい女」だったから。意見を言わない、趣味に口を出さない、彼の好みに合わせて自分を消せる女。


大学の図書館で、充電が切れて困っていた私にイヤホンを貸してくれた日。健吾は言った。「俺の好きな曲、聴いてみなよ」と。


私は頷いた。本当は、その曲のリマスター版の音質の悪さが気になって仕方なかったけれど。


「音羽って俺の選ぶ曲、全部好きだよな」


彼はよくそう言って笑った。違う。私は一度も「好き」とは言っていない。ただ「うん」と頷いていただけ。健吾が聞きたい答えを、聞きたいように返していただけ。


三年間、私は自分の音楽を一度も聴かなかった。

いつも彼の「片耳」で、彼の選んだ曲を聴いていた。


「引っ越し先、あるから大丈夫」


「え、マジで? どこ?」


「下北沢」


「下北? 家賃高くない? 音羽、そんな金——」


「おばあちゃんの家があるの」


健吾の目が丸くなった。

知らなかったのだ。当然だ。聞かれなかったから、言わなかった。


亡くなった祖母が遺してくれた、古い一軒家。

そして、誰にも言っていない小さなレコード店の権利。


「……お前、そんなの持ってたの?」


「うん」


(聞かなかったのは、あなたでしょう)


私は濡れた手をエプロンで拭いて、寝室へ向かった。

荷物は多くない。もともと、この部屋に私の「好き」はほとんど置いていなかったから。


クローゼットの奥から、ひとつだけ大切にしまっていた箱を取り出す。祖母の形見のイヤホン——SHURE SE535。カスタムではない市販品だけれど、祖母が「この子の耳には、これで十分」と選んでくれたもの。


健吾は、このイヤホンの存在すら知らない。

私がいつも彼の「片耳」で音楽を聴いていたから。


「音羽」


振り返ると、健吾がドア枠に寄りかかって立っていた。


「お前さ、俺のこと、好きだったの?」


愚かな質問だ。

今さら聞いて、どうするというのだろう。「好きだった」と言えば優越感に浸れるとでも?「好きじゃなかった」と言えば傷つかずに済むとでも?


私は小さく笑った。


「……どっちだと思う?」


答えは言わない。

三年間、健吾が私に聞かなかったように。


◇


下北沢の古い一軒家は、祖母の匂いがした。

レコードの埃と、古い木材と、ほんの少しのラベンダー。


「ただいま、おばあちゃん」


誰もいない家に声をかけて、私は靴を脱いだ。


リビングには、祖母が愛用していたレコードプレーヤーがそのまま残っている。埃を払って電源を入れると、小さなランプが灯った。まだ動く。


棚から一枚のレコードを取り出す。

ジャケットには、見慣れないバンド名——『月蝕』。


五年前、このレコードは百枚しか売れなかった。

私は、その百人のうちの一人だった。


針を落とすと、掠れた声が部屋に満ちる。

荒削りで、不器用で、それでも何かを必死に伝えようとしている声。


『——誰かに届け、この声が 片耳でもいいから——』


あの頃の私は、この歌詞に何度救われただろう。

音大を諦めて、自分の「耳」を殺して、誰かの「片耳」になることを選んだ私に。


窓から夕陽が差し込んで、埃がきらきらと舞った。


「やっと自分の音楽、聴けるな」


呟いて、私は目を閉じた。

新しい生活が、始まる。


◇


翌朝。


引っ越しの届け出やら何やらを済ませて、私は下北沢の街を歩いていた。祖母のレコード店は駅から少し離れた路地裏にある。まずは様子を見に行こうと思った。


耳には、SE535。

流れているのは、『月蝕』がインディーズ時代に出した、幻の一曲。CDにもサブスクにもなっていない、ライブ会場で手売りされただけの音源。祖母が「面白いバンドがいる」と買ってきてくれたものだ。


懐かしいメロディに浸りながら角を曲がった、その時。


「——っと」


誰かとぶつかった。


衝撃でイヤホンが外れ、地面に落ちる。慌てて拾おうとした手が、別の手と重なった。


「悪い」


低く掠れた声。

顔を上げると、切れ長の目をした男が私を見下ろしていた。無造作に伸びた黒髪が目にかかり、気だるげな表情。黒を基調としたシンプルな服装に、左耳には小さなシルバーのピアス。


男は私のイヤホンを拾い上げて——目を細めた。


「……これ、SE535か。いい耳してんな」


機種を、一目で見抜いた。


「音、漏れてるぞ」


男の視線が、私の耳元に向けられる。外れかけたイヤホンから、微かに音楽が漏れていた。


その瞬間、男の目が見開かれた。


「……この曲、知ってんの?」


「え?」


「俺らがインディーズ時代に百枚しか売れなかったやつ。どこで手に入れた」


俺ら。

その言葉の意味を、私は数秒遅れて理解した。


朝霧蓮。

人気インディーズバンド『月蝕』のボーカル。

あの掠れた声の、持ち主。


「……おばあちゃんの、レコード店で」


私の声は、かすかに震えていた。


蓮は、じっと私を見つめた。

気だるげだった目に、確かな光が宿っている。


「お前、名前は?」


下北沢の朝の光の中で、私たちの物語が始まった。


◇


「いらっしゃい——って、また来たの」


店のドアベルが鳴って、私は顔を上げた。

カウンターの向こうに立っているのは、黒ずくめの長身。三日連続で同じ時間に現れる男——朝霧蓮。


「……別に。近くに用があっただけ」


(嘘でしょ、この店の周りに何があるっていうの)


祖母のレコード店『音溜まり』は、下北沢の路地裏のさらに奥まった場所にある。「近くに用がある」人間など、まずいない。


「今日は何を探してるの?」


「別に。見てるだけ」


蓮は素っ気なく答えて、棚の間を歩き始めた。

長い指がレコードの背表紙をなぞっていく。その動きには迷いがなく、明らかに「何か」を探している目だった。


「おい」


棚の奥から声がかかった。


「これ、オリジナル盤か?」


蓮が持っているのは、70年代のジャズのレコード。祖母が若い頃に仕入れたもので、状態がかなり良い。


「うん。おばあちゃんが直接買い付けたやつ」


「……いくら?」


「売り物じゃない」


「は?」


蓮の眉がぴくりと動いた。


「だって、おばあちゃんの思い出の一枚だから。聴きたいなら貸すけど」


「……」


蓮は無言で私を見つめた。


「お前、変な店主だな」


「よく言われる」


「貸すって言ったの、本気か」


「うん。ただし、感想聞かせてね」


「感想?」


「そう。どこが良かったとか、どこが微妙だったとか。『いいね』だけじゃなくて、ちゃんとした言葉で」


蓮の目が、わずかに見開かれた。


「……お前、面白いこと言うな」


「そう?」


「普通、俺に感想なんか求めねえ。『さすがです』とか『センスいいですね』とか、そういうのばっかだ」


有名になると、周りはイエスマンばかりになる。本音を言える相手がいなくなる。蓮の無愛想さの理由が、少しだけわかった気がした。


「私、おばあちゃんにそう教わったから。音楽は『好き』か『嫌い』かじゃなくて、『なぜ好きか』『なぜ嫌いか』を言えて初めて対話になるって」


「……いい婆さんだったんだな」


「うん。最高だった」


私は笑った。

蓮は相変わらず無表情だったけれど、その目がほんの少しだけ和らいだように見えた。


「毎日来るなら、ここで聴いてく? 奥に視聴スペースあるよ」


言った瞬間、私は自分の言葉に驚いた。

初対面から三日しか経っていない相手を、店の奥に招くなんて。


「……いいのか」


「うん。ただし、感想はちゃんと聞くからね」


「……わかった」


蓮はぶっきらぼうに頷いて、レコードを抱えたまま店の奥へ歩いていった。


その背中を見送りながら、私は気づいた。


この人、今、笑った。

ほんの一瞬、口角が上がった。


◇


「——で、毎日来てんの? あの朝霧蓮が?」


夕方、店に顔を出したトキさんが、目を丸くした。白髪をお団子にまとめた小柄なおばあちゃんは、祖母の親友で、この商店街の生き字引だ。


「毎日って言っても、まだ三日だけど」


「三日連続で来るってことは、もう常連みたいなもんだよ。あの子、人見知りで有名なのに」


「知り合いなの?」


「昔ね、おばあちゃんがライブハウスで見つけてきたの。『面白い子がいる』って。まだ全然売れてない頃」


「そうだったんだ……」


「あの子、おばあちゃんのこと覚えてると思うよ。『音溜まり』の名前を見て来たんじゃないかしら」


「音羽ちゃん」


トキさんが、私の手をそっと握った。皺だらけの、温かい手。


「おばあちゃんの店、ちゃんと継いでくれて、ありがとうね」


「……私が、やりたかっただけだよ」


「知ってる。あの男の子といた三年間、音羽ちゃんがどれだけ自分を殺してたか、おばあちゃんずっと心配してた」


胸の奥が、きゅっと痛んだ。


「あの子が来た時からね、音羽ちゃんの選曲が変わったのよ。お店でかける曲、自分の好きなのじゃなくなった」


「……気づいてた?」


「おばあちゃんの目は誤魔化せないよ。私の目もね」


トキさんは笑って、私の頭をぽんぽんと撫でた。


「でも、もう大丈夫そうね。音羽ちゃん、いい顔してる」


「……そうかな」


「そうだよ。朝霧くんと話してる時、昔の音羽ちゃんに戻ってた」


昔の、私。

音楽を愛して、自分の「耳」を信じていた頃の私。


「おばあちゃんが言ってたでしょう。『音楽は自分で選んで、自分で聴くの。そうして初めて、本当に分かち合いたい相手が見つかる』って」


祖母の言葉が、胸に蘇る。


◇


それから一週間。

蓮は毎日、店に来た。


「予定が合えば」という言葉が、いかに嘘だったか。

私は心の中で笑いながら、彼を迎え入れ続けた。


そして八日目の夜、蓮は初めて——自分のスマートフォンを差し出した。


「これ、聴いてくれ」


画面には、音声ファイルのアイコン。タイトルは『新曲デモ_01』。


「……新曲?」


「まだ誰にも聴かせてない。お前の感想だけ聞きたい。他の奴らは『いいね』しか言わねえから」


蓮の目が、まっすぐに私を見ている。

気だるげな仮面の下にある、真剣な眼差し。


私は黙って、スマートフォンを受け取った。


イヤホンを耳にはめる。

再生ボタンを押す。


流れてきたのは——


静かなピアノのイントロ。

そして、蓮の声。


『片耳でいいから、聴いてくれ——』


歌詞の一節が、胸に刺さった。


曲が終わった後、私は長い沈黙の後に言った。


「……二番のサビ、転調が急すぎる。もう二小節、余韻がほしい」


「……具体的だな」


「ダメだった?」


「いや」


蓮は、今度こそはっきりと——笑った。


「お前にだけだからな。聴かせるの」


無愛想な声で、そう言った。


◇


その日は、雨だった。


九月の長雨が下北沢の路地を濡らし、店の前の紫陽花がしっとりと色づいている。来客は少ない——はずだった。


「久しぶり、音羽」


ドアベルの音と共に聞こえた声に、私の背筋が強張った。


「……健吾」


彼は傘を畳みながら、店内を見回した。物珍しそうに、そして少しだけ見下すように。


「へえ、こんな店持ってたんだ。言ってくれればよかったのに」


(言ってほしかったなら、聞けばよかったでしょう)


私は無言でカウンターに戻り、作業を続けた。


「あのさ、俺、ずっと考えてたんだ」


健吾は勝手にカウンターに近づいてきた。


「あの別れ方は、俺が間違ってた。やっぱり音羽じゃないとダメだって、わかったんだ。彼女と別れた。だから——」


「ねえ」


私は顔を上げて、健吾の目を見た。

初めてかもしれない。三年間、こうしてまっすぐ彼の目を見たのは。


「私のこと、何も知らないでしょう」


「え?」


「私の好きな音楽、知ってる? 私の夢、知ってる? 私がこの店を持ってたこと、おばあちゃんが遺してくれたこと、何か一つでも——聞いたこと、あった?」


健吾の顔が、かすかに歪んだ。


「そりゃ、音羽が言わなかったから……」


「聞かなかったから、言わなかっただけ」


「それは、お前の——」


「私の責任? うん、そうかもね。私も悪かった。でも、だから何?」


「いや、だから……戻ろうって言ってんだよ。俺——」


「お断りします」


健吾の言葉を遮って、私ははっきりと言った。


「もう、あなたの『片耳』になる気はない」


その時、ドアベルが鳴った。


「……何やってんだ」


低く掠れた声。

蓮が店の入り口に立っていた。


黒い傘を肩にかけ、切れ長の目で健吾を見ている。その視線には、明確な敵意があった。


「誰だよ、お前」


「常連」


蓮はそれだけ答えて、健吾の横を通り過ぎた。わざとらしく肩をぶつけて、私のすぐ隣に立つ。


「おい、何勝手に——」


「店だから入った。問題あるか」


「音羽、こいつ誰だよ」


「だから、常連」


蓮は無言で、私を見た。

「追い払うか?」と、目が聞いている。


私は小さく首を振った。

自分で始末をつけたかったから。


「健吾。帰って」


「は? まだ話——」


「話すことない。もう終わったの、私たち」


「帰ってください」


店の奥から、声がした。

トキさんが、じろりと健吾を睨んでいた。


「あら、あなた。三年前にも来たわね。音羽ちゃんがどれだけこの店を愛してきたか、お前に何がわかる」


健吾は戸惑った顔で、私たちを見回した。

敵に囲まれていると、ようやく気づいたらしい。


「……わかったよ。今日は帰る」


「二度と来ないで」


私の言葉に、健吾は振り返りざまに言った。


「お前、変わったな」


「うん。やっと自分に戻っただけ」


◇


「大丈夫か」


蓮の声が、横から聞こえた。

気づけば、私の手が小さく震えていた。


「……うん。平気」


「嘘つくな」


蓮が、私の手を取った。

驚いて顔を上げると、彼は無表情のまま——でも、どこか必死な目で私を見ていた。


「お前は、自分の音楽聴いてろ。誰かに合わせる必要なんかねえ」


「……蓮」


「俺は——」


言いかけて、蓮は口を閉じた。


トキさんが、静かに笑った。


「あらあら。若いわね」


「うっせえ婆さん」


「おばあちゃんの友達に向かって『婆さん』はないでしょう」


「……すんません」


私は思わず吹き出した。


「何笑ってんだ」


「ごめん、蓮がちゃんと謝るの初めて見たから」


「……うるせえ」


耳が赤い。

この人、本当にわかりやすい。


◇


その夜、閉店後。


蓮は視聴スペースで、新曲のデモを聴いていた。私は隣に座って、同じ曲を聴いている。


片耳ずつ、イヤホンを分けて。


でも、これは健吾との「片耳」とは違った。

私が選んだ曲を、私が選んだ相手と聴いている。


「……蓮」


「ん」


「私、昔、作詞コンテストに応募したことがあるの」


「へえ」


「匿名で。入賞したんだけど、誰にも言わなかった」


「なんで」


「健吾に、『お前は聴く側でいろ』って言われたから」


「……は? そいつ、マジで馬鹿だな」


「え?」


「お前の感想、聴いてりゃわかる。お前、本当は作る側に行きたかったんだろ」


心臓が、大きく跳ねた。


「……なんでわかるの」


「俺の曲に感想言う時、お前、『ここはこうした方がいい』って必ず言うだろ。聴く専門の奴は、そういう言い方しねえんだよ」


蓮の目が、まっすぐに私を見ていた。


「お前、才能あるよ。隠してんじゃねえ」


涙が、滲んだ。

誰にも言えなかったことを、見抜かれた。

誰にも認めてもらえなかったことを、認められた。


「私の曲、聴いてくれる? 匿名で応募した、あの曲。実は音源が残ってるの」


「聴かせろ」


私はスマートフォンを取り出して、再生ボタンを押した。


五年前に作った、私だけの曲。

『夜明けのモノローグ』——というタイトルが、画面に表示される。


蓮の顔が、凍りついた。


「……お前」


「え?」


「この曲……お前が作ったのか」


蓮は無言で、ポケットからスマートフォンを取り出した。

画面に表示されたのは——


『月蝕』のインディーズ時代のアルバム。

その三曲目、『夜明けのモノローグ』。


「俺らのこの曲、作詞は外部から募集したんだ。匿名のコンテストで選ばれた歌詞を使った」


蓮の声が、かすかに震えていた。


「その作詞者を、俺はずっと探してた」


私の曲が、蓮の声で歌われていた。

五年前から、ずっと。


「お前だったのか……ずっと、探してた。この歌詞を書いた奴に会いたかった」


蓮の目に、涙が滲んでいた。

無愛想な彼が、初めて見せる表情だった。


運命という言葉を、私は信じていなかった。

でも今、信じてもいいかもしれないと——そう思った。


◇


『月蝕』のメジャーデビューが決まったのは、秋の始まりだった。


「マジかよ」


蓮は電話を切った後、呆然とした顔で呟いた。


「おめでとう」


「……お前のおかげだ。新曲、お前に聴かせなかったら、あのままボツにしてた」


私が二番のサビの転調について指摘した、あの曲。蓮はあの後、徹夜で曲を作り直した。その完成版が、メジャーレーベルの目に留まったらしい。


「私は感想言っただけだよ」


「それが一番難しいんだ」


◇


「音羽ちゃん、音響サポートやらない?」


真白さんから連絡が来たのは、その数日後だった。銀縁の丸眼鏡をかけた、蓮の幼馴染でバンドのベース担当。


「蓮がどうしてもって。『音羽の耳が必要だ』って。メジャーのエンジニアより、お前の方が信用できるって」


「蓮があんなに誰かの話するの初めて見たよ。作曲部屋に人入れたのも、音羽ちゃんが初めてだし」


「やります」


◇


初めてのスタジオ収録の日。


私は二番のギターのハイハットの位置を指摘した。0.1秒ズレていると。


プロのエンジニアが確認すると——本当にズレていた。


「マジか……」


エンジニアが絶句する中、蓮は満足そうに笑った。


「だから言っただろ。俺の耳より、こいつの耳を信用しろって」


「音羽ちゃんの耳、プロより確かだよ。蓮が認めるのも当然」


真白さんが笑って言った。


◇


メジャーデビューライブまで、あと一週間。


深夜のスタジオで、私と蓮は二人きりだった。


「……眠れないの?」


「ん」


蓮はギターを抱えたまま、窓の外を見ていた。


「大丈夫だよ。蓮なら」


「……根拠は」


「私の耳」


蓮が、ふっと笑った。


「音羽」


「なに」


「お前がいないと曲が書けない」


「え——」


「いや」


蓮は、まっすぐに私を見た。


「お前のことしか書けなくなった」


心臓が、大きく跳ねた。


「ライブ、見届けてくれ。そしたら——ちゃんと言う」


「何を?」


蓮は答えなかった。

ただ、少しだけ——笑った。


「楽しみにしてろ」


◇


メジャーデビューライブ当日。


会場は超満員。三千人のキャパシティが、完全に埋まっている。


私は音響ブースで、モニターを見つめていた。


五曲目が終わったところで、それは起きた。


音響モニターに、ノイズが走った。

メインスピーカーの出力が不安定になっている。このままでは、次の曲の頭でハウリングが起きる。


「音羽さん、どうしますか!」


エンジニアが焦った声で聞いてくる。


私は冷静に状況を分析した。


「サブウーファーをカットして、メインの低音を5dB上げて。三曲目のアレンジで乗り切る」


「え、でも——」


「大丈夫。蓮の声域なら、この設定でカバーできる」


六曲目が始まった。

蓮の声が、会場に響く。

低音は少し薄くなったが、彼の声の艶やかさが際立って——むしろ、良くなっている。


「すげえ……」


エンジニアが呟いた。


◇


ラスト一曲。


「最後に、新曲をやります」


蓮の声が、会場に響いた。


「この曲は——俺に音楽を思い出させてくれた人に捧げます」


会場がざわめいた。


『片耳のラブソング』


——そのタイトルを見た瞬間、私の心臓が止まった。


『片耳でいいから、聴いてくれ

 君の好きな曲を、僕に教えてくれ

 分け合うことしか知らなかった僕らは

 今日、同じ音楽を——同じ「耳」で聴く』


歌詞の内容に、私は息を呑んだ。

イヤホンを片方ずつ分け合う、二人の物語。

——それは明らかに、私たちの物語だった。


『君がいなければ、曲は書けない

 君の声がなければ、歌えない

 だから——片耳じゃなくて、両方くれ

 今度は——俺から、渡したいんだ』


蓮の目が、音響ブースを見上げた。

三千人の観客の向こうで、まっすぐに私を見ている。


曲が終わった。

会場が、割れんばかりの歓声に包まれた。


◇


ライブ後。

楽屋に呼ばれた私は、蓮の前に立っていた。


「……聴いた?」


「聴いた」


「どうだった」


「……二番のサビ、転調が完璧だった」


「そこかよ」


蓮が、少しだけ笑った。

そして——ポケットから、イヤホンを取り出した。


「これ」


蓮がいつも使っている、カスタムIEM。


「俺のやつ。片方、やる」


「え——」


「今度は俺から」


蓮が、イヤホンの片方を差し出した。


「ずっと一緒に聴いてくれ」


私の目に、涙が滲んだ。


健吾が貸してくれた「片耳」とは、全然違う。

今度は、私が選んだ相手が、私に差し出してくれている。


「……うん」


私は涙を堪えながら、そのイヤホンを受け取った。


(ああ、これが『自分で選んだ相手』と音楽を分け合うってことか)


イヤホンを耳にはめる。

蓮が、残りの片方を自分の耳にはめる。


「好きだ」


蓮の声が、すぐ近くで聞こえた。


「……私も」


私は笑った。

蓮の手が、そっと私の手を握った。


◇


後日。


レコード店に、健吾が来た。


「音羽、俺——」


言葉は、最後まで続かなかった。


「帰りなさい」


トキさんの声。

店の常連たちが入り口に立っていた。


「音羽ちゃんがどれだけこの店を愛してきたか、お前に何がわかる」


「あんたは、音羽ちゃんのこと何も知らないでしょう。好きな音楽も、夢も、この店のことも。何も聞かなかったくせに、今さら何しに来たの」


「音羽ちゃんはもう大丈夫。ちゃんと自分で選んだ人がいるから」


私の価値を最初から知っていてくれた人たちが、そこにはいた。


◇


その夜、閉店後。


蓮が店に来た。


「聞いた。元カレ来たんだって」


「うん。追い返してもらった」


「ねえ、蓮。私が昔作った曲、覚えてる?」


「『夜明けのモノローグ』だろ。忘れるわけねえ」


「実はね——あれ、おばあちゃんが応募してくれたの。私が匿名で作った曲を、勝手にコンテストに出したの。『お前の才能を埋もれさせるな』って」


「……」


「だから、蓮の曲に使われたこと、おばあちゃんは知ってた。私は知らなかったけど」


店の奥に飾ってある、祖母の写真を見上げた。


「おばあちゃん、知ってたのかもね。いつか蓮がこの店に来るって」


蓮は黙って、祖母の写真を見つめた。


「……いい婆さんだったんだな」


「最高だった」


「おばあちゃんが遺してくれたのは、店だけじゃなかったんだね」


蓮が、私の手を握った。


「俺も、遺されたようなもんだな」


「何それ」


「婆さんが、お前のために俺を連れてきたってこと」


「……恥ずかしいこと言うね」


「うるせえ」


耳が赤い。

本当に、この人はわかりやすい。


店の中に、レコードの音が流れている。

祖母が好きだった、古いジャズの曲。


「ねえ、蓮。おばあちゃんの言葉、教えてあげる」


『音楽はね、誰かに分けてもらうんじゃない。自分で選んで、自分で聴くの。そうして初めて、本当に分かち合いたい相手が見つかるのよ』


蓮は黙って、その言葉を聞いていた。


「見つかったよ、おばあちゃん」


私は心の中で、そう呟いた。


蓮のイヤホンが、私の耳にはまっている。

同じ音楽を、同じ「耳」で聴いている。


あの日、健吾が差し出した「片耳」とは違う。

今度は自分で選んだ相手と、自分で選んだ音楽を聴いている。


——これが、私の選んだ物語の結末だった。


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