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「もうイヤホン片方貸すのやめていい?」と言われたので、自分の音楽を聴くことにしました

作者: マイコ

「ねえ、もうイヤホン片方貸すのやめていい?」


健吾の言葉に、私の指先が止まった。

洗い物をしていた手から、ぽたり、と泡が落ちる。


(ああ、来たな)


振り返らないまま、私は静かに蛇口を閉めた。

リビングからは、かすかに香水の匂いが漂ってくる。ディオールのジャドール。私が絶対に選ばない、甘すぎる香り。


(相変わらず趣味悪いな、この人)


「俺、好きな人ができた。悪いけど出てってくれ」


彼の声には、申し訳なさすら含まれていない。まるで「今日の夕飯、外で食べてくるから」と言うような、あっけないほどの軽さ。


私はゆっくりと振り返った。

リビングのソファに浅く腰掛けた健吾は、スマートフォンをいじりながら私を見ていた。画面には、見知らぬ女性とのLINEのやり取りが映っている。隠す気すらないらしい。


「わかった。荷物まとめるね」


「……え?」


健吾の顔から、余裕が消えた。

泣き縋られると思っていたのだろう。あるいは「どうして」と問い詰められるか。だから先手を打って、イヤホンの話から始めた。私たちの始まりを否定することで、終わりを突きつけようとした。


計算高いようで、浅い。

三年も付き合っていて、この人は私のことを何も知らない。


「いいの? 説明とか、聞かなくて」


「聞いてほしいの?」


「いや、別に……」


健吾は戸惑ったように視線を泳がせた。台本通りに進まない展開に、彼の方が動揺している。


(この人、本当に馬鹿なんだな)


三年間、私は気づいていた。彼が私を選んだのは、私が「都合のいい女」だったから。意見を言わない、趣味に口を出さない、彼の好みに合わせて自分を消せる女。


大学の図書館で、充電が切れて困っていた私にイヤホンを貸してくれた日。健吾は言った。「俺の好きな曲、聴いてみなよ」と。


私は頷いた。本当は、その曲のリマスター版の音質の悪さが気になって仕方なかったけれど。


「音羽って俺の選ぶ曲、全部好きだよな」


彼はよくそう言って笑った。違う。私は一度も「好き」とは言っていない。ただ「うん」と頷いていただけ。健吾が聞きたい答えを、聞きたいように返していただけ。


三年間、私は自分の音楽を一度も聴かなかった。

いつも彼の「片耳」で、彼の選んだ曲を聴いていた。


「引っ越し先、あるから大丈夫」


「え、マジで? どこ?」


「下北沢」


「下北? 家賃高くない? 音羽、そんな金——」


「おばあちゃんの家があるの」


健吾の目が丸くなった。

知らなかったのだ。当然だ。聞かれなかったから、言わなかった。


亡くなった祖母が遺してくれた、古い一軒家。

そして、誰にも言っていない小さなレコード店の権利。


「……お前、そんなの持ってたの?」


「うん」


(聞かなかったのは、あなたでしょう)


私は濡れた手をエプロンで拭いて、寝室へ向かった。

荷物は多くない。もともと、この部屋に私の「好き」はほとんど置いていなかったから。


クローゼットの奥から、ひとつだけ大切にしまっていた箱を取り出す。祖母の形見のイヤホン——SHURE SE535。カスタムではない市販品だけれど、祖母が「この子の耳には、これで十分」と選んでくれたもの。


健吾は、このイヤホンの存在すら知らない。

私がいつも彼の「片耳」で音楽を聴いていたから。


「音羽」


振り返ると、健吾がドア枠に寄りかかって立っていた。


「お前さ、俺のこと、好きだったの?」


愚かな質問だ。

今さら聞いて、どうするというのだろう。「好きだった」と言えば優越感に浸れるとでも?「好きじゃなかった」と言えば傷つかずに済むとでも?


私は小さく笑った。


「……どっちだと思う?」


答えは言わない。

三年間、健吾が私に聞かなかったように。



下北沢の古い一軒家は、祖母の匂いがした。

レコードの埃と、古い木材と、ほんの少しのラベンダー。


「ただいま、おばあちゃん」


誰もいない家に声をかけて、私は靴を脱いだ。


リビングには、祖母が愛用していたレコードプレーヤーがそのまま残っている。埃を払って電源を入れると、小さなランプが灯った。まだ動く。


棚から一枚のレコードを取り出す。

ジャケットには、見慣れないバンド名——『月蝕』。


五年前、このレコードは百枚しか売れなかった。

私は、その百人のうちの一人だった。


針を落とすと、掠れた声が部屋に満ちる。

荒削りで、不器用で、それでも何かを必死に伝えようとしている声。


『——誰かに届け、この声が 片耳でもいいから——』


あの頃の私は、この歌詞に何度救われただろう。

音大を諦めて、自分の「耳」を殺して、誰かの「片耳」になることを選んだ私に。


窓から夕陽が差し込んで、埃がきらきらと舞った。


「やっと自分の音楽、聴けるな」


呟いて、私は目を閉じた。

新しい生活が、始まる。



翌朝。


引っ越しの届け出やら何やらを済ませて、私は下北沢の街を歩いていた。祖母のレコード店は駅から少し離れた路地裏にある。まずは様子を見に行こうと思った。


耳には、SE535。

流れているのは、『月蝕』がインディーズ時代に出した、幻の一曲。CDにもサブスクにもなっていない、ライブ会場で手売りされただけの音源。祖母が「面白いバンドがいる」と買ってきてくれたものだ。


懐かしいメロディに浸りながら角を曲がった、その時。


「——っと」


誰かとぶつかった。


衝撃でイヤホンが外れ、地面に落ちる。慌てて拾おうとした手が、別の手と重なった。


「悪い」


低く掠れた声。

顔を上げると、切れ長の目をした男が私を見下ろしていた。無造作に伸びた黒髪が目にかかり、気だるげな表情。黒を基調としたシンプルな服装に、左耳には小さなシルバーのピアス。


男は私のイヤホンを拾い上げて——目を細めた。


「……これ、SE535か。いい耳してんな」


機種を、一目で見抜いた。


「音、漏れてるぞ」


男の視線が、私の耳元に向けられる。外れかけたイヤホンから、微かに音楽が漏れていた。


その瞬間、男の目が見開かれた。


「……この曲、知ってんの?」


「え?」


「俺らがインディーズ時代に百枚しか売れなかったやつ。どこで手に入れた」


俺ら。

その言葉の意味を、私は数秒遅れて理解した。


朝霧蓮。

人気インディーズバンド『月蝕』のボーカル。

あの掠れた声の、持ち主。


「……おばあちゃんの、レコード店で」


私の声は、かすかに震えていた。


蓮は、じっと私を見つめた。

気だるげだった目に、確かな光が宿っている。


「お前、名前は?」


下北沢の朝の光の中で、私たちの物語が始まった。



「いらっしゃい——って、また来たの」


店のドアベルが鳴って、私は顔を上げた。

カウンターの向こうに立っているのは、黒ずくめの長身。三日連続で同じ時間に現れる男——朝霧蓮。


「……別に。近くに用があっただけ」


(嘘でしょ、この店の周りに何があるっていうの)


祖母のレコード店『音溜まり』は、下北沢の路地裏のさらに奥まった場所にある。「近くに用がある」人間など、まずいない。


「今日は何を探してるの?」


「別に。見てるだけ」


蓮は素っ気なく答えて、棚の間を歩き始めた。

長い指がレコードの背表紙をなぞっていく。その動きには迷いがなく、明らかに「何か」を探している目だった。


「おい」


棚の奥から声がかかった。


「これ、オリジナル盤か?」


蓮が持っているのは、70年代のジャズのレコード。祖母が若い頃に仕入れたもので、状態がかなり良い。


「うん。おばあちゃんが直接買い付けたやつ」


「……いくら?」


「売り物じゃない」


「は?」


蓮の眉がぴくりと動いた。


「だって、おばあちゃんの思い出の一枚だから。聴きたいなら貸すけど」


「……」


蓮は無言で私を見つめた。


「お前、変な店主だな」


「よく言われる」


「貸すって言ったの、本気か」


「うん。ただし、感想聞かせてね」


「感想?」


「そう。どこが良かったとか、どこが微妙だったとか。『いいね』だけじゃなくて、ちゃんとした言葉で」


蓮の目が、わずかに見開かれた。


「……お前、面白いこと言うな」


「そう?」


「普通、俺に感想なんか求めねえ。『さすがです』とか『センスいいですね』とか、そういうのばっかだ」


有名になると、周りはイエスマンばかりになる。本音を言える相手がいなくなる。蓮の無愛想さの理由が、少しだけわかった気がした。


「私、おばあちゃんにそう教わったから。音楽は『好き』か『嫌い』かじゃなくて、『なぜ好きか』『なぜ嫌いか』を言えて初めて対話になるって」


「……いい婆さんだったんだな」


「うん。最高だった」


私は笑った。

蓮は相変わらず無表情だったけれど、その目がほんの少しだけ和らいだように見えた。


「毎日来るなら、ここで聴いてく? 奥に視聴スペースあるよ」


言った瞬間、私は自分の言葉に驚いた。

初対面から三日しか経っていない相手を、店の奥に招くなんて。


「……いいのか」


「うん。ただし、感想はちゃんと聞くからね」


「……わかった」


蓮はぶっきらぼうに頷いて、レコードを抱えたまま店の奥へ歩いていった。


その背中を見送りながら、私は気づいた。


この人、今、笑った。

ほんの一瞬、口角が上がった。



「——で、毎日来てんの? あの朝霧蓮が?」


夕方、店に顔を出したトキさんが、目を丸くした。白髪をお団子にまとめた小柄なおばあちゃんは、祖母の親友で、この商店街の生き字引だ。


「毎日って言っても、まだ三日だけど」


「三日連続で来るってことは、もう常連みたいなもんだよ。あの子、人見知りで有名なのに」


「知り合いなの?」


「昔ね、おばあちゃんがライブハウスで見つけてきたの。『面白い子がいる』って。まだ全然売れてない頃」


「そうだったんだ……」


「あの子、おばあちゃんのこと覚えてると思うよ。『音溜まり』の名前を見て来たんじゃないかしら」


「音羽ちゃん」


トキさんが、私の手をそっと握った。皺だらけの、温かい手。


「おばあちゃんの店、ちゃんと継いでくれて、ありがとうね」


「……私が、やりたかっただけだよ」


「知ってる。あの男の子といた三年間、音羽ちゃんがどれだけ自分を殺してたか、おばあちゃんずっと心配してた」


胸の奥が、きゅっと痛んだ。


「あの子が来た時からね、音羽ちゃんの選曲が変わったのよ。お店でかける曲、自分の好きなのじゃなくなった」


「……気づいてた?」


「おばあちゃんの目は誤魔化せないよ。私の目もね」


トキさんは笑って、私の頭をぽんぽんと撫でた。


「でも、もう大丈夫そうね。音羽ちゃん、いい顔してる」


「……そうかな」


「そうだよ。朝霧くんと話してる時、昔の音羽ちゃんに戻ってた」


昔の、私。

音楽を愛して、自分の「耳」を信じていた頃の私。


「おばあちゃんが言ってたでしょう。『音楽は自分で選んで、自分で聴くの。そうして初めて、本当に分かち合いたい相手が見つかる』って」


祖母の言葉が、胸に蘇る。



それから一週間。

蓮は毎日、店に来た。


「予定が合えば」という言葉が、いかに嘘だったか。

私は心の中で笑いながら、彼を迎え入れ続けた。


そして八日目の夜、蓮は初めて——自分のスマートフォンを差し出した。


「これ、聴いてくれ」


画面には、音声ファイルのアイコン。タイトルは『新曲デモ_01』。


「……新曲?」


「まだ誰にも聴かせてない。お前の感想だけ聞きたい。他の奴らは『いいね』しか言わねえから」


蓮の目が、まっすぐに私を見ている。

気だるげな仮面の下にある、真剣な眼差し。


私は黙って、スマートフォンを受け取った。


イヤホンを耳にはめる。

再生ボタンを押す。


流れてきたのは——


静かなピアノのイントロ。

そして、蓮の声。


『片耳でいいから、聴いてくれ——』


歌詞の一節が、胸に刺さった。


曲が終わった後、私は長い沈黙の後に言った。


「……二番のサビ、転調が急すぎる。もう二小節、余韻がほしい」


「……具体的だな」


「ダメだった?」


「いや」


蓮は、今度こそはっきりと——笑った。


「お前にだけだからな。聴かせるの」


無愛想な声で、そう言った。



その日は、雨だった。


九月の長雨が下北沢の路地を濡らし、店の前の紫陽花がしっとりと色づいている。来客は少ない——はずだった。


「久しぶり、音羽」


ドアベルの音と共に聞こえた声に、私の背筋が強張った。


「……健吾」


彼は傘を畳みながら、店内を見回した。物珍しそうに、そして少しだけ見下すように。


「へえ、こんな店持ってたんだ。言ってくれればよかったのに」


(言ってほしかったなら、聞けばよかったでしょう)


私は無言でカウンターに戻り、作業を続けた。


「あのさ、俺、ずっと考えてたんだ」


健吾は勝手にカウンターに近づいてきた。


「あの別れ方は、俺が間違ってた。やっぱり音羽じゃないとダメだって、わかったんだ。彼女と別れた。だから——」


「ねえ」


私は顔を上げて、健吾の目を見た。

初めてかもしれない。三年間、こうしてまっすぐ彼の目を見たのは。


「私のこと、何も知らないでしょう」


「え?」


「私の好きな音楽、知ってる? 私の夢、知ってる? 私がこの店を持ってたこと、おばあちゃんが遺してくれたこと、何か一つでも——聞いたこと、あった?」


健吾の顔が、かすかに歪んだ。


「そりゃ、音羽が言わなかったから……」


「聞かなかったから、言わなかっただけ」


「それは、お前の——」


「私の責任? うん、そうかもね。私も悪かった。でも、だから何?」


「いや、だから……戻ろうって言ってんだよ。俺——」


「お断りします」


健吾の言葉を遮って、私ははっきりと言った。


「もう、あなたの『片耳』になる気はない」


その時、ドアベルが鳴った。


「……何やってんだ」


低く掠れた声。

蓮が店の入り口に立っていた。


黒い傘を肩にかけ、切れ長の目で健吾を見ている。その視線には、明確な敵意があった。


「誰だよ、お前」


「常連」


蓮はそれだけ答えて、健吾の横を通り過ぎた。わざとらしく肩をぶつけて、私のすぐ隣に立つ。


「おい、何勝手に——」


「店だから入った。問題あるか」


「音羽、こいつ誰だよ」


「だから、常連」


蓮は無言で、私を見た。

「追い払うか?」と、目が聞いている。


私は小さく首を振った。

自分で始末をつけたかったから。


「健吾。帰って」


「は? まだ話——」


「話すことない。もう終わったの、私たち」


「帰ってください」


店の奥から、声がした。

トキさんが、じろりと健吾を睨んでいた。


「あら、あなた。三年前にも来たわね。音羽ちゃんがどれだけこの店を愛してきたか、お前に何がわかる」


健吾は戸惑った顔で、私たちを見回した。

敵に囲まれていると、ようやく気づいたらしい。


「……わかったよ。今日は帰る」


「二度と来ないで」


私の言葉に、健吾は振り返りざまに言った。


「お前、変わったな」


「うん。やっと自分に戻っただけ」



「大丈夫か」


蓮の声が、横から聞こえた。

気づけば、私の手が小さく震えていた。


「……うん。平気」


「嘘つくな」


蓮が、私の手を取った。

驚いて顔を上げると、彼は無表情のまま——でも、どこか必死な目で私を見ていた。


「お前は、自分の音楽聴いてろ。誰かに合わせる必要なんかねえ」


「……蓮」


「俺は——」


言いかけて、蓮は口を閉じた。


トキさんが、静かに笑った。


「あらあら。若いわね」


「うっせえ婆さん」


「おばあちゃんの友達に向かって『婆さん』はないでしょう」


「……すんません」


私は思わず吹き出した。


「何笑ってんだ」


「ごめん、蓮がちゃんと謝るの初めて見たから」


「……うるせえ」


耳が赤い。

この人、本当にわかりやすい。



その夜、閉店後。


蓮は視聴スペースで、新曲のデモを聴いていた。私は隣に座って、同じ曲を聴いている。


片耳ずつ、イヤホンを分けて。


でも、これは健吾との「片耳」とは違った。

私が選んだ曲を、私が選んだ相手と聴いている。


「……蓮」


「ん」


「私、昔、作詞コンテストに応募したことがあるの」


「へえ」


「匿名で。入賞したんだけど、誰にも言わなかった」


「なんで」


「健吾に、『お前は聴く側でいろ』って言われたから」


「……は? そいつ、マジで馬鹿だな」


「え?」


「お前の感想、聴いてりゃわかる。お前、本当は作る側に行きたかったんだろ」


心臓が、大きく跳ねた。


「……なんでわかるの」


「俺の曲に感想言う時、お前、『ここはこうした方がいい』って必ず言うだろ。聴く専門の奴は、そういう言い方しねえんだよ」


蓮の目が、まっすぐに私を見ていた。


「お前、才能あるよ。隠してんじゃねえ」


涙が、滲んだ。

誰にも言えなかったことを、見抜かれた。

誰にも認めてもらえなかったことを、認められた。


「私の曲、聴いてくれる? 匿名で応募した、あの曲。実は音源が残ってるの」


「聴かせろ」


私はスマートフォンを取り出して、再生ボタンを押した。


五年前に作った、私だけの曲。

『夜明けのモノローグ』——というタイトルが、画面に表示される。


蓮の顔が、凍りついた。


「……お前」


「え?」


「この曲……お前が作ったのか」


蓮は無言で、ポケットからスマートフォンを取り出した。

画面に表示されたのは——


『月蝕』のインディーズ時代のアルバム。

その三曲目、『夜明けのモノローグ』。


「俺らのこの曲、作詞は外部から募集したんだ。匿名のコンテストで選ばれた歌詞を使った」


蓮の声が、かすかに震えていた。


「その作詞者を、俺はずっと探してた」


私の曲が、蓮の声で歌われていた。

五年前から、ずっと。


「お前だったのか……ずっと、探してた。この歌詞を書いた奴に会いたかった」


蓮の目に、涙が滲んでいた。

無愛想な彼が、初めて見せる表情だった。


運命という言葉を、私は信じていなかった。

でも今、信じてもいいかもしれないと——そう思った。



『月蝕』のメジャーデビューが決まったのは、秋の始まりだった。


「マジかよ」


蓮は電話を切った後、呆然とした顔で呟いた。


「おめでとう」


「……お前のおかげだ。新曲、お前に聴かせなかったら、あのままボツにしてた」


私が二番のサビの転調について指摘した、あの曲。蓮はあの後、徹夜で曲を作り直した。その完成版が、メジャーレーベルの目に留まったらしい。


「私は感想言っただけだよ」


「それが一番難しいんだ」



「音羽ちゃん、音響サポートやらない?」


真白さんから連絡が来たのは、その数日後だった。銀縁の丸眼鏡をかけた、蓮の幼馴染でバンドのベース担当。


「蓮がどうしてもって。『音羽の耳が必要だ』って。メジャーのエンジニアより、お前の方が信用できるって」


「蓮があんなに誰かの話するの初めて見たよ。作曲部屋に人入れたのも、音羽ちゃんが初めてだし」


「やります」



初めてのスタジオ収録の日。


私は二番のギターのハイハットの位置を指摘した。0.1秒ズレていると。


プロのエンジニアが確認すると——本当にズレていた。


「マジか……」


エンジニアが絶句する中、蓮は満足そうに笑った。


「だから言っただろ。俺の耳より、こいつの耳を信用しろって」


「音羽ちゃんの耳、プロより確かだよ。蓮が認めるのも当然」


真白さんが笑って言った。



メジャーデビューライブまで、あと一週間。


深夜のスタジオで、私と蓮は二人きりだった。


「……眠れないの?」


「ん」


蓮はギターを抱えたまま、窓の外を見ていた。


「大丈夫だよ。蓮なら」


「……根拠は」


「私の耳」


蓮が、ふっと笑った。


「音羽」


「なに」


「お前がいないと曲が書けない」


「え——」


「いや」


蓮は、まっすぐに私を見た。


「お前のことしか書けなくなった」


心臓が、大きく跳ねた。


「ライブ、見届けてくれ。そしたら——ちゃんと言う」


「何を?」


蓮は答えなかった。

ただ、少しだけ——笑った。


「楽しみにしてろ」



メジャーデビューライブ当日。


会場は超満員。三千人のキャパシティが、完全に埋まっている。


私は音響ブースで、モニターを見つめていた。


五曲目が終わったところで、それは起きた。


音響モニターに、ノイズが走った。

メインスピーカーの出力が不安定になっている。このままでは、次の曲の頭でハウリングが起きる。


「音羽さん、どうしますか!」


エンジニアが焦った声で聞いてくる。


私は冷静に状況を分析した。


「サブウーファーをカットして、メインの低音を5dB上げて。三曲目のアレンジで乗り切る」


「え、でも——」


「大丈夫。蓮の声域なら、この設定でカバーできる」


六曲目が始まった。

蓮の声が、会場に響く。

低音は少し薄くなったが、彼の声の艶やかさが際立って——むしろ、良くなっている。


「すげえ……」


エンジニアが呟いた。



ラスト一曲。


「最後に、新曲をやります」


蓮の声が、会場に響いた。


「この曲は——俺に音楽を思い出させてくれた人に捧げます」


会場がざわめいた。


『片耳のラブソング』


——そのタイトルを見た瞬間、私の心臓が止まった。


『片耳でいいから、聴いてくれ

 君の好きな曲を、僕に教えてくれ

 分け合うことしか知らなかった僕らは

 今日、同じ音楽を——同じ「耳」で聴く』


歌詞の内容に、私は息を呑んだ。

イヤホンを片方ずつ分け合う、二人の物語。

——それは明らかに、私たちの物語だった。


『君がいなければ、曲は書けない

 君の声がなければ、歌えない

 だから——片耳じゃなくて、両方くれ

 今度は——俺から、渡したいんだ』


蓮の目が、音響ブースを見上げた。

三千人の観客の向こうで、まっすぐに私を見ている。


曲が終わった。

会場が、割れんばかりの歓声に包まれた。



ライブ後。

楽屋に呼ばれた私は、蓮の前に立っていた。


「……聴いた?」


「聴いた」


「どうだった」


「……二番のサビ、転調が完璧だった」


「そこかよ」


蓮が、少しだけ笑った。

そして——ポケットから、イヤホンを取り出した。


「これ」


蓮がいつも使っている、カスタムIEM。


「俺のやつ。片方、やる」


「え——」


「今度は俺から」


蓮が、イヤホンの片方を差し出した。


「ずっと一緒に聴いてくれ」


私の目に、涙が滲んだ。


健吾が貸してくれた「片耳」とは、全然違う。

今度は、私が選んだ相手が、私に差し出してくれている。


「……うん」


私は涙を堪えながら、そのイヤホンを受け取った。


(ああ、これが『自分で選んだ相手』と音楽を分け合うってことか)


イヤホンを耳にはめる。

蓮が、残りの片方を自分の耳にはめる。


「好きだ」


蓮の声が、すぐ近くで聞こえた。


「……私も」


私は笑った。

蓮の手が、そっと私の手を握った。



後日。


レコード店に、健吾が来た。


「音羽、俺——」


言葉は、最後まで続かなかった。


「帰りなさい」


トキさんの声。

店の常連たちが入り口に立っていた。


「音羽ちゃんがどれだけこの店を愛してきたか、お前に何がわかる」


「あんたは、音羽ちゃんのこと何も知らないでしょう。好きな音楽も、夢も、この店のことも。何も聞かなかったくせに、今さら何しに来たの」


「音羽ちゃんはもう大丈夫。ちゃんと自分で選んだ人がいるから」


私の価値を最初から知っていてくれた人たちが、そこにはいた。



その夜、閉店後。


蓮が店に来た。


「聞いた。元カレ来たんだって」


「うん。追い返してもらった」


「ねえ、蓮。私が昔作った曲、覚えてる?」


「『夜明けのモノローグ』だろ。忘れるわけねえ」


「実はね——あれ、おばあちゃんが応募してくれたの。私が匿名で作った曲を、勝手にコンテストに出したの。『お前の才能を埋もれさせるな』って」


「……」


「だから、蓮の曲に使われたこと、おばあちゃんは知ってた。私は知らなかったけど」


店の奥に飾ってある、祖母の写真を見上げた。


「おばあちゃん、知ってたのかもね。いつか蓮がこの店に来るって」


蓮は黙って、祖母の写真を見つめた。


「……いい婆さんだったんだな」


「最高だった」


「おばあちゃんが遺してくれたのは、店だけじゃなかったんだね」


蓮が、私の手を握った。


「俺も、遺されたようなもんだな」


「何それ」


「婆さんが、お前のために俺を連れてきたってこと」


「……恥ずかしいこと言うね」


「うるせえ」


耳が赤い。

本当に、この人はわかりやすい。


店の中に、レコードの音が流れている。

祖母が好きだった、古いジャズの曲。


「ねえ、蓮。おばあちゃんの言葉、教えてあげる」


『音楽はね、誰かに分けてもらうんじゃない。自分で選んで、自分で聴くの。そうして初めて、本当に分かち合いたい相手が見つかるのよ』


蓮は黙って、その言葉を聞いていた。


「見つかったよ、おばあちゃん」


私は心の中で、そう呟いた。


蓮のイヤホンが、私の耳にはまっている。

同じ音楽を、同じ「耳」で聴いている。


あの日、健吾が差し出した「片耳」とは違う。

今度は自分で選んだ相手と、自分で選んだ音楽を聴いている。


——これが、私の選んだ物語の結末だった。


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