八話
また幻想的な景色の中に雛菊はいた。きっとあの夢だ。雛菊は辺りを見渡して霞の姿を探した。
桜吹雪が舞う中に霞は佇んでいた。真珠色の髪が光に照らされて輝いている。雛菊は霞に駆け寄った。
「霞さん! また会えるなんて」
雛菊が喜びをあらわにすると霞は目を細めて笑った。きっと愛に溢れる視線とはこういうものを言うのだろうと雛菊は思った。目尻に笑い皺ができていて、この人の笑顔が暖かいと思った。
「そんなに慌てなくていい。今までもこれからも、会えるのだから」
今まで、とは一回会っただけなのにその言い方はなんだか不自然だった。しかし、なんだか霞とは長い付き合いのような安心感があった。
霞が雛菊の包帯が巻かれた手を恭しく握ったとき、霞の眉がぴくりと動いた。
「穢れをつけてきたね」
霞の声は低く固く、微かな怒気を含んでいるようで雛菊は固まってしまった。
「穢れ…?…もしかして、獣臭いですか?」
太郎が雛菊の体に匂いを擦り付けていたことを思い出した。そこから、うつほ様の花嫁なのに田村という他の男と話したことを霞に責められているような気がした。霞は全て見抜いているような瞳をしていた。
「君は悪くないよ。誰かが邪魔したいらしい。連れてきてしまったようだね」
霞の瞳が満月色に光った。その時、雛菊は懐かしい気持ちになった。確か、すみちゃんも時々このような目の虹彩になった。
思い出に浸る暇もなく、犬の遠吠えが反響して響き始めた。ここのどこにも犬はいないのに、風呂場みたいに音が反響して、世界が揺れる。太郎の声だと直感的にわかった。
世界が揺れて、地震のように端から崩れていく。満開だった桜も散って、紅葉も散って地面はひび割れ、薄く雲がかかった青空は不気味な赤い空に変わっていた。
「きゃあ!」
揺れに耐えきれず、雛菊はその場にしゃがみ込む。しかし、霞だけは揺れが平気なようで冷静に辺りを見渡してから雛菊を抱え起こして守るように抱きしめた。
暖かいはずなのに、霞の体は無機質に冷たく平らだった。中性的だと感じていたのに、男性的でも女性的でもなく、無性という言葉がぴったりな気がした。
「まだ君と繋がりが弱いから、簡単に崩れるみたいだ。オシルシだけでは弱いみたいだね」
霞の言葉に、雛菊は「オシルシ…?」と疑問を呟いた。そう言えばすみちゃんもオシルシと言っていた。狐謝堂の人もお印と言っていた。
雛菊はもう血が止まっているけど、まだ心配されたくてつけていた包帯を解いた。桜の花びらのような形の痣の上には横断するように鋏で切れた痕が残っている。
「もしかして、これですか?」
雛菊が手の甲を見せると霞は静かに頷いた。
「それは私の花嫁の印だよ。傷がついてしまったから弱ったみたいだね」
その言葉に雛菊は息を呑んだ。
「あなたがうつほ様ですか?」
「そう呼ぶ人もいる」
霞がうつほ様だという事実に雛菊は驚いたが、徐々に嬉しさが湧き上がってきた。花嫁にはお印がある。ならば、最初から花嫁は雛菊だったのだ。確かに狐謝堂家の人は「お印が出た娘」と言った。しかし、父が「娘」は実咲だけしか数えていなかったから、勘違いしてしまったのだろう。
「じゃあ、私…最初からあなたの花嫁だったんだ。…よかった…」
雛菊が発した声は泣き声みたいに震えていた。崩れゆく世界の中で雛菊は霞を抱きしめ返した。体は固くて、冷たくて、ぬくもりは感じられなかったけど自分の体温で彼を暖めようと思った。実咲が花嫁だったら、無理だっただろう。
実咲は自分を犠牲にしてまで誰かに分け与えることをしない。でも、雛菊なら自分の血肉を分け与えることができる。やっぱり雛菊の方が花嫁に相応しい。それがわかってよかった。
そして傷がついてしまったことにより霞──うつほ様との繋がりが弱くなるだなんて。実咲はなんてことをしてくれたんだろう。
でも実咲をあんな行動に駆り立ててしまったのが、自分が選ばれたはずなのにそれを姉に押し付けてしまった罪悪感なら、話をして誤解を解こう。
最初から選ばれていたのは雛菊だった。だから、実咲は何の罪悪感も抱かずに都会に行けばいいよ、と言ってあげたかった。
視界がぼやける。崩れゆく世界の中で、離さないように雛菊は必死に霞を抱きしめた。離したら、自分がひとりぼっちになってしまうかもしれなかった。霞のそばだけが心地よく、そのほかは氷のように冷たい。
きっと導かれているのだと思った。うつほ様の花嫁はうつほ様の元へと導かれる。自ずと、うつほ様のそばは心地よくなっている。
「また会えますか」
雛菊は必死に尋ねた。霞が雛菊を選んでくれていたという事実がとても嬉しかった。すみちゃんと会ってオシルシをもらったときからもう、雛菊はうつほ様の花嫁に選ばれていたのだ。霞はずっと見てくれていたのだ。疎まれて見えないふりをされていた雛菊を。
「次は婚儀で」
霞は優しく耳元で囁くと、冷たい唇を雛菊の額に押し当ててくれた。熱った体にその冷たさが心地よい。世界は崩れて、雛菊の意識は浮上した。
犬の騒々しい鳴き声で目が覚めた。じっとりと汗をかいていて寝間着が肌に張り付いていた。最初は野良犬が鳴いているのかと思ったが、夢の中で聞いた太郎の鳴き声にそっくりだった。
「あれは夢であって夢ではないわ。夢を介してうつほ様が会いにきてくれた…」
雛菊はそっとまだ感触の残る額に触れた。愛おしいという感情を初めて向けられた。それがこんなにも嬉しいことなのだと知った。
布団を畳んで、着替える。帯を絞めて気持ちを引き締める。前までは自信がなくていつも俯きがちだったけど今は違う。うつほ様の花嫁は雛菊なのだ。他でもない雛菊だけだ。誰かの代わりではない。それが雛菊に自信を与えた。
外へ出ると、塀の外に太郎がいて雛菊を見るとぴたりと鳴くのをやめた。太郎のリードを握っているのは煙草を蒸している田村だった。
「また実咲に会いにきたんですか? いい加減にしてください」
雛菊が顔を顰めながら言うと、田村はまだ残っている煙草を地面に捨てて足でぐりぐりと踏みつけて火を消した。
「今日はあなたに会いにきたんだよ」
田村は怪しげにへらへらと笑った。軽薄そうな男だ。もし田村と会話して、それが霞に雛菊が浮気をしたと捉えられたくなかった。雛菊はあんな母とは違う。雛菊は早く会話を切り上げたかった。
「危なかったね。連れて行かれるところだった」
田村の口ぶりから、雛菊を助けてあげたというような傲慢な善意が滲み出ていて、雛菊は窒息しそうな苦しさを感じた。
田村が太郎の鳴き声で、あの夢を壊したのだと直感的にわかった。何が、「連れて行かれるところだった」とまるで悪いことのように言うのだろう。うつほ様の花嫁として、雛菊はうつほ様のそばに行きたかった。むしろ、連れて行って欲しかったくらいだ。
「あなた…民俗学者と言ってましたが、村の神事に口出しする権利はありませんよね? もう邪魔をしないでください」
雛菊は手を握りしめながら、精一杯言い放った。
「うつほ様は危険だ。九尾という妖怪で、いい神様なんかじゃない」
田村ははっきりと断言した。村の信仰を調べにきた学者の考察というよりは、事実として知っているというような感じだった。
「そんなことありません。うつほ様はいい神様です」
霞の優しさを思い出して、雛菊は言い返していた。豊穣、商売繁盛、安産などみんなうつほ様をありがたがっている。悪い神などあるはずがない。もし、悪い神様なのだとしても、雛菊を必要としてくれるのなら、雛菊にとってはいい神様だ。
「もし、うつほ様が君の前に現れているのだとすれば。それは君に都合のいい姿で現れて、甘い言葉を吐いているはずだ」
田村の言葉に雛菊は反感を覚えた。霞の優しさを、雛菊にしてくれたことを否定しているように感じた。




