七話
燃えるような痛みと、白無垢を血で汚したくなかった雛菊はざっくりと切られた手をもう片方の手で押さえた。ひりひりするが、深くは切れておらず皮膚の表面を掠っただけのようだ。
「あ…いや、ちが…」
実咲は雛菊を傷つけてしまったことに混乱しているようだった。雛菊は強く手を押さえつけて早く血が止まるように念じた。
もし、うつほ様の花嫁の資格に生娘であること以外で綺麗な体という意味で清らかでなければならないのなら。こんな傷があったら花嫁の資格を剥奪されてしまうかもしれなかった。
「何をしているの!?」
この家は壁が薄い。物音を聞きつけて台所から継実さんがやってきた。そして鋏を持っている実咲と切られてうずくまっている雛菊を見て驚いたように目を見開いた。
継実さんは混乱して固まっている実咲の手から鋏を叩き落とし、雛菊の手に包帯を巻いてくれた。普段はまだ寝ている父が起きてきて、この状況を見ると深いため息をついた。
「うつほ様の花嫁なんだぞ」
父はそれだけを言って実咲へのお叱りを済ませた。その声には疲労が滲んでいた。実咲が花嫁に選ばれたかと思えば、妊娠していると宣言され、雛菊を代わりの花嫁に立てれば実咲が鋏で雛菊を切りつけ。父にしてみればいい加減にしてくれと言いたいだろう。
雛菊の手には痛々しい傷跡と包帯が残った。だから、実咲が鋏で雛菊を切り付けた事件は瞬く間に村中に広がった。
実咲が花嫁になりたくないがために妊娠の嘘をついていることは誰も知らないので、妊娠していたから花嫁の座から追われたのに、「選ばれた姉に嫉妬して妹が狂った」と解釈された。
村の人たちはうつほ様の花嫁になれるのは女として最高の誉であると考えている。
だから実咲が村から逃げ出したいほど嫌で、嘘をついて花嫁の座から逃れたなど考えもしなかった。うつほ様の花嫁の座は嬉しいものであり、捨てたいものであるなど、思わないのだろう。
実咲は雛菊に逃げることを拒絶されたのがよほど信じられないのか、謹慎も兼ねて部屋に閉じこもった。
雛菊は父があんなに愛していた実咲ではなく、雛菊の味方をしてくれたことにとてつもない嬉しさを感じていた。
小さい頃、人形を持っていなかった雛菊は女の子の遊びの輪に入れなかった。どうしても入りたかった雛菊は、実咲の人形を実咲が洋琴のお稽古に行くときに借りたのだ。その頃は今より裕福だった。
しかし話の行き違いで、実咲がお稽古から帰ってくる前に人形を実咲に返せなかった。父は雛菊が実咲から人形を奪ったのだと決めつけて、雛菊を叩いて叱った。
そのあと、泣きながら公園まで歩いて、すみちゃんと出会ったのだ。みんなが人形を持っているのが当たり前の中、雛菊と同じく人形を持っていないすみちゃんという存在がどれだけ救いになったことか。
もしかしたら、実咲に向けられていた愛情が雛菊にも向けられたのかもしれない。雛菊はその事実を噛み締めるように胸にしまった。
***
実咲は村では嫉妬に狂った妹として、家では父からも継実さんからも問題児として見られるようになった。
「ほら、あそこの。うつほ様の花嫁のところの妹さん。自分が花嫁じゃないからって鋏で花嫁様を襲おうとしたらしいのよ」
「怖いわねぇ」
近所の井戸端会議では実咲の話題で持ちきりだった。今まで雛菊は「大学進学が決まった実咲のお姉さん」として、名前で呼んでもらうことはなかった。なのに今は、実咲が「うつほ様の花嫁の妹さん」として、名前で呼ばれなくなっている。
「おはようございます」
雛菊が笑顔で挨拶すると、近所の奥様たちは驚いたように目を見開いたが、次の瞬間には笑顔になって挨拶を返してくれた。「また白無垢の仕立てのために、お家に伺いますね」と女たちはうつほ様の花嫁の婚礼衣装を仕立てられる栄誉を嬉しく思っている。
朝の空気は澄んでいた。包帯の下の切り傷がじくじく痛む。それと同時に痣の古傷も痛み出して、雛菊は狡いことに大袈裟に痛がるふりをした。実咲を悪者にしたいわけじゃない。でも、痛がれば父や継実さんたちが心配してくれたから、それが心地よかった。
全く痛みがないのに、痛がるのは罪悪感が湧くけれど、ちゃんと痛みはあるのだ。嘘じゃない。ただちょっと大袈裟に言っただけ。痕が残るかもしれないと言えば、父が隣町にしかない診療所まで連れて行ってくれるとさえ言ってくれた。こんなことは初めてだ。
わんっ!
犬の鳴き声が近くで聞こえて、雛菊は歩みを止めた。家では動物を飼ったことがないから、犬も猫も得体が知れない。苦手というほどでもないけれど、好きというわけでもない。
もちもちとした赤毛の柴犬が尻尾の残像が残るくらい、高速で尻尾を振っていた。包帯の独特の匂いが珍しいのか手をくんくんと嗅いでくる。田村がつれていた太郎だった。
「あら? 飼い主さんは、今日はいないの?」
雛菊は尋ねるが、太郎は自分の匂いを擦り付けるように雛菊の足元をぐるぐると回った。そこへ田村が息を切らしながら走ってきた。
「いやぁ〜、また会いましたね。太郎のリードをほどいたら急に走り出しちゃって」
田村は相変わらず胡散臭い。そして今の雛菊は田村のことを怪しいけど実咲を保護してくれた優しい人とは思えなかった。太郎が逃げ出したという言い訳も白々しい。
「実咲に会っていたそうですね」
雛菊が冷たく尋ねると、濃いレンズの奥の瞳は細くなり、口はにやりと笑った。
「外へ逃げたいと相談されたものですから。この村の風習は、はっきり言って異常ですよ。実咲さんから聞きました。お姉さんが花嫁に代わったそうですね」
異常と言われたことに雛菊はかちんときた。うつほ様の花嫁という立場に嬉しさと誇りを感じている雛菊を貶されたように感じた。そしてこの村の神様を、信じている人たち全員を馬鹿にされたように感じた。
都会の人からみれば古臭いだろう。でも、伝統を守っていくのが悪いことだけではないと信じたい。雛菊は、うつほ様の花嫁に選ばれて救われたのだから。雛菊は代わったんじゃない。選ばれたのだ。
こうなったのも運命だったのだ。きっと神の──うつほ様のご意志。村議会では御簾の奥のうつほ様に、花嫁が代わる事について密かにお伺いを立てたらしい。結果は沈黙。沈黙とはつまり、肯定だ。
もし、雛菊が花嫁に不適格であるとするならば、うつほ様は花嫁を実咲に戻すか、改めて新しい花嫁を選ぶはずだ。しかし、うつほ様は何も言わなかった。つまり、花嫁は雛菊で良いということ。
「外の人たちには、この風習は奇異に映るかもしれません。でも、私はうつほ様の花嫁に選ばれたことを誇りに思っています。どうか、実咲に外に逃げようなんて馬鹿なことを吹き込まないでください」
雛菊は胸を張って堂々と言い放った。いつも男性の三歩後ろを歩くことを考えていた雛菊が、男性に真っ向から意見するのは初めてのことだった。
「猿神退治の「犬援助型」の話型を知ってるかい? あぁ、君の場合は狐だけど。あらすじは、村の神に生け贄を捧げなきゃいけないけど、通りすがりの旅人が干渉する。その旅人は犬を連れているのさ」
田村は笑いながら太郎のリードを掴んだ。太郎は自信満々に「わんっ!」と一声吠える。まさか、田村は自分がその助ける旅人だと言いたいのだろうか。
「三々九度の御神酒は飲んじゃいけない。黄泉竈食ひだ。こちらに戻って来られなくなる」
田村は低い声で忠告をした。しかし、不思議と恐怖は感じなかった。こちらに戻って来られなくなると忠告されているが、そのことに関して雛菊は不安も何もなかった。
こちらに雛菊の居場所はない。でも、あちらにはうつほ様の花嫁の居場所がある。なら、雛菊は「あちら」に行きたい。
どうして、実咲も田村も雛菊が納得しているのに逃がそうとするのだろう。彼らも雛菊を決めつけている。実咲は自分が嫌だったから、きっと姉もうつほ様の花嫁が本当は嫌なはずだと信じている。田村はこの村の風習は異常だから、きっと雛菊も無理矢理従わされているはずだと思っている。
「私はうつほ様の花嫁です」
そうだ、実咲じゃない。雛菊こそが花嫁だ。助けは必要じゃない。そもそも助けてもらうほど、可哀想じゃない。
「助けてもらわなくて結構です」
雛菊はそう言うと、田村を置いて立ち去った。太郎だけがせつなげに目を潤ませてくぅーんと鳴いた。




