六話
手の中の花を見て、雛菊はまだこれは夢の続きなんじゃないかと頬をつねった。ちゃんと痛いし、布団から出た時の冷えた空気は本物だった。
雛菊は小さなコップに水を入れて、もらった花を生けた。やはりあれは夢でなかったのだろうか。実際にあった出来事を思い出しただけなのだろうか。それとも昨日、花を手に入れたことを忘れて眠りについた…とか。
「そんなわけないわよね…」
雛菊は呟く。きっと昨日、花を手に入れたことを忘れていたのだ。ではあの素敵な夢はきっと花が運んできてくれたはず。
「それにしても、男の人と…デヱトする夢だなんて…」
まるで男に飢えているみたいではないか。雛菊の性根が母に似て男好きだから、父は雛菊を嫌っていたのかもしれない。これが淫夢というものなのだろうか。清廉潔白な乙女でなければ、うつほ様の花嫁の資格を失ってしまうかもしれない。手に入れた幸福が指の隙間から溢れていくことにはしたくなかった。
竈にはもう火が灯っていて、台所から継実さんが煮炊きする音が聞こえていた。雛菊は白無垢が飾ってある部屋に入った。昼間は村の女の人たちが出入りしているので白無垢をゆっくり眺める暇はなかったのだ。
様々な人の祝福と共に針が入り、自分の体に合わせて縫い上げられていく様は気分を高揚させた。白無垢を纏い花嫁行列を歩く日が待ち遠しい。いつも、雛菊は丈の合わないお古を着せられていて、自分だけの新しい服を与えられなかったから。
実咲のセーラー服が晴れ着のように思えていたのに。この白無垢は正真正銘の雛菊だけの晴れ着である。純白の白無垢はまるで異国のデビュタントのドレス。華やか世界へ雛菊を連れて行ってくれる切符だ。
実咲のセーラー服を密かに羨ましがっていた過去の自分に教えてあげたい。あなたはセーラー服よりももっといいものを手に入れるよ。みんなが雛菊を見て、祝福してくれる。父も、もう雛菊を疎まない。
それどころか、村の老人たちからはありがたがられて拝まれるほどだ。セーラー服は女学校の象徴で、雛菊が手に入れられなかった愛の象徴だった。でも、もう自分にはこの白無垢がある。途端にセーラー服が色褪せて見えるようになった。
雛菊は女子大学になんて行かなくていい。雛菊はうつほ様の花嫁になる。実咲にはできなかったことができる。実咲が女子大学に行くことは、村の中でもいい顔をしない人たちがいた。でも、雛菊の結婚は皆が祝福してくれている。
雛菊は正絹の柔らかい布を撫でた。松竹梅をはじめとし、鶴や鳳凰、牡丹、桜など様々な吉祥紋様が織り込まれている。光に当てると青みがかった純白に光り、月光を纏っているかのようだ。
襖が開く音がした。暗い顔をした実咲が立っている。実咲は白無垢が置いてある部屋には近づかなかったから、てっきり避けているのかと思っていた。
「実咲、おはよう。実咲も白無垢を見にきたの?」
久しぶりの会話を試みようと雛菊は笑顔で話しかけた。しかし、実咲の顔は曇るばかりだった。何か間違えたのかと、雛菊は次の言葉を探している間に、実咲の方から口を開いた。
「お姉ちゃんはいつも、嫌なことがあってもへらへら笑ってるよね」
実咲の同情したような、それでいてどこか軽蔑しているような口ぶりだった。雛菊は少しの怒りを感じていた。雛菊が曖昧に笑っていたのは、父の機嫌を損ねるからだ。愛されていた実咲には、わからない。父の機嫌を損ねないために雛菊が細心の注意を払っていたことを。
実咲は裏では雛菊と仲良くするけど、表立って、父の見えるところで雛菊と仲良くしたことはなかった。雛菊が父に打たれるのを庇うことはなかった。余裕があれば分け与えるけど、自分の身を切ってまでは分け与えようとはしない。
当たり前のことだと納得していた。今までは。実咲は雛菊より年下で、妹で、実咲にとっても父は強大な存在だったのだから真っ向から逆らって庇ってくれ、なんて無理なお願いだって分かっている。
でも、微笑むという雛菊が必死に身につけた処世術を馬鹿にされたのは、今までの苦労を踏み躙られた気分だった。
「なんで自分の意思を主張しないの?」
実咲は今までの雛菊の態度に疑問とかすかな軽蔑を感じていたのだと、声から感じた。雛菊は感情を押し殺すように拳を握りしめる。感情を抑えなければ爆発して叫び出してしまいそうだったから。
「この村もおかしいよ。この白無垢だって裾や袖が長くてまるで花嫁を拘束してるみたい。田村さんの話を聞いて、この村がどれだけ狭くて異常で、世界が広いのか知った」
田村の名前に、雛菊は嫌悪感のようなものを抱いた。あの人はうつほ様の花嫁を、神婚を異常な風習として見ていた。それが今の雛菊を否定しているように感じてしまった。外部の人なのだから、仕方がない…と納得しようにも、あのずけずけと言う様は雛菊にとって不快だった。
「田村さんって…。田村さんの言葉が世界の全てじゃないでしょう?」
雛菊は嗜めるようにそう言った。実咲は眉を顰める。その物言いが実咲には腹立たしげに映ったのかもしれない。それにたった一度だけあった人の言葉に心酔しすぎやしないかと雛菊が訝しげに実咲を見つめる。
「お姉ちゃん、私と一緒にこの村から逃げよう」
実咲の言葉は力強く輝いていて、だからこそ目が眩んでしまいそうだった。異国の調べのように遠くにあるように思える。
村から逃げるという発想がなかった。そして、実咲は逃げ出したいほどこの村が嫌なのかと驚いた。確かにいいことばかりではないけれど、捨てるほど腐った村でもないはずだ。
「女は家にいるって考え方のお姉ちゃんには信じられないかもしれないけど、都会では女の人も働いていて、参政権を求めて戦っている人たちがいる。頑張ればどこでもやっていけるよ。こんな村に縛られる必要はない」
実咲の目は輝いていた。実咲が大学進学の夢を語る時と同じ瞳だった。村から逃げれば、実咲は実家からの援助を受けられないから大学へはいけない。それなのに、その夢を捨ててまで働いて、雛菊と逃げようという意思を固めているのだ。
無鉄砲で、妊娠の嘘をついて引き返せないところまで来た実咲らしいと思ってしまった。実咲は田村が、手引きしてくれて都会での就職先も用意してくれると言った。実咲がここ最近、外出が多かったのは村に滞在している田村と接触するためだったのだとわかった。
「…私は」
雛菊はまっすぐに実咲を見られなかった。あの眩しい瞳に魅入られたら戻って来れないような気がした。実咲が今までの生活や夢を捨ててまで雛菊と逃げる覚悟をしてくれている。それが、自分を犠牲にまでしては雛菊を庇わなかった優しいけどずるい実咲からは考えられなかった。
でも、逃げた先で雛菊は何者になるのだろう。都会の水は雛菊に合うのだろうか。雛菊はこの村の水を苦いとは感じない。むしろ、ほのかな甘みを感じていた。うつほ様の花嫁に選ばれてからは甘露のように甘かった。
この村にいれば雛菊はうつほ様の花嫁でいられる。村の外に出ればうつほ様の花嫁という肩書きの価値は地に落ちるだろうし、花嫁の資格は剥奪される。
「私は逃げない」
雛菊がそう言うと、実咲はがっかりしたような心底軽蔑したような目を向けてきた。実咲には、雛菊は男尊女卑に迎合する愚かな女にしか見えないのだろう。でも今までそうやって生きてきた。雛菊に意味を見出すのは父であり、うつほ様であり、村人たちであり、いつも他者だ。
誰かの庇護に入ることがそんなに悪いことだろうか。雛菊はうつほ様の花嫁として、認められたいし必要とされたい。必要とされることが雛菊の意味だ。うつほ様の妻となり母となり巫女となる。
実咲は目だけを動かして、視線を雛菊から白無垢へと移した。
「そんなものがあるから、行けないんだね」
実咲は後ろに隠していた手を前に出した。そこには裁ち鋏が握られている。刃が光を受けて、ぎらりと光った。実咲は鋏を振り翳し、白無垢をずたずたに引き裂こうとした。
「やめて!」
雛菊は絶叫して、実咲に掴み掛かっていた。白無垢は憧れの象徴、雛菊がうつほ様の花嫁の証。それは実咲にとって大学進学の夢のようなもの。同じくらい尊重されてもいいはずのものだ。
裁ち鋏が雛菊の手の甲を掠めて、そこが燃えるように熱くなった。一本の赤い線が引かれてていて、ふつ、ふつ、と赤い血の玉が溢れてくる。鋏は痣の上をざっくりと切っていた。




