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五話

 祝言の話は村の神事として進んでいた。これは家と家が結びつくのではない。神と人が結びつく結婚なのだから。朝、雛菊ひなぎくが起きると、すでに竈には火がついていた。


 「継実つぐみさん、もう起きていたんですか?」


 雛菊が台所に入ると、継実さんは驚いたように肩を振るわせた。いつも家事は雛菊の仕事だから、継実さんは父の前では雛菊を手伝わないのに。雛菊より早く起きて朝食の準備をしている。


 「雛菊、今日からは私が家事をするからゆっくりしていて。これから祝言の準備で慌ただしくなるのだから」


 割烹着姿の継実さんは包丁で葱を切っていた。味噌汁に入れるのだろう。小鍋からは味噌の豊かで奥深い香りがしていた。


 「私を頼ってくれていいのよ。血は繋がっていないけど、私はあなたの母親なんだから」


 継実さんは眉を下げて笑った。雛菊は継実さんを「お母さん」と呼んだことがない。血が繋がっていないという遠慮もあったし、何より継実さんをお母さんと呼んでしまうことで、出て行った母を否定しているような気持ちになるから。


 母はこの村から逃げた。雛菊を置いて間男と逃げたのだ。母は、母親という生き物より女という生き物として生きたかったのだと思う。だから子供は重い荷物でしかなかった。彼女は人の親になれなかった。


 でも、ときどき思い出す。母の気が向くと雛菊の髪で遊んで、髪を複雑な編み込みにしてくれたこと。こっそり爪紅を塗ってくれたこと。そういった小さな思い出を塗りつぶしたくなくて、雛菊は継実さんをお母さんと呼べなかった。


 変わったことはそれだけじゃなかった。その日の朝食の席に雛菊は家族と同じ席に座ることを許された。いつも父の機嫌が悪くなるので一緒に食べることはなかったのに。


 それに朝食も、漬け物のきゅうりの端だったり卵焼きの端ではなく、艶々の白米と卵焼き、葱の味噌汁と鯖の塩焼きである。父が胸が膨らむのは食い意地を張っているから、とあまり雛菊に食べさせなかったからちゃんとした食事は久しぶりだ。


 うつほ様の花嫁になっただけでこんなにも違うのか。灰色だった世界が途端に色づき始めたかのようだった。父は新聞を読んでいて、積極的に雛菊と話すようなことはなかったが、雛菊が視界に入っても怒らないし、目を逸さなかった。


 それが嬉しかった。ここにいていいんだって言ってくれているようだったから。きっと今、父は雛菊という「娘」がいてくれて良かったと思っているだろう。この家からうつほ様の花嫁を排出できるし、実咲みさきは大学にいける。


 態度が柔らかくなった父や、手伝ってくれるようになった継実さんとは逆に、実咲は雛菊を避けるようになった。挨拶は交わすけど、他は何も喋らない。実咲は雛菊になんと声をかけたらいいのか、わからないようだった。


 雛菊も実咲と話す時間を作りたかったが、祝言の準備で雛菊は家にいなきゃいけないし、それを避けるように実咲は外出することが増えた。


 雛菊の部屋は二畳の物置部屋から六畳の部屋に移った。部屋には衣桁には白無垢がかけられてている。村の女たちが裁縫道具を手に、一針一針縫ってくれている。出来るだけ多くの人の針が入ったほうが祝福されるらしい。


 祝言の準備が始まってから、家は人の出入りが激しくなりその影に隠れて実咲は姿を消すことが多くなった。花嫁の雛菊がいなくなるわけにはいかなかった。


 白無垢の裾には金色に光る鈴が縫い付けられている。これを着て歩けば、歩くたびにしゃらん、しゃらんと音が響くだろう。それは雅なことでもあり、花嫁の居場所を知らせることになる。花嫁行列はさぞ華やかなことだろう。


 「うつほ様に『花嫁が来たよ』って知らせるためなのよ」


 一本一本紐に通された鈴を縫い付ける村のおばあちゃんが教えてくれた。それは花嫁が逃げようとしても音でわかるということだ。この清らかな鈴の音は雛菊を逃がさない。


 白無垢を見るたびに雛菊は胸が詰まった。感動しているのか、苦しいのかわからなかった。こんなに人から大事にされることは初めてだった。今までみんな、雛菊のことを見えないふりをしたのに。中には「間男と逃げたふしだらな女の娘だ」という人もいた。


 美味しい食事が食べれて、祝言までに肌を美しくするために風呂に入れる。暖かい布団で眠れる。うつほ様の花嫁として村全体で大切にされる。それが嬉しかった。


 「大切にされているけど、愛されてはいないよ」というすみちゃんの言葉が蘇る。


 今まで雛菊は透明人間だったのに、灰色の世界が色づくのと同時に雛菊にも色がついたみたいだ。みんな、雛菊を見てくれる。誰も疎む人はいない。それがとても心地よかった。




***




 雛菊は綺麗な山の上にいる。空気は澄んでいて、桜が散っていたり紅葉が鮮やかだったりと不思議な場所だった。隣には真珠色の長髪の青年がいた。葛の葉の紋付袴を着ている。


 とても美しい人で、雛菊はぼうっと見惚れてしまった。切れ長の奥二重の瞳は眼光が鋭いが、纏う雰囲気は穏やかだった。


 「あの…私、どうしてここに」


 雛菊は体がふわふわと軽いことに気づいた。なんだか不思議な気分だ。そしてこんな美しい人と二人っきりという状況も不思議だった。


 「どうしてって、これは逢引き…いや、デヱトというのかな」


 青年の声は耳がゾワッとするような心地の良い少し低い声だった。雛菊は顔だけでなく、耳まで真っ赤になってしまっているんじゃないかと思った。手の甲の痣が熱を持っている。


 「ここは一番、景色が綺麗に見える場所だよ」


 青年に促され、雛菊は山から見下ろす村の景色を見た。川が流れていて棚田が続いている。確かに綺麗だった。山にはお社があるから、近づいてはならないというのが暗黙の掟だったから、こんな絶景が見れる場所があるなんて知らなかった。


 「贈り物だ」


 青年は雛菊の手に何かを握らせた。手を開くと、そこには雛菊の名前の由来にもなった「雛菊」があった。それをとても綺麗に感じた。今まで花を綺麗だと思う余裕はなかったし、雛菊とはのに咲く慎ましやかな、言ってしまえば地味な花だと思っていた。でも、こんなに可愛らしい花だったのだな、としみじみ思う。


 雛菊という名はいなくなってしまった母がつけた。「私のお花さん」という意味で。父はもっと清子きよことか、昌子まさこみたいな名前をつけたかったらしい。母は子供のことを摘んだ花やお人形みたいに、アクセサリーとしか思っていなかった。花の名前がいいなら「花子はなこ」とかでいいだろう、と父と揉めたらしいが母は折れなかった。


 「綺麗…です」


 雛菊は手の中にある花の雛菊を見つめて、指で軽く撫でてみたりした。


 「でも、私なんかが貰っていいんでしょうか。…えっと、あなたみたいな素敵な方に贈り物をしてもらうような、女ではないんです」


 急に雛菊は自分が見窄らしく見えた。白茶けた癖っ毛が外側に跳ねて寝癖みたいでかっこわるい。雛菊は跳ねた癖毛が治らないか指で撫で付けてみるが、手を離した瞬間に毛は外側へ跳ねる。


 しかし青年は微笑ましいように笑って雛菊の頭を撫でた。ふわふわな毛を楽しむように。雛菊は照れて俯いてしまった。


 そういえばここはどこなのだろう。なぜ、雛菊はここにいて、青年は誰で、そしてなんでこんな素敵な人と雛菊がデヱトとやらをしているのか、わからなかった。こんなところ、父に見られたら怒られるんじゃないか。


 やっぱりあのあばずれの血が入っているんだと、がっかりされないだろうか。せっかくうつは様の花嫁になって父は優しくなったのに。


 意識が遠くなっていく。これは夢だと気づいた。


 「あなたは誰?」


 雛菊は端から白くなって崩れゆく視界に残る青年に尋ねた。


 「かすみ


 青年──霞はそれだけを言った。それが名前なのだろう。でも霞という名前の知り合いはいない。なら、きっと彼は雛菊が作り出した想像の人物でしかないのだろう。ちゃんと名前の設定まで考えているなんて、我ながらしっかりとした夢だと雛菊は思った。


 目が覚める。天井の木目が視界に入ってきた。新しい部屋にはまだ慣れない。雛菊は身を起こそうとして、手に触れる感触に違和感を抱いて握っていた手を開いた。


 そこには夢の中でもらったはずの雛菊があった。

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