三話
気づかれぬように自然に振る舞ったつもりが、雛菊の行動は田村にはお見通しだったようで「いやぁ、怪しいですよね」と濃い色のレンズの奥の目を細めた。
くぅーんくぅーんとせつなげな声を上げながら、赤毛の柴犬が雛菊の手に湿った鼻を押し付けている。
「僕、大学で民俗学なんかをかじってまして。この村には稲荷信仰を調べに来たんですよ。実咲さんが結婚のために大学に行けないなんて、あんまりですよ」
「田村さんは大学に行ってるの。大学に行きたい私の気持ちをよくわかってくれる」
実咲はさらに強く雛菊の袖を掴みながら、つぶやいた。それは雛菊では真に実咲に共感できない、と突き放されているように感じた。実咲はどうやら、結婚のせいで大学に行けないと田村に事情を話したらしい。
「でも、うつほ様の花嫁を断るなんて…」
雛菊はそう呟いた。でも、本心からじゃなかった。本当はあんなに頑張ったんだから大学に行って!と言いたい。でも雛菊ではどうしてやることもできない。雛菊は村の掟に逆らえないのだから。
「うつほ様…それが、この村の神様の名前ですか?」
田村のレンズの奥の瞳が光った気がした。そういえば田村は民俗学者で、清美沢村を調べに来たのだ。稲荷信仰と言っていたが、この村では狐のことを稲荷様とは呼ばずにうつほ様と呼ぶ。
「そうです。うつほ様の妻は次代のうつほ様を産まなきゃならないそうです。前回の嫁取りが五十年ほど前らしいので、私も詳しくは知らないのですが」
雛菊は幼い頃から教えられているうつほ様について話した。豊穣であること、商売繁盛であること、美味しいご飯が食べられること、安産であること、何かにつけてありがたがるのはうつほ様という存在だ。清美沢村では手を合わせて「いただきます」と食事をする時は、必ずうつほ様に感謝を述べる。
「うつほ…空っぽの洞と書いてうつほですか?」
「空っぽの稲穂の穂でうつほ、らしいですよ」
田村の問いに実咲が答える。この村にはうつほ様信仰が生まれた時は空洞だったが今は空穂であることを雛菊が伝えると、田村は興味深そうに手帳に書き記した。
「元々この地にいたのは、空洞の神——つまり、何も与えぬ欠乏の神だった。そこに外部から稲作技術が入り、稲荷信仰が伝わった。稲荷神は本来、稲を守る者として、豊穣をもたらす神。でもこの村では、なぜかその眷属——狐だけが神に取って代わっている。……恐らく、もとは恐怖の対象だった狐に、誰かが意図的に神の名を与えた」
田村はぺらぺらと楽しそうに語る。自分の考察も余すことなく手帳に書き記している。少し手帳の中身を覗いてみるが、みみずのように這ったような線ばかりでとても文字には見えない。ところどころ、ひらがなをさらに崩したような字に見えなくもないが。
「そもそも、うつほってのは空っぽの穂、つまり飢饉の象徴だろ?本来なら“祟り神”として封じられるべきものだったんじゃないのか。そこに後から稲荷信仰が流れ込んできた。狐=稲荷=うつほと都合よく習合して祀り上げたんじゃないか?」
田村の言葉に雛菊は、はっと息を飲み込んで口を押さえた。この村の人間ならば恐ろしくて口にはできない。やはり田村は外部の人間だ。山を一つ跨いだとか、そんな次元ではない。海も跨いだ遠い国の人のように思えた。山奥の盆地の清美沢村は陸の孤島である。
「田村さん。民俗学者さんなのはわかりますが、あまりそのようなことは口にしない方がよろしいかと。私、聞かなかったことにしますから」
雛菊が怯えたように言うと、雛菊の袖を掴んでいた実咲がぱっと手を離した。
「神様を強大にするのって人が恐れる心なんじゃない? 私、絶対にうつほ様に屈しないし、花嫁にだってならないから。私にだって考えがある」
実咲の顔は真剣だった。
「狐が人間の女と婚姻する話、全国にあるよ。狐の嫁入りって言葉はただの天気の話じゃなくて、本来は人間と異類が交わることへの警鐘だった。この村じゃ、それが本当に神事として続いてるってわけか」
田村が乾いた笑いを漏らした。くぅーんと、柴犬が鳴く。雛菊の手の匂いを嗅いで、まるで撫でてとでも言うように頭を擦り付けてくる。
「こいつが懐くなんて、珍しいな」
田村が驚いたようにその光景を見つめる。
「…可愛いですね。名前は?」
「太郎。本名はしっぺい太郎。長いから太郎で」
雛菊が太郎を撫でると太郎は満足そうに雛菊の手を舐めた。朝焼けだった空は日がのぼり薄青になっている。
「実咲、とりあえず家に帰りましょう? 継実さんも心配している」
継実さんの名前を出すと、実咲の顔が曇った。先程、決意を固めたのにそれが揺らぎそうになる…という表情だ。流石に母に心配をかけたままなのは心苦しいらしい。
「……わかった」
実咲の瞳には涙が滲んでいたが、決してその涙をこぼさなかった。
「僕は部外者だから何もできないが、いい結果になることを祈っているよ」
「ありがとうございます、田村さん」
田村に実咲は何度も頭を下げて礼を行った。雛菊も一緒になって頭を下げて、公園をあとにした。実咲は帰り道に珍しく甘えて、昔みたいに手を繋ぎたいと言い出した。雛菊にしてやれることはそれくらいで、雛菊は強く手を握りしめた。自分の無力さを悔やみながら。
家に戻ると、継実さんが実咲の捜索に協力してくれている村人たちに豚汁と握り飯を配っているところだった。早朝に実咲はいなくなったので、誰もが朝食を取る暇がなかったのだ。山の中に逃げたのではないかと思って山狩が行われてる手前だったらしい。
継実さんも、父も実咲を目の前にして何か言いたそうだったが堪えていた。父は怒号を、継実さんは心配の言葉をかけようとしたのだろう。しかし、うつほ様の花嫁になる、自分たちの手から離れて神の花嫁になる娘にどう接したらいいのかわからなかったのかもしれない。
父と継実さんは捜索に協力してくれた村人たち一人一人に頭を下げて礼を言っていた。皆、見つかったならよかったと笑顔である。実咲の失踪は狐謝堂家に知られる前に片付いたことをみんな、安堵していた。
こういう村は皆、親戚というような人の優しさがあることが村の魅力ではあるけれど、近すぎて見えない時もある。噂話はすぐ広がるし、家庭の事情は筒抜けだ。母が家から逃げたとき、父は村人たちの同情と男として不甲斐ないという視線に耐え切れず、酒に逃げた。
雛菊の初潮が始まったときも、近所のおばあちゃんが「おめでたいこと」だと赤飯を炊いてくれた。学校に行っている時に初めてのことが起こって、学校看護婦と女子の同級生には初潮が来たことがばれてしまった。どこかから漏れたのだろう。この村では秘密は秘密ではないのだから。
近所のおばあちゃんはおせっかいなことに、父に雛菊に新しい下着を与えてやれと言った。初潮が始まったこともそうだが、胸が膨らんで男の子に揶揄われると可哀想だと忠告した。
父は雛菊が女として成長していることを認められなくて、大いに荒れた。「胸が膨らむなんて、男を誘うためだ。下着を欲しがるのだっていやらしい」父はめちゃくちゃな理論で、雛菊が成長することを拒んだ。継実さんが説得しようとしたが、父は酒瓶を振り上げて継実さんを脅した。
それから、雛菊は胸をさらしで潰して、布ナプキンは夜にこっそり洗う。実咲は貰い物の赤飯をそのまま捨てた。本当は食べ物を粗末に扱うのは良くないが、実咲がその赤飯に口をつけなかったことが、「私は味方」だと雛菊に示してくれているような気がした。
雛菊は実咲の手を父の前でもしっかりと握る。今度は私が味方をする番だと言い聞かせて。




