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二話

 次の日の朝、かまどの火をつけようとした時だった。雛菊ひなぎくの朝はまだ日が登らぬ早朝から始まる。父が起きてくる前には朝食を用意しなければならないからだ。


 父は後妻の継実つぐみさんに逃げられたくないのか、甘やかしていて、家事の全てを雛菊に押し付けてくる。継実さんは申し訳なく思っているのか、手伝ってくれる。しかし、その様子を見られたら父から雛菊が叱られてしまうと知ってから継実さんは表立って手伝うことはなくなった。


 朝は糠漬けや浅漬けなどの漬物に、塩むすびや梅干しをつけて、卵焼きや焼き鮭、豆腐の味噌汁などを作らないと父の機嫌が悪くなる。


 その時、磨りガラスがはめられた扉が開いた。まだ寝巻き姿の継実さんが、蒼白な顔をして立っている。雛菊が叱られないように家事を遠慮していた継実が手伝いに来てくれたとは考え難い。


 「雛菊、実咲みさきがね…どこにもいないの。ご不浄かと思ったんだけど、厠にもいなくて…」


 継実さんなりに昨日の実咲を心配していたんだろう。実咲の泣き声は夜になると聞こえなくなった。だから、泣き疲れて寝たんだろうと考えていた。


 雛菊に出来ることはいつも通り朝食を準備して待っていることだけだと考えていた。父が嫌がるので同じ食卓にはつけないが。


 「私も探してみます」


 吊るされた電球に蝿がぶんぶんと飛んでいた。その羽音がやけに耳にこびりついて、雛菊は目眩がしそうだった。実咲がどこかへ行ってしまった。門限を必ず守るあの実咲が。


 昨日のことを苦にして…と嫌な想像がした。継実さんは寝起きが悪く機嫌が悪い父を起こしに行くという役目を買って出てくれ、雛菊はまず実咲の部屋に向かった。


 継実さんが確認したのだからいないだろうが、戻ってきていたり書き置きを残していたりするかも知れなかった。実咲の部屋は電気がついておらずカーテンの隙間から薄明かりが差し込んでいた。


 布団は畳まれて隅に寄せられて、机の上には何もない。昨日、散らかしていた教科書などがないのいうことはちゃんと冷静になって片付けたのだろう。畳が毛羽立っていて、ずいぶんと畳を変えていないことに気づいた。


 そもそも、うちに女学校にいける余裕はなかった。実咲がとても勉強ができたから、村の分校だけでは可哀想だと父と継実さんが節約を重ねなんとか女学校へ送り出せた。大学は実咲は頑張って奨学金の枠を勝ち取ったのだ。


 父から愛されている実咲が羨ましいのと同時に、自分の母譲りの顔や髪が憎かった。もう少し実咲に似てれば、愛情の一粒くらい雛菊に向けられていたかも知れないのに。


 母は都会からこの清美沢きよみさわ村に嫁いできた。田舎の空気が合わなかったのだろう。ご近所付き合いもあまりうまく行ってなかったらしい。白茶けた…母曰く「香色」の髪はいつもヘアアイロンで巻かれていて、爪は爪紅で染まっていた。


 母は着物よりも軽いワンピースを好んで、パンプスを合わせていた。その様子が近所の奥様方は気に入らなかったらしく、母はやがて間男と一緒に村から逃げた。


 「雛菊、お父さんも村の人たちにも頼んで村中探すことになったわ」


 雛菊が実咲の部屋で書き置きがないか探していると、継実さんが報せにきた。書き置きはないものとして、雛菊も外の捜索に加わることになった。


 買い出し以外で家の外に出るのは久しぶりだった。父は雛菊が家から出て行くことを望まなかったから。雛菊が「女」になって母のように自分から逃げるのが怖かったから。


 村中が懐中電灯を持ち出して、実咲を探していた。それが実咲が皆から愛されていたことの証明のようでもあり、うつほ様の花嫁という重大な役割を背負わされたように感じた。


 雛菊は村中を駆け回って声が枯れるまで実咲を探し回った。思い詰めて、命を…と実咲が考えないことだけを願った。探している間、小さな頃からの実咲との思い出ばかりが蘇った。


 父から近づくなときつく言われていたけど、継実さんがこっそり小さな布団に眠る実咲を見せてくれて、柔らかな頬を撫でたこと。甘い粉ミルクの香りがしたこと。継実さんは完全に母乳で育てないから、と近所の人に悪口を言われたことも。


 小さい頃はまだ父から外出を制限されていなかった。雛菊は人形を買い与えられなくて、いつも女の子たちのおままごとの輪には入れなかった。


 みんなは広くて大きな公園で遊ぶが、雛菊はお社に近い子供たちが怖がって近づかないほぼ空き地のような公園で時間を潰した。幽霊が出ると子供たちの間では信じられていた。


 そこには「すみちゃん」という女の子がいた。彼女も雛菊と同じく人形を持っていなかった。だからきっとおままごとの輪に入れなくて、雛菊と遊んでくれたのだろう。


 すみちゃんは人形は持っていなかったけど、いつも晴れ着のような豪華な正絹の着物を着ていて真珠色の髪は肩で切り揃えられていた。奥二重の切れ長な瞳は涼しげだった。


 「すみちゃんはきっと愛されてるんだね」


 雛菊はそう言ってすみちゃんを羨ましがったことがある。着物が羨ましいというよりは、ちゃんとお金をかけて大切にされてきたと一目でわかるのが羨ましがった。艶のある髪とか、手入れされた爪とか。


 でも、すみちゃんは寂しそうな顔をしていた。


 「大切にされているけど、愛されてはいないよ」


 大切と愛がイコールで結ばれないなんておかしくて、雛菊は納得できなかった。


 「どっちも一緒でしょ」

 

 雛菊がそう言うとすみちゃんは寂しそうに笑った。


 「はやく大人になりたいな。それで家から出たいの」


 雛菊がそう愚痴ると、すみちゃんは妖しげに笑った。急にすみちゃんが大人びた妖艶な女性のように感じて、ドキッとしたことを覚えている。


 すみちゃんは雛菊の手を両手で包み込んだ。少し手が暖かくなったかと思うと、そっとすみちゃんの手は離れた。そして手の甲には桜の花びらのような痣ができていた。


 「これ、オシルシ。大人になったら雛菊のこと迎えに行くから」


 とても嬉しかったことを覚えている。すみちゃんが雛菊を助けてくれるなんてきっと無理だけど、すみちゃんが迎えに行くと言ってくれた気持ちが嬉しかった。


 いつも公園には実咲が迎えに来てくれた。「お姉ちゃん一緒に帰ろ!」と後ろを雛鳥のように付いてきてくれるのが可愛かった。実咲が公園に来ると、すみちゃんはそっと居なくなっていた。人見知りだったのだろう。


 夕暮れの中を手を繋いで実咲と帰ったことを思い出した。実咲の長いまつ毛が夕日でぴかぴか光って綺麗だった。いつか、実咲とすみちゃんと遊べる日が来ればよかったのに。雛菊が尋常小学校を卒業した頃に、父は雛菊の勝手な外出を禁じたから、すみちゃんとの関わりも潰えた。


 「実咲! 実咲どこにいるの!?」


 声が枯れるほど名前を呼んだ。幼い日の夕日が眩んで、実咲を連れて行ってしまうかも知れなかった。雛菊の足は自然と寂れた公園に向かっていた。雛菊の記憶よりもだいぶ古びた公園は雑草が生い茂り、ブランコは錆び付いていた。


 ワンッと犬の吠える声に雛菊は身を震わせた。柵にはリードが結ばれていて、赤毛の柴犬が雛菊を見上げていた。ブランコには見知らぬ青年が座り、そのそばには涙の跡が残る実咲が立っていた。


 「実咲!」


 雛菊は実咲に駆け寄る。そして近くで実咲の涙の跡を確かめると、ブランコに腰掛けている青年を睨みつけた。彼が実咲を泣かせたのかも知れないと思ったからだ。


 「…お姉ちゃん…」


 実咲は目尻に浮かんだ涙を手のひらで乱暴に拭う。


 「あの…失礼ですが貴方は?」


雛菊が尋ねると青年は被っていた帽子を脱いだ。安いヘアカラーで茶髪に染めたのか、毛先の傷んだ髪に根本は黒い髪がのぞいている。目には色つきのレンズがついた眼鏡をかけていた。


 「いやー、怪しいものじゃないです。ちょっと村の観光に来た者です。未成年が泣いてるので、家に帰るか交番に行こうって説得してました。お姉さんが来たなら大丈夫ですかね」


 青年は髪を掻いて困ったように眉を下げた。実咲を保護しようとしてくれていたのだと悟り、雛菊は先程睨みつけるような真似をしてしまった自分を恥じた。

 

 「すみません。妹を保護してくださっていたんですね。ありがとうございます」


 雛菊が頭を下げると青年は恐縮したように「いやいや!」と雛菊に頭を上げさせた。


 「私、絶対に家には帰らないから」


 実咲は雛菊の着物の袖をぎゅっと掴んだ。実咲の気持ちを汲むなら、このまま家に帰らない方がいい。きっとその方がいい。青年は交番と言ったが、村には駐在所しかない。そこにいる駐在さんは村をあげての大捜索に加わっているだろう。


 「田村たむらさんも、私の気持ちわかりますよね!?」


 実咲が同意を求めるように青年に言った。青年は田村という名前らしい。観光客ということは村の外から来たのだろう。清美沢村は水質がいいらしく、たまに水質調査の人が来ることがある。「うつほ」という名の鍾乳洞もあるが、これは神域として狐謝堂こしゃどう家が管理しているので一般には公開されていない。


 寂れた村なので、観光客は滅多に来ない。怪しいというのが田村という男に対する一番の感情だった。雛菊は自然に見えるようにそっと実咲を後ろに隠した。

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