十話
篝火の炎が洞窟の奥で赤く揺れ、煙が立ち込める中、雛菊は霞の手を握りしめた。耳の奥で太郎の唸り声が響き、田村が羽団扇で風を起こす音が火を煽る。しかし、雛菊の胸は揺れなかった。霞の存在が、冷たくも確かな体温が、すべてを凌駕して守ってくれるように思えた。
「すみちゃん」
つい口に出たその呼び名に、霞の身体がわずかに震えた。雛菊の心臓も、同じように高鳴る。霞は静かに、しかし確かに反応している。
「ごめんね。霞さんがすみちゃんだってこと、この歳まで気が付かなかった。迎えに来るって約束、守ってくれて嬉しかったよ」
雛菊はそっと自分の仮面を外す。そして霞の仮面も外した。切れ長の奥二重の瞳は満月色に光っていた。この瞳に見つめられると、雛菊はたまらなく嬉しくなる。
煙が肺に充満して、苦しいが雛菊は背伸びをして霞に口付けた。甘い味がして、この上ない幸福を感じる。
「三杯目を飲まなかったら、君だけは帰れたのにね」
火を羽団扇で仰ぎながら、田村が笑う。太郎は霞に唸り声しか上げない。
「いいんです。私は、霞さんの花嫁になるって、ずっとそばにいるって決めたから」
霞の冷たい手を握る。火に囲まれているというのに、霞の手は熱くなることはなかった。雛菊の思いに応えるように、視界は燃ゆる洞窟から百花繚乱の景色に変わっていく。霞と雛菊が夢であった場所、清美沢村が綺麗に見下ろせる場所だった。
きっと人間の雛菊はここで朽ち果てるだろう。しかし、意識だけは神の花嫁として残ったのかもしれない。御神酒を飲んだおかげでもう苦しくはなかった。
田村が羽団扇を仰ぐ手を止めた。燃え上がっていた火は弱くなる。
「その人間の皮の器はもう弱い。九尾、お前は神域から出られない」
田村は決着はついたというように太郎を連れて洞窟の外の方へと歩いて行った。
「神婚は成立しちゃったから、もう止められないな。しかし、ここからは信仰の勝負だ。九尾の信仰が勝つか、天狗の信仰が復活するか」
田村は燃える火の中に消えて行った。しかし、彼がそれで死んだとは思えない。きっと彼がやってきた抜け道からちゃっかり脱出しているだろう。
「霞さん、火が弱まっているうちに脱出しましょう!」
雛菊は霞の手を引っ張る。しかし、霞は静かに首を振った。
「私は神域から出られない。あの天狗の言った通りだ」
力が弱まっているから、神域以外で生きていけない。だから、霞はお社に近い公園にしか現れなかったし、雛菊に直接会いにいくのではなく、夢を介して会いにきた。
「もう会えないの?」
雛菊は泣きそうになりながら尋ねた。雛菊を安心させるように霞が微笑む。目元の笑い皺を見て、雛菊は安心してしまった。やっぱり悪い神様なんかじゃない。こんなに笑顔になれるのだから。霞はそっと雛菊の涙を拭ってくれた。
「雛菊が新しい私の器、次のうつほ様を産んでくれたらまた会えるよ」
そう言って霞は雛菊の腹に手を当てた。下腹部あたりがほのかに熱くなる。神様はきっと人間とは違う方法で子供を残すのだろう。耶蘇教でも聖母は処女懐胎だったらしい。
「じゃあ、私また霞さんに会えるように頑張るよ。天狗の信仰に負けないように、うつほ様信仰を残す」
視界がぐらりと歪んだ。最後に見たのは、霞の笑顔だった。
気づいたら雛菊は全焼したお社の焼け跡に倒れていた。あんなに火に巻かれたというのに、着ていた白無垢には焦げた跡どころか、煤一つついてはおらず、村人たちは奇跡だと歓喜した。
うつほ様のお社は謎の発火により、全焼した。しかし、うつほ様の花嫁は生き残った。それが村の希望だった。雛菊は全焼したお社を再建するために巫女となり、次代のうつほ様の出産に備えることになった。
狐謝堂の家に住むようになり、父とはもう会話することもない。父は嫁に出す際に「もう、うちの敷居は跨ぐな」と言って送り出したのだから、雛菊は戻れなかったし、戻る気もなかった。
実咲は村を出て、大学に進学した。時々、手紙のやり取りをする。実咲はうつほ様の花嫁になり、巫女となりお社の再建に奮闘する雛菊に呆れてはいたけれど、もう無理に雛菊を連れ出そうとはしないようだった。
もし、お社が全焼したままだったら、うつほ様信仰は次第に廃れてしまうだろう。そうしたら天狗がまた信仰を取り返すだろう。天狗がまた信仰されるようになるのは構わないが、うつほ様信仰が消えてしまうのは嫌だった。
だから、雛菊はうつほ様を守る。やがてこの村はうつほ様と天狗の両方を祀るようになるかもしれない。争わず、仲良くしていけたらそれが一番良かった。
少し出た腹を撫でながら、雛菊は巫女装束に身を包む。木枯らしが吹く境内を掃除するために竹箒を携えて、新しくお社が立つ場所を眺めた。
境内から下を見下ろすと、川が流れて棚田の景色が広がっている。うつほ様はここにいる。雛菊が居場所を守っていく。




