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一話

 清美沢きよみさわ村には言い伝えがある。山の上のおやしろには、白いお狐様が祀られている。


 白いお狐様の名前は、うつほ様。かつて、空洞うつほと書いて空っぽの洞に村人たちが村の守り神として祀っていたが、昔の時代に飢饉が起こったときに外から伝来した稲荷神が豊穣の神様として、村を救ってくれたことで空穂うつほという空っぽの稲、飢饉を表す字に転じた。


 うつほ様は神職の家系の狐謝堂こしゃどう家が祀っている。狐謝堂の由来は、昔、狐を弓で射る遊びをしていた人間に怒った狐が取り憑き呪いをかけたので、狐に謝るために御堂を建てて祀ったのが由来だそう。


 お狐様は嫁取りをする。お狐様も生まれ変わるらしい。白狐を残すために、人間から嫁を取る。うつほ様の花嫁は、うつほ様の妻であり次代のうつほ様を産む、うつほ様の母でもあるのだ。


 そんな名誉なお役目に選ばれたのは、妹だった。




***




 「おめでとうございます。うつほ様がお印の出たこの家の娘をぜひ花嫁に、と」


 玄関が騒がしかった。いつもは物置部屋を改造した二畳の小部屋に来客時は篭っておくように言われていた雛菊ひなぎくは、あまりの騒がしさに、軋む扉をそっと開けた。


 開けるたびにきーきー音が鳴るけど、音が鳴らないようにこつがある。雛菊はそれを習得していた。玄関には村長と、狐の面を被り白い装束を着ていた。


 狐面の人は狐謝堂家の人だろう。彼らが外に出る時に顔を隠すのはこの村では常識だ。そもそも外出している姿を目にする機会が少ないので、祭りのときにしか見かけないのだが。


 「娘…実咲みさきがですか」


 顔を蒼白にして、父が呟いた。汗が滲んでいて、隣で妻の継実つぐみさんが信じられないというように口を手で覆っている。継実さんは、実咲の母だけど雛菊の母ではない。


 雛菊は息を殺しながら、玄関の会話に耳を澄ませていた。父がこの家の娘に雛菊を数えていないことに、雛菊はわかっていながらも悲しかった。


 雛菊の暮らしは母が間男と家から逃げたことで一変した。母譲りの白茶けた色素の薄い髪は、父にとって自分の惨めさを浮き彫りにするらしく、物置部屋に閉じ込められた。


 後妻の継実さんが来て実咲が生まれてからは、雛菊は疎まれ始めた。父が愛情を注ぐのは実咲だけ。新しい服も、おもちゃも勉強道具も、全部実咲だけだ。


 雛菊ちゃんと実咲ちゃんって姉妹なのに、全然違うよね


 尋常小学校の級友が言った言葉だ。違うという言葉には色々な意味が含まれる。まず、顔。半分しか血が繋がってないとはいえ、雛菊と実咲は顔の系統が違った。


 実咲は鼻筋が通っていてはっきりした顔立ちをしている。ぱっちりした二重ふたえ、ぷっくりした唇。服だって新しいものを着させて貰えるし、髪は毎日継実さんが丁寧に梳かしている。艶々の黒い髪は、継実さんが少しだけ椿油をつけてくれているから保たれている。


 それに比べて雛菊は白茶けた癖毛で、何度櫛で梳かしても真っ直ぐにはならない。父はこの髪を見ると、間男と逃げた母を思い出すから、視界に入るなときつく叱られた。


 雛菊に初潮が来て胸が膨らみ始めた頃、父は雛菊が「女」になって、母みたいに自分から逃げ出すのが怖くなって雛菊に学校をやめさせた。上の学校には進めなかった。


 「でも…実咲は帝都の女子大学に進学が決まりました。村長だって、村の誇りだと言ってくれたではありませんか」


 父が震えた声で村長の肩をすがるように掴んだ。実咲は勉強ができた。女学校でも一番の成績だった。帝都にある唯一、女子の入学が許された女子大学に進学することも決まっていた。


 雛菊は実咲だけが女学校や上の学校に行けることに羨ましいという気持ちがなかったわけではないが、夜も蝋燭の灯りで勉強に励んでいた実咲が頑張って切り拓いた道なのだ。嬉しかったし、応援していた。


 村長は首を振りながら、青ざめた父の手を振り払う。


 「うつほ様の花嫁になれる栄誉に勝るものなどありはせん。わかっているだろう。もし拒むなら、村議会での立場も考えさせてもらう」


 それは脅しだった。村八分にするぞ、と脅しているのだ。雛菊は唇を噛み締めた。実咲の夢が、踏み潰されたように感じた。


 「お父さん! 実咲があんまりに可哀想です」


 雛菊は自分が盗み聞きして隠れている立場なのを忘れて、玄関に出た。父は雛菊の顔を見ると、青ざめた顔が血の色で赤くなり、怒りの形相になった。


 「お前は貧相で薄汚いんだから、お客様の前に出るんじゃない」


 父の怒号に雛菊は肩を振るわせ、その場に固まった。狐面をつけた客人が仮面の小さな穴からじっと雛菊を見る。


 「…その娘は?」


 狐面の客人が尋ねると、父は雛菊を後ろに隠した。


 「断じてこの家の娘ではありません。ただの女中です」


 父がそう言い切ったことに、雛菊は悲しみを覚えた。やはり、もう父は雛菊のことを娘だと思っていないのだ。他人に紹介すら、したくないとは。事情を知っているであろう村長でさえも、父の言葉に絶句し、雛菊から目を逸らした。

 

 そこへ、女学校から実咲が帰ってきた。何も知らない実咲は「あら、お客様?」と笑顔を振り撒く。赤いタイのセーラー服は雛菊にとって憧れだった。それは学校という憧れの場所の象徴だったから。


 新品の制服を実咲が嬉しそうに姿見の前で回ってみせて、雛菊にも見せてくれた日を今でもありありと思い出せる。それはまるで物語に出てくる異国の王女のデビュタントのようでもあった。それほどに輝いて見える。


 村長がまるで吉報を伝えるかのように笑顔を繕って、実咲に声をかけた。


 「おめでとう、うつほ様の花嫁に選ばれた」


 村長は讃えるように実咲の肩を軽く叩く。実咲は肩からかけた鞄の肩紐をぎゅっと握りしめていた。強く握りしめすぎて、指先が白っぽくなっていた。


 「…本当に…私が…?」


 実咲の顔は青ざめている。しかし、それを村長は名誉なお役目に選ばれたことからの感激だと思ったのだろう。


 「そうだ。おめでとう」


 実咲は震えた声で「一人にしてください」と両親や村長たちの間を抜けて廊下を進んだ。雛菊ともすれ違う。


 「実咲…」


 雛菊は声をかけたが、無視された。実咲は俯いたまま部屋の障子を閉めた。まだ父と継実さんたちは村長たちと話し込んでいる。村長の嬉しそうな声色だけがよく響き、村を上げての慶事だ、祝言は盛大に、と話している。これでは、薄い壁と障子だけで仕切られた実咲の部屋に声が届いてしまう。


 雛菊は実咲の部屋の前で「実咲、大丈夫?」と声をかけた。しかし中からは何の返事もない。心配になって「開けるわよ」と断ってから障子を開けると、実咲は畳まれた布団に顔を突っ伏して泣いていた。


 鞄は開かれていて、教科書とノート、そして愛読している雑誌が散乱しており、実咲が怒りに任せて鞄を投げつけその拍子に中身が散らかったことがわかった。


 「実咲…大丈夫…?」


 雛菊は先程と変わらない言葉を投げかけるしかなかった。どんな慰めの言葉をかけたらいいか、わからなかった。


 「同情してるの? 可哀想だと思ってるの?」


 布団に突っ伏したまま、くぐもった声で実咲はやっと返事をした。二人の間には磨りガラスで隔てられているかのように、その声の輪郭ははっきりとはしなかった。


 セーラー服に皺が寄る。アイロンをかけなくては…と雛菊は無意識に思っていた。それは、実咲という王女の晴れ着のようなものだと、雛菊は勝手に思っていたから。実咲がうつほ様に嫁入りするという大きな出来事から目を逸らすように。


 この家の家事は雛菊が担っていた。もちろん、継実さんもやるが、父は雛菊のことを手伝いの女中くらいにしか思っていない。先程聞いた父の言葉の真偽が今までの扱いからわかる。


 「うつほ様の花嫁は栄誉なことよ…」


 雛菊は村長の言葉を真似た。祝福するのに、どう言った言葉を使えば良いかわからなかったから。口から出た言葉は気持ちがこもっていなかった。


 「大学は、残念だったね」


 これは実咲が受験に失敗した時のために用意していた言葉だ。まさか、合格したのに使うことになるとは。実咲は寒いのに郵便局の前に張り込んで合格通知を待った。雪が降る中、雛菊が番傘を持って迎えに行ったことを覚えている。


 「そんなに栄誉だって思うなら、お姉ちゃんがなればいいじゃない!」


 実咲は枕を掴んで雛菊に投げつけた。雛菊には当たらず、土壁に枕が当たる音がする。枕が当たった衝撃で古い壁の土がパラパラと落ちた。土に混ざるキラキラした砂が星屑のようだった。


 「お姉ちゃんに同情されるほど、落ちぶれてないから!」


 実咲は顔を真っ赤にして叫んだ。先程、不合格だった時のために準備した言葉なんて空虚に響くだろう。だって実咲はたとえ大学に落ちても、また来年頑張るだろうから。


 「出て行って! 出て行かないなら私が出て行くから!」


 実咲の言葉に、雛菊はおとなしく部屋を出た。布団に顔を押し付けて、押し殺すように泣く実咲の声が廊下に漏れていて、雛菊はどうすればよかったのかと思い悩んだ。

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