第1話 聖女の地図と偏りすぎた恵み
新学年の学院は、いつもより少しだけうるさかった。
「今年こそ聖女様を近くで見たいわ」
「レオン殿下、騎士科でも首席なんでしょう?」
名前が出るたびに、わたくしの耳もぴくりと動く。
第1王子レオンハルト殿下と、聖女ミア・ローゼット。学院の空気は、すっかりその2人を中心に回っていた。
わたくしは宗教棟へ続く廊下を曲がった。
宗教学の教室の前には、生徒が少し溜まっている。中から聞こえる教師の声は、いつもよりわずかに弾んでいた。
「本日からの2年目の授業では、聖女様の祈りの記録を用いた実例研究を行う」
祈りとて数字や地図に落としてしまえば、ただのデータの一部になる。
「リリアーヌ様」
背後から控えめな声で名前を呼ばれ、振り返る。
茶色の髪をきちんとまとめた、小柄な少女が胸にノートを抱えて立っていた。
「おはようございます、ミア様」
「お、おはようございます。2年目も、ご迷惑をかけてしまうかもしれませんが……よろしくお願いします」
「迷惑など。わたくしの方こそ、聖女様に守られている身ですもの」
そう答えると、ミアは慌てて首を振った。
「そ、そんな。わたしなんて、まだ半人前で……ただ祈っているだけで……」
ただ祈っているだけ。その「ただ」がどれほど重い意味を持つのか、本人がいちばん分かっていない。
わたくしは微笑みだけを返し、扉を押した。
◇
教室に足を踏み入れた瞬間、視界が赤に染まった。
黒板の代わりに、壁一面を覆うほどの巨大な地図が広がっている。中央大陸全図。領地の境界線が細い金の糸でなぞられ、その上からいくつもの赤い塗りつぶしが重ねられていた。
「うわあ……」
誰かの素直な感嘆が上がる。
宗教学担当の老教師が、白い髭を撫でながら満足げに頷いた。
「これが、この1年間で聖女ミア様の祈りが捧げられた土地の記録だ。赤が濃いほど、祈りの回数と規模が大きい」
豊かな小麦の産地。新しく開かれた交易路の要衝。名前を聞き覚えのある侯爵家の領地。
地図のそこかしこが、真紅に近い色で塗りつぶされている。
出身地を見つけた生徒たちが口々に喜びの声を上げる。
ミアは席で小さく身を縮めていた。視線がいっせいに自分へ集まっていることに、いまだ慣れないのだろう。
「わ、わたしは、その……教会の方々に言われるまま祈っただけで……」
真ん中の列で、レオン殿下が振り向いた。
「君の祈りが、人々を救っているんだよ、ミア」
さらりと、迷いもためらいもなく言い切る。
どこまでもまっすぐで、どこまでも危うい言葉だ。
教室のあちこちから、きゃあ、と小さな歓声が上がる。
わたくしは小さく息をつき、視線を地図に戻した。
赤い。けれど、赤くない場所もある。
北側の山と森に挟まれた辺境地帯。海に面した、塩害と魔物に悩まされている港町。細い線でしか描かれていない小領主の土地。
そこには、ほとんど色が乗っていない。最初から地図の端として切り捨てられているかのように。
「祈り先は、教会本部と王宮からの要請を受け、慎重に協議して決められている。すべては神意と聖女様のお身体の負担を考えた結果だ」
教師の説明は、正しく聞こえるように、きれいに整えられている。
けれど。
わたくしの頭の中には、別の地図が重なっていた。
処刑エンドの後に訪れる、戦争エンドの最終マップ。
真っ先に火の海になったのは、どこだったか。
魔物の群れが押し寄せ、国境線が崩れ落ちたのは、どこだったか。
地図の端。今、ほとんど色が塗られていない場所だ。
「実に恵み深い分布ですこと」
わたくしは、誰にともなく微笑んで見せる。
恵み深いのは、女神か。聖女か。それとも、祈りの行き先を決めている誰かの懐か。
◇
その夜、寮の部屋に戻ったわたくしは、真っ先に机へ向かった。
引き出しから革表紙のノートを取り出す。
未来ノート。わたくしの頭の中のゲーム画面を紙に写してきた、もう一つの地図だ。
新しいページを開き、見出しを書く。
2年目・聖女の祈りと領地。
授業で見た祈り地図を思い出しながら、中央大陸の輪郭をペンでなぞる。
領地の境界線。主要な街の名前。父から聞いた、最近伸びている商会の拠点。
色ペンを3本取り出した。
赤は、この1年で祈りが多く捧げられた土地。
青は、アルベール公爵家の帳簿で見た、急成長中の特定商会の主な取引先。
そして、どちらにも含まれなかった辺境は、あえて何も塗らない。
ひとつひとつ、記憶を頼りに塗っていく。
穀倉地帯の伯爵領は赤。新しい街道沿いの侯爵領も赤。特定商会の倉庫がある港町には、青い丸。
塗り終えた地図を少し離れて眺めると、赤と青が不自然なほど重なっているのがひと目で分かった。
「本当に、偶然で済ませていいのかしら」
そして、色の薄い部分。
未来ノートの別のページから、物騒な単語をいくつか拾ってくる。
北境暴動。
国境紛争。
魔物暴走イベント。
それらが起こる予定だった場所に、小さな×印をつけていく。
戦争エンドのラストマップ。
×印だらけになった辺境と、赤と青で塗りつぶされた肥沃な領地。その分断が、紙の上でくっきりと浮かび上がる。
「聖女の祈りは奇跡。けれど、どこに落とすかを決めるのは人の手」
ノートの余白に、そう書き込む。
続けて、仮説をいくつか箇条書きにした。
特定商会の取引先=祈り多め?
教会が祈り先を指定?
レオン派貴族と結託?
1番下に赤ペンで一文。
聖女の祈りは、誰かの思惑によって偏らされている可能性。
ペン先が止まった瞬間、扉の向こうから足音が近づいてくる気配がした。
「リリアーヌ様、入ってもよろしいですか?」
ミアの声だ。
「どうぞ」
慌ててノートを閉じようとして、ページの端に描いた赤い×印が目に入る。
このまま見られるわけにはいかない。
とっさにページを半分だけ重ねて置き直したところで、扉が開いた。
「失礼します……。今日もたくさんの方が祈りに来てくださって……」
ミアは、制服から寝間着姿に変わっていた。それでも、首元には小さな女神のペンダントが光っている。
足取りは少しふらついているのに、顔には笑みを貼り付けていた。
「お疲れでしょう。お茶を持ってきてもらいましょうか」
「いえ、大丈夫です。少し休めば……。あの、その……」
ミアの視線が、机の上のノートに吸い寄せられる。
半分隠したはずのページの端から、赤や青の線が覗いていた。
「地理の復習をしていたのですわ。2年目は範囲も広がりますから」
わたくしは、できるだけ何でもないようにページを裏返した。
「すごい……。たくさん書き込みがあって」
ミアは一歩下がり、それ以上覗き込もうとはしなかった。
そして、ぽつりと一言。
「そんな、わたしのためにそこまでしなくても……。リリアーヌ様は、ご自分の勉強もお忙しいのに」
胸の奥が、かすかにひきつった。
あなたのためだけではありませんわ、と言いかけて、飲み込む。
この国が戦争エンドへ向かうのを止めたいだけで。
ついでに、わたくし自身の首を守りたいだけで。
それを素直に口にできるほど、わたくしは正直者ではない。
「わたくしの務めですもの。この国の地図を読むことも、聖女様の祈りのことを知ることも」
代わりに、模範解答を返す。
「王太子妃候補として、備えておくに越したことはありませんわ」
ミアは少しだけ目を見開き、すぐに小さく頷いた。
「……はい。ありがとうございます」
ベッドに腰を下ろしたミアは、短く今日の出来事を語り、それから小さく欠伸をした。
わたくしはそれを聞き流すふりをしながら、裏返したページの片隅に、そっとペンを走らせた。
聖女ミア・ローゼット。
利権の中心ではなく、守るべき人。
書き終えた文字を見つめ、ゆっくりと蓋を閉じる。
偏りすぎた恵みの地図の中で、誰が本当に守られるべきなのか。
第1話までお付き合いありがとうございます!
聖女の祈りの地図と、リリアーヌの未来ノートがついに表で動き始めました。
ここから恋も陰謀も一気に加速していきます。
続き読みたい!と思っていただけましたら、ブクマや評価、ひと言感想をぽちっと頂けると、とても励みになります。




