第6話 聖女の選択と、『嫌です』の一言
完結まで後2話
会談二日目の円卓の間は、昨日よりも静かでした。
理由は単純ですわ。王太子殿下の席が、紋章だけを残して空いているからです。
(レオン殿下は自分で道を選んだ。では今日は――)
わたくしが心の中で区切りをつけたところで、宰相閣下が卓上の木札を一枚、くるりと裏返しました。
「本日の議題。聖女ミア殿の今後について」
ざわ、と空気が揺れます。
最前列の貴族たちが、それぞれの計算を指折り数えるように小声で囁きました。
「戦場に立ってもらうべきだ」「いや、大規模な儀式だ」「帝国への示威にもなるぞ」
当のミア様――いえ、まだ今は「聖女様」と呼ぶべきなのでしょうね――は、わたくしの斜め向かい。
白いローブの裾を膝の上でぎゅっと握りしめ、うつむいたまま動きませんでした。
最初に立ち上がったのは、レオン殿下派の有力貴族です。
「陛下。兵たちの士気と国威のため、聖女様にはこれまで以上に前線近くで祈りを捧げていただくのが最善と考えます」
「具体的には?」と王が促されます。
「軍の進軍に合わせ聖女様も随伴していただき、負傷兵の治癒と士気高揚の儀式を。聖女様の安全は、我らが身命を賭してお守りいたします」
(戦場のど真ん中に白旗を立て、その下に彼女を縛り付けるおつもり、というわけですわね)
そこへ別の貴族が、負けじと声を張りました。
「私は王都での大規模儀式を提案いたします。戦で傷ついた者たちを王都に集め、聖女様が七日七晩祈り続けるのです。教会を開放し、帝国の使節にも見せれば、我が国の信仰の厚さを示せましょう」
王が、ほんの少しだけ眉を寄せられました。
「そなたらの案は分かった。……だが、聖女殿自身の意向は、どう見ている?」
「もちろん、国のためをお望みのはず」「本心など問うまでもなく、忠義なお方ですから」
誰も「本人の言葉を聞くべきだ」とは言いません。
視線が一斉にミア様へ向かいました。
彼女は顔を上げず、ローブの裾を握る指先だけが、かすかに震えています。
(舞台はもう整っていますわ。……あとは、主役が自分の台詞を選ぶだけ)
◇
深呼吸一つ分の沈黙のあと、王が静かに立ち上がられました。
「……では、そろそろ、ご本人の言葉を伺うべき時だな」
陛下は円卓を回ってミア様の前へ進み、その名を呼びます。
「ミア・ローゼット嬢」
「聖女様」ではなく、一人の少女としての名。
その呼び方だけで、空気の密度がすっと変わった気がしました。
「聖女という称号を離れ、その名で問おう。そなた自身は、これからをどう生きたいと望む?」
ミア様は、ゆっくりと顔を上げました。
いつもの癖で、口が勝手に動きかけたのでしょう。
「わたしは……国のために、神のために――」
そこで、ぴたりと言葉が途切れます。
何度も繰り返してきた「いつもの答え」だと、自分で気づいてしまったのでしょうね。
長くはない沈黙。けれど、耳が痛くなるほど重い沈黙。
「……嫌です」
かすれた声で、その一言が落ちました。
会場から音が消えます。
椅子の軋みも、咳払いも、衣擦れさえも止まり、祈りの間は、ただ一人の少女の否定だけを抱え込みました。
けれど、口は止まりません。
「戦場に立つ栄誉だと言われても、怖いものは怖いんです」
震えながらも、はっきりとした声でした。
「誰かの都合のために祈っているあいだに、祈られなかった町があるのを、知ってしまったから。……神意だから、と自分を誤魔化して祈るのは、もう嫌です」
一文ごとに、彼女の声は少しずつ強くなっていきます。
「わたしは、騙されていただけじゃありません。変だと思ったのに、見ないふりをしたことも、きっとあります。だから……全部を、被害者でした、で終わらせたくありません」
自分の分の責任を、きちんと抱えたうえで、それでも前を向こうとする言葉でした。
「それでも、まだ祈る力が残っているなら……今度は、わたしが行きたい場所を選びたい。手紙をくれた人たちや、名前で呼び合える人たちの側で。聖女様じゃなくて、ミアさんって呼ばれながら祈りたいんです」
最後の一文だけ、涙混じりに笑って。
「わがまま、ですけど」
誰より自分を律してきた彼女が、初めて自分のためのわがままを口にした瞬間でした。
「聖女様、それでは国の――」
堪えきれず立ち上がった貴族の言葉を、王が片手で制されます。
「今は彼女の言葉の番だ」
穏やかながら、有無を言わせない声。
続いて、穏健派の司教様が立ち上がりました。
「教会としても、ミア殿の選択を妨げるつもりはありません。ミア殿は、この国のために既に十分以上の祈りを捧げてこられました。これからの歩みは、義務ではなく、彼女自身の選択として尊重されるべきです」
ようやく、大人たちが一人の少女の盾として立った瞬間でした。
ミア様は、そっと首元へ手を伸ばします。
長年下げ続けてきた聖印のペンダントを外し、円卓の中央――畳まれた祈り地図の上に、そっと置きました。
「聖女というお名前は……ここに、お返しします」
誰も許可を出していないのに、その動きを止められる者は一人もいません。
王は宰相と視線を交わし、小さく息を吐かれました。
「城下に、戦で傷ついた者たちを受け入れる療養院を再建する計画がある。そこには、聖女の名ではなく、患者第一を貫く治癒師たちが働いていると聞く」
穏健派司教様がうなずきました。
「もしミア殿が望まれるなら……聖女様ではなく、見習い治癒師ミアとして迎えたい、と皆が申しております」
ミア様は涙で潤んだ目のまま、それでもまっすぐ前を見て頷きました。
「はい。その道を……選びたいです」
王は、その言葉を正式なものとして受け止めるように、ゆっくりと宣言されます。
「本日をもって、ミア・ローゼット嬢を聖女の役から解き放つ。以後、王国は彼女を戦場に立たせぬ。彼女が選んだ場所で、人を癒やす手となることを許す」
会場に広がったのは、拍手ではなく、安堵の息でした。
◇
会談が散会し、人々がそれぞれの控室へ散っていった後。
少し遅れて廊下に出てきたミア様は、まだ慣れない足取りで聖女のローブを抱えていました。
「お疲れさまでしたわ、ミア様。――いいえ、もうミアさんとお呼びしても?」
柱の陰から声をかけると、彼女ははっと顔を上げます。
「リリアーヌ様……はい。その……ミアで、お願いします」
遠慮がちに返ってきた答えに、わたくしは小さく笑いました。
「昔のわたくしは、あなたの在り方に口を出しすぎましたわね。今度は、あなたが自分で選んだ人生を……ただ応援させていただけます?」
その瞬間、ミア――いえ、ミアさんの目から、堰を切ったように涙がこぼれました。
「ずるいです、リリアーヌ様。そんなふうに言われたら……また、頑張りたくなってしまいます」
「それなら、言った甲斐がありましたわ」
少しだけ意地悪く返すと、彼女も泣き笑いで首を振ります。
わたくしは、彼女の腕に抱えられた白いローブに視線を落としました。
「そのローブ、もしよろしければ……いつか本当に必要な時のために、とっておかれては? 聖女様としてではなく、ミアさんの晴れ舞台に仕立て直すとか」
「……そんな日が、来るでしょうか」
「来させましょう。あなたが選んだ場所で、ね」
背中を軽く押すと、ミアさんは一人でバルコニーへ歩いていきました。
夜風がローブの裾と髪を揺らし、王都の灯りが静かに瞬いています。
城下の一角、他より少しだけ遅くまで灯りが消えない建物がありました。
付き添いの侍女が、そっと囁きます。
「あれが、療養院でございます」
ミアさんは胸元にローブを抱きしめ、その灯りを見つめたまま、小さく呟きました。
「次に祈るときは……あの窓の向こうにいる人たちの名前を、ちゃんと覚えてからにします」
それは神に向けた祈りというより、自分自身への約束のように聞こえました。
(聖女として吊るされる未来ではなく、名前で呼ばれる治癒師としての未来へ。ようやく、物語は正しい分岐を選びましたわね)
夜風は冷たく、それでいて、不思議と優しいものでした。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
聖女ミアの「嫌です」が少しでも心に残っていたら、評価やブックマークで教えていただけると、とても励みになります。皆さまの一つ一つの反応が、この物語の続きへの魔法になります。




