第6話 悪役令嬢、ひとりで泣けない夜
馬車の車輪が石畳を叩くたびに、殿下の声が胸の内で揺り返します。
『君はいつも、自分の正しさばかり押しつける』
夕焼けに染まる学院の塔が、窓の外で遠ざかっていきました。
膝の上で指を組み、爪が食い込む感覚だけを確かめます。
未来ノートには触りません。今開けば、「庭園決裂イベント」などと書き込みたくなってしまいそうでしたから。
(押しつけていたのが誰なのかを考えるほど、元気ではありませんわ)
◇ ◇ ◇
公爵家の門をくぐるころには、空は薄紫色に変わっていました。
「ただいま戻りましたわ」
扉が開き、執事とメイドたちが一斉に頭を下げます。
いつもの笑みを貼りつけてドレスの裾を持ち上げると、横にいた侍女が、握りしめた指先の震えに気づき、そっと目を伏せました。
「お嬢様、今夜はお疲れでしょう。お部屋にお茶を」
「いいえ、先に食堂へ参りますわ。お父様をお待たせするわけにはまいりませんもの」
食堂には、変わらない光景がありました。
父は書簡を脇に置き、母はグラスを回しています。
「おかえり、リリア」
「ただいま戻りました、お父様、お母様」
「学院はどうだ」
いつも通りの、何気ない問い。
「試験の準備は順調ですわ。教授方も変わらずご熱心で」
「そうか」
そこで終わらせればよかったのに、舌が勝手に続けていました。
「ミア様も、ご健勝です。周囲の皆様に、とても大切にされていらっしゃいますわ」
手元でフォークが鳴り、金属音がやけに大きく響きます。
「それは、何よりね」
母がわたくしの顔を眺め、軽く首をかしげました。
「……少し顔色が悪いように見えるけれど?」
「昨夜、本を読んでいてつい夜更かしをしてしまいましたの」
冗談めかして返すと、母は苦笑します。
「本は逃げないのだから、ほどほどになさい。今夜はあまり遅くまで灯りをつけていてはだめよ」
「承知いたしましたわ、お母様」
食卓の会話はそのまま流れていきます。
けれど今夜だけは、ナイフとフォークの音も時計の音も、少し遠くから聞こえました。
食事が終わるころ、父がグラスを置きます。
「リリア」
「はい」
視線がぶつかりました。
公爵ではなく、父としての目。
「……無理はしていないな」
「もちろんですわ」
自分の声が、少しだけ乾いて聞こえました。
「お父様、お母様」
席を立つ前に、一礼します。
「わたくし、必ずこの家に恥じない卒業にいたしますわ」
優秀な娘の決意としては、問題のない台詞。
けれど胸の内では、別の意味を帯びていました。
(死ぬ代わりに、戦うだけですわ)
父は「頼もしいな」と笑い、母は「楽しみにしているわ」と微笑みます。
そのどちらにも、わたくしの本心は触れません。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ると、侍女が手早くドレスを解いてくれました。
「ここからは自分でできますわ。ありがとう」
彼女を下がらせると、帯をほどく音と、アクセサリーを箱に戻す音だけが広い部屋に響きます。
鏡の中には、髪型の崩れた公爵令嬢がひとり。
「……つまらない顔ですこと」
自分に向けてそう呟き、視線を逸らしました。
ベッドに腰を下ろし、膝を抱えます。
(条件は、十分そろっておりますのに)
幼馴染みに決定的な言葉を投げつけられたこと。学院での立場がほぼ詰みであること。聖女も、この国も、守れるかどうか分からないこと。
深く息を吸い、目をぎゅっと閉じました。
喉が痛くなり、胸がきゅうっと縮みます。
それでも――肝心のところで、何もこぼれ落ちてきません。
「……泣き方を、忘れてしまいましたわね」
驚くほど落ち着いた声が、静かな部屋に溶けました。
枕元の引き出しから、未来ノートを取り出します。
ページをめくると、乱暴な字が目に入りました。
『処刑エンド 5年目』
『戦争エンド 7年目』
その余白に、ペンを走らせます。
『3年春・庭園決裂イベント(ゲーム外)』
括弧書きの「ゲーム外」をしばらく見つめました。
(ゲームの外に出ても、結局同じ場所に追い詰められている気分ですわね)
苦笑してノートを閉じかけたその時、扉を叩く音がしました。
「……どうぞ」
「お嬢様。帝国より急ぎの書簡が」
侍女が差し出した封筒には、銀糸の封蝋と帝国の紋章。
見慣れた印に、胸がわずかに熱を帯びます。
「ありがとう。あとはひとりにしてちょうだい」
「かしこまりました」
扉が閉まり、静寂が戻りました。
手の中の封筒だけが、今この瞬間の現実を証明しています。
指先で封蝋をなぞりました。
(今の顔を殿下がご覧になったら、どう思われるかしら)
一瞬ためらいがよぎります。
今にも崩れそうで、けれど崩れ方すら分からない顔。
「情報を共有すると決めたのは、わたくしですものね」
小さく息を吐き、封を切りました。
◇ ◇ ◇
便箋を広げると、柔らかな文字が並んでいました。
『先日君が好きだと言っていた菓子に似たものを、宮廷料理長に作らせてみた』
『味は悪くなかったが、どうも君の国の蜂蜜の方が美味しいようだ』
思わず、口元が緩みます。続く一文では、学院の庭園の白い花のことにも触れられていました。
やがて、文体が少しだけ硬くなりました。
『前回の君の推測に基づき、帝国側でも「戦争になれば誰が得をするか」の洗い出しを始めた』
『兵を出さず、祈りも供給せず、ただ物資と貨幣だけを動かす者たちが、どれほど甘い汁を吸えるか。
机上の計算だけでも、吐き気がする数字だ』
具体的な名は書かれていませんが、「候補は少しずつ絞れてきている」と続いていました。
そして再び、筆致は柔らかくなります。
『ここに列挙した事実は、君ひとりに背負わせるつもりで書いているわけではない』
『「君が知ってしまったから」ではなく、「君が教えてくれたから」動ける者たちがいる。
どうか、それを忘れないでほしい』
胸の中で、固まっていた何かが少しずつ溶けていきました。
続く、一行。
『君が泣けない夜には、せめてこちらで少しだけ世界を前に進めておく』
息を呑みます。
つい先ほど、自分でこぼしたばかりの言葉。
誰にも聞かれていないはずの弱音。
それと同じ響きが、遠い帝都から届いた紙の上に並んでいました。
「……あら」
視界がじわりと滲み、インクの線が少しにじみます。
「まだ、出るのですね」
指先で頬に触れると、ちゃんと温かい涙がありました。
ひとりでは泣けなくても、誰かの言葉があれば、まだ泣ける。
◇ ◇ ◇
涙を拭き、未来ノートを再び開きます。
先ほどのページをめくり、その裏に新しい見出しを書き込みました。
『第三部・3年目/断罪イベント準備』
上部に二本線で枠を描き、「ここから先は自分が書くルート」だと示します。
『帝国:戦争利得者の洗い出し開始/兵を出さず祈りを握る者ほど危険/情報を共有する限り、共犯者は増える』
手紙の要点を一行にまとめ、その下に矢印を引きました。
『教会強硬派 → 特定商会 → 一部貴族?』
いくつかの名前が頭の中で線でつながり、ぼんやりしていた輪郭が形を帯びていきます。
ペン先が、ページ中央の空白で止まりました。
(守るだけでは、足りませんもの)
ゆっくりと、一行を書きます。
『今後の方針:言葉ではなく、証拠で殴る』
少し行儀の悪い言葉。
けれど、悪役令嬢を名乗るなら、このくらいの覚悟は必要でしょう。
「悪役令嬢、ですものね。これくらいはいたしませんと」
ひとりごちてペンを置き、別の便箋を取り出しました。
『あなたのおかげで、今夜は少しだけ泣けました』
まず、その一文。
続けて、インクを足します。
『次にお会いする時までに、わたくしの国の脚本家の正体を、証拠付きでお見せいたしますわ』
封筒に手紙を収め、蝋を落として公爵家の紋章を押します。
「……これでよし」
窓の外には、雲の切れ間から星がいくつか覗いていました。
学院の中央階段は見えませんが、あの場所に積もり始めた影の気配だけは分かります。
「泣くのは、今夜だけ」
誰にともなく宣言して、灯りを落としました。
明日からのわたくしは、もう少しだけ――悪役令嬢らしくある必要があるのです。
そっと物語の端を摘まんで閉じるあなたの指先に、登場人物たちの息遣いが微かに残っていたなら嬉しいです。
第3部も折り返しに差し掛かり、彼らの選んだ道がいよいよ形を帯びてきました。
続く話では、これまで積み上げてきた伏線が静かに、しかし確実に動き出します。
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