第5話 決定的なケンカと、王子の失言
昼休み後の廊下で、わたくしは一人、小さな書記室にこもっていた。
机の上には白い便箋と羽ペン、それから端に開きっぱなしの未来ノート。
ペン先を軽く整えてから、宛名を書く。
レオンハルト殿下
そこまで書いて、一度だけ息を吐いた。
子どもの頃は、会えない日の代わりに落書きを送り合ったこともある。
けれど今綴る文字は、元には戻れない橋の上に置く一歩なのだと、指先が知っていた。
「……やると決めたのは、わたくしですわ」
小さく独り言を落としてから、文面を綴る。
三年前まで、よくご一緒に遊んでいただいた学院庭園にて、
階段での一件について、差し向かいでお話するお時間を頂戴できますでしょうか。
丁寧さも婉曲さも、必要最低限だけ。
封をし、学院付きの従僕に託す。
封蝋が固まるまでの短いあいだに、視線は未来ノートへと滑った。
昨夜書き足したばかりの一行が、赤インクで光っている。
ここから先はゲームの外
ローズクロニクル本編には「庭園での決裂イベント」など存在しない。
だからこそ、この手紙は、わたくしが自分の意思でルートを書き換える試みだ。
(本当に、変えられるのでしょうか)
胸の奥で、弱気な声が囁く。
処刑エンドも戦争エンドも、わたくしは知っている。けれど「知らないふり」は、もうできない。
そう自分に言い聞かせてノートを閉じた時、書記室の扉が叩かれた。
「アルベール公爵令嬢。殿下よりお返事をお預かりしております」
従僕の少年が差し出した封書は、驚くほど早い返事だった。
封を切ると、中には簡潔な一文だけ。
分かった。放課後、いつもの庭で待っている。
呼び方は、まだ「リリア」のまま。
そのたった三文字が、妙に胸を締め付けた。
◇
日が傾き始めた学院の回廊を、わたくしは一人で歩く。
窓の外には、夕映えに染まりつつある中庭。中央には、かつてわたくしたちが「秘密基地」と呼んでいた庭園。
噴水と白い石のベンチ、その端に咲く一輪の白い花。
処刑の夢で、血のそばにぽつりと立っていた花と、よく似た形。
(今度こそ、誰もあの結末に辿り着かせませんわ)
未来ノートの該当ページを頭の中でめくりながら、庭の門をくぐる。
そこにはすでに、レオンがいた。
制服の上着を脱いでベンチに掛けていた彼は、わたくしに気づくとすぐ立ち上がる。
「来てくれてありがとう、リリア」
その呼び方だけは、昔と同じ。
けれど瞳の奥にある色は、もうわたくしの知っている少年のものではない。
「お招きに応じてくださり、感謝いたしますわ、殿下」
儀礼通りのカーテシーをして顔を上げると、彼が一瞬だけ眉をひそめた。
それでも、もう昔のように距離をごまかすことはできない。
「……あの日のことを、整理させていただいてもよろしいかしら」
ベンチの前で立ち止まり、わたくしは切り出した。
中央階段で起きた、あの日の全てを。
どの段でミア様と向き合っていたのか。
どの言葉を交わし、どの瞬間にアルフレッドが飛び出してきたのか。
わたくしが彼の腕を掴んだ角度と、足を滑らせた段差の高さ。
ひとつひとつ、淡々と時系列で並べる。
感情を差し挟めば、「言い訳」にしか聞こえないことは、もう嫌というほど学んだ。
殿下は黙って最後まで聞いていた。ときどき、何かを飲み込むように喉が動く。
けれど口を開いたとき、出てきたのは、わたくしの望んだ種類の言葉ではなかった。
「ミアは、怖かったと言っていた」
短く、それだけ。
「事実がどうであれ、彼女はそう感じた。それで十分じゃないか」
ああ、と心の中で小さく息を吐く。
「感情が事実を彩ることは否定いたしませんわ。ですが、見えたものの向こう側まで含めて整理するのが、大人の役目でしょう?」
わたくしは、自分がミア様を支えた位置をもう一度なぞった。
「わたくしの動きだけを切り取れば、突き落とそうとしたように演出することも可能ですの。あの場には、そういう意図で仕掛けている方々がいらっしゃいました」
「つまり君は、誰かがわざと君を悪く見せるために全部仕組んでいると?」
殿下の声音には、うっすらと侮りが混ざる。
「同じ手を好んで使う方々がいらっしゃると仮定すれば、辻褄は合いますわ」
ここ数年、中央階段まわりで起きた小さな事件は、皆、似た形をしていた。
残される証拠はひとつだけ。その向きが、必ずわたくしを指すように。
わたくしが言葉を尽くすほど、殿下の顔色は険しくなっていく。
「君は……王国や教会、皆を疑えと言うのか?」
その問いに滲んでいるのは、怒りではなく恐怖だ。
「疑えと申し上げているのではありませんわ」
わたくしは首を振る。
「ただ、もし間違いだと分かったとき、引き返せる道を残しておいていただきたいだけですの。殿下ご自身の手で」
きゅっと、殿下の拳が握りしめられる。
「……君は、そうやっていつも正しさを並べる」
噴水の水音の上に、低い声が落ちた。
「何も知らない人間を見下して、自分の正しさばかり押しつける」
君はいつも、自分の正しさばかり押しつける。
その一文が、刃のように空気を裂いた。
胸が、ひどく静かに痛む。
殿下が、自分の正しさから逃げるために、わたくしを踏み台にしているのだと分かってしまったから。
(最初から、聞くつもりなどおありではなかったのね)
込み上げた何かを飲み込み、微笑の形だけを保つ。
そこへ、庭の入口から小さな声が割り込んできた。
「ローゼット伯爵令嬢、こちらに殿下がおられると……」
振り向けば、ミア様が侍女を伴って立っている。
殿下が今日は自分が話してくると言っていたはずなのに、それでも心配で来てしまったのだろう。
彼女の耳に届いたのは、ちょうどわたくしの言葉の後半だけだった。
「……聖女という肩書きしか見ていない方々と、親しくなさらない方がよろしい、という話ですわ」
ミア様を守るための忠告。
けれど彼女には、今の自分の周りを否定されているように聞こえたに違いない。
「ご、ごめんなさい……!」
ミア様は慌てて駆け寄り、わたくしたちの間に割り込むように頭を下げた。
「わたしのせいで、殿下とリリアーヌ様が……」
そして、いつもの口癖。
「そんなに、わたしのためにしなくても……」
その一言に、殿下の表情がさらに固くなる。
「ミア、もういい」
レオンはミア様の前に立ち、わたくしとの間に壁を作るように腕を広げた。
「これ以上、ミアを追い詰めるようなことはやめてくれ。彼女は十分、傷ついている」
そう言われてしまえば、構図は完全に決まってしまう。
泣く聖女と、それを守る王子。
そして、その向こう側に立つ冷たい悪役令嬢。
ミア様は、一瞬だけ顔を上げてわたくしを見た。
喉元まで上がってきた言葉が、あの柔らかな瞳の奥で揺れているのが分かる。
リリアーヌ様は、わたしを突き落とそうなんて——
けれど殿下の「君を責めるような人間からは、俺が守る」という言葉が、その続きを飲み込ませた。
わたくしは、静かにスカートの裾をつまみ上げた。
「承知いたしましたわ、殿下。
わたくしの言葉がこれ以上、ミア様を傷つけるとお感じになるのなら」
これ以上ここに立ち続けても、何ひとつ変わらない。
言葉で届く最後の機会は、今この場で失われたのだ。
噴水の縁を迂回して歩き出す前に、わたくしは振り返った。
二人を見渡し、いつもの公爵令嬢の微笑みを浮かべる。
「次にお会いする時には――
殿下ご自身の正しさの意味を、どうか一度だけ、
誰かの涙ではなく、殿下の目でお考えになっていてくださいませ」
ミア様が、はっとしたようにわずかに顔を上げる。
殿下は何も言わない。ただ唇を噛みしめ、わたくしから視線をそらした。
風が吹き、スカートの裾と花壇の白い花が同時に揺れる。
泥だらけになった殿下の手を掴んで噴水から引き戻した日の記憶が、遠くでぼやけていく。
(ここが、わたくしたちの物語の墓標になりますのね)
ここまでお読みいただきありがとうございます!
第3部第5話は、リリアーヌとレオンハルトの関係が大きく軋む転換点になりました。
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、評価やブックマーク、感想を頂けると励みになります。次回、ふたりの「選択」の先にある未来を一緒に見届けていただけたら嬉しいです。




