第4話 悪役令嬢、ひとりぼっちの教室
階段事件の翌朝、学院の廊下はやけに笑い声が高かった。
わたくしは背筋を伸ばし、いつも通りの歩幅で教室へ向かう。
(さて。どこまで物語が進んでいますの?)
扉を開けた瞬間、空気が一度だけ止まり、それからざわりと揺れた。
わたくしの席の上には、小ぶりな白薔薇の花束。
カードには、丁寧な筆致で一行。
『神の罰は、きっと見ている』
黒板には、色チョークで大きく書かれている。
『聖女様を突き落とそうとした人は、教室から出ていって』
なるほど。朝から判決文とは、仕事が早いことで。
わたくしはため息もつかず、黒板へ歩み寄る。
チョークを取り、文字をなぞり、消しゴムで何度も往復した。
粉の落ちる音だけが響く間、背中に小さな囁きが刺さる。
「見た?」「本当に消してる」「こわ」
書き終えた板書を確認し、チョークを戻す。
机の上の花束を手に取り、香りだけ確かめた。
「校則で、生花の持ち込みは原則禁止ですわ。虫がつきますもの」
淡々と告げ、教室の隅の窓際に花瓶ごと移す。
しかし、すぐに背後から声。
「やだ、証拠隠滅?」
「図星だから、慌ててどかしたんじゃない?」
想定内の台詞に、肩すら動かさない。
「階段で起きたことは、担任の先生にも報告済みですわ。誤解のないよう──」
最低限だけ伝えておこうとした瞬間、女子Aが明るく遮る。
「誤解、ですって。そうやって全部言い訳するんだ」
教室の空気が、ぴたりと固まる。
(なるほど。ここでは、言葉はもう燃料ですのね)
そこで口を閉じ、椅子を引いて腰を下ろした。
◇
昼休みの食堂。
中央の大きなテーブルにはレオン殿下とミア様、その周囲を囲む令嬢たち。
そこだけが、舞台のセンターのように眩しい。
わたくしは一瞬だけ空いている席を見て、視線を外す。
かつて一緒に座った令嬢が、目を合わせかけて慌ててパンへ視線を落とした。
(あちらの居心地まで悪くしてしまうのは、趣味が悪すぎますわ)
窓際の小さなテーブルにひとりで座り、スープに口をつける。
耳は、自然と殿下たちの方へ。
「ねえ聞いて、昨日の階段、本当に怖かったんだから」
噂を盛るのが得意な女子Aの声。
「リリアーヌ様、ミア様の腕、ぎゅって掴んでさ」
「次に殿下に泣きついたら分かっていますわよねって」
スプーンを持つミア様の手が、ぴたりと止まった。
「そんな……リリアーヌ様、そこまでひどいことは」
ささやかな否定。
だがAがすぐにかぶせる。
「ミア様はお優しいから、悪く言えないだけよ。ね、殿下?」
レオン殿下は真面目な顔で頷いた。
「ミアが嫌な思いをしたのは事実だ。だからこそ、僕が守らないと」
ミア様が、勇気を振り絞るように顔を上げた。
「でも……階段の時、リリアーヌ様、わたしの腕を──」
え、と息を呑む気配。
取り巻きたちの視線が、一斉にミア様へ集まる。
一拍の沈黙。
その重さに耐えかねたように、ミア様は視線を落とした。
「……ごめんなさい。何でもないです」
スプーンが皿に触れて、小さな音を立てる。
(レオン殿下に嫌われたくない。聖女の物語から外れたくない。……そういうことですわね)
少し離れた席から、その全部を見ていながら、わたくしは立ち上がらない。
今ここで近づけば、「加害者が被害者にプレッシャーをかけている」という、分かりやすい絵が完成するだけだ。
(ミア様がいつか、自分で選んで言葉を発せられる日まで。わたくしは、嫌われ役に徹しますわ)
皿を空にしてから、静かに席を立った。
◇
午後の授業。
教科書を取り出そうとした瞬間、机の中から紙切れが数枚、ばさりと落ちた。
『中央階段に近づかないで』
『聖女様に謝って』
字の癖はばらばら。
誰かひとりの悪意ではなく、「みんなで少しずつ」書き込んだ形だ。
わたくしは拾い上げ、折り畳んでノートの間に挟む。
「そのページ、少し見せていただけかしら」
前の席の令嬢に声をかけると、彼女は一瞬だけ硬直してから笑った。
「ごめんなさい、今手元に無くて」
机の上には、開かれた教科書。
教壇から先生の視線が流れてくるのを感じた。
花束の置かれた窓際。
黒板の隅に残った白い粉。
わたくしの周囲だけ、妙に空いている席。
先生の眉間に小さな皺が寄り、それでも何も言わずに板書へ視線を戻す。
質問タイム。
名前を順に呼んでいき、わたくしのところで一瞬だけ沈黙が落ちた。
「……その、隣の君。答えてみなさい」
わざと外した気遣いか、それとも巻き込まないための距離か。
後ろの席から、ささやき声。
「やっぱり先生も怖いのよ」
「怒らせたら大変だもんね」
◇
放課後、教室に残ってノートを片付けていると、背後から声がした。
「リリアーヌ嬢。少しよろしいか」
振り返れば、担任の先生が教壇の前に立っている。
生徒たちはすでに誰もいない。
わたくしは前へ進み、礼を取った。
「先ほどの授業内容に、不備でも?」
「いや。そうではない」
先生は周囲を確認し、声を落とす。
「階段での件だが……私は、君が誰かを突き落とそうとするような人間だとは思っていない」
胸の奥に、ほんの少しだけ温度が灯る。
しかし、それは次の一言で容易く吹き消された。
「だが、今の空気の中で、私が公然とそう言えば、かえって君への風当たりを強めるだろう」
(大人でさえ、空気には逆らえない)
先生は申し訳なさそうに続ける。
「授業の中でできる限り公平にはする。それ以上は……すまない」
「お気持ちだけで十分でございますわ、先生」
完璧な淑女の微笑みを貼り付け、頭を下げる。
(先生の一言で世界が変わるなら、とっくにゲームオーバーは避けられていましたわね)
そんな毒を心の中だけで転がしながら、教室を後にした。
◇
寮へ向かう中庭。
グループで笑い合う生徒たちの流れから、少し離れた位置を歩く。
「やっぱり怖いよね」
「聖女様に何かあったらどうするの」
背後から飛んでくる声は、決してわたくしを呼ばない。
部屋に戻り、制服を掛け、髪をほどき、机の前に座る。
引き出しから未来ノートを取り出し、三年目のページを開いた。
原作ゲームのメモには、「花束イベント」「落書き」「階段転落未遂」と並んでいる。
本来の時期も、状況も、すでに大きくずれている。
「……ここまで来ると、未来というより過去資料ですわね」
自嘲気味に呟き、ノートを閉じる。
代わりに、新しい薄いノートを取り出した。
まだ何も書かれていない、真新しい表紙。
一ページ目の上に、ゆっくりとタイトルを書く。
『階段事件メモ』
その下に、箇条書き。
『日時・場所:学院中央階段/昼休み後』
『関係者:聖女候補ミア、王太子レオンハルト、奨学生アルフレッド、周囲の生徒』
左側に「事実」、右側に「噂として語られている物語」を並べて書いていく。
『事実:リリアーヌ、足を滑らせたアルフレッドを引き寄せて支える』
『噂:リリアーヌ、聖女の腕を乱暴に掴み、階段の縁へ追い詰める』
『事実:ミア、庇いかけて言葉を飲み込む』
『噂:ミア、恐怖で声も出せなかった』
赤インクのペンを取り、未来ノートの階段イベントの項目をぐるりと囲む。
『原作:ミアが階段から落ち、軽傷』
『原作:悪役令嬢が突き落とした前提』
未来ノートのページ下部に、大きな字で一文を書く。
『ここから先は、ゲームの外』
二重線で囲み、角を折る。
窓辺に立ち、夜の学院を見下ろした。
暗い教室の中に、昼間わたくしの席に置かれていた白い花束の残像が浮かぶ。
(これは本当に、わたくしだけのせい?)
そして、今度は迷わず答えた。
(いいえ。そうなるように仕組んだ者たちがいる。ならば、彼らごと物語を書き換えて差しあげましょう)
階段事件メモの白いページに、ペン先が音もなく走る。
それは、断罪イベントという最終幕へ続く、新しい台本の一行目だった。
第3部第4話までお付き合いありがとうございます。
孤立する悪役令嬢の教室編、少しでも胸に刺さるものがあれば嬉しいです。
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