第2話 モブ少年の罪悪感と、階段の影
目覚まし代わりの鐘が鳴った瞬間から、胸のあたりが重かった。
俺はアルフレッド・カーライル。どこにでもいる侯爵家の次男で、成績だけが取り柄の奨学生だ。寝癖を手ぐしで押さえつけながら、机の隅の成績表の控えをちらりと見る。
(成績さえ落とさなければ、うちの家計も文句は言わない)
父の声を思い出して、ため息をひとつ。制服の襟を整えて部屋を出ると、男子寮の廊下はいつも通り騒がしかった。
「おいアル、遅いって。今日からもう3年目だぞ」
「……分かってるよ」
同室のベンが笑いながら背中を小突いてくる。その後ろから、幼なじみのロイドが声をひそめた。
「なぁ、聞いたか? またリリアーヌ様がミア様にきつく当たったってさ」
「これ以上レオン殿下の足を引っ張らないでくださいだっけ? こえーよな、公爵令嬢」
ベンの肩すくめに合わせて、俺も口角だけ上げる。
「……こわ〜……」
自分でも情けないと思うくらい薄い声だった。
学院の門をくぐる頃には、同じような噂があちこちから聞こえてくる。
「聖女様、かわいそう」「でも殿下が守ってくださるし」
そんな言葉が、春の風に乗って教室までついてきた。
教室に入った瞬間、空気が少しだけ固くなる。前列付近ではミア様の周りに輪ができていて、レオン殿下もそこに腰掛けている。笑い声とささやき声。
反対側、窓際の列の真ん中に、黄金色の髪の令嬢がひとり。リリアーヌ・アルベール公爵令嬢。
彼女の前後左右だけ、ぽっかりと席が空いていた。昨日配られた席順表には、ちゃんと名前が並んでいたはずなのに。
(……まぁ、あれだけ噂があれば、近づきづらいよな)
俺自身も、その空白の一部であることを意識して視線をそらし、別の席に腰を下ろした。
ホームルームで担任が「3年目ともなれば卒業後の進路も視野に」と話していたが、頭にはほとんど入ってこない。代わりに、別の光景が浮かんでいた。
1年目の春。中央階段の壁に、でかでかと落書きがされていた。歪んだ似顔絵と、子どもじみた悪口。
「ひでぇな、これ」「でもなんか、似てない?」
友人たちと踊り場からそれを見下ろしていたとき、彼女が現れた。完璧な姿勢で階段を上ってきた公爵令嬢は、一瞬だけ落書きを見て、表情を動かさないまま侍女に言った。
「消しておきなさい」
「かしこまりました、お嬢様」
それだけ。怒鳴りもしないし、泣きもしない。
「やっぱ怖いよな、公爵令嬢って」
俺は、そのとき友人に合わせてうなずいた。あの時の自分の顔を思い出すと、今でも胃のあたりが重くなる。
少しして、階段近くでいきなり名前を呼ばれた。
「カーライル様」
振り向くと、そこにいたのはリリアーヌ様だった。刺すような視線を覚悟したのに、その目はただ真っ直ぐで、少し疲れて見えた。
「この学院でおかしいと思ったことがあれば、わたくしに教えてくださる?」
「え、えっと……」
「あなたのような立場の方は、いろいろな場所をご覧になるでしょう。噂ではなく、事実を知りたいのです。できる範囲で構いませんから」
それはお願いの口調で、命令でも脅しでもなかった。……のに、翌日にはもう形が変わっていた。
「なぁ聞いたか、カーライル、リリアーヌ様に全部報告しろって脅されたんだってよ」
「うわ、こえー」
「違――」
否定しかけた声は、笑い声に押し流された。俺は「まぁ、そんな感じ……」と誤魔化してしまった。
二年目になると、中央階段の同じ段で、よく誰かが足を取られるようになった。
「リリアーヌ様が通ったあとだったってよ」
「聖女様の裾を踏んだのを見たって人もいるんだって」
そんな噂を聞きながら、俺は遠くから結果だけを見ていた。散らばった教科書。泣きそうな下級生。眉をひそめる横顔。
(僕は、ずっと見てた。なのに、何も言わなかった)
3年目の今、同じ中央階段の踊り場にもたれながら、その言葉を飲み込む。
ふと視線を下ろすと、金色が動いた。階段の下を、リリアーヌ様がひとりで歩いていた。数段を、つま先で確かめるように静かに踏んでいく。裾を少しだけ持ち上げて、石の端を見ながら。
(危ない場所だって、分かってるんだ)
本当に、この人は人を突き落とすためだけに階段を見ているのか。そんな疑問が、ようやく形になった。
◇
昼休み前。担任から紙束を渡された。
「この書類を教授室まで頼む。急ぎだ」
「はい!」
胸に抱え、俺は廊下へ飛び出す。いけないと思いつつ、足が自然と小走りになった。
(廊下は走るなって、いつも言われてるのに)
中央階段に差しかかったとき、上の方から声が降ってきた。
「……そんなに、わたしのためにしなくても……」
ミア様の、申し訳なさと怯えが混じった声。
「あなたが守られるべき立場だと理解していない方の方が、よほど危険ですわ」
続いたのは、リリアーヌ様の落ち着いた声だった。意味までは追えなくても、真剣な会話だと分かる。
(……また、何かあったのか)
気づけば俺は階段を数段上がり、踊り場の柱の陰に身を寄せていた。
リリアーヌ様とミア様は、中央あたりの段に立っている。外側の手すりから二段ほど内側。俺はそこから6段ほど下、内側の柱の影。半分だけ見えるふたりの横顔は、ぱっと見には言い合いにも見えた。
俺は、ほんの少し身を乗り出す。
その瞬間、靴底がぐにゃっと嫌な感触を伝えてきた。
「あっ――」
昨日の雨で、石段がうっすら湿っていたのだろう。バランスが崩れ、書類が宙に散り、視界が大きく揺れた。
(落ちる)
そう思った瞬間、視界の端から白い手が伸びてきた。
「危ないから、その位置からは下がりなさい」
腕をきゅっと掴まれる。細いのに、驚くほど強い力だった。引き寄せられる形で前の段に倒れ込み、膝を段に打つ。
「だ、大丈夫ですか」
上からミア様の声。彼女は一段下りかけて――リリアーヌ様に止められる。
「下りてこないで。巻き込みますわ」
その声は淡々としているのに、はっきりと焦りが混じっていた。俺の腕を掴む指先も、少し震えている。
「カーライル様。廊下で走らないようにと、何度も言われているはずですわ。足元を見なさい」
「す、すみません……ありがとうございます……」
しがみつくように頭を下げる。見下ろすと、あと数段で本当に空中に投げ出されていた高さだった。
(今、僕を掴んでくれた手が、噂の中では突き落とす手にされている)
背筋に冷たいものが走る。
散らばった書類を拾い集めてくれたリリアーヌ様は、自分の裾を踏まないよう気をつけながら、最後の一枚を差し出した。
「これで全部ですわね。……急ぎなら、ここからは気をつけて」
「は、はい!」
裏返った声で返事をして、俺は書類を抱えて階段を駆け下りた。
背後で、別の声がした。
「今の見た? またリリアーヌ様、誰か捕まえて説教してた」
「あの位置、もし足滑らせたら危ないよな」
階段の上から降りてきた別クラスの生徒たちが、途中から見ていたらしい。
「いや、今のは――」
否定しかけた言葉は、喉の奥で止まった。振り返る勇気が、どうしても出てこない。
◇
夜。男子寮の部屋で靴を脱いでいると、ベンがベッドから身を乗り出してきた。
「アル! 今日さ、階段でリリアーヌ様に掴まれてただろ。何言われたんだよ、脅された?」
「べ、別に。危ないから下がれって、それだけで……」
事実をそのまま言おうとした瞬間、ロイドが笑って被せる。
「それ、次に変なこと見たら分かってるわねって意味だろ。こえー」
「うわ、それはあるかも」
部屋の空気が、一気に「怖い話」で盛り上がる。
「いや、違――」
俺の否定は、笑い声の中にあっさり飲み込まれた。
笑いに合わせて口元だけ動かしながら、胸の奥では別の声が響いている。
(違う。そんな言い方じゃなかった)
布団に潜り込み、天井を見上げる。瞼を閉じると、白い手と紅い瞳、落書きの壁、階段で足を取られそうになった下級生たちが、一度に押し寄せてきた。
中央階段は、寮の窓からその輪郭だけが見える。夜の校舎の真ん中で、白い石がぼんやり浮かんでいた。
(僕は、ずっと見てた。なのに、何も言えなかった)
同じ言葉が、ぐるぐると頭の中を回る。
「……次こそは」
誰にともなく、小さく呟いた。
次こそは、見て見ぬふりをしない。そう決めたはずなのに、胸のどこかで、もう一度同じ言葉がこだまする。
(僕は、何も言えなかった)
その悔しさだけが、いつまでも消えないまま、夜が更けていった。
第3部では、いよいよ「モブの罪悪感」にもスポットが当たります。
今回のアルフレッド視点が、後の大炎上イベントにどう繋がるのか、こっそり想像していただけたらうれしいです。
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