第1話:愛しき頭蓋と、最初の晩餐
今回は「犬神」×「サイバーホラー」。
飢えさせて首を斬るという伝統的な犬神の呪いが、もし現代のSNSで拡散されたらどうなるのか? をテーマに書きました。
罪を背負った美少女・ざくろと、怪異専門の探偵・御門が、無差別に人を喰らう最強の呪い「シロ」に挑みます。
救いのない展開がお好きな方におすすめです。
熱気と湿気がまとわりつく、四国の深い山奥。
セミの鳴き声が、脳みそを直接ヤスリで削るような耳鳴りに聞こえる。
僕は、日本刀の柄を握りしめていた。
手汗で革が滑る。
目の前には、土から生えた「白い何か」がある。
シロだ。
一ヶ月前、この限界集落「犬鳴淵」に取材に来た僕に、唯一尻尾を振ってくれた雑種犬。
クリクリとした黒い瞳で、僕のズボンの裾を甘噛みしていた、あの子だ。
だが、今のシロに面影はない。
首から下は、硬い土の中に生き埋めにされている。
もう一週間、水一滴、餌一粒すら与えられていない。
「……グルルッ……」
喉の奥から漏れるのは、枯れ果てた威嚇音。
飛び出した眼球は赤く充血し、ひび割れた鼻先からは膿のような粘液が垂れている。
極限の飢餓。
犬という種が持つ理性のタガは外れ、そこにあるのは純粋培養された「食欲」と「憎悪」だけ。
「透さん、やって」
背後から、鈴を転がすような声がした。
狗神ざくろ。
この村を支配する旧家の令嬢であり、僕に借金返済のチャンス――つまり、この狂った儀式の片棒を担ぐことを提案した悪魔だ。
彼女は白無垢のような着物を身にまとい、手にはお盆を持っている。
お盆の上には、湯気を立てる炊きたての白米。
その中央に、真っ赤な生肉が鎮座していた。
極上の匂い。
一週間飢え続けた獣にとって、それは太陽よりも眩しい「生」そのものだ。
シロの首が、ビクンと跳ねた。
鼻翼が激しく膨らむ。
眼球が、あさっての方向を向きながらも、強烈に飯を凝視する。
「今よ」
ざくろが囁く。
「あの子の欲望が頂点に達した瞬間に、首を刎ねて。
そうすれば、あの子は死んだことに気づかず、首だけの執念で飯に食らいつく。
それが、最強の呪物になるの」
やりたくない。
逃げ出したい。
けれど、周囲を取り囲む村人たちの視線が、僕を逃がさない。
僕は、震える手で刀を振り上げた。
シロと目が合う。
そこに、かつての親愛の色はなかった。
あるのは、
『寄越せ』
『喰わせろ』
『邪魔をするな』
という、どす黒い怨嗟だけ。
ごめん。
ごめん、シロ。
「う、あ、ああああああっ!!」
僕は絶叫と共に、刀を一閃させた。
ドサッ。
鈍い音。
だが、それは首が落ちる音ではなかった。
ヒュンッ!!
空を飛んだシロの首は、物理法則を無視した軌道を描き、ざくろが持つお盆の上へと「着地」したのだ。
ガアッ!!
耳をつんざく顎の音。
首だけのシロが、生肉と白米に食らいつく。
クチャ、ガリ、ボリ、クチャ。
骨が砕け、肉がすり潰される音。
生首が、一心不乱に飯を喰らい息絶えた。
「……ああ、素晴らしい」
ざくろは、血飛沫を浴びた顔で、恍惚の表情を浮かべていた。
「見て、透さん。
これが『犬神』の誕生よ。
この首を往来の辻に埋め、何千人もの人間に踏ませて恨みを熟成させたら……焼き上げて骨にするの」
彼女は、動かなくなったシロの頭を、愛おしそうに撫でた。
「これでもう、私たちの家は安泰ね」
僕はその場で嘔吐した。
胃の中身が空になっても、耳の奥で響く「クチャ、クチャ」という咀嚼音だけは、消えることがなかった。
それから、一年が経った。
東京、港区のタワーマンション最上階。
眼下に広がる夜景を見下ろしながら、僕は高級ブランデーを揺らしている。
嘘のような話だが、人生は逆転した。
あの儀式のあと、狗神家はとてつもない幸運に見舞われた。
所有していた二束三文の山林がリゾート開発用地として法外な値で売れ、当主であるざくろの父が適当に買った株は暴騰し、一族の資産は数十億に膨れ上がった。
共犯者である僕にも、その「おこぼれ」は回ってきた。
借金は完済し、今では「新進気鋭のノンフィクション作家」として、メディアにも引っ張りだこだ。
すべてが順調だった。
あの「壺」が、狗神家の床の間に祀られるまでは。
先日、狗神家の本邸で行われた祝賀会でのことだ。
屋敷は以前よりも豪華に改築され、床も壁も真新しい檜になっていた。
村人たちも高価な服を身に着け、酒池肉林の宴が開かれている。
だが、何かがおかしい。
「……臭わないか?」
僕が尋ねると、隣に座っていた村長が、脂ぎった顔で首を傾げた。
「なんの匂いです?」
「なんていうか……獣臭いような、腐ったような」
村長は鼻をひくつかせ、ニヤリと笑った。
「ああ、これは失礼。
きっと『神様』が喜んでおられるんでしょう」
祭壇の奥。
金箔を貼られた厨子の中に、あの壺がある。
辻に埋めて恨みを増幅させ、掘り出して焼き上げた、シロの骨が入った壺だ。
その壺の周りだけ、空気が澱んでいる。
いや、歪んでいる。
ざくろの父、狗神重蔵が、上機嫌で杯を掲げた。
「皆の者!
これも全て、我らが守り神、犬神様のおかげじゃ!
願えば叶う。欲すれば手に入る!
これぞ、狗神家の繁栄の極みなり!」
ドッと沸く会場。
だが、僕は見てしまった。
重蔵が箸で掴んでいる料理を。
それは、皿に盛られた高級な霜降り肉……ではなく、
装飾用に置かれていた「生の鶏頭」だった。
重蔵はそれに気づく様子もなく、生の鶏の頭を口に放り込み、
ガリッ、ベチャッ
と音を立てて噛み砕いた。
周囲の人間は、誰もそれを指摘しない。
いや、見えていないのか?
「透さん」
背筋が凍るような声。
振り返ると、ざくろが立っていた。
彼女は以前よりもさらに美しくなっていたが、その肌は死人のように白く、瞳孔は針のように細まっていた。
「父様、最近食欲がすごいの」
彼女はクスクスと笑う。
「願いを叶えるたびに、神様はお腹が空くのよ。
だから、もっともっと『エサ』をあげなきゃいけないの」
「エサって……何をあげてるんだ?」
「それは、秘密」
彼女は人差し指を唇に当てた。
その指先が、微かに赤黒く汚れていることに、僕は気づかないふりをした。
豪邸に充満する獣臭。
それは、栄華を極めた一族が放つ、腐敗の予兆だった。




