第8話:屈辱の餌付け:コンビニで漁るおにぎり
走った。死に物狂いで走った。
赤い月の下、西新宿のビル街を疾走する。
だが、足が動かない。筋肉が言うことを聞かない。
それだけではない。頭の中が、まるで霧がかかったように白んでいく。
(俺は、佐伯陸だ。30歳。システムエンジニア……)
反芻しようとする思考が、砂のように指の間から零れ落ちていく。
「システム」とは何だ? 「エンジニア」とは?
言葉の意味が、概念と結びつかなくなる。
(家に帰らなきゃ。明日の会議の資料……)
会議? 資料? それは美味しいものか?
思考のレベルが、急速に低下していく。
老婆の言葉が脳裏に蘇る。
『お前さん、もうすぐ完全に犬になるよ』
首輪という「契約」を失った人面犬は、人間としてのアイデンティティを繋ぎ止めるアンカーを失うのだ。
私はただの、顔の形が少しおかしい野良犬になり果てようとしていた。
公園の砂場に辿り着く。
深夜だというのに、ブランコには子供たちが座っていた。
彼らは顔のないのっぺらぼうで、私を指差して笑った。
「あはは! 変な犬! 目が人間みたい!」
「キモい! オッサンくさい!」
石が飛んでくる。痛い。怖い。
逃げなきゃ。どこへ?
安全な場所。明るい場所。食べ物がある場所。
本能が選んだのは、あのコンビニだった。
眩しい光。自動ドア。
私は店内に滑り込む。
店員はいなかった。客もいない。
床に、消費期限切れのおにぎりが落ちていた。
包装フィルムが破れ、海苔が乾燥している。
私は迷わずそれに食らいついた。
夢中で貪る。米粒が床に散らばる。
ふと、ガラスのショーケースに自分の姿が映った。
そこにいたのは、瞳だけが人間のままの、薄汚れた黒い雑種犬。
その犬は、床に這いつくばり、尻尾を振りながらゴミを漁っていた。
「違う……俺は……俺は……」
言葉が出ない。
「俺」という概念が、シャボン玉のように弾けて消えた。
残ったのは、空腹と、孤独と、そして「誰かに飼われたい」という強烈な隷属欲求だけだった。
その時、バックヤードの扉が開いた。
***
現れたのは、あの店員の三浦だった。
彼は以前と同じ、能面のような笑顔を張り付けていたが、その手には真新しい、黒革の首輪が握られていた。
そして、彼の背後には、あの老婆が立っていた。
「やあ、戻ってきたね」
三浦がしゃがみ込む。
私は後ずさろうとしたが、体がおやつの匂いに釣られて、勝手に彼の方へ寄っていく。
ちぎれんばかりに振られる尻尾。私の意思とは無関係に、体は「服従」を渇望している。
「これで最後の契約ですね」
老婆が三浦に書類を手渡す。
三浦はサラサラとサインをし、私を見下ろした。
「じゃあ、この犬に『シロ』って名付けて……」
老婆の提案を、三浦は手で制した。
「いえ。ありきたりな名前は、商品価値が下がりますから」
三浦は私の首に、冷たい革の首輪をカチャリと嵌めた。
その瞬間、電流のような衝撃が背骨を駆け抜けた。
消えかけていた意識が、鮮明に、しかし「歪んだ形」で再構築されていく。
人間としての記憶は消えた。
だが、人間としての「言語能力」と「営業スキル」、そして「社畜根性」だけが、犬の本能と悪魔合体して蘇る。
「名前は、『佐伯陸』にします」
三浦がそう宣言した瞬間、首輪のプレートにその文字が焼き付けられた。
私は、佐伯陸だ。
いや、私は「佐伯陸という名前の犬」だ。それが私の全てだ。
「よし、佐伯。お座り」
「ワン!(承知いたしました!)」
私は綺麗な姿勢でお座りをした。背筋が伸び、前足が揃う。完璧なビジネスマナーだ。
「お手」
「ワン!(提出いたします!)」
前足を差し出す。
「いい子だ。じゃあ、仕事の時間だ。ノルマはわかってるね?」
三浦が自動ドアを指差す。
その先には、暗い夜道が広がっている。
終電を逃した、疲れたサラリーマンたちが通る、あの道だ。
私は立ち上がった。
体が軽い。迷いはない。
私には使命がある。
私のように、人生に疲れ、死にたがっている人間を見つけ出し、彼らに「契約」を持ちかけるのだ。
素晴らしい「犬の生活」を斡旋するために。
老婆が私の頭を撫でながら、くっくと喉を鳴らして笑う。
「さあ、行ってきな。新しい営業部長さん」
私は口角を吊り上げ、人間のような、しかし決定的に人間ではない笑顔を作った。
「お疲れ様です、三浦さん。本日の営業目標、必ず達成してみせます!」
私の口から出たのは、流暢な日本語だった。
だが、その声は以前の私の声ではない。
かつて第1話で私を陥れた、あの中年サラリーマン風の人面犬の声になっていた。
私は小脇に契約書の入った封筒を抱え(実際には首輪にぶら下げ)、軽快な足取りで夜の闇へと駆け出した。
遠くで、終電の音がガタンゴトンと響いている。
さあ、今夜の獲物は誰だろう。
きっと、昨日の私のような、絶望した目をした人間が歩いてくるはずだ。
私はその人の前に飛び出し、最高の笑顔でこう言うのだ。
「お疲れ様です。……犬に、なりませんか?」
西新宿の夜空に、私の元気な遠吠えが、どこまでも虚しく響き渡った。
(完)
お読みいただきありがとうございます!
人面犬編、完結です。
昔の都市伝説「人面犬」を現代風にアレンジしてみました。
リストラされたおじさんが人面犬になる……という噂がありましたが、今回は現役社畜がターゲットでした。
自分の代わりの「ニセ佐伯」の方が優秀だったという点が、個人的には一番のホラーポイントだと思っています。
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次回はまた違ったテイストの怪異をお届けします。お楽しみに!




