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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第18章:西新宿・人面犬営業部へようこそ! 〜ブラック企業で死にかけていた俺が、物理的に「会社の犬」へ転職するまで〜

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第7話:月下の競売:社畜の骨髄と首輪の値段

 土の味がする。前足の爪の間から、血が滲んでいるのがわかる。

 私は団地の裏庭にある、放置された土管の下を掘り続けていた。三日三晩、老婆の目を盗み、不眠不休で掘り進めた脱出トンネルだ。

 土と言っても、ここにあるのは自然の土壌ではない。細かく粉砕された書類の屑、シュレッダーにかけられた誰かの人生、そして溶けたプラスチックのような産業廃棄物が圧縮された層だ。掘るたびに、「稟議書」や「始末書」と書かれた紙片が爪に絡みつく。


「……ここだ」


 鼻先が硬いコンクリートの基礎に当たった。管理室の床下だ。

 湿った隙間から体を滑り込ませる。埃とカビ、そしてあの蛍光色の液体の甘ったるい化学臭が漂っている。

 床板の腐った箇所を、頭突きで突き破る。

 ミシミシという音と共に、私は管理室の内部へと侵入した。


 月明かりだけが頼りの室内。棚には無数のガラス瓶が並んでいる。

 まるで標本室だ。瓶の中には、緑色の液体と共に、様々な「部位」が浮いている。

 誰かの耳、指、唇。それらが液体の中で、まだ生きているかのようにピクピクと動いている。

 その中の一つに、見覚えのある眼球が浮いていた。

 白濁した、吉村課長の目だ。


「あれさえあれば……」


 あの瓶を割り、中身を摂取すれば、奪われた寿命が戻るかもしれない。あるいは、交渉の材料になるかもしれない。

 私は棚に前足をかけ、必死に体を伸ばした。

 あと少し。爪先が瓶の冷たいガラス面に触れる。


「シロちゃん! いたずらしちゃダメ!」


 雷鳴のような怒声が室内に響いた。

 その瞬間、私の体は石像のように硬直した。

「ダメ」という言葉が、脳内の運動野を電気ショックのように麻痺させる。

 これはしつけではない。呪いだ。絶対服従のプログラムだ。


 棚から落ちた私は、無様に床を転がった。

 暗闇から現れたのは、赤いエプロン姿の老婆だ。彼女の手には、濡れた新聞紙を固めたような棒が握られている。


「しょうがない子ねえ。夜中に勝手口からコソコソと。泥棒猫ならぬ泥棒犬かい?」


 老婆は慈愛に満ちた笑顔で、私を棒で殴りつけた。

 ボゴッ、という鈍い音。痛みよりも、心が折れる音がした。

 私は抵抗しようとした。「違う、俺は人間だ、権利がある」と叫ぼうとした。

 だが、口から出たのは「キャイン!」という情けない悲鳴だけだった。

 尻尾が勝手に股の間に巻き込まれ、お腹を見せて服従のポーズを取ってしまう。

 プライドが粉々になる。


「早く次の飼い主見つけないと、本当に処分だよ」


 老婆は私の首輪を掴み、引きずっていく。

 その向こう、管理室の椅子には、私の体を乗っ取った「元・佐伯陸」が座っていた。

 彼は私の行動など気にも留めず、スマホゲームに興じている。




「おばあさん、その犬、明日までに処分してくださいよ。夜泣きがうるさくて」


 私の声で、私が殺処分を宣告する。

 老婆はニッコリと笑った。


「あいよ。ちょうど今夜、引き取り手が来るからね」


 ***


 連れてこられたのは、「動物管理センター」と書かれた看板の下がる、巨大なプレハブ小屋だった。

 中は鉄と消毒液、そして濃密な死の匂いで満ちていた。

 檻がずらりと並んでいる。

 隣の檻には、毛の抜けた野良猫がいた。だが、その額には人間の小さな口が開いており、「お腹すいた、お腹すいた」と蚊の鳴くような声で譫言うわごとを繰り返している。

 向かいの檻には、翼の生えたハムスターのような生き物が、回し車を狂ったように回し続けている。回し車には発電機が繋がれており、豆電球が頼りなく明滅している。


 23:55。

 天井の天窓から、赤い月光が檻の中に降り注ぐ。


「さて、商談といこうか」


 老婆と、つなぎを着た管理人が電卓を叩いている。




「人面犬、一匹。推定残り寿命2ヶ月。知能レベル中。……引き取り額は、寿命30年分でどう?」

「高いねえ。最近は供給過多なんだよ。社畜がみんな犬になりたがるから」


 管理人が渋い顔をする。

 私は鉄格子を噛み、出してくれと吠え続けた。

 その時、入り口の鉄扉がキイと開き、一人の男が入ってきた。




 元同僚の山田だった。

 だが、その姿は異様だった。

 首が180度捻じれているだけではない。歩くたびに、関節という関節が逆方向に曲がり、まるで壊れたマリオネットのような動きをしている。

 スーツはボロボロで、隙間から見える肌には、無数の「犬の歯」が埋め込まれていた。


「あの……その犬を、譲ってください」


 山田が掠れた声で言った。

 老婆が眉をひそめる。


「あんた、自分で飼うのかい? あんたの残り寿命、あと2ヶ月でしょ? 支払い能力あるの?」


 山田は無言でズボンを捲り上げた。

 彼のすねは、皮膚が腐り落ち、白い骨が見えていた。いや、骨ではない。

 それは圧縮された100円玉の棒金の束だった。彼の骨格は、小銭で形成されていたのだ。


「これで……私の全財産と、骨髄です。これで、その首輪を……」


 管理人がニヤリと笑い、金庫の鍵を開ける音がした。

 商談成立だ。


「よし、シロ。お別れだ」


 檻が開けられる。

 老婆の手が伸び、私の首輪に触れる。

 カチャリ。

 留め具が外された。


 解放? いや、違う。

 首輪が外された瞬間、山田が飛びかかってきた。

 彼は私を押し倒すと、奪い取るように首輪を自分の首に巻いた。


「ああ……あああ! これで、これで私も!」


 山田が絶叫する。

 首輪が彼の肉に食い込み、パキパキと音を立てて骨格が変形していく。

 彼の顔が溶け、鼻が伸び、耳が頭頂部へと移動する。

 彼は人間であることを辞め、喜んで犬になる道を選んだのだ。


「ありがとうございます! ワン! ありがとうございます!」


 完全に犬と化した山田が、管理人の靴を舐めている。

 私はその隙に、開いた扉から外へと転がり出た。

 首輪はない。自由だ。

 だが、体は犬のまま。そして、私は最も重要なことに気づいていなかった。



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