第7話:月下の競売:社畜の骨髄と首輪の値段
土の味がする。前足の爪の間から、血が滲んでいるのがわかる。
私は団地の裏庭にある、放置された土管の下を掘り続けていた。三日三晩、老婆の目を盗み、不眠不休で掘り進めた脱出トンネルだ。
土と言っても、ここにあるのは自然の土壌ではない。細かく粉砕された書類の屑、シュレッダーにかけられた誰かの人生、そして溶けたプラスチックのような産業廃棄物が圧縮された層だ。掘るたびに、「稟議書」や「始末書」と書かれた紙片が爪に絡みつく。
「……ここだ」
鼻先が硬いコンクリートの基礎に当たった。管理室の床下だ。
湿った隙間から体を滑り込ませる。埃とカビ、そしてあの蛍光色の液体の甘ったるい化学臭が漂っている。
床板の腐った箇所を、頭突きで突き破る。
ミシミシという音と共に、私は管理室の内部へと侵入した。
月明かりだけが頼りの室内。棚には無数のガラス瓶が並んでいる。
まるで標本室だ。瓶の中には、緑色の液体と共に、様々な「部位」が浮いている。
誰かの耳、指、唇。それらが液体の中で、まだ生きているかのようにピクピクと動いている。
その中の一つに、見覚えのある眼球が浮いていた。
白濁した、吉村課長の目だ。
「あれさえあれば……」
あの瓶を割り、中身を摂取すれば、奪われた寿命が戻るかもしれない。あるいは、交渉の材料になるかもしれない。
私は棚に前足をかけ、必死に体を伸ばした。
あと少し。爪先が瓶の冷たいガラス面に触れる。
「シロちゃん! いたずらしちゃダメ!」
雷鳴のような怒声が室内に響いた。
その瞬間、私の体は石像のように硬直した。
「ダメ」という言葉が、脳内の運動野を電気ショックのように麻痺させる。
これはしつけではない。呪いだ。絶対服従のプログラムだ。
棚から落ちた私は、無様に床を転がった。
暗闇から現れたのは、赤いエプロン姿の老婆だ。彼女の手には、濡れた新聞紙を固めたような棒が握られている。
「しょうがない子ねえ。夜中に勝手口からコソコソと。泥棒猫ならぬ泥棒犬かい?」
老婆は慈愛に満ちた笑顔で、私を棒で殴りつけた。
ボゴッ、という鈍い音。痛みよりも、心が折れる音がした。
私は抵抗しようとした。「違う、俺は人間だ、権利がある」と叫ぼうとした。
だが、口から出たのは「キャイン!」という情けない悲鳴だけだった。
尻尾が勝手に股の間に巻き込まれ、お腹を見せて服従のポーズを取ってしまう。
プライドが粉々になる。
「早く次の飼い主見つけないと、本当に処分だよ」
老婆は私の首輪を掴み、引きずっていく。
その向こう、管理室の椅子には、私の体を乗っ取った「元・佐伯陸」が座っていた。
彼は私の行動など気にも留めず、スマホゲームに興じている。
「おばあさん、その犬、明日までに処分してくださいよ。夜泣きがうるさくて」
私の声で、私が殺処分を宣告する。
老婆はニッコリと笑った。
「あいよ。ちょうど今夜、引き取り手が来るからね」
***
連れてこられたのは、「動物管理センター」と書かれた看板の下がる、巨大なプレハブ小屋だった。
中は鉄と消毒液、そして濃密な死の匂いで満ちていた。
檻がずらりと並んでいる。
隣の檻には、毛の抜けた野良猫がいた。だが、その額には人間の小さな口が開いており、「お腹すいた、お腹すいた」と蚊の鳴くような声で譫言を繰り返している。
向かいの檻には、翼の生えたハムスターのような生き物が、回し車を狂ったように回し続けている。回し車には発電機が繋がれており、豆電球が頼りなく明滅している。
23:55。
天井の天窓から、赤い月光が檻の中に降り注ぐ。
「さて、商談といこうか」
老婆と、つなぎを着た管理人が電卓を叩いている。
「人面犬、一匹。推定残り寿命2ヶ月。知能レベル中。……引き取り額は、寿命30年分でどう?」
「高いねえ。最近は供給過多なんだよ。社畜がみんな犬になりたがるから」
管理人が渋い顔をする。
私は鉄格子を噛み、出してくれと吠え続けた。
その時、入り口の鉄扉がキイと開き、一人の男が入ってきた。
元同僚の山田だった。
だが、その姿は異様だった。
首が180度捻じれているだけではない。歩くたびに、関節という関節が逆方向に曲がり、まるで壊れたマリオネットのような動きをしている。
スーツはボロボロで、隙間から見える肌には、無数の「犬の歯」が埋め込まれていた。
「あの……その犬を、譲ってください」
山田が掠れた声で言った。
老婆が眉をひそめる。
「あんた、自分で飼うのかい? あんたの残り寿命、あと2ヶ月でしょ? 支払い能力あるの?」
山田は無言でズボンを捲り上げた。
彼の脛は、皮膚が腐り落ち、白い骨が見えていた。いや、骨ではない。
それは圧縮された100円玉の棒金の束だった。彼の骨格は、小銭で形成されていたのだ。
「これで……私の全財産と、骨髄です。これで、その首輪を……」
管理人がニヤリと笑い、金庫の鍵を開ける音がした。
商談成立だ。
「よし、シロ。お別れだ」
檻が開けられる。
老婆の手が伸び、私の首輪に触れる。
カチャリ。
留め具が外された。
解放? いや、違う。
首輪が外された瞬間、山田が飛びかかってきた。
彼は私を押し倒すと、奪い取るように首輪を自分の首に巻いた。
「ああ……あああ! これで、これで私も!」
山田が絶叫する。
首輪が彼の肉に食い込み、パキパキと音を立てて骨格が変形していく。
彼の顔が溶け、鼻が伸び、耳が頭頂部へと移動する。
彼は人間であることを辞め、喜んで犬になる道を選んだのだ。
「ありがとうございます! ワン! ありがとうございます!」
完全に犬と化した山田が、管理人の靴を舐めている。
私はその隙に、開いた扉から外へと転がり出た。
首輪はない。自由だ。
だが、体は犬のまま。そして、私は最も重要なことに気づいていなかった。




