第6話:肉球はタッチパネルを拒否する:最後の希望の断絶
夜23時。団地全体が重苦しい瘴気に包まれる刻限。
老婆が玄関でチェーンを手に取った。
ジャラリ、という冷たい金属音が、処刑台への招待状のように響く。
「さあ、お仕事の時間だよ、シロ」
首輪に鎖が繋がれる。
私は抵抗する気力もなく、老婆に引かれて夜の闇へと歩き出した。
団地の裏手、街灯も届かない不法投棄エリア。
そこに、一つの影が待っていた。
吉村課長だ。
だが、その姿は昨日のオフィスで見たものより、さらに進行していた。
左半身が肥大化し、スーツが裂けている。
露出した皮膚からは剛毛が生え、左手は完全に犬の前足へと変貌していた。
眼帯は外され、両目とも濁った黄色の獣眼が、暗闇で燐光を放っている。
「……お待ちしておりました」
課長の声は、唸り声混じりの低音だった。口元から涎が糸を引いている。
「寿命の延長をお願いします。もう、体が保たない……」
課長が震える手で、懐から封筒を取り出す。中には札束が入っているようだった。
老婆はにたりと笑い、私の首輪をグイと引っ張った。
「この子と15分だけど、いいかね?」
「構いません……早く、早く!」
課長が私の前に膝をつく。
その顔が近づいてくる。獣臭い息がかかる。
老婆が何やら呪文のような言葉を呟き始めた。
瞬間、私の体が内側から発火したように熱くなった。
心臓が早鐘を打ち、全身の血液が逆流する。
視界が赤く滲む。
私の体から、白い霧のようなものが立ち昇り、それが吉村課長の鼻孔へと吸い込まれていく。
生命力だ。私の寿命が、私の時間が、吸われている。
課長の顔色がみるみる良くなり、濁った瞳に理性の光が戻っていく。
逆に、私の意識は混濁し、手足の感覚が遠のいていく。
人間としての思考回路が焼き切れ、ただの「獣」としての衝動だけが純化されていく。
15分後。
課長は満足げに立ち上がり、深く一礼して去っていった。
私はその場にへたり込み、荒い息を吐くことしかできなかった。
空っぽだ。中身をスプーンで抉り取られたような喪失感。
帰り道、足元がおぼつかない。
ふと、道路脇の側溝から異音が聞こえた。
覗き込むと、そこには元同僚の山田がいた。
四つん這いになり、ヘドロにまみれて嘔吐している。
吐瀉物の中に、プラスチックのカードが浮いていた。社員証だ。
山田の首は180度捻じれ、背中側を向いた顔が、虚空に向かって何かを謝り続けている。
「申し訳ありません……納期は……納期は必ず……」
この街には、私のような「家畜」が何匹いるのだろう。
私たちは、社会というシステムを回すための、使い捨ての電池に過ぎないのだ。
***
自室である404号室の前に戻った時、私は決定的な変化を目にした。
ドアの横にあるネームプレート。
今朝までは「佐伯」とあったはずの場所が、黒いマーカーで乱暴に塗りつぶされ、その上に歪な文字でこう書かれていた。
『犬畜生』
老婆は何事もないように鍵を開け、私を中へ入れた。
リビングでは、スーツ姿の「私」――偽物の佐伯陸が、パソコンに向かって猛烈な勢いでキーボードを叩いていた。
「ははっ、人間の体ってのは楽だなあ! 指が十本もある! これなら残業も徹夜も余裕だ!」
画面には、私が苦戦していたプログラムコードが、美しい構造で次々と記述されていく。
皮肉なことだ。本物の私よりも、この怪物の方が優秀なシステムエンジニアとして機能している。
ふらつく足で窓辺に寄る。
窓ガラスに映った自分の姿。
完全に犬化した体躯。そして首輪のプレート。
そこには「リク」と書かれていたはずだが、鏡文字のように反転し、文字のゲシュタルトが崩壊している。
もはや、名前として認識できない記号の羅列。
スマホが床に落ちていた。
私は最後の希望をかけて、前足を伸ばした。
何か情報を。誰かに助けを。
だが、黒く硬化した肉球は、静電容量式のタッチパネルに反応しない。
何度叩いても、画面は暗いまま。
爪が画面に傷をつけるだけだ。
現代社会との繋がりが、物理的に絶たれている。
「無駄だよ、シロちゃん」
老婆が背後から、冷ややかな声で囁いた。
彼女は床に落ちていた私の財布を拾い上げた。
中から健康保険証を取り出す。
「次の満月までに新しい飼い主を見つけないと、あんたはただの灰になるだけよ。寿命を使い果たしてね」
老婆の指先で、保険証が青白い光を放ち始めた。
印字された文字が、生き物のように蠢く。
「被保険者氏名:佐伯 陸」の文字が薄れ、消えていく。
そして、「本人(被保険者)」の欄が、「ペット(消耗品)」へと書き換わる。
極めつけは、右上の漢字だ。
「家族」の「族」の字。
その偏である「方」が、ぐにゃりと歪み、獣を意味する「犭」へと変化した。
『家狆』――家の獣。
保険証はパラパラと砂になって崩れ落ちた。
私は吠えようとした。
だが、喉から出たのは、「ウォ……ォォン」という、遠吠えだけだった。
言葉すら、奪われた。
佐伯陸という人間は、社会的に抹消され、ここには一匹の、死にぞこないの魔犬がいるだけだ。
窓の外、欠けた月が、私の未来を暗示するように赤黒く濁っていた。




