第5話:三十路の男の眼と、黒柴の体
覚醒の瞬間、世界は極端に低く、そして灰色だった。
視界の縁がぼやけ、色彩が抜け落ちている。代わりに、匂いという名の情報が暴力的な奔流となって脳髄をレイプする。
黴びた畳の繊維の匂い、床下に潜むゴキブリの脂臭、そして隣で寝息を立てる老婆の、古漬けのような体臭。
体を起こそうとして、私は自分が「手をつく」のではなく、「前足を伸ばした」ことに気づく。
視界に入ってきたのは、黒い剛毛に覆われた二本の肢。
夢ではなかった。
首に巻かれた革のベルトが、喉仏――いや、今はもう声帯の構造すら変わってしまった喉に食い込んでいる。
「おはよう、シロちゃん」
老婆の声が鼓膜を震わせる。
彼女は布団から起き上がると、薄汚れた赤いエプロンを無造作に羽織った。
私は反射的に尻尾を振った。
止めようとしても止まらない。尾骨の筋肉が独立した生き物のように痙攣し、床をパタパタと叩く。屈辱で脳が焼き切れそうだ。
「お腹、空いたでしょう」
老婆が台所へ向かい、ステンレスのボウルに何かを放り込んだ。
茶色い粉末と、ドロリとした液体。
腐った鰹節と、酸化した油の匂いがした。
人間の理性は「吐瀉物だ」と叫び、拒絶反応で胃が裏返りそうになる。
だが、私の口内は瞬時に唾液で満たされた。
うまそうだ。たまらなく、うまそうだ。
カチャン、と床にボウルが置かれる。
体が勝手に駆け寄る。フローリングを爪が滑る乾いた音が、私の理性の崩壊音のように響く。
顔を突っ込み、無心で貪る。舌が汚れを舐め取り、喉がゴクリと鳴る。
食べながら、私は涙を流していた。
美味しいのだ。この腐敗物が、かつて食べたどんな高級フレンチよりも、甘美な悦楽として味蕾を刺激するのだ。
「今日もいい子だねえ」
老婆の乾いた手が、私の頭を撫でる。
その掌からは硫黄の匂いがした。彼女が私を愛でるたび、私の人間としての記憶が薄皮を剥ぐように削り取られていく感覚がある。
食後、ふと姿見の前を通った。
そこに映っていたのは、どこにでもいる雑種の黒柴だった。
艶やかな毛並み、尖った耳、濡れた鼻先。
だが、眼だけが違った。
白目が充血し、瞳孔が散大した、絶望に染まった三十路の男の眼が、獣の顔に埋め込まれている。
尿意が襲ってきた。
トイレを探すが、便座に座ることなど不可能だ。
部屋の隅に置かれた、吸水シートが敷かれた段ボール箱。あそこだ。
片足を上げようとして、股関節に激痛が走る。骨格が完全に犬になりきれていないのか、あるいは人間の羞恥心が筋肉を硬直させているのか。
それでも排泄の快感には抗えない。
用を足した後、無性に柱の角で背中を擦りつけたくなった。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
壁紙が剥がれる音と共に、背中の痒みが引いていく。
私は、佐伯陸という個体を喪失しつつあった。
***
昼下がり、老婆が外出の支度を始めた。
「ちょっと管理室に行ってくるからね」
その言葉に、私は耳をそばだてた。管理室。この狂った団地の心臓部。そこに何か、元の体に戻る手がかりがあるかもしれない。
老婆がドアを開けた瞬間、私は股の下をくぐり抜けて廊下へ飛び出した。
「あっ、コラ! シロ!」
老婆の怒声を背に、階段を駆け下りる。四本足の走行は驚くほど速く、視界が流星群のように後方へ飛び去っていく。
1階の管理室。普段はシャッターが閉まっているその場所の勝手口が、少しだけ開いていた。
私は物陰に身を潜め、中の様子を伺った。
「今週の新規契約、3件達成しました。寿命分配の申請をお願いします」
老婆の声だ。彼女はカウンターの奥に座る「何か」に頭を下げている。
管理人の姿は逆光で見えない。だが、その影は不定形で、壁に映るシルエットは時折、巨大な蜘蛛や、無数の腕を持つ千手観音のように揺らめいた。
「ご苦労。……これが今週の配給だ」
管理人が老婆に手渡したのは、掌サイズのガラス小瓶だった。
中には、蛍光グリーンの粘度のある液体が満たされている。
液体の中で、何かが蠢いている。
目を凝らすと、それは微細な「数字」の集合体だった。
秒、分、時。誰かから奪った時間が、ゲル状になって瓶の中で生きている。
めまいがした。足元がぐらつく。
その時、管理室の奥から、コツン、コツンと軽い音が近づいてきた。
赤いボールだ。
テニスボールほどの大きさの、毒々しい赤色のゴムボールが、私の足元まで転がってきた。
「あれー? シロちゃんじゃないですか! 遊ぼうよ!」
心臓が凍りつく。
現れたのは、私の体だった。
私のスーツを着て、私の革靴を履いた、「佐伯陸」がそこに立っていた。
だが、その顔は不自然に引き伸ばされている。笑顔を作っているつもりなのだろうが、口角が耳の穴まで裂け、頬の筋肉がピクピクと痙攣している。
「ほら、取ってこい!」
「私」がボールを拾い上げ、路地の奥へと放り投げた。
やめろ。行くな。
脳内指令を無視して、私の体は弾かれたようにボールを追いかけた。
悲しいほどの条件反射。
ボールに追いつき、口にくわえようとした瞬間――。
ガブリ。
ボールが、私の鼻先を噛んだ。
「ギャンッ!」
赤いゴムの表面が裂け、中から鋭利な牙がびっしりと生えた口が現れていた。
ボール自体が生き物なのだ。
それは私の鼻にかじりつき、肉を喰いちぎろうと回転する。
「あははは! いい様ですねえ、前の飼い主さん!」
背後で「私」が手を叩いて笑っている。
鼻から鮮血が滴る。痛みと屈辱で視界が赤く染まる。
それでも私は、噛み付くボールを振りほどき、血まみれになりながら、尻尾を振って「私」の元へ戻っていくのだ。
褒めてほしい。撫でてほしい。
そんな惨めな感情が、思考のすべてを塗り潰していく。




