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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第18章:西新宿・人面犬営業部へようこそ! 〜ブラック企業で死にかけていた俺が、物理的に「会社の犬」へ転職するまで〜

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第4話:23時45分:残存寿命と、闇サイトの首輪

 定時を過ぎても、課長からの指示は終わらなかった。

 しかし、23時を回った頃、急に周囲の気配が変わった。

 同僚たちが一斉にパソコンを閉じ、無言で立ち上がる。彼らの動きは統率が取れており、まるで何かの群れのようだった。


 私もそれに倣い、オフィスを出る。

 夜の街は、昨日よりもさらに歪んで見えた。

 ビルの窓という窓が、すべて獣の目のように光っている。街路樹の枝が、枯れ果てた犬の脚のようにアスファルトから突き出している。


 団地の入り口に差し掛かると、街灯の下にあの老婆が立っていた。

 右手には赤いリードを握っている。

 だが、リードの先には首輪が宙に浮いているだけで、犬の姿はない。

 透明な犬?

 いや、リードの先は、地面を這うように私の足元へと伸びていた。


「シロちゃん、お利口さんねえ。早くおうちへ帰りましょうね」


 老婆が虚空を撫でる仕草をする。

 その手が動くたび、私の頭頂部に温かい感触が走る。

 撫でられている。見えない手で、私の頭が。

 胸の奥が締め付けられるような、奇妙な従順さと恐怖が入り混じる。

 逃げ出したいのに、足が勝手に団地の方へと向いてしまう。


 エレベーターホールへ入る。

 壁一面に、無数の傷跡で文字が刻まれていた。

 昨日までは「死ね」や「バカ」といった子供の落書きだった場所だ。

 今は違う。


『飼い主は24時までに名札を提出せよ』

『狂犬病予防法に基づく処分警告』

『無駄吠え禁止』


 爪で深く抉られたような文字が、赤いペンキ――いや、まだ乾いていない血液で書かれている。


 4階へ上がり、自室のドアノブに手をかける。

 金属の冷たさがあるはずのノブが、生温かい。

 まるで生き物の体温だ。ドクン、ドクンという微かな脈動すら感じる。

 鍵を回すと、鍵穴から「クゥーン」という悲鳴のような音が漏れた。


 部屋に入ると、そこはもう私の知っている部屋ではなかった。

 フローリングの床一面に、黒い犬の毛が雪のように降り積もっている。

 エアコンの風に乗って、毛玉がタンブルウィードのように転がる。

 そして、ダイニングテーブルの上には、禍々しい存在感を放つ茶封筒が置かれていた。

 真ん中には、私の実印と同じサイズの、しかし肉球の形をした血判が押されている。


『飼育義務違反通知書』

 対象:佐伯 陸

 理由:自己の尊厳の放棄、及び社会性の欠如

 罰則:未履行の場合、全寿命を没収し、畜生道へ堕とすものとする


 紙を持つ手が震える。

 その時、部屋の隅にある冷蔵庫が、ガタガタと激しく振動し始めた。

 昨夜と同じだ。

 私は引き寄せられるように冷蔵庫へ近づき、その扉を開けた。


 冷気と共に、悪臭が噴き出す。

 庫内には食品など一つもなく、狭い空間に、あの人面犬が窮屈そうに体を丸めていた。

 その顔は、昨夜よりもさらに崩れている。

 皮膚が溶けかけ、赤い筋肉繊維が露出している。

 首輪のプレートを見ると、「シロ」という文字が薄れ、代わりに「サエキ」というカタカナが浮かび上がろうとしていた。


「おや、まだ名札装着されてませんね」


 冷蔵庫の中で、人面犬が首を捻った。

 口が耳元まで裂け、その中から伸びた舌の上に、人間の指が生えているのが見えた。

 指は、私に向かって「おいで」と招くように動いている。


「このままでは私共も困るんですよ。ノルマがね。ほら、早く」


 人面犬の目が、爬虫類のように縦に裂けた。

 こいつは、私を取り込もうとしている。

 私の名前を、私の存在を、そして私の「人間としての座」を。


 ***


 壁掛け時計の秒針が、断頭台の刃のように時を刻む。

 23:45。

 タイムリミットまであと15分。

 私の体は、急速に変貌を遂げていた。

 首筋から生え始めた剛毛は、今や外套のように背中全体を覆い尽くそうとしている。

 背骨がミシミシと音を立てて湾曲し、直立しているのが辛い。四つん這いになりたいという強烈な衝動が、理性を浸食していく。


「何か、何か方法があるはずだ……!」


 私は縋るようにスマホを取り出した。

 震える指で検索窓に文字を打ち込む。「人面犬 呪い 解き方」「契約 破棄」。

 画面に表示された検索結果の中に、見覚えのあるタイトルがあった。




 3日前、匿名掲示板に私が書き込んだスレッドだ。

 『近所の野良が人間の顔してるんだけど、これ何?』


 スレッドを開く。レスは一つもついていなかったはずだ。

 だが、一番下に、たった今追加されたばかりのコメントがあった。

 投稿者名はなく、ただURLだけが貼られている。


 迷う時間はなかった。リンクをタップする。

 画面が真っ赤に染まり、けたたましい警告音がスマホから鳴り響いた。

 表示されたのは、闇サイトのような通販ページ。

 商品は一つだけ。

 『飼い主交代用・特製首輪(人間用)』


 商品説明にはこうある。

 【立場を逆転させたい貴方に。被支配者から支配者へ。ただし、代償は伴います】


 注文ボタンは、充血した眼球の形をしていた。

 価格の欄には、日本円ではなく『寿命(残り29年)』と表示されている。

 私の残りの寿命すべてだ。

 だが、このまま犬に成り果てるよりはマシだ。

 私は、自分が人間であることを証明するために、最後の人間性を賭けることにした。


「……こうなったら、やってやるよ!」


 覚悟を決め、私は眼球のボタンを親指で押し潰した。

 グチュリ、という生々しい感触が画面越しに伝わってくる。


 『決済完了』


 その文字が表示された瞬間、玄関のインターホンが「ピンポーン」と間の抜けた音を立てた。

 あまりに早すぎる。

 私は這うようにして玄関へ向かい、モニターを確認した。


 そこに映っていた映像に、私は息を呑んだ。

 カメラの前にいたのは、四つん這いになり、だらしなく舌を垂らした「私」だった。

 スーツは破れ、目つきは完全に獣のそれ。

 では、今モニターを見ている「私」は一体誰だ?


「ご契約ありがとうございます! ただいまお届けに上がりました!」


 スピーカーから聞こえる元気な声。

 次の瞬間、背後で冷たい鼻先が首筋に触れた。




 ひっ、と息を呑み、ゆっくりと振り返る。

 廊下の姿見に映った光景。

 そこには、全身を艶やかな黒毛に覆われた、大型犬ほどの大きさのサラリーマン風の何かが立っていた。

 二本足で立ち、私のスーツを無理やり着込んでいる。

 その首には、真新しい革の首輪。プレートには「リク」と刻まれている。


 そして、その顔は。

 かつての、元気だった頃の、就職活動をしていた頃の希望に満ちた「佐伯陸」の顔が、私を見下ろして嗤っていた。


「これで私が佐伯陸ですね。いやあ、体が軽い」


 元・私の顔をした怪物は、首を回してボキボキと音を鳴らす。

 私は、四つん這いの姿勢のまま、彼を見上げることしかできなかった。

 喉から出るのは、「あう……あう……」という情けない声だけ。


「では、そちらの寿命、確かに頂戴します」


 怪物は私の頭を乱暴に撫でた。

 その掌から、私の記憶、私の名前、私の時間が、掃除機で吸い取られるように流れ出ていく感覚。




 私は知ってしまった。

 私が買ったのは、首輪ではない。

 私が「飼い犬」になるための、正式な手続きだったのだということを。


 時計が0時を打つ。

 私の意識は、深い闇の底へと急速に沈んでいった。



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