第3話:肉球を認証してください:スマホが拒否する人間性
目覚めは、脳髄を直接掘削されるような激痛と共に訪れた。
工事現場のドリル音が、頭蓋骨の裏側で反響している。
薄目を開けてスマホを確認する。6:17。まだ起きる時間ではない。
窓の外を見ると、眼下の道路で黄色いダンプカーが動いているのが見えた。だが、何かがおかしい。車体は前進しているはずなのに、排気ガスが吸気口へと吸い込まれ、飛び散った砂利が地面からタイヤへと戻っていく。
逆再生だ。まるで世界の理が、昨日という悪夢の夜に向かって巻き戻されているような錯覚。
画面のロックを解除しようと指を滑らせる。
待受画面に設定していたはずの、姪っ子の笑顔の写真が消えていた。
代わりにそこにあったのは、漆黒の背景に浮かぶ、ぼんやりとした犬のシルエット。
指紋認証が反応しない。画面に表示されたメッセージは『肉球を認証してください』。
「……あの契約書、やっぱり夢だったんだろ……」
乾いた笑いを漏らし、私は重い体を引きずって洗面台へ向かった。
夢であってくれ。そうでなければ、私の人生はあまりにも救いがない。
鏡の前に立つ。蛍光灯に照らされた自分の顔色は、土壁のようにくすんでいた。
目の下のクマが、まるで殴られた痕のように青黒く沈殿している。
それだけではない。鼻の穴が、昨日よりも明らかに横に広がり、小鼻がピクピクと痙攣している。嗅覚が異常に過敏だ。排水溝から漂うヘドロの臭い、隣人が焼くトーストの焦げた臭い、そして自分自身から発せられる、脂と獣が混ざったような体臭。
「くそっ、髭も伸びるのが早すぎる」
頬から顎にかけて、剣山のような剛毛が密集している。
シェービングフォームを塗りたくり、T字剃刀を肌に当てる。
ジョリッ、ジョリッ。
不快な音が響く。だが、何度刃を滑らせても、剃り跡が青々と残るどころか、皮膚の下で何かがモゾモゾと蠢く感触がある。
顎の下、喉仏のあたりに違和感を覚え、私は顎をくいと上げた。
そこに、一本の太く黒い毛が生えているのが見えた。
毛抜きで摘まみ、一気に引き抜く。
「うわっ!」
激痛が走った。ただの体毛ではない。神経が直接繋がっているかのような鋭い痛み。
引き抜いた毛の根元には、毛根ではなく、米粒ほどの大きさの肉片が付着していた。
洗面台に落ちたその肉片が、ピクリと動く。
タオルで擦り落とそうとすると、ボロボロと黒い毛束が皮膚から剥がれ落ちた。
いや、剥がれたのではない。皮膚そのものが変質し、毛穴という毛穴から黒い獣毛が噴き出しているのだ。
排水口の渦の中へ流れていく毛束と肉片。
最後の一滴が吸い込まれる直前、その肉片の中心がパチリと割れた。
極小の眼球。
充血した小さな瞳が、渦に飲まれながら、じっと私を睨みつけていた。
「おはようさん! 遅刻確定やで!」
心臓が跳ね上がる。
いつの間にか開け放たれていた玄関のドアの隙間から、隣人の老婆が顔を覗かせていた。
常に身につけている赤いエプロンは、血を吸ったように鮮やかだ。
彼女はゴミ袋を赤子のように抱え、皺くちゃの顔でニヤニヤと笑っている。
その視線は、私の顔ではなく、首元――昨夜、人面犬に契約を迫られたあの場所――に釘付けになっていた。
「……おはようございます」
掠れた声で返すのが精一杯だった。
老婆の胸元で、銀色の何かがキラリと光る。
ネックレスではない。それは、飼い犬の首輪につける「鑑札」だった。
そこには番号ではなく、『監視員』という文字が刻まれているように見えた。
***
満員電車の中は、地獄の釜茹でのようだった。
だが、今日の私は不思議と不快感を感じない。むしろ、周囲の人間たちの汗の匂いや、整髪料の甘ったるい香りを嗅ぎ分けることに、奇妙な快感を覚えている自分がいた。
オフィスに到着すると、異様な空気が漂っていた。
キーボードを叩く音だけが響く静寂。だが、そのリズムは不規則で、まるで何十匹もの小動物が床を走り回っているような音に聞こえる。
「佐伯くん、君のコーディング、クソの味がするね」
デスクに着くなり、背後から投げかけられた言葉に耳を疑った。
吉村課長だ。45歳、独身。部下を精神的に追い詰めることを娯楽としている男。
彼は私のデスクに書類の束を叩きつけると、顔を近づけてきた。
左目には、昨日まではしていなかった眼帯が装着されている。
その眼帯の隙間から、強烈な腐臭が漂ってきた。膿と、乾いた血と、濡れた犬の匂い。
「……修正します。申し訳ありません」
「申し訳ない? 言葉で言うのは簡単だよねえ。もっとこう、腹を見せて服従のポーズでもとってくれないと、誠意って伝わらないんじゃない?」
課長の言葉選びに、悪寒が走る。
彼はニタニタと笑いながら、私の足元を革靴のつま先で小突いてくる。
その時、デスクの下で何かが足首に触れた。
濡れた、温かい感触。
ビクリとして下を見るが、そこには何もいない。ただ、私の靴下に、透明な粘液がベットリと付着していた。
「あ、今の言い方きつすぎた? ゴメンね。実は昨夜から目が痛くてさ」
私の視線を追うように、課長が眼帯に手をかけた。
めくり上げられたガーゼの下にあったのは、白内障のように白濁した人間の目ではなかった。
茶色く濁り、虹彩が異常に大きい。そして、眼球の周りに密集した剛毛。
犬の目だ。
しかも、それは眼窩の中でギョロギョロと不規則に回転し、時折、裏返っては白目を剥く。
「ものもらいができちゃってねえ」
課長は平然と言い放ち、再び眼帯を戻した。
周囲を見渡す。山崎も、加藤も、誰も課長の異変に触れようとしない。
彼らは無表情でモニターを見つめ、ひたすらタイピングを続けている。
カチャカチャ、カチャカチャ。
その音が、次第に「カリカリ、カリカリ」という、ドッグフードを噛み砕く音に聞こえてくる。
吐き気が限界に達し、私はトイレへと駆け込んだ。
洗面台の鏡の前で、震える手で水を出す。
蛇口から流れ出たのは、透明な水ではなかった。
鉄錆のような匂いのする、赤黒い液体。
両手を洗おうとすると、その液体が皮膚に絡みつき、まるで血のりで染まった手袋のようにこびりつく。
天井裏から、ガリガリと何かを引っ掻く音が聞こえる。
ネズミではない。もっと大きく、重い何かが、這いずり回っている音。
「佐伯さん、契約の進捗どうですか?」
背後の個室から、唐突に声が掛かった。
聞き覚えのある声。昨夜、コンビニで聞いた、あの人面犬の声だ。
心臓が早鐘を打つ。
個室のドアの下、隙間から黒い物体が垂れ下がっているのが見えた。
ふさふさとした毛に覆われた、太い尻尾。
それが、ゆらり、ゆらりと、催眠術の振り子のように揺れている。
「……誰だ」
震える声で問いかけ、私は恐る恐るドアノブに手をかけた。
ガチャリ。
ドアが開く。
「お客様、トイレットペーパー補充しておきましたよ」
そこにいたのは、人面犬ではなかった。
青い作業着を着た、どこにでもいる初老の清掃員だった。
彼は人の良さそうな笑顔で私を見上げ、予備のロールをホルダーにセットしている。
尻尾など、どこにもない。
「あ、ああ……ありがとうございます」
私は逃げるようにトイレを出た。
だが、背中で閉まるドアの向こうから、清掃員の低い含み笑いが聞こえた気がした。
ワン、という小さな鳴き声と共に。




