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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第18章:西新宿・人面犬営業部へようこそ! 〜ブラック企業で死にかけていた俺が、物理的に「会社の犬」へ転職するまで〜

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第2話:「営業」のノルマと寿命譲渡契約書

 犬の口から漏れたのは、獣の唸り声ではなかった。

 長年タバコで喉を焼いたような、枯れた中年の男の声だった。


「お疲れ様です、佐伯さん。遅くまでお仕事ですか?」


 足が地面に縫い付けられたように動かない。

 人面犬――シロは、器用に前足を揃えてお座りをし、丁寧な口調で語りかけてくる。

 だが、言葉を発するたびに、不自然に長い舌がデロンと垂れ下がり、その奥に歯周病で黒ずんだ歯茎が見え隠れする。人間としての知性と、獣としての肉体が混ざり合った冒涜的な光景。


「ええ、私共も営業で大変でして。昨今はノルマが厳しくてですね……」


 シロは世間話でもするかのように言いながら、右の前足を胸元の毛並みに突っ込んだ。

 そこから取り出したのは、古びたビニール封筒だった。

 カサカサという音と共に、一枚の和紙が床に広げられる。

 そこには、まるで呪符のような墨文字が躍っていた。


『寿命三十分之壱相譲渡契約書』


 紙の端には赤黒いしみが滲んでいる。古い血の跡だ。

 そして、末尾の署名欄には、既に私の筆跡で「佐伯陸」と記され、朱肉が生臭い認印まで押されている。


「実は貴方との契約書が、ここにありましてね」


 シロの目が、いやらしく細められた。

 逆さまのまぶたが蠢く。


「冗談はよせよ! お前たち何なんだ!? 警察を呼ぶぞ!」


 私は絶叫した。その声は深夜の店内に反響し、自動ドアを抜けて外の闇へと吸い込まれていった。

 だが、三浦はレジカウンターに肘をつき、退屈そうに爪をいじっている。

 外の団地を見上げると、私の叫び声に反応したのか、いくつかの窓でカーテンが「シャーッ」と音を立てて閉められた。

 誰も助けには来ない。ここでは、この異常こそが正常なのだ。


 シロが小首を傾げる。その拍子に、首の皮がブヨブヨと波打ち、まるでサイズ違いの着ぐるみを着ているかのように歪んだ。


「警察、ですか。困りましたねえ。当方も今月の数字が足りなくて必死なんですよ」


 シロが一歩、私に近づく。

 獣臭さと、加齢臭が混ざった強烈な悪臭が鼻を突く。


「貴方、毎日死にたいと思いながら生きてるでしょう? なら、少し分けてくれてもいいじゃないですか。たったの30年ですよ」


「ふざけるな!」


 私は持っていた鞄を振り回し、出口へと駆け出した。

 背後で「キャン!」という犬の悲鳴と、「チッ」という人間の舌打ちが同時に聞こえた。


「ではこの辺で失礼。……手続きは済んでますから」


 自動ドアを抜ける瞬間、振り返った視界の端に映ったのは、踵を返して店の奥へと戻っていく犬の後ろ姿だった。

 薄くなった後頭部の髪の毛が、月光を浴びて哀れに光っている。

 その姿は、かつてリストラされた時に見た、元上司の背中に酷似していた。


 ***


 肺が破裂しそうだ。

 私は団地の敷地内を無我夢中で走っていた。

 冷たい空気が喉を焼き、心臓の鼓動が耳元で警鐘のように鳴り響く。


 ポケットの中で、携帯が震えた。

 立ち止まり、荒い息を整えながら画面を見る。見知らぬ番号からのショートメッセージ。


『契約受理されました。有効期限は本日24時まで』

『残存寿命の回収を開始します』


「くそっ、なんだよこれ……!」


 スマホを地面に叩きつけたくなる衝動を抑え、自宅のある4号棟へと急ぐ。

 エントランスの照明は切れており、エレベーターの表示板には「点検中」の札が下がっていた。

 舌打ちをして、非常階段へ向かう。

 コンクリートの階段を駆け上がるたび、反響音が遅れてついてくる。

 いや、違う。


 タッ、タッ、タッ、タッ。


 硬い爪が地面を蹴る音が、私の足音とは違うリズムで、下の階から迫ってくる。

 追われている。あの人面犬に。


 4階まで一気に駆け上がり、自室のドアの前へ転がり込む。

 鍵を探してポケットをまさぐる手が震えて、上手く掴めない。

 その時、隣の部屋のドアが開き、老婆の声が聞こえた。


「シロちゃん、ご飯よー」


 ビクリとして振り返る。

 そこには、私の部屋のドアノブに手をかけようとしている、人間の腕が生えた犬――ではなく。

 ただの、どこにでもいる可愛い白柴犬が、ちぎれんばかりに尻尾を振っていた。

 首輪はない。純粋な獣の瞳が、つぶらな輝きを放っている。


「……なんだ」


 全身の力が抜けた。膝から崩れ落ちそうになる。

 見間違いだ。疲労と恐怖が作り出した幻覚だったんだ。

 そうだ、あんなバケモノがいるわけがない。


「よかった……。驚かせるなよ」


 私は安堵の息を吐き、鍵を開けて自室へと滑り込んだ。

 二重ロックをかけ、チェーンを掛ける。これで安全だ。ここは私の城だ。


 電気をつけるのも忘れ、ソファに倒れ込む。

 つけっぱなしだったテレビが、砂嵐のようなノイズ混じりの映像を流している。

 深夜のニュース番組だ。アナウンサーの女性が、作り物のように不自然な笑顔で原稿を読み上げている。


『次のニュースです。本日23時55分頃、西新宿の細道で、システムエンジニアの男性が変死しているのが発見されました』


 心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 画面の右上に表示されたテロップ。

「被害者:佐伯 陸(30)」


『遺体は損傷が激しく、顔面が犬のように変形した状態で発見され――』


 思考が追いつかない。

 私が、死んでいる? じゃあ、今ここにいる私は誰だ?

 寒気がする。部屋の中なのに、吐く息が白い。

 ふと、キッチンの方から「カサ……カサ……」という音が聞こえた。


 冷蔵庫だ。

 閉めたはずの冷蔵庫の扉が、内側からゆっくりと押し開けられている。

 冷気と共に這い出てきたのは、あの黒い影。




 四つん這いの、中年男の顔をした犬。

 だが、さっきとは違う。

 その首輪のプレートに刻まれた文字が、滲んで書き換わろうとしている。


「シロ」という文字が溶け出し、徐々に「佐伯陸」という文字へと変貌していく。


「おかえりなさい、佐伯さん」


 人面犬が、私の声で喋った。

 そして、鏡に映った自分の顔を見た瞬間、私は絶望の意味を知った。

 鏡の中の私は、四つん這いになり、長い舌をだらりと垂らし、黒い毛に覆われ始めていた。


 契約は、受理されたのだ。

 私が彼を飼うのではない。

 私が、新しい「シロ」になるのだ。


 視界が急速に低くなる。言葉が吠え声に変わる。

 遠くで、午前0時を告げる鐘の音が、弔鐘のように鳴り響いていた。


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