第1話:終電を逃した「社畜」と、闇路の腹
お待たせしました、第18章更新です!
「お疲れ様です。……犬になりませんか?」
深夜のコンビニで、中年サラリーマン顔の犬に勧誘された主人公。
気づけば身体から剛毛が生え、肉球ができ、上司の靴を舐めたくなってしまう……。
現代社会の闇を煮詰めたような、社畜系変身ホラーです。
閲覧注意:食事中の読書はお控えください(特に腐ったみかんやおにぎりの描写があります)。
液晶画面から溢れ出す暴力的なブルーライトが、私の角膜をジリジリと焼いている。
デスクトップの右下、デジタル時計の表示が「23:47」へと切り替わった瞬間、天井の古い蛍光灯が、まるで私の断末魔を予言するように「バチッ」と不吉な音を立てて明滅した。
「……また、やったか」
乾いた唇から零れ落ちたのは、諦めというよりは、もはや生理現象に近い溜息だった。
埃と手垢にまみれたノートPCを閉じる。その拍子に、隣の席の山崎が食べ残したまま帰宅した、腐りかけのみかんの甘酸っぱい腐臭が鼻腔を掠めた。吐き気が胃の腑からせり上がってくる。
首を回すと、頸椎が軋んだトマトのようにグシャリと潰れる音が脳内に響いた。三ヶ月前から続く偏頭痛が、側頭部をアイスピックで突くように脈打っている。
誰もいないオフィスの静寂は、安らぎではなく、重圧だ。サーバー室から聞こえる低い駆動音が、巨大な怪物の寝息のように鼓膜を圧迫する。
エレベーターホールへ向かい、ボタンを押す。鏡面仕上げの扉に映った自分と目が合った。
そこには、三十歳のシステムエンジニアとしての知性も尊厳もなく、ただ生ゴミの詰まったポリ袋を抱えたホームレスのような男が立っていた。充血した目、青白い肌、そして死人のように虚ろな瞳。これが佐伯陸という人間の成れの果てだ。
ビルを出ると、西新宿の風は冷たく、コンクリートの湿った匂いを運んできた。
終電には間に合わない。タクシーを拾う金も気力もない。
残された選択肢は、徒歩で一時間かけて帰るか、あるいは――。
視線の先、オフィス街と古びた団地群を隔てるように伸びる、一本の細道が口を開けている。
普段なら絶対に避ける道だ。街灯は間引きされたように少なく、不法投棄された粗大ゴミの影が、夜闇の中で歪なオブジェのように佇んでいる場所。
だが、今の私にあるのは、一秒でも早く布団という名の棺桶に潜り込みたいという渇望だけだった。
スマホのバッテリー残量を見る。3%。
まるで私の生命力のようだと思いながら、私はその暗い食道のような路地へと足を踏み入れた。
湿ったアスファルトが、革靴の裏に粘りつくような感触を伝えてくる。
道の両脇には、バブルの残骸のような廃ビルと、蔦に覆われた民家が並んでいる。どの窓も黒く塗り潰され、生きている人間の気配がない。ただ、どこかの室外機だけが、ブーンという不整脈のような音を立てていた。
今日だけは。そう自分に言い聞かせる。今日だけここを通れば、二十分は短縮できる。
くそ、どうせ何もないんだ。幽霊も妖怪も、納期と仕様変更の恐怖に比べれば可愛いものだ。
その時だった。
足元の暗がりで、黒いビニール袋のような塊が「ビクッ」と蠢いた。
「うわっ!」
心臓が跳ね上がり、反射的にその塊を蹴り飛ばしてしまった。
ぐにゅり、という生々しい感触がつま先に残る。
塊は数メートル先へ転がり、街灯の薄明かりの下でその正体を晒した。
それはカラスの死骸だった。
だが、ただの死骸ではない。蹴られた衝撃で腹が裂け、そこから溢れ出したのは内臓ではなく、無数の白い蛆虫だった。
アスファルトの上で白米のように散らばった蛆たちが、一斉に身をよじらせてこちらへ這い出そうとする。黒い羽根の隙間から覗くカラスの濁った眼球が、私を嘲笑うかのように白濁していた。
胃酸が喉まで逆流するのを堪え、私は逃げるように早足になった。
背後で、カラスの死骸に群がる羽虫の羽音が、いつまでも耳について離れなかった。
***
暗闇のトンネルを抜けた先に、人工的な光の箱が浮かんでいた。
24時間営業のコンビニエンスストア。その白々しいほどの明かりだけが、この世界で唯一、私が知っている「日常」の欠片だった。
自動ドアの前に立つ。センサーが反応し、ウィーンという電子音と共にガラスの扉が開く。
「いらっしゃいまセイ!!」
鼓膜をつんざくような大声。
深夜のコンビニとは思えない、異常なほどのハイテンションだった。
レジに立っていたのは、名札に「三浦」と書かれた20代後半の男性店員だ。痩せこけた頬に、そこだけ貼り付けたような満面の笑み。だが、その目は笑っていない。能面のように表情筋が硬直し、黒目だけが爬虫類のように私を追尾している。
店内にはBGMもなく、冷蔵ケースのコンプレッサー音だけが響いている。
私は逃げるようにドリンクコーナーへ向かった。水を買って、すぐに出よう。ここも何かがおかしい。
ボトルの冷たさが手に触れた瞬間、陳列棚の奥から「ガサゴソ」という音が聞こえた。ネズミか?
「あ、客さん、ついでに犬に餌やってかない?」
背後から、三浦の声がした。距離感がおかしい。いつの間に移動したのか、彼は私のすぐ後ろに立っていた。
その指先が、業務用冷蔵庫の影を指差している。
「……犬?」
視線を向けると、薄暗い店舗の隅から、黒い影がぬらりと現れた。
中型犬ほどの大きさの、黒い雑種犬だ。
爪が床のタイルを叩く音が、カチ、カチ、と乾いたリズムを刻む。
だが、その犬が顔を上げ、蛍光灯の光に晒された瞬間、私の背筋を絶対零度の悪寒が駆け抜けた。
思考が停止し、持っていたペットボトルが手から滑り落ちる。
犬の首から上に付いていたのは、犬の頭部ではなかった。
それは、人間の顔だった。
脂ぎった小鼻。無精髭の剃り残しが青く浮いた顎。目の下のたるんだ皮膚。
どこにでもいる、疲れた40代の中年サラリーマンの顔が、無理やり犬の首に接合されていた。
皮膚の色は土気色で、首の境目は赤黒くただれている。
何よりおぞましいのは、その「眼」だ。まぶたが上下逆に付いているのか、瞬きをするたびに下から上へと膜が閉じる。
「……これ、どういう……」
声が震えて出ない。悪夢だ。これは過労が見せている幻覚に違いない。
後ずさろうとする私を見て、店員の三浦はニヤリと口角を吊り上げた。その笑顔は、獲物を見つけた捕食者のそれだった。
「野良じゃないですよ。飼い主の名前が首輪に書いてあるでしょ?」
三浦が指差す先、犬の首輪には銀色のプレートが光っていた。
目を凝らすまでもない。そこには明確なゴシック体で「シロ」と刻印され、その下に小さな文字が添えられていた。
『飼い主:佐伯陸』
私の名前だ。
今日初めてこの店に入ったのに。そもそも犬など飼ったこともないのに。
全身の毛穴が開くような恐怖の中で、人面犬がゆっくりと口を開いた。




