第8話:歪んだ愛の残響
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
誰かが通報したのだろう。パトカーと救急車の音が近づいてくる。
トラックの運転席から、男が転げ落ちるように出てきた。
「あ、あぁ……飛び出して……女の子が……!」
男は錯乱していた。彼には、ゴスロリの少女が見えていたのだ。しかし、車の下を確認しても、そこには誰もいない。血痕さえない。ただ、白い粉とガラクタが散らばっているだけ。
「何もいませんよ。……野良犬でも飛び出したんでしょう」
御子柴が運転手に近寄り、低い声で暗示をかけるように言った。
運転手は狐につままれたような顔でへたり込んだ。
「おい、蓮! 大丈夫か!?」
木島が僕の顔を覗き込む。
僕は、自分の身体を確認した。
足が動く。指が動く。
あの硬質なロックされた感覚は消えていた。膝を曲げると、痛みはあるが、ちゃんと人間の筋肉と骨が動く感覚があった。
「戻った……のか?」
僕は震える手で自分の顔を触った。皮膚は温かい。血が通っている。
「完全には、な」
御子柴が僕の隣に座り込んだ。彼は煙管を取り出し、震える手で火をつけた。
「呪いの根源は消えた。お前の身体の変質も止まったはずだ。だが、一度『あっち側』に踏み込んだ代償は残るぞ」
「代償……」
僕は右腕をまくり上げた。
街灯の光の下、僕の肘の関節部分に、薄く、しかしはっきりと線が入っていた。
まるで、球体関節の継ぎ目のような、円弧を描く傷跡。
触れても痛みはない。だが、そこだけ皮膚が陶器のように白く、硬くなっていた。
「一生、消えねえ傷だ。……まあ、命があっただけマシだと思え」
御子柴は紫煙を吐き出し、夜空を見上げた。
「……ありがとうございます。御子柴さん、木島」
「礼なら木島に言え。あいつが泣きついてこなきゃ、お前は今頃、あのガラクタの一部になってた」
木島は照れくさそうに鼻をこすり、そして泣きそうな顔で笑った。
「よかった……本当によかった……」
僕は、道路に散らばる微細なガラス片を見つめた。
あれほど恐ろしかった彼女。僕を追い詰め、殺そうとした彼女。
でも、なぜだろう。胸の奥に、冷たい穴が開いたような喪失感があった。
彼女の最後の言葉。『愛してる』。
歪んでいたけれど、狂っていたけれど、それは確かに、彼女なりの純粋な愛だったのかもしれない。
サイレンの音がすぐそこまで迫っていた。
僕たちの長く、恐ろしい夜が、ようやく明けようとしていた。
***
あれから半年が過ぎた。
季節は巡り、街はまたクリスマスのイルミネーションに彩られようとしている。
僕は大学に復学し、以前と変わらない日常を送っている……ように見えるだろう。
だが、何もかもが変わってしまった。
あの日以来、僕は人形というものを直視できなくなった。
ショーウィンドウのマネキン、ファンシーショップのぬいぐるみ、フィギュア。それら全てが、僕を見ているように感じるのだ。
視線を感じて振り返ると、無機質な瞳が僕を嘲笑っているような気がして、足がすくむ。
右肘と右膝、そして首筋に残った「継ぎ目」の傷跡は、消えることはなかった。
雨の日や、湿気の多い夜には、古傷のように疼く。
そして、関節を曲げるたびに、自分にしか聞こえない微かな音がするのだ。
『ギシ……』
医者に見せても、「骨に異常はない」「心因性のものだ」と言われるだけだった。
だが、僕は知っている。
これは、彼女が残したマーキングだ。
「私はここにいるよ」という、永遠のメッセージ。
御子柴さんとは、あれ以来会っていない。
木島とは時々会うが、あの夜の話は避けるようになった。彼もまた、あの恐怖を忘れたがっているのだ。
一人暮らしのマンションは引き払い、今は実家から通っている。
部屋には、何も飾っていない。ポスター一枚、置物一つない、殺風景な部屋だ。
何かを「所有」し、それに「愛着」を持つことが、怖くてたまらないからだ。
ある寒い冬の夜。
僕は駅からの帰り道、ふと路地裏のアンティークショップの前を通りかかった。
あの店ではない。全く別の店だ。
でも、吸い寄せられるように足を止めてしまった。
ショーウィンドウの奥、薄暗い店内に、一体の球体関節人形が座っていた。
黒いドレス、白い肌、長い黒髪。
そして、深淵を湛えた碧い瞳。
心臓が凍りついた。
エリス?
いや、違う。顔立ちも、服のデザインも違う。あれは別の作品だ。
そう自分に言い聞かせようとした。
でも、人形が微かに微笑んだように見えた。
『見ぃつけた』
脳裏に、あの懐かしくも恐ろしい声がリフレインする。
僕は逃げるようにその場を去った。
冷たい風が頬を刺す。
走る僕の足音に混じって、身体の中から音が聞こえる。
『ギシ……ギシ……』
僕の関節が鳴っているのか。
それとも、僕の後ろを、見えない誰かがついてきているのか。
僕は立ち止まらず、振り返らず、ひたすら歩き続けた。
右腕の継ぎ目を、左手で強く握りしめながら。
僕はこの傷と共に生きていく。
歪んだ愛の記憶と、身体に残された呪いの欠片を抱いて。
いつかまた、あの硝子の檻に閉じ込められる日が来るかもしれないという恐怖に怯えながら。
街の喧騒の中に、ジングルベルの音が流れている。
平和で、残酷なほどに明るい世界。
その影で、僕は一生、彼女の幻影と踊り続けるのだ。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第17章:「開けて、私だよ」夜中にインターホンを鳴らすのは、俺がゴミに出したはずの球体関節人形。助けてくれるのは、煙管をくゆらせるイケメン陰陽師だけ、いかがでしたでしょうか。
人形の「愛してる」という言葉と、主人公の腕に残った消えない継ぎ目。
完全なハッピーエンドではありませんが、日常に戻りつつも異界の痕跡を抱えて生きていく……という結末にしてみました。
御子柴先生の「物理攻撃には物理と術の合わせ技」という荒技も楽しんでいただけていれば幸いです。
もし「怖かった!」「陰陽師かっこいい!」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
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