第5話:結界侵食「ドールハウス」
「来るぞ。……構えろ」
御子柴の声が、張り詰めた空気を震わせた。
玄関の土間に描かれた五芒星が、淡い青光を放つ。僕と木島はその中心に押し込められていた。
門の向こうから響いていた『ギシ……ギシ……』という音は、今や轟音となって屋敷全体を揺さぶっている。それは巨大な手が家そのものを握りつぶそうとしているかのような、圧迫感のある軋みだった。
「先生、結界は保ちますか!?」
木島が悲鳴のような声で問う。
「普通の悪霊ならな。だが、相手は『器』を持った実体だ。物理的な干渉までは完全には防げん」
御子柴は懐から数枚の人型に切り抜かれた和紙を取り出した。ふっ、と息を吹きかけると、和紙は生き物のように蠢き、宙へと舞い上がる。
「急急如律令。……行け」
放たれた式神たちは、矢のように玄関の扉をすり抜け、外へと飛び出していった。直後、外から激しい破砕音が響く。
『ギャアアアアア!』
少女の悲鳴。いや、陶器が擦れ合うような不協和音の絶叫。
「手応えあり、か。だが……」
御子柴の眉間の皺が深くなる。
ドォン! という衝撃と共に、玄関の引き戸が内側に大きく湾曲した。分厚い檜の扉に、無数の亀裂が走る。
「痛い……痛いよぉ……紙切れなんかで、私を切るの?」
扉の向こうから、あの甘ったるい声が聞こえる。しかし、その声色は以前とは違う。怒りと苦痛、そして底知れぬ執着が混ざり合い、聞く者の三半規管を狂わせるようなノイズを孕んでいた。
「蓮くん……蓮くん……そこにいるんでしょ? 匂いがするよ。私の呪いの匂いが、ぷんぷんする」
僕の身体が、勝手に震え出した。恐怖からではない。共鳴しているのだ。彼女の声が鼓膜を打つたびに、僕の関節という関節が熱を持ち、疼く。
「うっ……ぐぅ……」
僕は膝をついた。左肘が、勝手に曲がってはならない方向へねじれようとしている。
「蓮! しっかりしろ!」
木島が僕の肩を揺するが、その感触さえも遠い。まるで分厚いゴム越しに触れられているようだ。
「リンクしてやがるな」
御子柴が舌打ちをした。
「あいつはお前を『予備パーツ』と認識し始めている。あいつが傷つけば、お前の身体も痛む。あいつが近づけば、お前の身体はあいつの支配下に入る」
「そんな……じゃあ、どうすれば……」
「断ち切るしかない。その腐れ縁をな」
御子柴は印を結び、朗々とした声で呪文を唱え始めた。屋敷の空気がピリピリと帯電する。
しかし、敵は待ってはくれなかった。
バリバリバリ! という破壊音と共に、玄関の扉が粉々に砕け散った。
木片が飛び散る中、砂煙の向こうに「それ」は立っていた。
かつて美少女だったもの。今は、継ぎ接ぎだらけの怪物。
式神によって切り裂かれたのだろう、黒いドレスはズタズタになり、白い肌のあちこちから、赤い血の代わりに黒い綿のようなものが吹き出している。顔の半分は欠損し、空洞になった眼窩の奥で、青い火の玉のようなものが揺らめいていた。
『見ぃつけた……』
彼女が一歩踏み出す。
『ギシッ!』
同時に、僕の右足首に激痛が走り、僕は無様に転がった。見ると、僕の足首もまた、彼女と同じ角度にねじ曲がっていた。
***
「させるかよ!」
御子柴が右手を突き出す。空中に浮かんでいた式神たちが一斉に彼女に襲いかかる。紙の刃が彼女の身体を切り刻む。
しかし、彼女は怯まない。
『邪魔……しないで!!』
彼女が腕を振るうと、見えない衝撃波が発生し、式神たちは一瞬で燃え尽き、灰となって舞い散った。
「念動力か。人形師の妄執、伊達じゃないな」
御子柴は冷静に分析しながらも、後退りする僕たちの前に立ちはだかった。
「木島、そいつを連れて奥の座敷へ行け! ここは俺が食い止める!」
「は、はい! 蓮、立てるか!?」
木島に抱えられ、僕は引きずられるように廊下を移動した。足首の激痛は、不思議とすぐに消えた。代わりに、足先の感覚が完全に失われた。自分の足が、木の棒になったような感覚。
「待って……行かないで……」
背後から、彼女が這い寄ってくる気配がする。
廊下の床板が、彼女の侵攻に合わせて変質していくのが見えた。美しい木目が、黒ずんだ樹脂のような質感に変わり、壁紙が剥がれ落ちて、その下から不気味な赤黒い模様が浮き出てくる。
「屋敷が……書き換えられている?」
木島が驚愕の声を上げる。
「あいつの結界が、御子柴さんの結界を侵食してるんだ! ここはもう、あいつの『ドールハウス』になりかけてる!」
廊下の突き当たり、座敷の入り口に辿り着いた時、行く手を阻むものが現れた。
天井から、無数の赤い糸が垂れ下がってきたのだ。
それはまるで、操り人形の糸。糸の先には、顔のないのっぺらぼうの人形たちがぶら下がっていた。
『遊ぼ……私のお友達と、遊ぼ……』
天井の隅から、彼女の声が響く。いつの間にか、彼女は壁を這い、天井に張り付いていたのだ。首を百八十度回転させ、逆さまの顔で僕たちを見下ろしている。
「うわあああ!」
木島が悲鳴を上げ、懐中電灯を振り回す。
顔のない人形たちが、カカカカッという乾いた音を立てて襲いかかってきた。
僕は必死で応戦しようとしたが、腕が上がらない。肩の関節がロックされている。
「くそっ、動け! 動けよ!」
自分の身体なのに、他人の所有物になってしまったもどかしさ。
一体の人形が僕の首に糸を巻き付けた。締め上げられる喉。呼吸ができない。
その時、青白い閃光が走り、人形の首が飛んだ。
「手こずらせるな、雑魚どもが」
追いついてきた御子柴が、長いキセルを刀のように振るっていた。キセルの雁首からは紫色の煙が龍のように立ち昇り、赤い糸を食いちぎっていく。
「逃げる場所なんぞねえぞ。ここで迎え撃つ」
御子柴は僕の背中を蹴り飛ばし、座敷の中へと押し込んだ。




