第4話:陰陽師、御子柴龍玄
ベランダに出ると、雨風が容赦なく吹き付けてきた。三階からの脱出。隣の部屋のベランダへ飛び移り、そこから避難はしごを使うしかない。
「急げ! ドアが破られるぞ!」
木島に促され、僕は手すりに足をかけた。その瞬間、身体に異変が走った。
膝が、曲がらない。
「……え?」
恐怖で足がすくんでいるのではない。物理的に、関節がロックされたように固まっているのだ。
「何してる、早くしろ!」
「動かないんだ! 足が……膝が!」
自分の膝を見る。暗闇でよく見えないが、触れてみると、皮膚の下にあるはずの膝蓋骨の感触がおかしい。骨ばっているというより、丸く、滑らかな球体のような感触。
まさか。
僕は戦慄した。彼女の言葉が蘇る。『私の一部にしてあげる』。
呪いは、精神だけではない。僕の肉体そのものを、人形へと変質させようとしているのか。
「くそっ、浸食が始まってるのか!」
木島が僕の腕を掴み、強引に引き上げた。激痛が走る。関節が本来曲がらない方向へ無理やり動かされたような痛み。
『ギギッ……』
僕の膝から、あの音がした。エリスと同じ、関節が軋む音が。
「うあぁぁぁっ!」
自分の身体から発せられた異音に、僕は絶叫した。人間でなくなっていく恐怖。それが死ぬことよりも恐ろしく感じられた。
どうにか隣のベランダへ移り、避難はしごを降りる。その間も、僕の身体のあちこちが悲鳴を上げていた。肘、手首、首。関節という関節が、油の切れた機械のようにギシギシと鳴る。
地上に降り立ち、雨の中を走り出す。
見上げると、木島の部屋のベランダに、黒い影が立っていた。
首を直角に曲げ、手すりを乗り越えようとしているゴスロリ姿の少女。
『待ってぇ……置いていかないでぇ……』
彼女が手すりから身を投げた。
重力に引かれ、落下してくる。普通なら大怪我だ。だが、彼女は地面に叩きつけられる直前、猫のように身体を捻り、四つん這いで着地した。
グチャ、という嫌な音ではなく、カシャン、という硬質な音が響く。
彼女は四つん這いのまま、蜘蛛のように手足を奇妙に動かしながら、こちらへ這い寄ってきた。その速度は、二本足で走るよりも遥かに速い。
「車だ! 俺の車に乗れ!」
木島がアパートの駐車場に停めてある軽自動車へ走り寄る。キーレスエントリーの音が、これほど待ち遠しかったことはない。
助手席に転がり込み、ドアを閉める。木島がエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。
タイヤが空転し、車が急発進する。
ドンッ!
リアガラスに何かがぶつかった。バックミラーを見ると、ガラスに張り付く白い顔があった。
『開けて……入れて……』
「うわああああ! ついてきてる! 張り付いてるぞ!」
「振り落とす!」
木島はハンドルを左右に切り、急ブレーキと急加速を繰り返した。
『ギギ……痛い……蓮くん、痛いよぉ……』
怨嗟の声が車内に響く。だが、やがて大きなカーブを曲がった遠心力で、彼女の身体は振り落とされた。アスファルトの上を、人形のように転がっていくのが見えた。
それでも、彼女はすぐに起き上がり、遠ざかる車を見つめていた。その姿が小さくなるまで、僕は震えながら後ろを見続けていた。
***
車は深夜の幹線道路を走っていた。街灯の光が、流れる帯のように過ぎ去っていく。
「……撒いたか?」
僕の問いに、木島は首を横に振った。
「一時的なものだ。あれは地の果てまで追ってくる。それに、お前の身体……」
僕は自分の手を見た。指の関節が、白く変色しているように見える。感覚も鈍い。まるで、自分の手が手袋越しの他人の手のように感じる。
「時間がねえな。このままだとお前、完全に人形になっちまう」
「どうすればいいんだ……病院に行っても治らないだろ、これ」
「ああ。医者じゃ無理だ。専門家に頼むしかない」
木島はスマホを取り出し、どこかへ電話をかけた。短いコールの後、相手が出たようだ。
「もしもし、御子柴さんですか? ……ええ、夜分にすいません。木島です。……はい、緊急です。かなりヤバい案件で……ええ、『生きた人形』です。……はい、今から向かいます」
通話を終えると、木島はハンドルを握り直した。
「行くぞ。この街で一番腕の立つ陰陽師のところへ」
車は都心を離れ、古い屋敷が立ち並ぶ静かな住宅街へと入っていった。一際大きな、古風な門構えの家の前で車が止まる。表札には『御子柴』とだけ書かれている。
門をくぐり、石畳のアプローチを進む。玄関の引き戸が開くと、そこには一人の男が立っていた。
和服を着流し、長い黒髪を後ろで束ねた男。年齢は三十代半ばだろうか。切れ長の目は鋭く、しかしどこか気だるげな雰囲気を漂わせている。手には煙管を持ち、紫煙をくゆらせていた。
「ようこそ、丑三つ時の訪問者たち。……随分と賑やかなものを連れてきたな」
男の声は低く、よく通るバリトンだった。
「御子柴 龍玄さんです」
木島が紹介した。この男が、陰陽師。
御子柴は僕を一瞥しただけで、鼻を鳴らした。
「ふん。半分、あっち側に足突っ込んでるな。関節から『死』の音が聞こえるぞ、学生さん」
「助けてください……! 彼女が、人形が追ってくるんです!」
僕は縋るように言った。御子柴は煙管の灰をコンと落とし、冷ややかな目で僕を見下ろした。
「助ける? ……甘いな。お前が愛したんだろ? その人形を」
「え……」
「呪いってのはな、一方的なものじゃ成立しねえんだよ。お前の中にあった『孤独』や『執着』が、人形の呪いと共鳴した。お前が招き入れたんだ」
突き放すような言葉。だが、それは真実だった。僕があの人形を買わなければ。僕が孤独を埋めるために彼女を利用しなければ。
「でも……死にたくないんです。人間として、生きたいんです」
僕の言葉に、御子柴はわずかに口角を上げた。
「『生きたい』か。……その執着があるなら、まだ見込みはあるか」
彼は懐から一枚の和紙を取り出し、何やら指で空中に文字を書くような仕草をした。
「入れ。結界を張る。だが、安心するのは早いぞ」
御子柴が玄関の扉を閉めようとした、その時だった。
夜の静寂を切り裂くように、遠くからあの音が響いてきた。
『ギシ…………ギシ…………』
今までよりもずっと大きく、重く、そして怒りに満ちた音。
「来たか」
御子柴が目を細める。
門の向こう、街灯の光の中に、ボロボロになったドレスを纏った影が現れた。片腕はねじ切れ、顔の半分が砕けている。それでも、彼女は立っていた。
『蓮くん……なんで……他の男のところに行くの……?』
彼女の背後から、黒い靄のようなものが立ち上っている。それは巨大な影となり、彼女の小さな身体を覆い尽くそうとしていた。
「ほう。人形師の念だけじゃないな。こりゃあ、もっと古い、厄介なモノが混じってる」
御子柴は楽しげに笑い、煙管を懐にしまった。
「面白い。退屈しのぎにはなりそうだ」
僕の身体の関節が、彼女の接近に呼応するように激しく痛み始めた。
戦いが始まる。
僕の命と、人間としての尊厳をかけた、長く恐ろしい夜が。




