第3話:オカルト部屋の聖域崩壊――ヤンデレ人形は扉を叩く
友人のアパートの鉄扉が、重苦しい音を立てて開いた。
隙間から覗いたのは、不審げに眉をひそめる男の顔だ。木島 拓也。大学の同期であり、この世ならざる事象、いわゆるオカルトに傾倒している変わり者だ。
「蓮? お前、その格好……」
木島の言葉は途中で途切れた。無理もない。今の僕は、泥と雨にまみれ、裸足の足裏からは血が滲み、顔色は死人のように青ざめているはずだ。何より、僕の瞳には正気と狂気の境界線が揺らいでいたに違いない。
「入れてくれ……頼む、殺されるんだ」
僕の掠れた懇願に、木島は瞬時に事態の異常さを察したようだ。無言で腕を引き、僕を部屋の中へと招き入れた。鍵をかけ、さらにドアチェーンをかける音が、これほど頼もしく聞こえたことはない。
木島の部屋は、独特の匂いがした。古書の紙魚の匂いと、焚き染められた安息香の香り。壁一面の本棚には、民俗学、呪術、都市伝説に関する書物がびっしりと並んでいる。普段なら薄気味悪く感じるその空間が、今だけは魔を払う結界のように思えた。
「落ち着け。まずはこれを飲め」
出されたのは、温かいハーブティーだった。カップを持つ手が震えて、液体が波紋を描く。僕は一口啜り、喉を焼く熱さを感じてようやく、自分がまだ生きていることを実感した。
「……で、何があった? 『殺される』ってのは、穏やかじゃないな」
木島はローテーブルの向かいに座り、探るような目で僕を見た。
僕は語り始めた。
一目惚れしたアートドールのこと。エリスと名付けたこと。不可解な現象、そして廃棄。その後現れた黒井亜リスという美少女。彼女の奇妙な関節音、ストーカー行為。
そして今夜、彼女が部屋に侵入し、僕がフライパンで殴りつけ、首が折れてもなお動いていたこと。
「首が折れても……生きていた、か」
木島は顎に手を当て、独り言のように反芻した。普通なら「頭がおかしくなったのか」と一笑に付す話だ。だが、彼は違った。その目は真剣そのもので、むしろ恐怖よりも好奇心と警戒心が入り混じった光を宿していた。
「信じてくれるのか?」
「ああ。お前のその怯え方は演技じゃない。それに……」
木島は立ち上がり、本棚から一冊の分厚い図鑑を取り出した。
「人形には魂が宿る。古来より、人の形をしたものには霊的なものが憑依しやすい器なんだ。特にお前が言った『球体関節人形』。あれは構造が人間に近い分、呪術的な依代になりやすい」
彼はページをめくり、ある一点を指差した。そこには、江戸時代の生き人形の怪談が記されていた。
「お前が買った人形、おそらく『入っている』な。それも、ただの浮遊霊じゃない。人形師の妄執か、あるいは人形そのものが自我を持ってしまった『付喪神』の類だ。……しかも、タチの悪いヤンデレときた」
木島は冗談めかして言ったが、その表情は笑っていなかった。
「人形師の執着……」
店主の老婆の言葉が蘇る。『作った人形師の魂が、少しばかり濃く残っているかもしれない』。あれは、単なるセールストークではなかったのだ。
「彼女……いや、あれは、僕を『自分の一部』にしようとした。物理的な意味で」
僕が首筋をさすると、そこにはまだ、陶器のような硬い指の感触が残っている気がした。
「取り込まれるぞ、蓮。魅入られた人間は、最終的にあっち側の住人になる。精神を乗っ取られるか、あるいは……お前自身も人形に変えられるかだ」
部屋の空気が、急速に冷え込んだ気がした。安息香の香りが、どこか腐臭めいたものに変わっていくような錯覚。
僕たちはまだ気づいていなかった。この部屋が、決して安全な聖域などではないことに。呪いは、物理的な距離など意に介さないということに。
***
深夜二時。外は激しい雨が降り続いていた。雨音が窓ガラスを叩くリズムが、まるで無数の指先がノックしているように聞こえる。
木島はパソコンに向かい、何かを調べていた。僕はソファで毛布にくるまり、膝を抱えていた。眠気は襲ってこない。目を閉じれば、あの折れた首の断面から覗くジョイントが、まぶたの裏に焼き付いて離れないからだ。
その時だった。
雨音に混じって、異質な音が聞こえた。
『……ギシ……』
心臓が跳ね上がった。空耳だ。そう思いたい。ここは三階だ。外から聞こえるはずがない。
『……ギシ……ギシ……』
いや、聞こえる。アパートの外廊下。鉄製の階段を、何かがゆっくりと上ってくる音。金属と金属が擦れる音ではない。もっと鈍く、乾いた、樹脂と何かが擦れ合う音。
木島の手が止まった。彼も気づいたのだ。
「蓮、静かに」
木島が部屋の灯りを消した。闇に包まれた室内、パソコンのモニターの青白い光だけが、僕たちの緊張した顔を照らし出す。
『ギシ……ギシ……』
音は近づいてくる。一歩、また一歩。その歩調は不規則だ。片足を引きずっているような、あるいは、関節がうまく動かないようなリズム。
「まさか……ここまで?」
僕の声は震えていた。逃げてきたのに。あんなに遠くまで走ったのに。
「匂いだ」
木島が囁くように言った。
「強い呪いは、マーキングのようなものを残す。お前には今、彼女の『執着』という名の匂いがべっとりとついているんだ。猟犬のように追ってくるぞ」
音は、僕たちの部屋の前で止まった。
静寂。雨音さえも遠のいたような、真空のような静けさ。
そして。
『コン、コン』
ドアノブが、内側から回されるような音がした。鍵はかかっている。チェーンもかかっている。だが、ドアの向こうにいる「それ」は、そんな理屈など通用しない存在だ。
『蓮くん……ここにいるんでしょ?』
ドアの郵便受けの隙間から、声が漏れ聞こえてきた。あの甘ったるい、しかしノイズの混じった声。
『隠れないで。かくれんぼは終わり。……見ぃつけた』
郵便受けのフラップが、あり得ない力で押し上げられた。そこから覗いたのは、目だ。
碧い、美しい、そしてガラス玉のように光のない目。
「うわぁぁぁぁぁ!!」
僕は悲鳴を上げ、ソファから転げ落ちた。
『あはっ、いた。蓮くん、ひどい顔。……でも、好き。壊してあげたいくらい、好き』
目が、三日月のように歪んだ。
「木島! どうにかしてくれ!」
木島は真っ青な顔で、本棚から清めの塩を掴み出し、玄関に向かって撒いた。
「退散せよ! 悪鬼羅刹、去れ!」
塩が床に散らばる。しかし、郵便受けの向こうの目は、嘲笑うように瞬きもしない。
『塩? ……しょっぱいね。味付けしてくれるの?』
ガアン!!
ドア全体が激しく揺れた。蹴り飛ばされたような衝撃。古いアパートのドア枠が悲鳴を上げる。
「駄目だ、通用しない! このレベルの怪異には、素人の真似事じゃ歯が立たない!」
木島が叫んだ。彼の額には脂汗が滲んでいる。
「じゃあどうするんだよ!」
「逃げるぞ、蓮。窓からだ!」




