第2話:首を狙うビスクドール――折れた首で笑う少女
数日後、大学のキャンパスで、僕は一人の少女に声をかけられた。
「あの、ハンカチ落としましたよ」
鈴を転がすような声。振り返ると、そこには息を呑むような美少女が立っていた。透き通るような白い肌、漆黒の髪、そして吸い込まれそうな碧眼。ゴシックロリータ調の服を身に纏い、どこか浮世離れした雰囲気を漂わせている。
「あ、ありがとう……」
僕は呆然とハンカチを受け取った。彼女はにっこりと微笑んだ。その笑顔は、どこかで見覚えがあるような、懐かしくも恐ろしい感覚を呼び覚ました。
「私、黒井 亜リス(くろい ありす)って言います。神崎蓮さんですよね?」
なぜ僕の名前を知っている? 僕は名乗っていないはずだ。
「え……どうして僕の名前を?」
「ふふ、ずっと見てましたから」
彼女の言葉に、背筋が寒くなった。「ずっと」とはいつからだ? 大学で? それとも……。
それからというもの、亜リスは頻繁に僕の前に現れるようになった。講義の隣の席、学食の向かい側のテーブル、図書館の書架の影。彼女は常に僕の視界の端にいた。
最初は偶然だと思おうとした。彼女の美しさに惹かれていた部分もあったのは否定できない。捨てた人形への罪悪感が、彼女を代償として求めていたのかもしれない。
だが、違和感は拭えなかった。彼女の動きには、どこか不自然な点があった。歩くとき、膝があまり曲がっていないように見える。手首を動かすとき、カクカクとしたぎこちなさがある。
そして何より、音がするのだ。
彼女が動くたびに、微かだが確実に聞こえる音。
『ギシ……ギシ……』
あの夜、洗面所で聞いた音と同じ。関節が擦れ合う音。
ある雨の日、僕は彼女と並んで歩いていた。傘を叩く雨音が周囲の音を掻き消す中、彼女は唐突に言った。
「蓮くんは、どうして捨てたの?」
「え?」
「大切なもの。一度愛したものを、どうしてゴミのように捨てられるの?」
彼女の碧眼が、暗く濁っているように見えた。その瞬間、僕の中で全てのピースが繋がった。
エリス。
あの人形だ。この女は、あの人形そのものだ。
恐怖が爆発した。僕は何も言わずに走り出した。雨の中、泥水を跳ね上げながら、ひたすら走った。後ろから追いかけてくる足音はない。だが、視線はずっと背中に張り付いていた。
マンションに逃げ帰り、鍵をかけ、チェーンをかけ、震えながら布団に潜り込んだ。
翌日、インターホンが鳴った。モニターを見ると、そこには亜リスが立っていた。雨に濡れ、黒い髪が肌に張り付き、まるで幽霊のようだ。
「蓮くん、開けて。私だよ。亜リスだよ」
「帰れ! お前なんか知らない!」
僕は叫んだ。
「ひどい……あんなに愛してくれたのに。毎日撫でてくれたのに。綺麗だって言ってくれたのに」
彼女の声は、ドア越しでもはっきりと聞こえた。そして、その声には人間にはあり得ない響きが混じっていた。複数の声が重なったような、あるいは壊れたレコードのような歪み。
『ギギ……開けて……ギシ……愛して……』
ドアノブがガチャガチャと激しく回される。鍵がかかっているはずなのに、金属が悲鳴を上げている。
「やめろ! 警察を呼ぶぞ!」
「警察? ふふ、人間には私たちは止められないよ」
ドォン! という衝撃音と共に、ドアが内側に歪んだ。あり得ない怪力だ。彼女は人間じゃない。やはり、呪いの人形なんだ。
僕は恐怖で腰が抜けそうになりがらも、台所へ這っていった。何か武器になるものを。
ドアが破られる音がした。チェーンが引きちぎられ、鉄の塊が床に落ちる音。そして、ゆっくりとした足音が廊下を進んでくる。
『ギシ……ギシ……ギシ……』
「見つけた」
リビングの入り口に、彼女が立っていた。美しい顔は歪み、口元からは涎のような黒い液体が垂れている。その姿は、もはや美少女などではなかった。怨念の塊、人の形をした怪物だ。
「迷惑だ! 入ってくるな!」
僕は精一杯の虚勢を張った。
「迷惑? 私が? ……あは、あはははは!」
彼女は狂ったように笑い出した。その笑い声に合わせて、身体中の関節が奇妙な音を立てる。
「わがままな子は嫌い。教育してあげなきゃ」
彼女が一瞬で距離を詰めてきた。動きが見えなかった。気づけば、僕は床に押し倒され、彼女に馬乗りになられていた。
重い。鉛のように重い。そして冷たい。彼女の体温は、死体のように冷たかった。
「愛して。私だけを見て。もう二度と捨てられないように、私の一部にしてあげる」
彼女の指が、僕の首に伸びる。その指先は硬く、人間の皮膚の感触ではなかった。陶器だ。冷たく硬い、ビスクドールの感触。
僕は必死に抵抗した。ポケットに入っていたスマホを掴み、その角で彼女の顔を殴りつけた。
ガッ! という鈍い音。彼女の頬に亀裂が入った。血は出ない。白い破片がパラパラと落ちるだけだ。
「痛い……痛いよぉ……」
彼女が怯んだ隙に、僕は身体を捻って抜け出した。台所へ転がり込み、手近にあった重い鉄のフライパンを掴む。
彼女は立ち上がり、亀裂の入った顔で僕を睨みつけた。
「許さない……絶対に許さない……」
『ギギギギギギ!』
全身の関節を鳴らしながら、彼女が飛びかかってくる。僕は無我夢中でフライパンを振り抜いた。
ゴォン!!
凄まじい衝撃が手に走る。フライパンが彼女の側頭部を直撃した。
彼女の首が、あり得ない角度に折れ曲がった。真横、いや、それ以上にねじれ、後頭部が肩につくほどに。
普通なら即死だ。だが、彼女は倒れなかった。
首が折れ曲がったまま、彼女はその美しい顔を僕に向けた。首の断面からは肉や骨ではなく、球体関節のジョイントと、ゴム紐のようなものが覗いている。
「ひどーい……」
声は、潰れた喉からではなく、腹の底から響いてくるようだった。
「なんで……私の愛を受け止めてくれないの……?」
彼女は一歩、また一歩と近づいてくる。首を直そうともせず、折れたままの姿で。
『ギシ……ギシ……』
恐怖が頂点に達した。僕はフライパンを投げつけ、玄関へと走った。靴も履かずに外へ飛び出し、階段を転げ落ちるように駆け下りる。
後ろからは、まだあの音が聞こえてくるような気がした。
『ギシ……ギシ……待って……蓮くん……』
夜の街を、僕は裸足で走り続けた。アスファルトが足の裏を切り裂いても、痛みなど感じなかった。ただ、あの硝子の檻から逃げ出したかった。あの歪んだ愛から、逃げ出したかったのだ。
息が切れ、肺が焼けつくような痛みを訴える頃、僕は友人のアパートの前に辿り着いていた。
震える手でドアを叩く。
「開けてくれ! 頼む、助けてくれ!」
これが、終わりのない悪夢の幕開けだったとは、この時の僕はまだ知る由もなかった。ただ、背後に広がる闇の中に、あの碧い瞳が光っているような気がして、僕は何度も何度も振り返りながら、友人がドアを開けてくれるのを待ち続けたのだった。




